第8話 景成
一台の無灯火の軽トラックが、ゆったりとした速度で鏑木邸の前に停車した。大きな音を立てないよう慎重にドアを開けながら、景久と明神が出てきた。景久の手にはプラスチック製の工具箱が握られている。ドアを締めると、明神は荷台からアルミ製の長梯子を下ろした。
「確認するが、警報装置とかはないんだよな?」
声をひそめて明神が訊ねると、景久は一番蔵に近い塀を指差して、
「大丈夫です。自分がいた頃はありませんでしたし、多分今もありません。ここら辺じゃ泥棒なんてまず出ないから、戸締まりしないで寝る家だってあるくらいですよ」
「平和なこった。羨ましい限りだ」
二人は目的の塀に辿り着くと、長梯子を立てかけた。途中で倒れないように、何度か具合を試してから、まず景久が登り、塀の内側に飛び降りた。明神もそれに続いて、飛び降りる。出る時は門を内側から開ければいいので、脱出の心配はしなくて良い。
日本庭園に敷き詰められた砂利を、音がせぬように踏みながら景久達は蔵に近づいていった。
空には薄い雲がはっており、月も星も出ていない。懐中電灯は持って来ているが、灯りをつければ気づかれる恐れがあるので、外では使えなかった。それでも、景久は危なげなく身を低くして庭の中を進んでいく。昨日観た限りでは、庭は全く弄られていなかった。つまり、景久が幼少の頃に遊び回っていたときと、石や庭木の配置が変わっていないということだ。だから、ある程度の見当をつければ、闇中でも動くことが出来た。
蔵の入り口に着くまで二分とかからなかった。何の物音も立てていないし、してもいない。不気味なくらいに静かな夜だった。木木の梢はピクリとも動かず、蟲もまるで鳴いていない。逆に自然の音が騒がしい方が、気づかれにくいというのに。
闇に眼が慣れているので、すぐに南京錠の場所は解った。明神がピッキング用の針金を取りだしたが、それを景久が制止する。
既に南京錠は開錠されていたのだ。だが、二人に驚いた様子はない。
「想定の範囲内だ、問題ないだろ。それよか、段取りを確認するぞ」
「先輩が景成を押さえて、その間に自分が鎖を切る」
「よし、オーケーだ。間違えて自分の手を切るんじゃねえぞ」
二人は頷き合うと、そっと鉄扉を開き蔵の中に入った。
闇に眼が慣れたとはいえ、頼りは景久の勘と記憶である。景成には直前まで気づかれたくない。懐中電灯は、鎖を切るときにしか使えないのだ。
景久と明神は手探りしながら、床の鉄扉を静かに開け、石階段を下りていった。
一段一段と下りるごとに、室温が下がっていく。それなのに、景久も明神も汗が止まらなかった。緊張による発汗は防ぎようがない。顎を伝う汗を手の甲で拭いながら、二人は底の見えない闇の中を降下していった。
暗ければ暗いほど、僅かな灯りでも強く感じられるものだ。景久と明神は、五段先がほんの僅かな光りで長方形に区切られていることに気づいた。そこが階段の終着点である。
階段の壁から顔だけを出して、景久は座敷牢の中を覗き込んだ。
座敷牢の入り口から十メートル程先、カンテラに照らされて御前の姿が幻想的に浮かび上がっていた。そして、景成の異様な姿も、また。景久はこの時になって、改めて景成の御前への執着の強さを思い知らされた。
景成は御前の膝の上に頭を横たえていた。安らいだ表情で、御前の太股や膝、脹ら脛を撫で擦っている。だが、その顔は血に塗れていたのだ。御前の鋭い棘が顔に刺さっているのである。唇から漏れている乾いた血液は、棘が頬を刺し貫いて出来た穿傷が原因であるのは明らかだ。御前の肌を撫でる柔らかい掌はまだ液体の血で濡れていた。切り裂かれる度に、すぐに回復しているのだが、また棘がそれを切り裂いているのだ。そのため、血が乾く暇がないのである。痛くない訳がなかった。喩え不死身の体であっても、痛覚は普通の人間となんら変わりない。それでも、景成は幸福に満ちた顔をしていた。御前の膝の上で血に塗れながら、むしろ己の血を御前の体に擦り込んでいるようにすら思えた。
