第6話 再会

 何もかもが、あの時と同じだった。

 蔵の中も、鉄扉も、石階段も、濃密な闇とそれを追い払う仄かなカンテラの光りも。

 そして、景久は巨大な鉄格子によって封じられた座敷牢の前に立っていた。十四年前に父と共に来たときと何も変わっていない。肌寒いほどの冷気が漂い、耳の痛くなるような静寂が空間を包んでいた。

 違うのは、一緒に来た相手である。今、景久の隣にいるのは父ではない。弟であり、現鏑木家当主の景成である。

「さあ、行こうか。お待ちかねの感動の御対面だ」

 景成はクスクスと笑いながら、鉄格子の鍵を開けて、中に入った。景久は言われるままに従うしかない。何故なら、彼の頭はいまや情報過多により混乱を来していたからだ。あまりにも不可解なことが多すぎる。景成は御前の存在を知っていた。自分がいなくなり、代わりに景成が長男となったのだから、御前との儀式をしていてもおかしくはない。だとしても景久には、景成の態度が不思議でならなかった。まるで、自分が再び御前の下へ戻ってくるのを知っていたかのように見えるからだ。

 カンテラの灯火を頼りに歩いて行くと、徐徐に闇の中に彼女の姿が浮かび始めた。まず、最初に目に写ったのは赤い鎧だった。僅かな光沢を持つ沈んだ赤色の甲冑が、胴体をはじめ、手、腕、太股、足と、殻のように彼女の体を包んでいる。所所から鋭い棘が飛び出しているが、それらをよく観ている内に、景久は違和感のようなものを覚えた。以前は全く気にならなかったのだが、妙に非人工物的なものに思えたのである。混乱していたはずなのに、御前の姿が見えた途端、彼の意識はただ彼女にだけ集中させられていた。

 そして、当時と寸分も変わらぬ白い貌がそこにあった。高い鼻梁と長い眉。虚ろげな瞳は人形の眼を思わせる。長い黒髪の先は闇に融け消えてしまい、よく見えない。

 御前の体は太い鎖で手の先までグルグル巻きにされ、完全に拘束されていた。まるで蜘蛛の巣にかかった蝶か蜂のように。

 父が「御前様」と呼んだ、脳髄の中に潜み続けた幻影が、今また景久の前に実体を持った存在として現れていた。

「御前様、今日は懐かしい者をつれて参りましたよ」

 優しい声音で言うと、景成は御前の後ろに回り、カンテラを前に差し出した。それによって、額に汗を浮かべ唇を震わせている景久の全身が照らし出された。

 御前は何の反応も示さなかった。ただ、凝っと景久の姿を見つめているだけである。つるりとした硝子玉の眼に、景久の歪んだ象が写っていた。たっぷり一分ほど経ってから、藍の口紅を引いたような唇が僅かに動いた。

「もしや……景久……か?」

 雑音が混じったような声で、御前が呟いた。

 景久は衝撃を受けた。十四年前に一度見た切りの子供を覚えており、且つ一目で眼前の青年が同じ人間であると見抜いたのだ。だが、景久を驚かせたのはその記憶力や推理力ではない。自分の頭の中にずっと御前がいたのと同じように、御前の頭の中にも自分がいたという事実である。それが嬉しくもあり、恐ろしくもあった。強い感情のうねりが胸を熱くした。カラカラに乾いた口から、

「は……はい。景久……です」

 そう絞り出すのが精一杯だった。

 御前は小首を傾げ、少しだけ口の端を吊り上げた。

「しばらく見ぬ内に……随分と大きゅうなったな……あの童が……なァ」

 景久の成長を喜んでいながら、また哀しんでもいるような表情だった。それだけの時間が経過したことを知ったからかもしれない、と景久は思った。恐らく、あれからも御前はここに居続けたのだ。それ以前からも、そうされてきたように。

