最終話 蟲音


 山に行きたい、と言ったのは御前だった。

 景久と明神は軽トラックの荷台に御前を載せ、深夜の田園を走り抜けた。街を迂回するルートを選び、美術館の隣を通り抜けて、山の頂上付近で車を停めた。

 御前は器用に荷台から下りると、森の中へと入っていった。道中、景久は平気な顔をしていたが、明神は顔面蒼白になっており、しきりに好奇心で関わったことを後悔していた。だが、散散景久にそれを愚痴った末にどうにか落ち着きを取り戻し、二人で御前を見送るということになったのである。

 曇天だった夜空は何時の間にか晴れ渡り、星の瞬きに包まれていた。そよ風が熱した体に心地良く、葉擦れの音が耳を擽った。ただ、生き物の気配は全くしなかった。御前の存在を敏感に感じ取り、逃げてしまったのかもしれない。

「御前様はどうされるおつもりなのですか?」

 六つの脚で先を進む御前に、景久が訊ねると、

「……山を歩き、花を愛で、川を泳ぎ、禽獣を追い……好きに喰らう。……人里には出ぬようにする故、心配は無用じゃ」

「あのー……人間食べたりしませんよね……さっきみたいに」

 明神が恐る恐る訊くと、御前はふっと笑い、

「人は喰わぬ。あれは……景成が望んだ故……な」

 明神は「すいません」と五回ほど言ってから、景久の後ろに隠れるようについた。やはり、恐怖心はどうしようもないらしい。

 景久にはまだ解らないことがいくつかあった。しかし、質問攻めにするのも憚られたので、考えた末、

「御前様、二つだけお尋ねしても宜しいですか?」

「……許す」

「御前様は何処から来られたのですか?」

 明らかに地球の生態系には属さない生命体。陳腐ではあったが、考えられるのは一つだけである。ただ、御前の口から直接聞いておきたかった。

 御前は空を見上げた。そこにあるのは広大な宇宙。巨大な月と数多の星星。

 人類とは異なる知的生命体が住む惑星はどれだけあるのだろうか。米国のある天文学者はそれを導き出す方程式を作ったという。だが、結局のところそれは数字の上、机上の空論でしかない。本当に見つかるまでは、誰にも解らないだろう。

「……古い……古い話よ……もう忘れたわ」

 そう言う御前の貌を一瞬、郷愁のようなものが掠めた気がしたが、景久はそれ以上詮索しなかった。代わりにもう一つの質問をした。

「では、もう一つだけ。何故、鏑木家に加勢をしたのですか? 大人しく幽閉されたのは何故なんですか?」

「……ふふ、問いが増えおったぞ」

 御前は機嫌が良いように見えた。何せ、五百年ぶりの地上である。無理もなかった。座敷牢の中で人形然としていたのが嘘のようである。

「……鏑木に加勢をしたは……単なる気紛れよ。はじめに逢うたヒトが……景茂であった故な」

 景茂は鏑木家の中興の祖とも呼ばれる人物である。童唄に登場する合戦の時に総大将をしていたのが鏑木景茂なのだ。景久もそれくらいのことは口伝で知っていた。

「……景茂に従ったは……そうさな、ヒトと話してみたかったのよ」

 景久には先祖である景茂がどういう目的で御前を幽閉したのか、はっきりとは解らなかった。御前の血を門外不出とする為だった、というのが大方のところだろうが、景成を見ていると、一概にそうとも言えなくなる。本当に御前の虜になってしまったのかもしれない。それがないとは言い切れなかった。

「……はじめは面白う思うておったが、じきに飽きてな……あとはただ、考え事をしていた。楽しみと言えば、汝等が子を連れてくることぐらいであったな。……子が親になり、また子を作りそして親になる。……多少は愉快であった」

 饒舌に語る御前を見ていると、景久は信じられない思いだった。御前は幽閉され、外界を渇望しながらも、自身を束縛する者達を恨むどころか、子孫が増えるのを楽しんでいたというのだ。しかし、恐らくそれが鏑木の男をして御前を手放させなかった理由の一つなのだろう。御前があからさまな拒絶を示し、暴れたならば、御前はとうの昔に殺されていたかもしれない。無関心を装いながら、時に好意らしきものを見せる。だから、五百年もの間、鏑木家は御前を手放せなかった。いつしか、かけがえのない物として一族に組み込まれてしまっていたのだ。

