第2話 帰省


《たたらのかわの……みぎひだり……みぎはくろぐろやりばやし……ひだりはしろじろかぶらなり》

 カーステレオから染み出すように老婆のか細い声が聞こえている。ノイズ交じりで聞き取りづらいものの、独特の間や節のあるそれは唄だった。この地方のごく一部にだけ伝わっているもので、出身者である景久も調査をするまでその存在を知らなかったほどである。MP3に移し替える前の音源であるカセットテープには、昭和六二年と書かれていたことを考えれば、もうこの童唄の唄い主は鬼籍に入っているに違いなかった。

《たたらのかわの……みぎひだり……くろはかわごえせめてたてりゃ……しろはひきひきしりまくり》

 景久は唄に聞き入りながらも、どんどんと後ろに流れていく、入道雲の下の田園や遠方の山山といった景色に気を取られずにはいられなかった。開発の手をまぬがれた故郷は昔のままの姿を保っていた。感慨に耽るなというのが無理な話である。

なにせ十数年ぶりの帰郷なのだ。しかも夜逃げ同然に出ていった実家なのである。まだ名字が母方の西条ではなく、鏑木であった頃の。

《たたらのかわの……みぎひだり……くろがかちどきあげたれど……しろもいやいやまけはせぬ》

 この唄の中に、自身の記憶に関する重大なヒントがあると、景久は考えている。

時折夢に現れるあの光景。父親、蔵、地下への階段、座敷牢、そして……御前と呼ばれる赤い甲冑の少女。

 景久はあれが現実のことであったのか、はたまた子供の時分に見た夢なのか、はっきりと判断出来なかった。ある部分は鮮明なのに、別の部分は曖昧であったりする。夢特有の矛盾や不条理さがあるので、やはり夢かと思うこと度度であったが、すぐに否、現実であると根拠のない自信がそれを振り払った。

 夢を見る度に、それが実際のことであったかを確かめたいという衝動に駆られた。家計の苦しいことを知りつつも、親の無理な後押しに抗しきれず大学へと進んだのは、夢の正体を探るためというのも大きな理由の一つであった。

 もっとも、一番手っ取り早い方法――実家に戻るという決心をするのに、四年もかかってしまったが。

《たたらのかわの……みぎひだり……おつぎはくろがしりまくり……しろにあかのごぜんがついた》

「……先輩、そろそろ運転変わって下さいよ。いい加減疲れましたよ」

 景久はチラリとバックミラーに目を向けると、後で寝っ転がっている男に恨みがましく言った。

 田舎道を颯爽と走る黒の旧式ビートルの後部座席では、景久の所属する民俗学研究サークル『窟』の部長であり、且つ二人しかいない部員の内の片割れである明神詞郎が、気怠げに文庫本を読んでいた。彼は景久の四年上の同学部同学科の先輩でもある。つまり、在学年数の限界である八回生だ。

「この車は俺のだろ? ガソリン代も俺が出してるだろ? 今読んでる本がいいところだろ? 俺が運転する義務があると思うか? 俺はないと思うね。俺の常識によれば、ない」

 童唄に合わせて咥えた煙草をピコピコ動かしながら、ケラケラと詞郎は器用に笑った。よほど和柄が好きなのか、上はシルク地の桜柄のアロハ、下は青海波の紋様入りのジーンズに下駄履きという徹底ぶりである。細目の景久と比べると、幾分肉が付きすぎであるがまるで気にしていない。「大人(ターレン)には相応の貫禄が必要」とは彼の弁である。

「そりゃそうですが……大体先輩もこっちで調べることがあるから車出してくれたんじゃないですか」

 赤貧とは言わないまでも、金に余裕のないことに変わりのない景久にとって、実家までの交通費がタダになるのは願ってもないことだった。しかし、景久とて聖人君子ではなく、明神の専属運転手になった憶えもない。不平も不満も垂れようというものだ。

「あ、そういうこと言っちゃう? お前の夢に関係ありそうなこの唄を、東北の大学から探してきたのも俺なのに。悲しいなあ。先輩としてお前の人間としての器の小ささに、悲しくなっちゃうなあ」