「兄さん、不思議に思ってるんじゃない? どうして僕が、兄さんの魂胆を見抜けたか」

 景成に図星をつかれ、景久は動揺した。まさしく景久が知りたいのはそれだった。

「これは僕の憶測でしかないんだけど……一つは自分の体質に疑問を持ってるからだろ?」

「体質だって?」

「そうさ。兄さんは病気になったことがないだろ? そして、大抵の傷はものの数分で治ってしまう。違うかい?」

 それは、景久が母にすら隠し続けた、自分以外は知らないはずの秘密だった。だが、景成はこともなげに、それを知っていると口にした。

「別に驚くことじゃないよ。僕だってそうだからね。御前と血交の儀を行った者は、皆そうなるんだ。勿論、父さんもそうだった。その父さんも、そのまた父さんも。ずっとずっと、鏑木家の当主は御前様のお陰で殆ど不死身の体質を持ち続けてきたんだ」

 薄薄ではあるが、景久もそうだろうとは思っていた。御前が五百年前から生きているのだとすれば、あの儀式が何百年も連綿と続いてきたものだと想像するのは難いことではない。しかし、そうなると一つ解らないことがある。不死身の体を手に入れたはずの、鏑木家の当主だが、あまり長寿の者はいないのだ。景久の祖父にしてもそうであり、何より父親がそれを証明している。

「だが、父さんは死んだ。不死身でもなんでもない」

「頭が潰れちゃったら流石に駄目さ。特に脳の損傷は致命傷になる。手足の欠損も厳しいだろうね。試したことはないから解らないけど」

 景成の口調は、冗談を言う時のそれだった。己の父の死を笑い話のように語る景成に、景久は怒りよりも異様さを感じた。まともな人間の神経ではない。幼少の頃の景成は、ささいなことにも泣き笑う、繊細な子供だった。しかし、目の前の彼は図太いを通り越して、無神経ですらあった。人間性が疑われるほどに。

「僕等がこんな体質を獲得出来た秘密は、これさ」

 景成は右手に持っていたカンテラを左手に持ち替えると、空いた右手で御前の胸に手を這わせた。かつて父が彼女に土下座までしていたことを考えれば、あまりにも馴れ馴れしい行動である。

景成は恍惚とした表情で胸部の鎧を撫で擦りながら、「兄さんにはこれが何に見える?」

 景久は答えに窮した。解らないのではなく、答えるまでもない質問だからである。

「兄さんはこれを鎧だと思ってるんじゃない?」

「そうだ。当たり前じゃないか」

「違うよ、兄さん。これは鎧なんかじゃないよ」

「真逆、鎧じゃなくてドレスだとか言うんじゃないだろうな」

 景久がそう言うと、景成は失笑しながら頭を振り、

「これはね、一種のクチクラなんだよ」

 景久には聞き慣れない言葉だった。景成は、コツコツと指で御前の胸を叩き始めた。

「クチクラってのは角質のことさ。つまり、昆虫や節足動物の外殻、外骨格のことだよ」

「それじゃあ、昆虫の殻で出来た鎧ってことか。でも、鎧には違いないじゃないか」

 弟が何を言いたいのかさっぱり解らず、景久は苛立ちを隠せないでいた。

景成はスッと顔を動かした。御前の貌の真横へと。

「察しが悪いな、兄さん。これはね、外骨格なんだよ、御前様の。鎧じゃなくて、御前様の体そのものなんだ」

 外骨格と言う言葉なら景久も知っていた。昆虫や節足動物等は、哺乳類等とは違い、骨を体内に持たず、体外に展開し体を構築している。御前の鎧が外骨格だとするならば、彼女は人間などではない。そして、昆虫ですらも。人間と昆虫の融合生物とでも言えばいいのか。そんな生物は景久の知る限り存在しないはずである。この地球上においては。

 景久は戦慄した。景久も御前がただの人間でないことは察しがついていた。しかし、それは吸血鬼か何かの類といったファンタジーめいたものであって、昆虫との融合生物など予想だにしていなかった。それはもはや、彼の想像を超えた存在だからである。

「御前様は……一体何なんだ……?」

 思わず口から漏れた景久の言葉に、景成は軽く肩を竦めた。

「さあね。僕もそれが知りたくて、大学じゃ生物学を学んでるけど、いまだに謎のままさ。御前様の血液の成分や遺伝子の構造を調べてもらったことはあるよ。昆虫の持つ塩基配列に似てはいたけど、勿論、該当する生物なんていなかった。少なくとも、現在地球で発見されている如何なる生物とも違う遺伝子を持っている。そして、その昆虫との類似性を持った細胞が、僕達の不死身の原因でもあるのさ」

