第3話 母

 

 ベッドの上の母を見て、景久が連想したのは地獄絵に出て来る餓鬼であった。腹は膨れていないものの、痩せ細った手脚や落ち窪んだ眼窩がそれを思わせる。焦点を結ばぬ虚ろな目は黄色く濁っていた。

 個室の窓の外では、膨らみかけた桜の蕾が春の到来を告げていた。まさに生が溢れんとして居る外界とは対照的に、この部屋にはあるのは死と病の匂いだけである。硝子の窓一枚で隔てられた二つの空間は、性質を別にする世界のようであった。

 景久はパイプ椅子に座りながら、骨と皮だけになった母の手を握り、飽くることなく繰り返し擦っていた。

 今の自分があるのは全て母のお陰であった。母が自身の健康も顧みず、身を粉にして働いて手に入れた金銭で、景久は貧しいながらもまともに成長することが出来たのである。景久は大学にいかずそのまま就職するつもりだったが、母がそれを許さなかった。だから、奨学金を貰いながらという形であれ、大学に進学することが出来たのだ。

 だが、その代償は大きかった。長年の過労も遠因となったのであろう。母は勤め先のスーパーで倒れ、医者の診断を受けて、初めて己の体が病魔に蝕まれていることを彼女は知った。   

 医者から通告された病名は、乳癌だった。しかも既にほぼ全身に転移しており、もはや手の施しようがないことも知らされた。その場には、つきそいの景久も同席していた。

 それからは、アッと言う間であった。張り詰めていた糸が切れたかの如く、一気に病状は悪化していき、動くことすらままならなくなった。挙げ句に、精神的な錯乱まで出始めてしまった。彼女が大部屋ではなく個室にいるのは、病状が深刻であるのとは別に、他の患者に危害が及ばないようにするための配慮でもあるのだ。

 景久は己の無力さ、母の病の兆候を見抜けなかった己の愚鈍さを呪いながら、母の傍にいることしか出来なかった。

 もはや母が、自分を息子として認識出来ていないという事実を知りながらも。

「こうして、母さんと一緒にいるのは久しぶりな気がするね」

 景久は努めて明るい口調で語りかけたが、当然の如く母は何の反応も示さなかった。ただ不明瞭な言葉をブツブツと呟いているだけである。ひび割れた唇から漏れ出るそれが、何かしらの呪詛のように感じられて、景久は背筋の寒くなる思いがした。

「母さんとずっと話したかったんだよ。ゆっくり、時間をかけて」

 そんな暇など母にはなかった。景久を連れての、鏑木家から逃げながらの生活に余裕などというものは存在しなかった。そのため、母一人子一人の生活をしてきた親子であるのに、景久には母との思い出と言える思い出がまるでない。母が仕事先から帰宅するまで、ひたすら部屋に鍵をかけて待つのが、景久の幼少の日日だった。

 全ては鏑木家から逃れるためである。だが、何故そこまであの家を母が厭っていたのか、景久は今になっても解らなかった。訊こうと思えば訊くことも出来たろうが、その話題はタヴーとされており、決して口にしないのが親子の暗黙の了解だったのである。

 しかし、そのタヴーも死の間際ならば許されるのではないかと、景久は思っていた。でなければ、自分自身に関する大きな謎を抱えたまま、今後の人生を歩まなければならなくなる。

 景久は強く母の手を握りしめると、無駄だと承知の上で切り出した。

「母さん。俺にどうか教えてくれないか? 何で家を出たのか。どうして、あんなに引っ越しばかりしなきゃいけなかったのか。一体、あの家の、鏑木の何が嫌だったんだい?」

 景久の口から「鏑木」という言葉が出た瞬間であった。

 天井を見ていた母の目が、ギョロッと景久に向けられた。蜘蛛の巣のように血管が浮き出た目で景久を凝視している。それは我が子を見る母の目でなかった。母は、息子ではない、別の誰かをそこに見ていた。

「わ……たさ……ない」

 母は病人とは思えぬ力で手を振り払い、点滴のチューブを引き摺りながら、景久の体にしがみついた。

 般若の如き形相で、驚愕から金縛りにあったようになっている景久の首筋に爪を食い込ませた。母の口から吐き出される生臭い息が、吐き気をもよおさせた。

「かげ……ゆ……きさん……かげひさは……あの……こは……」

 景幸は景久の父親の名である。母はどうやら自分の息子にかつての夫の姿を見出しているらしかった。

 母の体は痙攣していた。母に掴まれた景久の肌は破れ、血がにじみ出していた。

「あの……女に……女にああヒイァァァ!」

 耳を聾するばかりの絶叫をあげて、母はベッドから転がり落ちた。支えきれずに、景久も一緒に倒れてしまう。

 ドアが急に開いて、騒ぎを聞きつけた看護師達が部屋に入ってきた。床でのたうち回りながら泣き笑いのような声を上げている母を抱き上げ、ベッドに戻して、脈拍のチェックや名前の呼びかけ等をしている。

 景久は尻餅をついたまま、その光景を茫然と眺めているしかなかった。狂乱する、母の姿を。

 首にヒリヒリとした痛みを感じ、右手でその箇所を触ってみると、ぬるりとした血で濡れていた。

 景久は部屋の喧噪から逃れるように病室を出ると、頼りない足取りで男子用の手洗いに向かった。

 着くとすぐに水道の蛇口を捻り、流水でハンカチを濡らして、首筋の血を拭い落とした。自分の不用意さに、唇を噛み締めながら。

 そして、正面の鏡に映る自分の首を、複雑な面持ちで凝視した。

 不思議なことに、ハンカチで拭われた首筋には何の傷痕もなかった。ほんの数分前までは口を開けていた裂傷が、嘘のように消え失せている。

 この異常な体質のことは母にも言ってはいない。子供の頃のある時分から、大抵の怪我は数分と経たず治ってしまうようになっていた。風邪をひいたことすらなく、母は手がかからなくて済むと喜んでいたが、そんな生易しい現象でないことは、子供ながらに理解していた。

 景久は心の中で一つの決意をした。この体質のことも、あの夢に見る光景も、母が鏑木の家を忌避した理由も、全て実家に戻れば何かしらの答えが手に入るのではないか。ならば、行ってみるしかない。ただし、母が生きている内は駄目である。それは母への裏切り行為であり、今までの母の労苦を無にするに等しいからだ。

 だから、実行するとすれば母の死後、少なくとも四十九日が過ぎてから。それが、せめてもの母への義理立てである。

 景久は思う。自分は行かねばならない、と。西条景久という人間にまつわるものの正体を知るために。

 己の生地、鏑木の家へと。

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