「どうした、何を見てんだ。あの野郎が惚けてる間に近づくぞ」
眼前の光景に息を呑んでいる景久に、痺れを切らした明神が耳打ちした。景久が逡巡したのは一瞬だった。己の手を弟に刺された腹に当て、大きく息を吸い込み、深く吐き出した。
「いきます」
景久は階段から体を出すと、すぐに鉄格子の扉を潜った。明神もそのすぐ後ろに続く。アロハの背中の下に手を入れ、抜いたときにはそこに黒い拳銃が握られていた。明神が実家から持ち出したマカロフである。当然制止されたが、無理を通して組員を黙らせたのだ。
御前がつと視線をこちらに向けた。しかし、まだ景成は気づいていない。夢見心地で眼を閉じている。
御前の視線と景久の視線が交錯した。
「景久か……」
御前の声を聞いて、景成がすっと眼を開けた。二度と見ることのないはずの人間が一人、完全な部外者が一人、何の挨拶も無しに立っていた。それはあまりにも不快なことで、景成は癒着した棘と頬を無理矢理に引っ張り外して、立ち上がった。鮮血が頬を流れたが、もはやそれが気にならないほどに、景成の顔は赤く染まっている。
「今度は殺すと言ったはずだよ。しかも、部外者まで連れてきて、どういうつもりだい?」
眉根を寄せて、素早く腰に差した脇差を引き抜き、景久と明神に向けた。景成にとって彼等は排除すべき存在だった。御前との逢瀬を邪魔する敵。鏑木家の外から来た、この空間における異物である。
「そのドスはちっと危ないな。それを鞘にしまって、壁の方に行ってもらおうか」
白刃を突きつけられながらも、明神はいささかも動じていなかった。むしろ、このような修羅場は屁でもないという顔をしている。カンテラに黒光りするマカロフを両手でしっかり持ち、銃口を景成の頭に向けた。
「そんな玩具で僕が――」
耳をつんざくような音がして、思わず景成だけでなく景久まで体を撥ねさせた。畳に向けられたマカロフからは硝煙が立ち上っている。甘い香りの中に火薬の匂いが混じって、辺りに漂っていた。畳にはハッキリと銃痕が残され、その奥で弾丸が潰れていた。
「玩具じゃねーんだな、これが。お前、撃たれたことあるか? 刀で切られるより痛ぇぞ」
「あんたこそ痛みを理解してないみたいだね。慣れればコントロールぐらい出来るさ。それにあんたも、知ってるんだろ? 僕の体質を」
「だーから、こうしてんじゃねえか」
明神は再び景成の頭部に照準を合わせた。景成自身が言っていたように、如何に回復能力があろうとも、脳に深刻なダメージを受ければ話は別である。頭部を潰された父が死んだように、頭へのダメージだけは絶対に避けなければならない。
景成も、拳銃で頭を撃ち抜かれれば終わりであることは承知していた。
景成は歯を食いしばり、鬼の形相で、明神ではなく景久を睨み付けた。憎しみで人が殺せるならば即死してしまうほどの憎悪が、景成の視線から感じられた。
「兄さん、絶対に後悔することになるよ。部外者まで入れて、鏑木の恥曝しもいいところだ。そんなに僕の邪魔がしたいのか!」
大人しく脇差をしまい、明神の指示通りに壁に行きながらも、景成は咽喉が裂けんばかりに叫んだ。自分を、鏑木家を、御前を理解しない兄に対する怒りは、気が狂わんばかりのものだった。
「鏑木と御前の話は今日で終わりにする。俺はそう決めたんだ。お前こそ、俺の邪魔をするんじゃない、友成」
景久は有無を言わせぬ口調で断言した。しかも敢えて弟を古い名で呼んだ。それは、彼にとっての意思表示だった。鏑木家の現当主として、御前を解放するという。
景久は御前の前に正座すると、深深と頭を下げた。そして、御前の白貌を見上げ、
「御前様、今になって……ようやく、貴方様にお会い出来た気がします。そして、これが最後になるでしょう。わたくし鏑木景久が、鏑木家当主の名において、貴方様の縛めを解かせて頂きます」