 景成は大学で教授が講義をするように、兄に対して語り続ける。同時に、その仮面の下に隠されたドス黒い何かが表に現れようとしていた。仮面の亀裂をこじ開けながら。

「昆虫の細胞はね、分裂に制限がないんだ。無限に分裂出来るのさ。御前様の細胞もその特質を持ってる。体の一部にダメージを受けると、超高速で細胞分裂が始まり、あっという間に、ダメージを受けた部分が新しい物に入れ替わるんだ。御前様の血を飲んだ僕達も、内臓から彼女の細胞を取り入れて、それに近い力を有することが出来るようになるって訳さ。もっとも、まだ仮定の域を出てないけどね。

 でも、そんなことは大した問題じゃない」

 景成は御前の黒髪を優しく掴むと、掌からさらさらと零して見せた。恋人のそれを愛撫するように、愛おしげに髪を弄ぶ。御前は気にもしていないのか、眉一つ動かさない。

「さっき言った、兄さんの魂胆を見抜けた理由のもう一つはね、血筋だよ。鏑木という家の血。正確に言えば、御前様に魅入られた者の宿命だよ」

 宿命。その言葉は、御前が夢に現れたことを迷信として捨てきれないでいた景久にとって、心地良い響きを持っていた。魅入られたと言えば、確かにそうである。幼少の折りに一度だけ見た御前の姿は、網膜に焼き付けられ、脳髄に刻まれていた。いつもは忘れていても、ふとした瞬間に蘇る。最近では夢にすら見るほどだった。

「兄さん、御前様を見てどう思う? 今の話を聞いて見方が変わった? 人間と昆虫の融合生物だよ? こんな気味の悪い生き物は世界中探したっていないだろうさ」

「やめろ」

 弟の悪意ある言い方に、景久は低い声で唸った。あまりにも無礼だったからだ。御前に対しての敬意も何もない。完全に御前を侮蔑するものだ。だが、それに怒りを覚える自分に、戸惑いも抱いていた。御前が人間でないことを知った今も、御前に対して抱く感情は変わらない。それは、美しさに対する畏怖と憧憬である。

「ほらね、そうだろ。兄さんも御前様に嫌悪感なんて持たないだろ? 僕もさ。これはある意味、遺伝的な要素もあるのかもしれないな。だって、鏑木家の当主で御前様を手放そうと思った人間は一人もいなかったんだから。誰もが自分だけのモノにしたがった」

 その時、景久の頭にある一つの考えが浮かんだ。それはあまりにも醜悪で、おぞましい考えだった。それが自分の身内の話であれば、一族の話であれば尚更である。鏑木家の当主に何故長寿の者があまりいないのか。

「景成、父さんは事故で死んだって言ったよな」

「言ったよ。交通事故だった。しかも、飲酒運転だった。電信柱に激突した挙げ句、折れて倒れてきたそれに押し潰されたんだ」

 景成はせせら笑った。己の父親を、そして頭の巡りの悪い兄を。

「お前が無理矢理飲ませたんじゃないのか?」

 景久は答えを聞くのが恐ろしかった。だが、もう半ばそれは確信に近かった。だから、恐ろしさよりも、弟の愚行に対する憤怒が勝っていた。

「そうだ、と言ったら、どうするのさ? 警察にでも訴える? 出来ないよな、兄さんには。下手に警察なんて呼んだら、御前様のことが世間に知れちゃうかもしれないからな」

 それは事実上の犯行の告白だった。全く悪びれもせず、逆に景久を馬鹿にしているようにさえ見えた。いや、馬鹿にする以上の、兄に対する黒い悪意が溢れかけていた。

「正気か、お前は? 父さんを殺したのか?」

「勿論、正気さ。親を殺した? だから、どうした。鏑木家の中じゃ珍しいことじゃない。御前様に会える権利を持ってるのは、当主だけだ。当主の許可が下りた時だけ、他の人間も会うことが出来る。父さんが爺になってくたばるまで待てって? 冗談じゃない。僕は我慢出来ないし――実際、我慢なんてしなかったのさ」

「お前は狂ってるよ」

 景久は吐き捨てるように叫んだ。だが、景成は臆するどころか、眼を血走らせ、余計に熱のこもった様子で、

「だとしたら兄さんもだ。兄さんも狂ってる。いや、鏑木の当主は皆狂ってきたのさ! 実際、発狂して当主の座を追いやられた人もいた。誰だって御前様を独占したいんだ。父さんだってそうだった」

