第7話 明神


 はじめに感じたのは煙草の匂いだった。それから、体を揺らす僅かな震動。水底から浮き上がるように意識が戻ってくると、景久は弱弱しく眼を開いた。

 景久の眼に黒い天井と窓が映った。窓の外の明るい景色はどんどん後方に流れて行っている。すぐにこれが自動車だと解った。今、自分は自動車に乗せられている。記憶の最後では座敷牢の中にいたはずだが。

 景久は腹部に残る鈍い痛みに顔を顰めた。まだ意識ははっきりとしていない。だが、何処かに運ばれているのは確かである。一体、誰が何の目的で自分を運んでいるのか。働かない頭に苛立ちつつ、悟られないようにこっそり運転席へと眼を向けた。

 和柄のアロハと青海波のジーパンという出で立ちの男がいた。煙草を口にくわえたその横顔を、景久は知っていた。知っているが故に驚いてしまった。

「……明神先輩?」

 運転をしているのは明神詞郎だった。景久の声を聞くと、チラリと視線を送り、破顔一笑した。

「おうおうおうおう、眼ぇ醒めたか。心配したぜ、あんまりぐったりしてたからよ。それよか、お前もっと飯食った方が良いぞ。女みたいに軽かったぜ」

 軽口を叩きながら、明神はビニール袋を景久に投げて寄越した。中にはサンドイッチとパック入りの珈琲牛乳が入っている。

「それ食っとけ。しかし、どんだけ田舎なんだよ、カーナビなかったらコンビニは勿論、絶対お前の家にも行きつけなかったぞ。道は解りづらいし、京都とは大違いだ」

 景久には何がなんだか解らなかった。何故、明神が此処にいるのか。また、何故、明神の自動車の中にいるのか。景成に殺されかけたのは覚えている。シャツの下に手を入れ、腹部を触ってみると、ザラザラした瘡蓋の感触があった。刺された場所に間違いない。流石にすぐに回復する程度の傷ではなかったのか、いまだに痛みが残っている。しかし、動けないほどではなかった。

 何よりまず落ち着いて頭が回るようにしなければならない。食欲はまるでなかったが、景久は渡されたサンドイッチを食べることにした。それを咀嚼し、珈琲牛乳を飲みながら、自動車の内部を見回した。この内装には覚えがあった。明神が所有している黒の旧式ビートルである。煙草の匂いがシートに染みつき、ジュース受けの処には珈琲の空き缶が山と積まれている。自分は後部座席に寝かせられていたらしい。車内のデジタル式時計を見てみると、正午過ぎだった。窓から外を覗くと、空は雲一つなくカラリと晴れ渡っている。

「先輩……出来れば状況の説明をお願いします」

「昨日、急に電話を切ったろ。それから全然返って来なくて、こりゃおかしいと思ってたら、今日になってかかって来てよ。ああ、電話してきたのはお前の弟な。んで、お前が倒れたんで迎えに来い、と。で、お前を回収して、昨日言ってた美術館に移動中」

 景久はポケットをまさぐって携帯を取り出すと、通話履歴を見てみた。確かに、今日の午前九時に明神に電話を掛けたことになっている。景成がかけた電話というのはこれだろう。

「すいません、お世話おかけしちゃって……」

 貧血から来る眩暈に耐えながら、景久は沈んだ声で言った。明神は呵呵と笑い、

「この恩は酒で返してくれりゃいいよ。魔王とか赤霧島をよろしく。……にしても、本当に感動の再会とはいかなかったみたいだな」

「……解るんですか?」

「お前の弟に会ったけどな。ありゃロクでもない奴だな。喋り方は丁寧だったが、あの眼は、兄貴を完全に見下してる眼だったぜ。俺の弟と同じ眼をしてやがった。

 それでどうだった? 御前様は本当にいたのか?」

「いましたよ、本当に。夢じゃなかった。でも……」

 景久は昨日の夜、座敷牢の中で体験したことを、明神に語って聞かせた。だが、話が進むに連れ、声はドンドンと小さくなっていき、最後は尻すぼみに消えて行った。

 明神は話を聞き終わると、短くなった煙草を捨て、新たに一本をくわえて火をつけた。紫煙をくゆらせながら、顎の無精髭を触っていたが、

「正直な感想言うが、あまりに突飛過ぎてすぐには信じ切れねえ。でも、お前がこういう冗談を言う人間じゃないのはよく知ってるから、取り敢えずは信じる。御前の正体も、弟に刺されたってのも、その傷が回復したってのも」