 明神は紫煙をくゆらせ、嘆かわしげに頭を振った。

「い、いや、勿論、そのことは感謝してますよ」

 これを言われてはぐうの音も出ない景久は、慌てて取り繕おうとした。本学内の学生、他サークルは言うに及ばず内外の教授陣にいたるまで、明神は不思議なほどに人脈の広い男だった。だらしないようでいて抜け目がなく、何でもない一般常識を知らぬ代わりに驚くほど専門的なことを知っていたりする。四年の間つるんでいるが、景久にもいまだに彼の正体は捉えられないでいた。まさに鵺的人物である。

「運転します、運転しますよ。先輩は、どうぞおくつろぎながら旅をお楽しみ下さい」

 もとより口で勝てるはずもなく、景久は降参して運転を続ける宣言をした。明神は満足げに頷くと、読み終わった文庫本を置き、後部座席に山積みされている他の本を新しく手に取って開いた。『羽衣伝承と山人考』と題のついたハードカバーのそれは、彼が卒業研究として手がけている羽衣伝説に関するものであった。

「ラッキーだと思わないと。俺にとってはアンラッキーだけどな。ったく、面白い資料を見つけたと思ったら、複写禁止とはね。もっとオープンにしてもらいたいもんだよ。こう、学術の発展のためにはさ」

「四年も卒論提出を延ばしまくってる人の台詞じゃないですよ、それ」

「それはそれ、これはこれ。念入りに研究をしてるだけだっての」

「モラトリアムを延長したいだけでしょうに。金持ち土地持ちの実家を継げるんだから、さっさと卒業してくださいよ」

「だから卒業するってば。こんな辺鄙な土地まで来てんのは卒論のためなんだから」

 面倒臭そうに返す明神に、景久は嘆息した。もっとも、明神の博覧強記ぶりは嫌と言うほど知っている景久である。彼が真面目に卒論に取り組んでいることも解っている。以前、まだ草稿の段階の論文を見せて貰ったが、構成やら引用文献やら、とても学生のものとは思えないレベルであった。伊達に八年も大学に在籍している訳ではないのは確かだ。

《たたらのかわの……みぎひだり……くろはやりすてゆみすてて……かわのむこうへにげたれば》

「ところで景の字、お前の用が済んでからで良いんだが、ちょっと寄り道してもいいか?」

 明神が短くなった煙草を携帯灰皿に突っ込みながら言った。景久としては、実家に行き、夢が現実であったかを確認出来さえすればいいので、特に問題はない。アルバイトは長めに休みをもらってある。

「いいですけど、何処に行くんです? ここら辺には面白いものとかありませんよ」

 民俗学的興味をそそるものなら別だが、それなら敢えて寄り道の許可など訊く必要はない。そういったものは景久も好きなので、当然了承するだろうことは明神にも解るはずである。

「ここの山の中腹に美術館があるんだが、そこにあるらしいんだよ」

「あるって何が?」

 景久が訝しげに眉を寄せると、明神はニンマリと笑い、

「見たら眠れなくなるという不気味な絵だよ。ネットで偶然見つけたんだけど、一度実物を見ておきたくてな」

 想像していた以上にくだらないことだったので、景久は脱力してしまった。返事もついいい加減な調子になってしまう。

「はいはい、行きましょう行きましょう」

「いやー、お前も見といて損はないと思うよ」

 何か含みのある口ぶりの明神であったが、景久は無視して運転に集中することにした。カーナビに示された目的地――景久の実家まではあと二〇分ほどで到着する。

《たたらのかわの……みぎひだり……しろはふえふきびわならし……かちどきあげてまいおどり》

 屋敷には父と弟がいるはずである。母は父から逃げるために、景久を連れて鏑木の家を出た。だが何故そんなことをしたのか、最後まで母は話さなかった。その秘密は、墓の下まで母が持って行ってしまったのである。

 それが解るかもしれない。そして、それはあの夢と、御前と呼ばれていた鎧武者の少女と関係があるかもしれなかった。

《たたらのかわの……みぎひだり……あかのごぜんはがくじょうず……されどいまはいずこやら》

 景久の脳裏にこびり付いて離れない、母の最後の姿。病院の薄暗い部屋、母の体液で濡れた枕カバー、消毒液の神経質な匂い、笑い声、狂い人のような、母の。

《たたらのかわの……みぎひだり……しろのやかたにゃおらぬとさ……みやこにいったとききもする》

 ふと、景久は思った。童唄を唄う老婆の声……母の声も、こんな声ではなかっただろうか、と。

《たたらのかわの……みぎひだり……あかのごぜんはいまいずこ……いまいずこ》



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