壱-1:少年とGhost

「ラグナ……? クルセアって、最下層の……?」

「うん。この塔の第一階層。最底辺の国」


 ラグナと名乗る少年は優しい声音で説明をする。

 その国の名は少女の一分岐点であり、目的地の一つであった。最下層——塔のヒエラルキーにおいて最底辺の国、クルセア。

 しかし同時に大地に面しているから行えることもある。


「ねぇ! この国に出口はあるの!?」

「え、ちょ、少し待——」

『なにやってんだ、お前ら』


 興奮のあまりに無防備な少年の胸ぐらを掴んで引き寄せる。そんな彼女を止めたのは、呆れが篭った男の電子音声だ。

 パッと少年から手を離し、その声の方向へ青い瞳を向ける。その目線の先にいるのは――赤い一つ目と口があるゴミ袋。それが花柄のオーブンミトンをしながら鍋を持ち浮遊していた。


「……ゆ、幽霊!?」

『あん? そんなことどうでもいいだろ。それより起きたなら飯にしようぜ。そっちの方が気が楽だろ?』

「あっ、温めてくれてたんだ。ありがとう、ラグナス」


 出来損ないの幽霊みたいなそれに対して、ラグナは違和感もなく普通に感謝の言葉を述べる。そんな異様な光景を前にして、少女の興奮は急激に冷え切っていった。

 ラグナスと呼ばれる謎の物体が持つ鍋は、そんな少女の代わりに湯気を上げて待っていた。



     R/R



 動揺から発生する緊張は様々な感覚を鈍化させてしまうが、いざそれが薄れてくると鈍かった感覚は激しくなって戻ってくる。

 即ち、空腹という感覚は少女にとって今や暴力的で、黒い幽霊の持ってきた鍋の中身――肉団子のスープは効果的なアプローチであった。


「い、いただきます……」

「いただきます」

『おうよ』


 少女はおずおずとスープの入れた深い皿を手に取り、失礼と知りながらも鼻を動かす。

 嫌な臭いはしない。むしろ鶏ガラで作ったのであろう、香ばしい匂いが野菜独特の臭みを消している。極めつけは肉団子の存在感だ。これのおかげで見た目でもお腹に響く。

 スプーンをスープに浸し、唇の触れるようにその一口目を流し込む。


「ッ!?」

『こいつ、がっつき始めたぞ、おい』


 いざその味わいを知ると、そこからは食欲に後押しされるように流動を止められなかった。喉に通る熱が少女に現実を感じさせてくれる。その感触が何よりも彼女の空腹を刺激する。


「美味しい?」

「えっ、あ……うん。ご、ごめんなさい。はしたないわね」

『良かったな、ラグナ。お前のスープは絶品だとよ』

「うん。冥利に尽きるよ」


 スピーカー越しから聞こえるようなエコーのかかった声と赤髪の少年の声には親しみが含んである。


「そういえば……結局それは何なの?」

『それ、とはまたひでぇ言い分だ』

「彼はラグナス。僕の兄弟みたいなものだよ」


 そう赤い目の少年は笑って答えるが、どう見ても人間であるラグナとゴミ袋の存在はイコールにはならない。まず大きさが違う。ラグナスの大きさをどうフォローしても小人ぐらいが限界だ。それに浮いている。人は浮かない。