御前は何も言わなかった。ただ、景久を見つめているだけである。景成の顔が喜びに歪んだ。彼は自分が間違っていなかったと思った。自分が御前を必要としているように、御前も自分を必要としているのだと。だが、
「……そうか。では、頼む」
うっすらと――うっすらとだが、確かに微笑を浮かべて、御前は言った。哀しげでもなく、作り物めいてもいない、本当の微笑だった。それは景久が初めて見る表情であり、また景成もそれは同じだった。
景成の頭の中で、走馬燈のようにここ三年間の御前との時間が展開されていった。邪魔者がいなくなり、景成は大学や家の用事以外の時間は、全て御前の為に費やしてきた。彼女が愛しくてたまらなかった。初めて姿を見た時、この人外の存在に心を奪われた。儀式を通して、彼女の血が自分の体の中にも細胞として存在することが何よりも嬉しかった。自分を捨てた母親の血など気にもならなくなった。彼女が喜びそうなことは何でもした。必要なものがあれば必ず手に入れるつもりだったし、どんな願いも受け入れるつもりだった。ただ、外に出たいという願いを除いては。三年という月日の流れる間、景成は己の全てを御前に捧げた。愛撫する度に血まみれになることも、それに伴う痛みも平気だった。だが、御前はただの一度も景成の愛に応えることはなかった。硝子玉の眼は感情の色を映さず、美しき白貌は人形となんら変わりなかった。
その御前が、微笑を浮かべている。よりにもよって、鏑木から逃げた兄に対して。
「巫山戯るな……巫山戯るなよ、兄さん」
景成は虚ろな声で言ったが、景久は耳を貸さなかった。御前の体を縛っている鎖を切るため、工具箱の中から金属切断砥石が装着されたディスクグラインダーと軍手を取り出した。軍手をはめると、まず畳に打ち付けられた杭に繋がっている鎖から切断を始めた。
「何が鏑木家の当主だ。今頃出てきて勝手じゃないか」
火花を散らせながら、鎖はゆっくりと、だが確実に断ち切られた。五百年の間の時間は火花となり、粉塵となり、空中に霧散していく。
「当主は僕だ、鏑木景成だ。兄さんじゃない」
一本目が終わると、すぐに二本目に取りかかった。
「御前様が孤独だって言ったね? だけど、外に出たらもっと孤独になるよ」
二本目が終われば、三本目、四本目と、次次に景久は鎖を切断していく。
「御前様を理解出来るのは僕等だけだ。僕等以外の誰が御前様を理解してあげられるのさ?」
景久はありとあらゆる束縛の鎖を切断する。この鎖こそ、連綿と続いてきた鏑木の呪縛そのものなのだ。
「どうして解らないんだ? やめろ、やめてよ、兄さん」
景久は最後の鎖に、高速回転する刃を当てた。金属の悲鳴が耳をつんざいた。
「僕から御前様をとらないでよ!」
景成の絶叫と、鎖が弾け飛んだのは、ほぼ同時だった。
景久、景成、明神。三人の人間の眼が、この場における唯一の人間ではない生物を凝視していた。
最初に動いたのは、椅子だった。椅子がバリバリと音を立てて二つに両断された。景久達が椅子だと思っていたのは、御前の脚だったのである。四本の椅子の脚はそれぞれ四本の御前の脚部であり、人間の脚に見えたものも含めると計六本の脚を御前は持っていた。三つに別れた胸部の内、後胸にあたる部分に接続された六本の脚で、御前は五百年ぶりに立ち上がった。
御前の折りたたまれていた体が真っ直ぐに伸び、肘掛けと腕が分離して二本の腕になり、それが更に別れて左右四本ずつ、合計八本の腕になった。これは前胸と中胸に二対ずつ繋がっていた。
御前の姿は、幻想の生物ケンタウルスに似ていた。違うのは、彼が半人半馬であったのに対し、こちらは半人半蟲の生物である。真っ赤な蜘蛛、或いは蟹の上に人間の上半身をくっつけたような姿だ。その身長は優に三メートルを超えている。
御前の体は僅かに震えており、ともすれば崩れそうになるバランスを、六本の脚でなんとか維持していた。五百年も使っていなかった筋肉が、拘束解除後に動くこと自体が異常なのである。
