第4話 鏑木家
「じゃ、あとでまた拾いに来てやるから、連絡よろしく」
明神はそれだけ言うと、さっさと自分の目的地である土地の大学へと行ってしまった。
土煙を上げながら小さくなっていくビートルを見送ると、景久も旅行鞄を手に持ち、鬱蒼とした広葉樹が木陰をつくる小道を歩き始めた。
一歩、また一歩と足を進める度に、埋もれていた記憶が泡沫のように次次と浮かんでくる。道の脇の地蔵堂は隠れん坊の時によく使っていたし、錆びて色の禿げたポストは村の子供達との集合場所にしていた。春の季節には、古い桜木の下でよくお花見をしたのを覚えている。
全てが懐かしく、そして何か恐ろしい気がした。箱の中に封印し、思い出さないようにしていた景色が、景久の眼前に現れては消えて行く。懐かしさは寂しさをともなう。母との逃避行において、屋敷や村での思い出は、一瞬の甘みのあとに胸の痛みを引き起こす、毒の飴玉だった。今、景久はそれを思う存分、口の中で転がしている。その味は、甘く、そして痛みの代わりに、言い様の無い不安で彼の心をむず痒くさせた。
ここまでの道中で、景久は一度も見知った顔に会わなかった。幸か不幸か、時刻は午後一時半。この時期の農家にとっては昼寝の時間帯でもある。青い稲の海原には勿論、村の中にも人影は殆どなかった。もっとも、当時七歳だった少年の十四年後の姿を見て、すぐに同じ人間だと解る人間がいるとも思えなかったが。
枝葉の傘がなくなった途端、強烈な陽光が景久の目を射貫いた。思わず細められた彼の眼に、門と塀に囲まれた純和風の屋敷が飛び込んで来た。塀の漆喰は所所崩れかけており、一部破損している箇所もある。修繕されないまま随分と時間が経過しているように見えた。記憶よりも古ぼけて見えるのは、単に年数の問題だけではないらしい。
景久は門のインターホンの前に立つと、一つ大きな溜息を吐いた。容赦なく照りつける太陽が、髪を焼いているのが解る。当然、暑いはずだ。噴き出した汗が顎先から落ちる度、地面には黒い染みが生まれる。だが、体感する炎暑とは真逆に、彼の心は寒さに震えていた。口の中が乾き、粘着く唾液が気持ち悪くて堪らない。胃が握られたような苦しみを覚えて、無意識に手で腹を擦った。
インターホンを押して、名を名乗る。それだけのことが、途方もない難行に思えた。自分はパンドラの箱を開けようとしているのではないか。このまま何もせず帰った方が、自分の人生にとって平穏なのではないか。
だが、景久はグっと唾を飲み込み、震える指でインターホンを押した。脳裏を掠めた鎧武者の少女の姿が、そうさせたのだ。
「あの……ごめんくだ……さい、私は西条と申しますが」
アクセントもイントネーションも滅茶苦茶だったが、どうにか言葉を吐き出すことが出来た。
反応はなかなか返って来ない。「もしや、誰もいないのではないか?」と、景久が半ば落胆し、半ば安堵しそうになった、その時、
「西条さん……どちらの西条さんですか?」
中年の女性の声だった。景久の記憶によれば、屋敷には何人かお手伝いのような女性がいた。恐らくその一人だろう。苗字だけでは自分が誰か見当がつかないのだと気づき、景久は慌てて己の名を口にした。
「西条、西条景久です。前は鏑木景久でした。ここに……住んでいた頃は」
マイクの向こうで女性が息を呑んだのが、景久にもはっきりと解った。また返答がない。どう対応すればいいのか解らないのだろう。無理もない。十数年ぶりに、かつてこの家の跡継ぎだった子供が、何の予告もなしに現れたのだ。困惑しないはずがなかった。
暫く沈黙が続いたあと、
「鍵は開いてるよ」
いきなり若い男の声が答えた。まだ僅かに少年を感じさせる高い声だった。景久は声の主が誰か、瞬時に悟った。この家にいる人間で、若い男は一人しかいない。
景久は門の脇のドアを開けて、中に入った。
いくらか古びてはいるものの、昔と同じ外観を保った屋敷がそこに建っていた。躑躅や椿が並ぶ砂利の道があり、その先に大きめの玄関がある。日本庭園の端っこにある巨石がここからも見えた。それも以前と少しも場所を変えていない。
だが、景久には何故か屋敷全体の雰囲気が変わってしまったように感じられた。かつては自然と背筋が伸びてしまう威厳のようなものがあったが、今はそれがない。代わりに、湿った谷の底のような翳りが屋敷を取り巻いている気がした。
景久は、不安と期待の混合液により爆発寸前の心臓機関をどうにか押さえつけ、玄関に近づいていった。
あと一歩で庇に入るというところで、ガラガラと音を立てて玄関の方が勝手に開いた。