 もっとも、それも今日でお終いである。御前は鏑木の家を去るからだ。

「……ここでよい」

 御前は六本脚で器用に方向転換して、景久たちの方に体を向けた。

「……景久、汝には特に世話になったな。もう百年はかかると思うておったが」

「もったいない御言葉です。確かにわたくしがせずとも、何時の日か別の当主が御前様を外界にお出しすることをしたでしょう。偶偶、わたくしにその機会が巡ったまでのこと。しかし、自分にその役目が果たせたことを嬉しく思います」

「……大義であった」

 御前の腕が伸び、そっと景久の頬を撫でた。爪の根本に生えた産毛がくすぐったかった。鏑木家に呪われた、鏑木家の守護神との最後の別れだった。

「あの、ちょっといいですか」

 それまで黙っていた明神が軽く手を上げた。空気を読めていないのは自覚しているのか、非常に申し訳なさそうな顔をしている。

「自分の調べた限りじゃ、御前様は大層楽がお得意だったみたいなんですが、あれは本当なんですかね?」

 あれだけ好奇心を後悔しておきながら、明神はまるで懲りていないらしかった。自身の調査結果と事実が合致しているかどうか、急に気になりだしたらしい。

 御前は「ふむ、楽か」と言うと、景久と明神の顔を交互に見た。そして、微笑すると、

「では、別れに一つ……戯れに楽を奏でよう」

 御前は三メートルほど二人のいる場所から後退すると、ぐっと体を折り曲げた。すると、太い足の装甲がカパッと開き、女の柔肌の如き白い筋肉繊維が剥き出しになり、鑢状の組織が飛び出した。同時に背中の装甲も開いて、巨大な薄桃色の六対の羽根がふわりと展開された。そして、その羽根の下にあるもう一対の小さな羽根に、鑢状の組織が接触すると、不思議な音が出始めた。

 それは琵琶の響きに似て殷殷と森に木霊した。

 また肩の装甲から飛び出している棘には蓋付きの穴が空いており、そこから音階を持つ音色が一定のリズムで流れ出した。それはまさに笛の音であった。

 真夜中の深い深い森で、静かに麗しく流れる楽の音は、五百年前のそれと同じであった。

 景久は初めて先祖の、景茂の気持ちが理解出来た気がした。

 人智を越えた者が奏でる妙なる調べに、景久はただ聞き惚れた。

 何時までも、何時までもそれを聞いていたかった。

 薄桃色の羽衣を纏った天女の楽の音を。


                  ※


 孫が来たので、久しぶりに屋敷が賑やかだった。その孫も寝てしまい、また屋敷は静寂を取り戻している。田舎に来るのを嫌がったと聞いていたが、川での遊び様を見ていると、もう心変わりしてしまったらしい。

 縁側に座り、昔とは配置の変わった日本庭園を眺めていると、古い記憶が蘇りそうになる。

 かつて在った蔵のこと、その中の座敷牢のこと、そしてそこに閉じ込められていた者のこと。

 ただただ、生きるのに夢中の七〇年だった。地元に戻り、村の役場に務め、親族の紹介で結婚した。子供が三人出来て、三人とも既に結婚して子供が、つまり自分にとっての孫がいる。孫は全部で六人だ。今日来ているのは、その内の二人である。

 風があまりないせいか、かなり蒸し暑い。

 夜空が綺麗なことを考えると、明日もかなり日射しが強くなるのだろう。

 こんな時には、つい耳を澄ましてしまう。

 何かが聞こえる気がして。喩えば、ずっと前に一度聞いた切りの天女の調べなどが。

 ふと、草履を履いて庭に出て、ブラブラと散歩をしようかという気になった。

 あまり自由のきかない体に文句を言いながら、草履を履き、腰を伸ばした時だった。

 琵琶に似た音が聞こえた。だが、それは琵琶とは微妙に違う音色である。

 笛に似た音が聞こえた。だが、それは笛にしては音階が奇妙であった。

 その二つが組み合わさった、名も無き曲の調べが山に木霊していた。

 嗚呼、と溜息が出てしまった。

 それはあまりにも懐かしくて、勝手に滲んだ涙で、世界が歪んでしまった。音が聞こえてくる山の方を眺めながら、その楽に聞き入った。

 息子にも、孫にも聞かせたかった。しかし、それは出来ない話である。

 物語には二種類ある。伝えるべき物語と、忘れ去られるべき物語である。

 息子も、孫も、これを聞くべきではない。彼等もきっと虜になってしまうから。

 嗚呼、あんなにも蟲が鳴いている。

 蟲が鳴いている。

 



                                          了

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蟲の音は刻に響きて 志菩龍彦 @shivo7

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