 景久が自分の話に聞き入っているのをバックミラーで確認して、明神はゆっくりと噛み締めるように言った。

「それで、だ。お前はどうするんだ? いや、どうしたいんだ?」

 景久の頭に真っ先に御前が浮かび、次に弟の景成が浮かんだ。御前をなんとしても、あの場所から解放したい。だが、弟が確実に邪魔をするだろう。今度こそ本当に殺されるかもしれない。景成が本気であることは疑いようがなかった。死を賭してまで、御前を助ける必要はあるのか? 弟があのように歪んでしまった責任の一端は自分にあるのではないか? そもそも、御前を本当に外に出してしまって良いのか? 第一、御前が人間にとって無害な存在だと、断言は出来ないではないか。

 どんなに頭を動かしても、答えは出なかった。一番良いのは、このまま二度とこの土地を訪れないことだというのは解る。そうれば、全てがまるく収まる。誰にも危険が及ばない。自分は殺されないし、弟は死ぬまで御前との逢瀬を楽しむだろう。その存在を決して外に漏らすことなく。恐らく鏑木の家は景成の代で最後だ。呪われた連鎖もついに終わる。

 ただ一人、御前だけが永劫の時の中で拘束され続けるだけだ。

 景久は嫌だった。そんなことは嫌だった。だが、決心がつかない。

「御前をあそこから、出してやりたいです。だけど……」

「だけど、なんだ?」

「だけど……」

「だけどなんだ! 言ってみろ!」

 明神が突然、吠えた。思わず背筋が伸びてしまうほどに、ドスの効いた迫力のある声だった。バックミラーに映る明神は恐ろしい形相をしていた。こんな顔の明神を見るのは、景久も初めてだった。

 完全に萎縮してしまった景久を見て、明神は深いため息を吐いた。

「……昨日言ってた美術館でお前に見せたいものがある。もうただの興味本位じゃねえ。お前が見なくちゃならねえ絵だ」

 外の風景が田園から、市街地へと変わった。小さな商店や住宅地が並んでいる道路を走り続け、今度は山の中へと坂道を上り始めた。そうして、十分ほど走ったところで、明神のビートルは停止した。

 ドアを開けて明神が外に出ると、景久もそれにならった。先ほどの恫喝にも似た明神の叱咤から、まだ立ち直れてはいない。恐る恐る明神についていきながら、目の前の煉瓦造りの建物を見上げた。黒塗りのプレートがかかっており、金字で細波現代美術館と彫られている。

 回転ドアを抜け、先に入った明神は、受付に「大人二人」と言い、二人分の入館料をさっさと支払ってしまった。二人ともまだ学生なので、学生料金で済むはずなのに、明神はそうしなかった。景久の知る明神は吝嗇家とは言わないまでも、チケット代などはとにかく安く済ませようとする人間のはずである。

 明神の意図を計りかねている景久はとにかく後を追うしかない。

 二人は絵画の掛けられた通路をドンドンと進んでいった。やがて、大きな正方形の部屋に出た。中央には捻れたフォークが組み合わさったようなモニュメントが置かれている。この部屋の壁にも、やはり絵画が並んで飾られていた。

「ネットでも俺は資料を探していた。画像関係の検索エンジンにキーワードをぶち込んでな。出てきた画像を片っ端から見ていった」

 館内に入ってから、初めて明神が口を開いた。もう怒気のようなものは感じられない。歩きながら、ただ、淡淡とした口調で言葉を吐いていた。

「そこで、ある絵を見つけた。『夜見たら眠れなくなる不気味な絵100選』とかいうサイトだったかな。俺はそれを見て、描かれているのがお前の言う御前じゃないかと思った。で、その絵がここに所蔵されている」