 それは聞き捨てならない言葉だった。景久の記憶にある父は、厳格だったが誠実で、優しい人でもあった。それが御前に狂っていたというのか。

「なんで母さんは家を出て行ったんだろうね?」

 いきなり母のことが出てきたので、景久は冷水を浴びせかけられたような気持ちになった。母が家を出た理由は、景久も聞かされていない。母はその秘密を墓の中まで持って行ってしまった。

「……俺もそれは知らない」

「僕には大体見当が付いてるよ。母さんはね、父さんに愛想を尽かしたのさ。そして、御前様が恐ろしかった。化け物としか考えられなかったんだろう。いや、それよりも別のことが恐かったのかもね……自分の大切なものを奪われることが」

「ありえない。どうして、母さんが御前様のことを知ってるんだ。父さんが結婚報告でもしたってのか?」

「この蔵は内側からは鍵が閉められない構造になってるんだ。だから、こっそり父さんの後をつければ、見ることは出来たのさ。父さんが御前様の前で跪き、愛撫するところをね」

「それ以上、父さんを侮辱するのは止めろ!」

「いいや、止めないね!」

 景成は哄笑を上げながら、叫んだ。今までに溜めに溜めていた物を、吐き出す快感に、兄に復讐する快感に酔いしれていた。

「父さんは馬鹿だったよ。上手くやり損ねたのさ。母さんが出ていったのも仕方ない。でも、どうして兄さんだけを連れて行ったんだろうね? 僕を置いてさ」

「それは……」

 景久には解らない。母が掴んだ手は、弟のではなく自分の手だったという事実がただあるだけである。

「兄さんだけ! 母さんは兄さんだけを連れて行った。僕は兄さんの身代わりに置いていかれたんだよ。鏑木家が由緒ある家でそこの跡継ぎがどれだけ重要な存在かは解ってたはずだ。だから、二人は連れて行かず、一人は置いていった。でも、それがなんで兄さんなんだ? どうして僕じゃなかった?」

 それは景久にも答えようのないことだった。真実は母しか知らない。追跡の手を逃れながら、子供二人を一人で育てるのは並大抵の苦労ではない。事実、自分一人を育てるだけで、母は必死だった。その分、愛してくれてはいたが。

「結局、兄さんの方が愛されてたってことさ。僕は捨てられたんだよ」

 景成はそれが兄を苦しめると知っていて、態と言っていた。景久は何も言い返すことが出来なかった。景成の勝手な妄想だと決めつけることも出来ない。

「……でも、兄さんには感謝してるんだよ。兄さんがいなくなったお陰で、僕が当主になれたんだからね。こうして御前様と何時でも好きな時に会える」

 景成は引き攣ったような笑顔を浮かべて、言った。

「だから――ありがとう、兄さん」

 景久は口を開け、何かを言おうとした。だが、何も言葉が出てこない。景成からぶつけられる憎悪の矢は、深深と景久の心に突き刺さっていた。如何なる抗弁も、景成の前では無意味である。景成がここまでの狂気に陥った原因の一端が自分にあるのは確かだからだ。

 景成が狂ったような笑い声をあげる中、景久は立つ気力もなくなったのか、その場に膝をついてしまった。まともに景成の顔を見ることが出来ない。罪悪感と自己嫌悪が胸の中で渦巻き、吐き気がした。

 しかし、その時、ひび割れた声が景成の哄笑を止めた。

「やめよ、景成」

 景成は口を真一文字に結び、御前の顔を上から見下ろした。景久も驚いた様子で、御前の白い貌を見つめた。

「そなたらがあらそう様は見とうない」

 御前の表情が変わっていた。それは眉が数ミリ顰められた程度の、極僅かな変化だった。だが、景久には、それが哀しみを意味しているように思えた。御前は恐らく似たような光景を何度も見てきたのだろう。座敷牢の中で、延延と自分を取り合う狂人達の悲喜劇を見せられ続けてきたのだ。

「のう、景成」

 唯一動く首を回して、御前は景成を見上げた。

「此処を出るのは、やはり能わぬのであろうな?」

 景久は以前にもその言葉を聞いた記憶があった。この五百年の間、御前は何回、何十回、いや何百回、何千回同じ問いを――願いを言い続けてきたのだろうか。絶対に撥ね付けられると知りながら。