 一つ目の幽霊は、器用に表情を作って面倒くさそうに発声する。


『……見ての通り俺は人間じゃない。ナビNAVI、だ』

「ナビ……って?」

『言ってしまえば人と生きる実体のない知生体だな。生きている幽霊と言うべきか。もしくはそのまんまの意味で導く者ナビゲーター。人工知能の妖精だ』


 チラとラグナスの瞳が横でスープを飲む少年に向けられる。彼にとっての共存の相手は、この自由を感じさせるマイペースな少年という事だ。


「驚いた。そんな存在がいたなんて」

「物覚えついた時からいたから実感はないけどね。大事な相棒だよ」

『こいつを助ける時も苦労したしな。なぁ、ラグナ?』

「ブッ——い、今それ言う!? スープ飲んでるんだけど!」


 皮肉気味にラグナスがそう振ると、赤髪の少年はスープの器の中で盛大に吹き出してみせた。

 二ヒヒと笑うナビに対して反論するラグナだが、その耳は赤らんでいる。

 二人の会話にどのような感情がぶつかっているかは定かではないが、少なくとも今スープを飲んでいる自分が生きている理由はよく解った。


「ありがとう。あなた達のおかげで死なずに済んだ」

「タイミングが良かったんだよ。僕達もずっと地下にいるわけじゃない」

「地下?」

「うん。君の溺れかけたナノマシンの廃棄湖がある場所」


 金髪の少女が怪訝そうな表情を浮かべ、すんすんと濡れている自分の服を嗅ぐ。

 無臭だ。水特有の湿気の臭いも感じさせない。気持ち悪いほどにそれは真水の性質を模している。


「不安だったけどジャンク回収用の網が使えて良かったよ」

「ジャンク回収用って……あの湖って、ゴミが大量廃棄されてるの?」

「むしろ湖自体がゴミの塊なんだ。使われなくなったナノマシンが固形を失って溶けた物があの水だから。僕はそこから使えるハードメイルのパーツを回収して生計を立ててる」


 そんな説明をするのだから少女の眉の合間の皺はより深くなる。無臭とはいえ、ヘドロの中で溺れかけていたという事実は少女に嫌悪感を抱かせるには十分だ。


「まさか……私、あそこの水……飲んだ?」

「……さ、さぁ?」

『嘘が下手か』


 ちょっとトイレを貸してと言う少女にラグナは指差すと、一目散に駆け込んだ扉を閉める。

 扉越しに聞こえる嗚咽と何かが落ちていく音だけが響き、しばらくした後に帰還した彼女の表情はげっそりしつつも笑っていた。


「大丈夫。これで私の身体の中から不浄な物は浄化されました。大丈夫。私は大丈夫……大丈夫」

「ま、まぁ、スープでも飲んで……ね?」

『こいつなんか面白いな』


 二杯目のスープを飲み、心を落ち着かせる少女。少しでも気分を変えられるようにと、ラグナはこほんと咳払いをして口を開く。


「そういえば……君、なんて名前なの?」

「んっ、私は……」


 突然の質問に、少女は何かを思案するように一度だけ目を伏せる。

 さっきまで青かった表情は影を落とし、そして。


「——リア。下の名前は、ないわ」

『…………』

「リアかぁ。OK、覚えた」


 少しの間の末、リアと名乗る少女は強い笑みを浮かべてそう答えた。何が含んでいるかは解らない、けれども真っ直ぐな返答である。

 ラグナの軽快な返しに対し、ラグナスは一つ目を半目にして少女を見つめていた。


「さて、ご飯も食べ終わったし、この階層の案内でもしようか。君がなぜ上から落ちてきたのか、その理由も知りたいし」

「それは助かるわ。でも……その、この服じゃ……ねぇ?」


 ぼでっとした服を見せつける。時間が経ったとはいえ、元から厚めにできているせいか水気も良く吸い取ってしまっているらしい。

 元々は清潔な白色であったのだろうが、水のせいで灰色に変色してしまっている。左胸に描かれた十字の白線は僅かに確認できるが、衛生面を考えると酷いのは変わりはない。


「あ、えっ、えーと……男物の服しかないけど、しかも僕のだけど……良い?」

「えぇ。この際、何でもいいわ。とにかく目立つこの服を脱ぎたいの」


 ラグナは少女に合う服など考えたこともなく、しばらくの吟味の後にクローゼットの中身をリアに託して彼女に背を向ける。

 ゆっくりと部屋の外へ出ようとすると、ぱさりと、布が落ちる音が聞こえた。少年の背後には少女の肌色の肢体があるのだろう。

 少しだけの好奇心はラグナにもある。そう心が足を止めた瞬間、ラグナ、と少女の凛とした声が響き肩がびくりとする。


「な、なに?」

「……見ないでね? 信用しているんだから」


 彼女は今どのような表情を向けているのだろうか。それは振り向く勇気がない少年には解らない。

 ただ少なくとも信頼を向けているのだから、それに応えるしかない。心の中で湧き立つ好奇心を抑えて赤髪の少年は自分の個室から出ていく。

 リアが部屋から出るのはそこから十数分後。二人は歩いて第一階層『クルセア』へ赴き始めた。

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