 ピタリと明神は足を止めた。そして、横を向き、一枚の絵画を見ながら言った。

「それが、これだ」

 その油絵には、椅子に座った少女が描かれていた。赤い鎧のようなものを着ているが、ぼかして描かれているのではっきりとは解らない。少女の周りは深い暗闇に包まれている。何重にも重ねられた黒が、その闇の深さと、そして時の長さを感じさせた。少女のいる場所だけが、少しだけ明るくなっている。

 景久には、この絵が座敷牢の中の御前を描いたものだと、容易に解った。少女の顔立ちは御前のそれであり、棘の生えた赤い鎧もそのままだ。だが、同時に違和感も覚えた。この絵には、何かが足りないのだ。あの場所にあった何かが。

 それに気づいた時、景久はギュッと心臓を鷲掴みにされた気がした。

 絵には、鎖がないのだ。御前を束縛し、五百年の間自由を奪い続けてきた太い鉄の鎖が、この絵には描かれていないのである。

「ここの館長のコレクションの一つで、明治期の作品だとされているが、作者は不明らしい。一説には精神病院の患者が描いたものとも言われている」

 この絵に題名はないらしい。ただ、絵の右下に消えかけたサインのようなものあった。二つのアルファベットが並んでおり、恐らくは作者のイニシャルだと思われる。そのアルファベットは「K・K」だった。

 景久は題名なきその絵を一心に見つめていた。絵の中で御前は自由だった。もはや彼女を縛る物は何も無い。しかし、彼女の貌は喜びの表情ではなかった。座敷牢で見た虚ろな硝子玉の双眸。そこにある諦観と虚無。それでも、彼女は必ず鏑木の男に訊く。「此処を出ることは出来ないのか?」と。彼女は望んでいる。外に出ることを。自由を。それを鏑木の男は許さなかった。いや、許そうとした人間もいたかもしれない。この絵を描いた男のように。しかし、結局いまだに彼女は座敷牢に縛られ続けている。だれかが断ち切らねばならないのだ。

 この絵の御前は鎖の束縛を逃れている。だが、鏑木家という呪縛からは、まだ解き放たれていない。

「先輩、一つ訊いても良いですか?」

 景久がポツリと言った。明神は首を回して、「何だ?」と訊いた。景久はぐっと顎を引き、明神の顔を見返しながら、

「鎖を切るにはどんな道具があればいいですか?」

 車にいた時のような弱弱しさが、景久から消えていた。そこにあるのは、強い意志。罪悪感を押し返す、自分の使命と信念を持った人間の顔だった。

 明神はしばし黙考した後、喫煙者にしては綺麗な歯を見せ、笑った。

「ディスクグラインダーを使えばいけるだろうよ。でかいホームセンターに行きゃ売ってるぞ」

「じゃあ、そこに行きましょう」

 景久は絵に背を向け、出口へと歩き始めた。明神は浮かれたような足取りで景久の隣に並ぶ。

「弟はどうすんだ? 絶対に邪魔してくるぞ」

「計画を立てましょう。あいつは本気で俺達を殺そうとしますよ。日本刀程度じゃ脅しにもならない。怪我で死ぬことはまずないですから」

「じゃあ、チャカはどうだ? チャカで頭狙われてたら流石に動けんだろ」

「チャカ? チャカって拳銃のことですか? 駄目ですよ、第一そんなもんどこにあるんですか」

「あるよ? 俺の家に」

 信じられないという様子で、景久は立ち止まった。明神は、逆に何故景久がそんな顔をしているのか不思議そうにしていた。

「先輩の家って……確か代代続く不動産屋ですよね?」

 訝しがる景久に、二人の情報の齟齬に気づいた明神はケラケラと笑いながら、答えた。

「うちはヤクザだよ。中国産のマカロフなら幾らでもあるぞ」


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