玄関の内側には、一人の青年が立っていた。肩まで届く髪、涼しげな目元が印象的な、怜悧な顔立ちをしている。スラリとした体付きなのに、妙に紺の浴衣が馴染んで見えた。
十数年ぶりの再会ではあるが、景久には一目でそれが自身の弟だという確信が持てた。いくら歳をとっても、変わらないものはある。外見や内面、そのどちらでもない、いわばそれがそれである為の存在感とでも言うべきものだ。青年の持っている存在感は、弟の友成が持っていたものと寸分違わないものだった。
「取り敢えずは、おかえり……と言えばいいのかな?」
青年――友成は、微苦笑を浮かべて、そう言った。反応に困っているには違いないが、強い拒絶や憎悪などまでは感じられない。まずは、それだけで一つ安心することが出来た。顔すら見ずに追い返されることも覚悟していたのだから。
「本当に、何を言えばいいのか解んないんだ。いきなり過ぎて……はは、でも兄さんだってのはすぐ解ったよ。声を聞いたときは半信半疑だったけど。妙なもんだね」
友成は腕を組んで、俯きながら言った。景久は彼の顔ではなく、足下に眼をやりながら、
「ああ……妙なもんだな」
蝉時雨に掻き消されてしまいそうな小さい声で、答えた。言いたいことも訊きたいことも山ほどあるのに、それ以上言葉が続かなかった。
母が他界した今、血の結びつきがあるのは友成と父しかいなかった。景久とてもう子供ではない。自分の世界と人間関係を構築し、孤独とは無縁の生活を送っている。しかし、血というものに拘って言えば、やはり孤独なのは確かなのだ。母という唯一の肉親が消え、余計に血の繋がりに対する思いは強くなっていた。普段は何ともないのに、ふと気を抜いた途端、寂しさが風となって胸の中を通り過ぎていく。しかし、それは我慢しなければならないものだった。父と弟は最早いないものとして、母は自分を育てたのだ。自分の人生が、母の犠牲の上になりたっているのは百も承知している。それでも、「もし」と思うことはあったのだ。もし、また父と弟に会うことが出来たなら、と。ただ、恐怖心も抱いた。それほどまでに求めた肉親に、拒絶されてしまったら。
だが、拒絶されなかった。それだけで、景久は満足だった。少女のことを忘れかけてしまうほどに。
「今日はうちに泊まるんだろ?」
「それが許されるなら……そうしたい」
「許されるとか、大袈裟だな。自分の家じゃないか、気にしないでよ。皆も喜ぶよ。人数は減っちゃったけど、前から居る人も残ってるから」
友成は「僕が持つよ」と鞄を掴むと、屋敷に入るように促した。景久はおずおずと十数年ぶりに生家の敷居を跨いだ。懐かしい生家の匂いを存分に嗅いでいると、あれほど過去を禁忌としていた自分が馬鹿馬鹿しく、また母が心配性過ぎだったようにすら思えてきた。自分を連れこの家から飛び出した母の動機は何だったのか。父との関係は、子供ながらに良好に思えていたのに。
そこまで考えたところで、景久はあることに気づいた。弟の友成はこの通り元気にしている。だが、父はどうなのか。まだ父のことが話題に上っていない。
「なあ、友成、父さんのことなんだが――」
「景成」
友成はボソリと呟くように言った。景久には、その「カゲナリ」というのが何を意味するのか、咄嗟に解らなかった。
「名前、変えたんだよ。兄さん達が出ていった後で。友成から景成になったんだ。今は鏑木景成が僕の名前だ」
鏑木家の人間にとって「景」という文字は重要な意味を持つ。「景」のつく名を持てるのは、鏑木家を継ぐ人間、長男だけと限られている。それは景久も父から教わり知っていた。だから、友成の名が景成に変わった理由を推測出来たが、同時に驚愕もした。
「いや、友成、それはなんというか、その、おめで――」
「景成だよ、兄さん」
景久の言葉を、友成――景成は強い語調で遮った。まるで往時の父を彷彿とさせる、威厳と迫力で。
景久は圧倒されたように、口を噤んだまま、景成の後ろについて廊下を歩いて行った。
屋敷の廊下は日が差さないため昼でも薄暗い。日常の場所でありながら、久しぶりに歩く景久には非日常的な空間に思えた。まるで、冥府へと続く道のような、そう、かつてあの階段を下りたときのような――。
「そう言えば、父さんだけどね」
ふと、景成が顔だけをこちらに向けた。僅かに目元が緩んで、笑っているようにも見える。目元だけが笑い、そこから下は能面のように冷たく白白しい。そして、世間話をするような調子で、言った。
「死んじゃったよ。三年前にね」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます