第5話 御前

 唐突に帰って来たかつての鏑木家の長男を、現鏑木家の面面は概ね友好的に迎えてくれた。一番古株の女中など、景久を子供の頃のように「坊ちゃま」と呼び、泣き笑いのような顔で何度も握手をした。景久を知らない後二人の女中は、事情を上手く飲み込めていなかったが、大切な客とは認識出来ていたので、ひたすら低姿勢で丁寧に接した。

 夕食は景久を囲んでの、ささやかな歓迎会となった。地元産の米や野菜、山の物を使った郷土料理などがテーブルの上を飾った。思わぬ歓待に、景久として嬉しくないはずはなかったが、気楽に舌鼓を打てるような気分ではなかった。父が死んだことに関して、まだ詳しい話を聞いていなかったし、何より昔とは性格が変わってしまった弟に戸惑っていた。

 勧められた酒も辞退して、景成からの誘いにより、景久は弟の部屋で休んでいた。父の仏前には既に焼香も済ませている。掛ける言葉が上手く思い浮かばず、皺が増え白髪になった父の遺影に、ただ黙然と手を合わせることしか出来なかった。

 景成の部屋は、八畳程の和室で、簡易式の机とベッド、あとは大きめの本棚が二つというだけの、非常に殺風景な部屋だった。往往にして部屋というものは、そこで生活する人間の個性が表れてくるものである。だが、この部屋からは景成という人間の性格といったものが少しも浮かんでこなかった。ジャンル分けされ本が整然と並ぶ本棚を見るに、神経質な性質かもしれないというのが精精である。

 手持ちぶさたな景久は、部屋のなかをうろうろしたり、本棚の本を手にとって時間を潰した。本棚に収められた書籍は、科学、特に生物学や遺伝学に関するものが殆どである。『遺伝子の可能性を紐解く』や『図説生物学』等といったそれらは、畑違いの景久にはちんぷんかんぷんであった。

 辟易して本を元の場所に戻した景久の目が、ふと机の上のフラットファイルに止まった。まるで読んでくれとでも言うかのように置かれているそれが妙に気になる。少しの逡巡の後、多少の後ろめたさを感じながらも、開いて中の書類に目を通した。

 だが、すぐに自分には理解出来ないものだと悟り、早早に読むのを諦めてしまった。なにせ全文が英語で書かれているのである。所所に挿入されている図や写真を見れば、遺伝子に関する論文か何かであることは想像出来るものの、元元英語が苦手な景久には、とても読解出来る代物ではなかった。簡単な動詞や名詞、論文の著者らしいShirosawaという文字ぐらいは読めたが。

 勝手に人の部屋を探索するのも悪いと思い、大人しく弟を待とうと景久が畳の上に座った瞬間、見計らったかのように携帯の着信音が流れ出した。画面には明神詞郎の名前が表示されている。出てみると、何時もよりも幾分か上機嫌な彼の声が聞こえて来た。

「ういっす、景の字。こっちは良い収穫があったぜ。お前の方はどうよ?」

 声の調子から察するに、念願の資料は余程のものだったらしい。祝辞の一つでも言うべきところだが、景久は返答に窮した。父が既に故人となっていたことや、弟の変貌ぶりを簡単に説明するのは難しい。自分の心の整理すらも、まだ出来てはいないのだ。

「一応は、受け入れてもらいました。でも、ちょっと複雑なことになってます」

「……声のテンションからするとそうらしいな。泊まりはどうすんだ?」

「それに関しては大丈夫です。そっちこそ、やけにテンション高いじゃないですか。資料見れたんですか?」

「おう、見れた見れた。んでもって、そいつに書かれてた話がどうも、お前の言う御前様と関係ありそうなんだよな」

 明神の言葉に、景久は素直に驚いた。その可能性があることは、前もって明神から聞かされていたが、現実として御前に繋がりのある情報が出て来たのは喜ぶべきことだった。

「資料ってのが、この地方の羽衣伝承を取り上げた御伽草子だってのは前にも言ったよな? それの正確な内容が解った。羽衣伝説には違いないんだが、妙な箇所がある。それが御前様と関係ある臭い。まず肝心の天女なんだが、薄桃色の羽衣を纏った絶世の美女で、見たこともない朱色の楽器を弾いていた、となってる。で、それを見初めた男が、天女を嫁にもらうんだが、男はすぐに戦に行くことになっちまうんだ。そして、ここからが面白いんだが、なんとその戦に天女がついていくんだわ。楽で兵隊を鼓舞したり、実際に戦ったりしたんだと。そして、その戦のあとは行方知らずになっちまった。

 色色な羽衣伝説を調べたが、ちょっとこれに似た話は俺も知らねえ。類話が見あたらないんだよ。だが、これに似た内容のものが一つだけあるんだ」

 そこまで一気に喋ると、明神は唐突に押し黙った。

 景久は明神の話の内容を頭の中で反芻した。そう、確かにこの話は他の羽衣伝説とは相違点が多い。それでいて、ごく最近同じような話を聞いた記憶があった。景久は必死に記憶の抽斗を開けていった。

 薄桃色の羽衣纏いし、朱色の楽器の弾き手である天女。

 朱色の楽器。

 朱と楽。

 その時、景久の脳裏に今まで幾度となく聞いた、フレーズが蘇ってきた。嗄れた声で唄われた詞が。


《たたらのかわの……みぎひだり……あかのごぜんはがくじょうず……されどいまはいずこやら》


 明神が東北の大学で見つけてきたという一本のカセットテープ。そこに録音されていた、この地方で採取された童唄の歌詞。その内容と、明神が言う御伽草子の内容がピタリと符合していた。

「あのテープの歌詞に出て来る御前が、資料の御前と同一人物……?」

「可能性はでかいと思うぞ」

「で、でも、待って下さいよ!」

 得意気になっている明神とは対照的に、景久は混乱していた。

 景久は以前からあの童唄の解読を独自に試みていた。歌詞の言葉一つ一つを取り上げ、唄われている世界を再構築しようとしていた。

「たたらのかわ」というのは、この地を流れる一級河川の多々良川のことだろう。そこを挟んで、黒と白の戦があった。恐らく旗の色か鎧の色が黒と白に違いない。黒は「槍林」だが、白の「かぶらなる」とは、戦の合図に使われていた鏑矢のことであり、同時に「鏑木一族」とかけているのだろう。だとすれば、鏑木一族が白軍となる。唄によれば、最初は黒軍が川を越えて攻め込み、白軍は後退しつつ戦うしかない程の劣勢だった。ところが、そこに「赤の御前」が現れて、状況は一変する。白軍が優勢になり、ついに黒軍を追い返すことに成功した。白軍たちは笛や琴で囃し立て、躍るほどに勝利を喜んだ。しかし、その笛や琴が達者だった「赤の御前」はいつのまにか姿を消してしまい、何処にいったか行方は解らなくなってしまった。

 確かに景久の知る座敷牢の「御前」は、この唄のとおりに赤色の鎧をまとっていた。

 しかし、だとすれば御前の年齢がおかしいことになる。この唄は少なくとも、五百年は前の戦のことを唄っているのだ。

 幼少の頃、景久が父から聞いた話によれば、鏑木家はここ一帯を治める豪族だった。だが、それは五百年も前の話であり、豊臣秀吉が天下を統一した頃には、他の勢力に吸収されてしまい、武士を辞めて一帯の農民の纏め役である豪農になっていたとのことだ。

 御前が参加した戦がその時代のものだとすれば、御前もまた同じだけ齢を数えているはずである。勿論、同一人物だと仮定した上での話ではあるが。

 そして、明神が調べた羽衣伝説の御伽草子。その成立年代もほぼ同じ頃だと考えられる。

 戦のあと何処かへ姿を消した御前と天女。もし、彼女が何処にも行っていないとしたら。ずっと、ずっと同じ場所に幽閉されていたのだとすれば――

「兄さん、ちょっといいかな」

 いきなり景成の声がしたので、景久はギョッとした。姿は見えないが、障子の向こうに景成がいるらしい。障子に影は写ってないが、気配を感じる。

「久しぶりに会ったんだから、色色と話したいことがあるんだ。父さんのこととかね」

 それは景久にとって願ってもないことだった。自分がいなくなってからの十数年間、鏑木家がどのような道を歩んで来たのか。父や景成はどのような思いで生きてきたのか。そして、逆に景久も語らねばならない。母との逃亡生活と、その時に味わった孤独や寂しさ、また母がどうやって死んでいったかも。

「解った、今いくよ」

 景久はそう答えると、挨拶も適当にして明神との通話を止め、携帯を尻のポケットに入れた。立ち上がり、障子を開けると、庭を背にして縁側に景成が立っていた。ガラス戸から透けて見える満点の星空に鏡のような月が浮いている。ガラス戸は開けられており、何時でも庭に下りることが出来る。アスファルトではないので昼間の熱は残っていないはずだが、それでも風がないため、かなり蒸し暑かった。

 縁側に二人並んで座りながら語り合う、というのは変な気恥ずかしさがあったが、嫌な訳ではない。部屋から出てすぐのところに、景久は座ろうとしたが、

「なにをやってるんだよ、兄さん。ここじゃないよ。庭の方に出よう」

 景成は兄の行動に苦笑して、縁側の下に用意されていた草履を履いて先に庭に出た。自分の勘違いにバツの悪さを感じながら、景久もそれに続く。

 二人は、松や梅の枯れ木が虚空に手を伸ばしている日本庭園を散歩した。満月と星明かりのお陰で、懐中電灯がなくても転ぶ心配はない。景成も景久も、ポケットに手を突っ込んだまま、黙然と足を進めた。

 景久は自分から言うべきか悩んでいた。向こうから声をかけてきたのだから、景成が口を開くのを待つ方が良いようにも思えたからである。

 景久はなんとはなしに昔のことを思い出していた。まだこの庭がちゃんと手入れされていた頃、よく弟と飛び石の上をジャンプして渡りながら遊んだものだ。父も母も健在で、家族四人がそろっていた。人生において一番幸せな時期だったと言ってもいい。だが、今となっては、それも遠い昔の話である。あの夜を境に、家族は急速度で崩壊していった。

 あの夜――そう言えば、あの夜もこんな蒸し暑い夜だった。

 景久はその時になってようやく気づいた。このまま先に進むと、そこには蔵がある。御前をかつて見た、あの蔵が。もしや、景成も御前のことを知っているのだろうか。可能性はある。景成が正式な鏑木家の跡継ぎとなっていたのなら、例の七つの歳に行う儀式をしたはずだ。生まれて初めて御前と対面したあの時、景久は七歳――弟の景成は、一つ下だから六歳だった。

「兄さん。父さんの話、鏑木家の話。思う存分語り合おうじゃないか」

 景成は立ち止まった。景久にも見覚えのある白壁の巨大な蔵の前で。景成はポケットから、ゴツイ鍵の束を取りだして、シャラシャラと鳴らして見せた。

「この中で、思う、存分」

 月光を反射して、鍵が黄金に輝いていた。景久は茫然とそれを見つめていた。一筋の汗が、背中を流れるのを感じながら。

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