御前の呼吸に合わせて、赤い装甲が軋み、風切り音が聞こえた。だが、御前の口は少しも開かれていない。腹部の側面にある気門から空気を取り入れているのだ。
その場の誰もが言葉を失っていた。景久も、明神も、景成でさえも。しかし、その理由は三者でそれぞれ違った。景久は畏敬の念を持って、明神は脅威と戦慄を持って、そして景成は――人智を越えた美への陶酔と「御前」という人格への愛を持っていた。
景成がふらりと御前の前に歩み出た。明神はそのことに気づいたが、どう動くべきなのか咄嗟に判断出来ず、マカロフを景成に向けたまま、引き金からは指を離していた。
「御前様……この姿もお美しい。いや、縛めを解かれた今の方が、前よりもずっと……」
景成は陶然たる様子で御前の腹部へと手を伸ばした。御前は何もせず、それを許していた。
「……世話になったな……景成……。もう、汝の役目も……終わりじゃ」
自分のはるか上から降ってくる御前の声を浴びながら、景成は眼を潤ませた。
「いかれるのですね?」
「……此処を出る」
そう言った御前の貌を、景成は眼に焼き付けるように見つめて、
「では、少しお耳をお借りしても宜しいですか?」
御前はこれに応え、体を折り曲げて、頭を景成の口元へ持って行った。景成はそこで、何かを耳打ちした。景久にも、明神にも、何を言ったのか聞こえなかった。御前だけにしか解らなかった。
御前はしばしの間、黙考していたが、チラと景成の顔に眼を落とすと、
「あい、承知した」
そう言って、御前は鋭い棘と爪の生えた八本の腕で、景成の細い体を掻き抱いた。そして、口を景成の首元に持っていた。
次の瞬間、御前の貌の下半分が両側に開き、鋭い三本の管のようなものが飛び出し、景成の首元に突き刺さった。悲鳴を上げまいと食いしばった歯の間から、景成の苦悶の声が漏れ出した。思わず耳を覆いたくなるような声であり、実際明神は持っていたマカロフを取り落としたし、景久は御前の行為を止めるため駆け出そうとした。
「やめろよ、兄さん……」
生きたまま体の内部を溶かされ、溶けた肉体を吸い取られているのに、景成はもう痛みを感じていないのか、安堵した顔をしていた。加虐心と憎悪と絶望に歪められていた景成の表情は、至福に浸っているかのように柔らかかった。
昆虫の中でも人畜の血液を好物としている蚊等は、獲物に管を刺した時、そこを麻痺させるような物質を同時に注入する。御前が体内で生成した麻薬物質によって、景成の脳はもう痛覚を感じていなかった。
「僕は御前様と一緒にいるよ。僕以外の誰が、その役目を果たせるって言うんだ」
景成の体はドンドンと萎んでいった。肉も骨も、首から下は内部で溶けてしまい、吸い殻となって手足は、ペラペラの皮だけになっていく。
「ごぜんさまとかぶらぎのえんはおわり……それでいいよ。ぼくはごぜんさまと……いっしょにいく」
景成の声は段段と弱く、不明瞭になっていった。景成はただ御前だけを見つめていた。御前も景成を見つめていた。その眼は、ただの硝子玉の眼ではない。確かに何らかの感情がそこに存在した。
そして、それはずっと景成が求め続けて来たものだった。
「いぃ……においがする」
それが鏑木景成の最後の言葉だった。
頭蓋骨も脳も溶かされ、景成の中身は全て御前に吸収された。残った皮も巨大な顎で咀嚼され、嚥下されてしまった。それらは御前の五百年の飢えと渇きを癒し、彼女の血肉となり、その命が全うされるその時まで彼女を支え続けるのである。
眼前で実の弟が喰い殺される様を、景久は黙って耐えて見守った。
それが鏑木家当主の務めであり、御前を束縛し続けて来た代償だと思ったからだ。
そして何より、景成が――弟がそれを望んだからだった。
景久は無言のまま、弟を喰らい尽くした赤色の美神に頭を垂れた。
景久は音を聞いた気がした。何かと何かを繋いでいた鎖が、千切れ飛ぶ音を。
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