楚歌の静寂 ~虞姫 別伝~

杉浦ヒナタ

第1話 虞姫と季布

 虞姫ぐきというどこかはかない印象の少女と、項羽軍の部将、季布きふが出会ったのは彭城での事だった。

 彭城は五十万を超す漢の大軍に占拠されていた。それを項羽は僅か数万の兵で駆逐したのだが、まさに、そのときである。


 兵を収容できる建物を捜していた季布は、ある屋敷の奥の部屋に、隠れるようにうずくまる彼女を見つけた。

 荒らされた部屋を見るまでもなく、この少女が受けた扱いは容易に想像できた。

 元は上質な衣装であったらしい布きれで身体を必死に覆い隠してはいたが、その目はすべてを諦めたように虚ろに開かれていた。

「何もしない。大丈夫だ、私は項王の側近で季布というものだ」

 静かに話しかけると、少女の緊張が解けていくのが分かった。

 虚ろだった瞳に光が戻り、涙がこぼれ落ちた。

「助けてやれなくてすまなかった」

 季布は頭を下げた。


「この家の娘か。名はなんという」

 季布の問いかけに、少女は答えなかった。何の表情の変化もない。

 気付いた彼は、もう一度、ゆっくりと問いかけた。

 少女は、床に指で『虞』と書いた。

 そして、両手で耳を、そして口を押さえた。


 この少女は、すべての音を失っていたのだった。


 季布は身振り手振りを交え、彼女に聞く。

「腹は減っていないか。それとも、先に身体を洗う方がいいか」

 少女は目を伏せて、物を食べる仕草をした。

「よし。一緒に来い」

 少女は立ち上がろうとしてよろめいた。あわてて季布はその細い身体を抱きとめる。彼女は弱り切っていた。ほとんど食事も与えられていなかったのだろう。立ち上がることすら出来なくなっていた。

 彼女がまとう破れた布では、そのちいさな身体すら隠しきれていなかった。季布は外套を脱ぐと、少女の身体を覆った。そのまま軽々と抱き上げる。

「暴れるな。私を信用してくれ。頼む。私はお前を守りたい」

 伝わったのは果たして言葉だったのだろうか。少女は大人しくなった。


 項羽の軍営内にも、兵士の身の回りの世話をする女が大勢いた。季布はその中で、最も気心の知れた、ふうという女に少女を任せることにした。

「ああ、ひどい姿になってしまったね。でも、よく生き抜いた。あんた、えらいよ」

 女はそう言って少女を抱きしめた。何度も頬ずりする。

「おい、まず飯を食わせてやってくれ」

 季布は苦笑しながら女に言った。女は涙でぐしゃぐしゃになった顔で、まかせときな、と拳を握った。


 しばらくすると、季布のもとへ楓がやって来た。なぜかニコニコしている。

「ちょっと、あの娘。見てやってよ」

 部屋に入ると、少女は寝台に身体を起こして座っていた。

 彼に気付き、振り向く。

 季布は思わず息をのんだ。

 汚れを拭い、髪を整えた彼女は、まるで透き通るような美しさだったからだ。


 少女は日に日に回復していった。季布は毎日、時間を見つけては少女の傍らに座り、話をしてやった。ゆっくりとであれば、口の動きで内容が理解できるようだった。幼い頃の病が原因で耳が聞こえなくなったこともその時知った。

 やがて少女の暗く憔悴した表情にも、少しだけ明るさが戻ってきた。

 ある時、少女が眠ったのを見届け、立ち上がろうとした季布の服の裾を少女の手が捉えた。振り返ると、少女は目に涙を湛えて、首を横に振った。

 季布は再び少女の横に座り、頭をなでてやる。


 数日後、季布は楓と並んで歩く少女の姿を見つけた。

「もう歩けるようになったのか」

「……!」

 少女は驚いた表情で彼を見上げ、弾けるような笑顔を見せた。

 しかし、すぐに顔を伏せた。真っ赤になっていた。

「身体の、具合、は、どうだ。痛む、ところ、は、ないか」

 内心の動揺を押し隠すように、ゆっくりと季布が聞く。

 力強くうなずく少女。安堵の表情を浮かべた季布に、少女も微笑みを返した。


「それでこの娘、どうするつもりなの」

 少女に背を向けるように楓が言った。

「どうするとは」

「決まってるでしょ。しょうにするのかってこと」

「私は正妻もいないのだぞ。ましてや妾など」

「じゃあ、正妻の座はあたしが頂くとして、あの娘もいっしょにどう?」

 何をいってるのだ、あきれた季布は早々に退散することにした。

 その背中に楓が声を掛けた。

「あたしのは冗談だけどさ、この娘は本気だよ。考えてあげてくれないかな」

 軽々に返事ができる事ではない。

 季布は黙って立ち去るしかなかった。


 北方の斉国がついに降り、項羽の主力軍が彭城に戻ってきた。

 項羽は部隊の編成を終えた部隊から、漢軍追討へ向かうことを命じた。

 目標は、漢軍が籠もる滎陽であった。

 漢軍を追って続々と進発していく軍を見ながら、季布はとなりの少女に語りかけた。彼女の瞳を見詰めながら。

「虞よ、私と一緒に来てくれるか」

 少女はうなずいて彼の服の背中をつまんだ。

 ずっとついて行く、という二人の合図だった。


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