 景久の脳裏に、狭いアパートの一室が浮かび上がった。西日に照らされて真っ赤に染まった部屋。その真ん中で、景久は座って本を読んでいる。時計に眼をやり、まだ母が戻る時間ではないと知ると、落胆して本を読むのをやめた。室内に吊された洗濯物の匂いに顔を顰めて、窓の外を覗く。外では自分と同じ年頃の子供が走り回って遊んでいる。外に出るのを禁じられている景久にとって、彼等はあまりにも遠い存在だった。友達は一人もいなかった。急に寂しさがこみ上げてきて、景久は泣き出す。だが、どれだけ泣いても、誰も慰めてくれない。やがて、泣き疲れ、また本を読み出す。もう日は沈み、部屋は薄暗くなっている。それでも、電気はつけない。彼にとって友達と言えるものがいたとすれば、それは「孤独」だけだった。

 景久は孤独を知り、外に出られぬ苦しみを知っている。そして、自分とは比せぬほどの長い時間、その状況に置かれている者が、今、目の前にいた。

「それは駄目ですよ、御前様。僕が傍にいますよ。ずっと、ずっとね」

 景成は御前の髪を持ち上げ、恭しく接吻をした。

 御前の硝子玉の眼が、景久を見ていた。硝子玉の中にあるのは虚無と諦観だった。だが、その中に僅かながら煌めく光りがあった。外界を渇望する光りが。景久もその眼を見つめ返した。

「いや、此処を出ましょう」

 景久は立ち上がった。その毅然とした様子には、先ほどまでの罪悪感に打ちのめされた男の姿はない。

「今度はこっちが言わせてもらうよ。正気か、兄さん?」

 露骨に顔を顰め、噛み締めた歯を軋らせながら、景成は景久に近づいた。景久は引かずに真っ向から、対峙した。

「ああ、正気だ。御前様を此処に閉じ込めておく理由はなんだ? お前の、いや鏑木の勝手な独占欲だろう。御前様を拘束していい理由にはならない」

「御前様は人間じゃないんだよ? 外に出てどうするのさ。もはや昔以上に、世界は住みにくくなっているのに」

「お前は知らない。閉じ込められる者の苦しみや寂しさ、孤独を。御前様は外に出す。力尽くでもな」

 景久の両目には強い意志の光りが宿っていた。何者にも屈さぬ覚悟がそこにあった。

「成程ね。兄さんの気持ちはよく解ったよ。じゃあ、僕も力尽くでそれを阻止する」

 景成はニコリと笑うと、その手を無造作に背中に廻し、戻した時には何かを握っていた。

 カンテラの灯りを浴びて鈍く輝くそれを、景久は覚えていた。かつて、父が御前の頬を切ったときに使った脇差である。

 景久がそれを認識した時には、すでに脇差は彼の腹の中に吸い込まれていた。

 景久は茫然とそれを眺めていたが、すぐに灼熱感にも似た激痛が脳髄を直撃した。野獣のような咆吼をあげ、景成を突き飛ばしたが、それまでに三度腹を刺されていた。

「…………おううう…………うううう!」

 体を折り曲げ、腹の傷口を押さえようとするが、赤黒い血液が見る間に畳の上に広がって行く。あまりの痛みに目の前がチカチカと発光し、舌が咽を塞いで呼吸すらままならなかった。

 そんな景久の上に、景成の冷然とした声が降ってきた。

「大丈夫だよ。普通の人間ならともかく、兄さんなら死なない。痛いだけだ」

 目の前が霞み始めた景久はなんとか顔を上げて、御前を見ようとした。景成は髪を掴んで、その頭を畳に叩きつけた。

「家には帰してあげるよ。でも、二度と此処には来ないでね」

 景成は、景久の目の前に脇差を突き立てた。

「次は本当に殺すよ」

 それは脅しでも何でもなかった。景成の殺意は本物だった。

 景久は薄れ行く意識の中で、既視感を覚えていた。七歳のあの時もそうだった。

 歪んで霞んでいく景色。

 見えるのは赤い鎧と白い貌。

 悲しげな淋しげな御前の貌。

 そして、今度は赤い――赤い血が見えた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る