第3話 季布、追撃

 滎陽けいようを囲んだ項羽だったが、いまだ総攻撃に踏み切れない。


 これまで何度か大規模な攻勢はかけていたのだが、その度に跳ね返されていた。これはもちろん漢軍の奮闘もあるが、それ以上に楚兵の弱体化が原因だった。

 ひとつは内部の混乱である。漢の謀将、陳平ちんぺいの策により楚軍は分裂の危機にあった。猜疑心に駆られた項羽は配下の将に大軍を与える事さえ危ぶんでいた。


 そしてもう一つは後方からの食料補給の問題だった。

 項羽軍はもともと補給という概念を持たない軍隊だった。行軍した先で調達する、それが基本方針だった。原初的ではあるが、実はこれはある意味理にかなっている。

 輸送の本体は牛馬、そして人である。輸送部隊自体が大量の糧食、それに飼料を必要とする。大部隊になればなるほど、その輸送効率は落ちるのだ。


 最大の問題は、補給部隊は基本的に武力を持たないことである。つまり敵から攻撃を受けた場合には完全に無力だった。かといって護衛をつけたなら、その輸送効率は最低ラインまで下がってしまうだろう。

 参謀の笵増はんぞう老人が物資輸送にこだわらなかったのはこんな理由があったからかもしれない。


 ただ、この現地調達という方法が機能するのには、ひとつ大事な条件がある。

 中原ちゅうげんの食料事情が豊かであることだ。

 しかし今は。不作と、戦乱によって中原は危うい飢餓状態にあった。

 項羽は、兵糧を南方からの輸送に頼らなくてはならなくなった。これが楚軍の足枷あしかせとなった。


 漢の将に、廬綰ろわんという男がいる。漢王劉邦の幼なじみということで重用されているが、さほど将才があるとは言えなかった。

 その廬綰が南方で暴れていた。小部隊を率い、楚の輜重しちょう隊を次々に襲っているのだ。食料輸送の情報を得ては、山賊のように襲撃を繰り返す。

 漢のもう一人の謀将、張良の策によるこの作戦は、楚軍をじわじわと締め上げていた。そしてこれは小部隊の指揮ならば得意とする廬綰には最適といえた。

 項羽は軍を送り攻撃させたが、楚軍の接近を知るや、すぐに散り散りに逃げ去った。そして、楚軍が去るとまた終結するのだ。

「漢の蠅どもめ。こうなったら一気に滎陽を陥とす。劉邦さえ殺せば終わりだ」


 だが、そこへ報告が入った。

 北方で勢力を拡大していた彭越ほうえつという野盗あがりの男が、項羽の本拠地、彭城をうかがっているというのだ。

 有り得る話ではない。彭越は梁の地を拠点としている。その兵力で彭城を狙うなど、全く不可能だった。あきらかに漢の謀略だった。

 しかし、項羽はそれを信じた。ただ単に彭越という男が気にくわない、というのも理由の一つだっただろう。反射的に軍を梁に向けた。そこに戦略などというものは存在しなかった。

 そして、楚軍でただ一人それを止め得たであろう笵増老人は、すでにいない。

 

