第2話 崩壊する楚軍

 劉邦を滎陽けいように追い詰めた。そう項羽は宣言した。

 しかし、季布は考えざるをえない。本来であれば奴が滎陽に辿り着く前に捕捉し、殺さねばならなかったのだ。それが出来なかった時点で失敗だった。

 上手く逃げられたのだ。


 もともと五十万を超す大軍だったのだ。逃げ惑う残党が街道を塞いでいたというのは確かにある。

 しかし、最大の原因は敵の将、韓信だった。見事に軍をまとめ、突出しようとする楚軍を適当にいなしながら整然と後退していった。

「なるほど。彭城での迎撃の手腕は伊達ではなかったと言うことだな」

 鍾離昧しょうりまいは素直に感心している。

 韓信の軍は、潰走する漢軍のなかにあって、唯一軍隊としての秩序を保ったまま項羽の猛攻を凌ぎ、劉邦の脱出を助けていた。

 まるで機械仕掛けのように、精密に軍を動かすことで知られる鍾離昧であるが、彼をして感嘆させる敵軍の戦い振りだった。


「元はといえば、我が軍にいたらしいな。その男」

「郎中だったらしい。竜且りゅうしょがよく知っていると言っていたが」

 鍾離昧は一瞬、彼らしくない険悪な表情を見せた。

「まったく、惜しい事をしたものだ。あれだけの将をむざむざと敵に走らせるなど」

 どこか批判的な口ぶりに、季布は眉を寄せた。

 それに気付いた鍾離昧は肩をすくめた。

「ま、そんな連中は他にも多い。言っても仕方ない事だったな」


 思った以上に滎陽の守りは堅かった。

 特に漢の驍将、周勃しゅうぼつの守る正門付近は楚軍の攻撃にも揺らぐことが無かった。もちろん漢の主力軍を投入しているせいもあるのだろうが、この男の命令一下による集中攻撃は常に楚軍に大きな打撃を与えた。

 また一人、寄せ手の将が負傷し後送されてきた。


 一方、搦め手側は正門側に比べ若干、守備兵力は弱いようだ。何度も城壁を乗り越える所まで迫っている。しかし、その度に守将の灌嬰かんえいが一隊を率いて駆けつけ、撃退しているのだ。どちらも手強い。


 戦下手な、やくざ者ばかりと思っていたが、漢の部将も馬鹿にしたものではない。

 季布は面白くなさそうに呟いた。

「これは、持久戦を覚悟しなければならないか」


 意外な事に、虞姫は楚軍の参謀、笵増はんぞう老人に気に入られていた。

 笵増は後方に固まっている女性達の天幕を訪れては、虞姫を話し相手にしていた。

「年寄りの繰り言なのだがな」

 笵増は申し訳なげに前置きして、延々と喋り続けているのだ。それを虞姫はにこにこと聞いている。

 もちろん笵増老人も、彼女が耳が聞こえない事は知っているはずだ。

 その様子を見た季布は苦笑するしかなかった。


「あの娘こそ聡明、というべきであろう」

 笵増が言った。

「わしの本当に言いたいことを理解してくれている。不思議な力を持っているな」

 それは季布にも心当たりがあった。

「他人が言っている事は、口の動きである程度分かるようですが、口に出していない事まで察しているのではないかと感じることがあります」

 そうだろう、老人は何度もうなずいた。


 その頃、陣内にある噂が流れ始めた。

 笵増老人が漢に通じている、というものだ。さらに将軍の鍾離昧や周殷しゅういんまでそれに同調し謀反を計ろうとしている、と。


 笵増が虞姫を訪れるのがより頻繁になった。あるときは二人で楽器を鳴らしていたらしい。それを見たふうが笑いながら季布に教えてくれた。

「それが結構上手なのよ、笵増さま。昔、そういう商売してらしたのかもね」

 虞姫も楽しげにたくを叩いていたらしい。それは、ほのぼのとする光景なのだが。

「遠ざけられているのではないか、笵増さまは」

 季布は不安がよぎった。


 項羽から直接、噂について意見を求められた時、季布は激怒する寸前だった。

「絶対にあり得ません。いま、漢に付いたところで、彼らにどんな利があると言うのです。何故、滅亡がそこに見えている劉邦などと運命を共にする必要がありましょうや」

 うむ。頷いた項羽だった。とても納得した表情ではない。

 まだ分らんのか、この馬鹿が。季布は思わず叫ぶところだった。

「ともかく、鍾離昧と周殷には副将をつける。あの者らの補佐をさせねばならん」

 事実上の監視役ではないか。季布は目の前が暗くなった。


 数日の後、笵増老人が静かに陣を去った。

 季布のほか数人がそれを見送った。その中に鍾離昧の姿はなかった。

 笵増は、彭城に帰り着く前に病死したと伝えられる。もちろん、項羽が暗殺したなどという証拠は一つもないのだが。

 滎陽を囲む楚軍の中に不穏な空気が流れたのも無理はない。


 これは漢の軍師、陳平の反間工作によるものだったのだが、これに気付いたものは楚軍にはいなかった。結果として、どんな敗戦よりも大きな損害だと知るものもない。


 以後、楚軍の行動は目的を失い、迷走することになった。


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