「女たちは皆、項王さまと一緒に行くように命令されたんだよ」

 ふうが季布に言った。もちろん、虞姫ぐきもである。

 そして、季布は滎陽の押さえとして残ることになっていた。

「ここに残る将軍たちの奥さんも連れて行くらしいからね。これって、ていのいい人質じゃないかな」

「言葉が過ぎる。誰が聞いているか分からないのだぞ。口を慎め、楓」

 だって、と彼女は、虞姫を振り返った。

 虞姫は涙をこらえて立ち尽くしていた。

 季布は歩み寄り、その細い身体を抱きしめた。そっと、頭を撫でてやる。

しばしの別れだ。きっとまた会える。身体に気をつけるのだ」

 虞姫は彼の胸に顔を押しつけて泣いた。


 楚軍には致命的な欠陥があった。

 極言すれば、項羽が心から信用しているのは血縁者だけなのだが、その中に将才を持った者は一人もいないと言うことだ。

 鴻門の会において張良を救おうと尽力した項伯、同じく劉邦の命を狙った項荘なども一箇の武人ではあるが、いずれも大軍を率いるほどの器量はない。


 新たに滎陽攻囲軍の主将となったのも、そんな項氏の一族だった。

 季布が見るところ、やたら居丈高なだけで、虫ほどのわずかな頭脳も持ち合わせていない。それなのに、まるで自分が項羽になったような振る舞いなのだ。

「よくもまあ、こんな屑がいたものだ」

 季布はため息をついた。

 いやいや、と頭を振って考え直す。これも項王が戻って来るまでの我慢なのだから、と。


 滎陽を囲んでいた楚軍が集結しつつあった。

「どういう事です。これは」

 季布は思わず大声になっていた。

 主将の項呂こうりょは見下すように振り向いた。

「決まっている。兵力を集中させ、正門を突破するのだ」

「はあ?」

 兵力の分散はこれを忌む、というだろう。兵を用いる際の基本ではないか、そんな事も知らぬのか。と、この男は得意げに解説する。

 季布はそれ以上口を出す気を失った。

 こいつは、自分が何のためにこの場所にいるのかさえ分からぬ愚か者のようだ。

 項羽でさえ攻めあぐねた城を、ほぼ五分の一ほどの戦力で攻め落とせると本気で思っているのだろうか。

 さらに搦め手の兵まで引き上げている。包囲しても一方は開けておくというのは戦法として存在するが、これではどうぞ脱出して下さいと言っているようなものではないか。

 馬鹿相手にうんざりしながらも、これだけは言っておかねばならない。

「我々の目的は、滎陽の包囲だったはず。速やかに部隊を元に戻すべきと考えます」

「何だ不満そうではないか」

 項呂は周囲の武官を見渡して言った。

「よいか、皆の者よく憶えておけ。この季布は、わしの命令が聞けないらしい。この戦が片付いた暁には、厳罰に処すからな」


 季布の部隊は主戦力から外され、滎陽の西へ回された。いや、自分から向かったと言ったほうがいいだろう。旗を倒し、木立や岩陰を利用して部隊を潜ませた。

「劉邦は必ず関中へ向かうはずだ」

 季布は呟き、その時を待った。


 項呂の軍が滎陽に向けて動き始めたと同時に、滎陽の城門が開いた。

 第一陣が矢のように楚軍へ突撃した。一旦跳ね返されたものの、陣容を整え、再度攻撃の機を伺う。続いて第二陣が城門を出た時、楚軍にざわめきが走った。

『劉』の旗をかかげたその部隊の中心には、ひときわ背の高い武将がいたからだ。

「劉邦だ、劉邦が出てきたぞ」

 項呂は先頭に立って駆けだした。周りの部下を振り返る事もしない。自分の功名の事だけを考えているのだった。

 易々と漢の先陣を突き破り、ついに劉邦の前に馬を進めた。

「り、劉邦だな。覚悟せい」

 彼の堂々とした姿にひるみながら、項呂は剣を振り上げた。劉邦自身は剣など握ったことは無いはず。これは据え物斬りだ。

「もらったぞ、劉邦!」

 叫んだその口が、そのまま開きっぱなしになった。

 右手の剣がなくなっていた。手首ごと。

 呆然とする項呂だったが、やっと、その長身の男が抜きはなった剣が、一瞬にして自分の右手を切り落としたのだと知った。

 その男が顔を上げた。中年男の劉邦とは似ても似つかぬ若い男だった。ほとんど少年といってもいいくらいだ。

「だ、誰だ。お前は」

「私は韓王、姫信だ。残念だったな、漢王ではなくて」

 項呂はいつの間にか自分が包囲されている事に気付いた。


 斥候が合図を送った。

 やはり、劉邦は脱出してきた。季布は心で快哉を叫んだ。

「全員、騎乗!」

 ざっ、と一斉に騎兵団が立ち上がる。

「弓兵、放て!」

 進出した弓兵が劉邦めがけて矢を放つ。その一本が、劉邦の騎馬を斃した。

 転げ落ちる劉邦。彼を囲み、迎撃態勢をとる漢軍。

 兵数としてはほぼ同数。うろたえているようだが、もう遅い。

「突撃!」

 季布の騎馬部隊は一気に劉邦へ迫った。漢軍の壁を蹴散らし前へ進む。

 劉邦がやっと馬に乗ったのが見えた。憎悪の目付きでこちらを睨み付ける。それを隣の小柄な男が早く行くよう、せかしていた。


 漢王の背を捉えた。そう思った瞬間、横合いから激しい一撃を食らった。辛うじて剣で受け止めたものの、落馬は避けられなかった。

「貴様が隊長か、名を聞いておこう」

 その巨漢は周囲を圧する大声で言った。顔をのぞき込み、そこでやっと彼に気付いて薄笑いを浮かべた。漢軍とて、元は同じ楚軍である。二人は旧知の間柄だった。

「おお、季布どのだったか。文官がこんな所で何をしている」

「ほざけ、樊噲はんかい

「作戦は見事であったがな。うちの軍師どのも慌てておったわ」

 なにをしている、早く来い樊噲!

 先ほどの小柄な男が叫んでいる。女性か、と思うような高い声だった。

「ちっ、うちの軍師はおっかないからな。では、またな」


 季布は呆然と立ち尽くした。彼の部隊は樊噲ひとりに、ほぼ壊滅させられていた。

 彼の左腕にぬるり、としたものが伝わった。今さらのように激痛が走る。

 骨が見えるほどの酷い傷を負っていた。危ないところだった。

 がっくりと膝をついたところで、目の前が暗くなった。

 季布は、そのまま意識を失った。




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