蟲の音は刻に響きて
志菩龍彦
第1話 青い血
蟲が鳴いている。
雲の切れ間から覗く月は淡く輝き、柔らかい月光が景久とその父の体を照らしていた。生い茂った野草の濃密な匂いが辺りに立ち籠めている。とうに日は沈んだというのに、暑さは少しも和らぐ気配がない。風もなく、粘性を持った空気が体に纏わりつくようだった。
紋付きの羽織袴という暑苦しい格好のせいか、景久の幼い顔は紅潮し、わずかに歪んでいた。汗で濡れた長襦袢も、背中に張り付いて気持ちが悪いらしい。七歳の誕生日をこの間迎えたばかりで、背丈は父の半分ほどしかなかった。隣に立つ父の顔は逆光のせいでよく見えない。ただ、その皮膚の厚い大きな手は固く握り締められ、じっとりと汗ばんでいた。
景久は自宅の大きな蔵の入り口に立っていた。白壁造りの相当に古い代物である。それもそのはずで、この蔵が建てられたのは五百年以上も前とのことだ。蔵の放つ威圧感は、その時間の堆積によるものとも思われた。
屋敷の隅に位置し、普段は近づくことを禁じられているこの蔵のことが、景久は嫌いだった。いつも人気がなく何とはなしに不気味であったし、よくは解らないが、屋敷や一族の暗い部分などが、そこに凝り固まり、澱みのようになっている気がするからである。中に何があるかも全く知らされていないし、訊ねることすら許されていなかった。
だから、なるべく近寄りたくなかったのだが、父の命令ならば嫌とは言えない。手を引かれ蔵の前に来てみると、あまりの威圧感に膝の震えが止まらなかった。
父は大きな南京錠に鍵を差し込み、扉を開けた。軋みを上げて厚い鉄の扉が開くと、中からゆるりと冷気が漏れ出してきた。景久は少しだけ生き返った心地がしたが、それもほんの一瞬だけであった。
「行くぞ、景久」
ランタンを片手に、父は中に入るよう促した。懐中電灯を使えば良いものを、手にしているのは古びたランタンである。理由を尋ねると、「あの光りはお嫌いなのだ」という答えが返ってきたが、景久にはとんと意味が解らなかった。一体、誰が「嫌い」なのだろうか。
ボンヤリした灯りに照らし出された蔵の中は、ガランとして何もなかった。空っぽである。ただ、床に観音開きの鉄扉があるだけだ。
父は入り口の扉を閉めるように景久に言いつけると、自分はその重い鉄扉を開けるため、取っ手を握った。そのまま、力を込めて引っ張り上げようとする。思い切り踏ん張るその顔には、玉の汗が浮かんでいた。
景久が戻ってくると、床にぽっかりと大穴が出来ていた。巨大な怪物が大口を開いたようにも思えるその暗黒の中には、石造りの階段があり、それで地下に下りることが出来るようだった。
景久は思わず後ずさりしていた。だが、父の手がガッシリと彼の手を掴み、自分の方に引き寄せた。有無を言わせぬ力強さがそこにあった。温厚な父がこれほど真剣で険しい顔をしているのを、景久は見たことがなかった。驚きと怯えが混じった表情を見せる我が子を、半ば引き摺るようにして、父は階段を降りていった。
一歩一歩階段を踏みしめながら、景久は祖母に聞いた黄泉の国の話を思い出していた。黄泉は地面の深い深い底の方にあるという。今、自分はそこに向かっているのではないかという朧な不安が、消しても消しても湧き起こってきた。それでも、恐怖心に足が竦まずに済んでいるのは、父のお陰である。カンテラの灯り以外全て暗闇のこの世界で、頼れるのは父だけだった。
三十段ほど下りたところで、平らな地面に到着した。
そこには大きな空間があるらしかった。高さ三メートル、横は六メートルほどだが、奥行きに関しては暗さのせいで見当もつかない。上の蔵の中よりもさらに温度が低く、鳥肌が立つほどに寒かった。
しかし、何より異様だったのは、巨大な鉄格子だった。構成する鉄棒の一本一本の太さが尋常ではない。これに比べれば、夏休みに行った動物園の猛獣の檻など、蟲籠同然である。その鉄格子が境界線となっており、景久達の居る側と奥の畳敷きの部屋とを結界の如く分けていた。まるで此岸と彼岸のように。
景久はこの座敷牢に何かがいる気配を感じ取った。饐えた畳の匂いとは別に、何かクラリと眩暈のしそうな甘い香りが鼻腔をくすぐっている。彼の中で好奇心と恐怖心がせめぎ合っていた。
眼を凝らして必死に気配の正体を探ろうとしている景久を置いて、父は三度鍵を開けた。
鉄格子の一部が開くようになっており、そこから父と景久は座敷牢に足を踏み入れた。
湿った畳の冷たさを足の裏で感じながら奥に進むにつれて、香気が段段と強くなっていき、さらには赤色をした何かがうっすらと見え始めた。
それは、鎧だった。血のように赤黒い武者の鎧。鈍い光沢を持つその装甲のいたる処から棘が飛び出しており、迂闊に手を出せば刺し貫かれそうな鋭さを持っている。鎧は、これもまた赤い玉座――以前、絵本で見たような――を思わせる肘掛け椅子に鎖で縛り付けられていた。腕は鉄鎖で肘掛けごとグルグル巻きにされている。鉄鎖は天井や壁、畳に打ち込まれた、これまた鉄製の杭に繋がっていた。
そして、その鎧の上に少女の首が載っていた。鼻梁が高く異人めいた貌は透き通るほど青白い。薄く開かれた両の瞳は硝子玉のようである。流れる黒髪は、鎧や鎖に絡み付いていた。
呆気に取られている景久をよそに、父はランタンを下に置くと、その少女の前に座り静かに頭を下げた。
「御前様、失礼仕ります。鏑木の跡継ぎを連れて参りました」
丁度従姉妹と同じくらいの、自分より十歳ほど年上の少女に対して、父がこのような大袈裟な態度を取ることに釈然としなかったが、慌てて父に倣って正座し、礼をした。
眠っているのか、少女は表情を少しも変えなかった。
だが、暫時の後、ふと、とろりと目が細まり、視線を二人の上に落とした。
「……アァ、なんぞ、景幸か」
やけにひび割れた声だった。とても人間の声とは思えない。まるで何か金属と金属を摺り合わせたかの様な耳障りな響きがあった。
「我が子景久が先月を持って
これほど遜った言い方をする父を見るのは初めてだった。それは景久にとってある種の衝撃だった。父にこんなことをさせる少女が無性に憎らしくなり、こっそり睨め上げようとした。
だが、景久の暗い炎は嘘のように消えてしまった。僅かな憂いを含んだ女武者の貌に、もやもやとした胸の疼きを感じたからである。何故か彼女を悪者として見ることが、彼には出来なかった。
「景久……アァ、こ奴があの赤子であったか。時の経つのは早いものよな」
少女は微笑を浮かべて、真っ直ぐに景久を見つめ返す。そこに悪意はなく、ただ純粋に景久の成長を祝福しているようにも思えた。
「目尻が汝によう似ておる。……七つになったと申したな。では、血交の儀の為に来たかよ、景幸」
「はい。御推察の通り、御血を頂きに参りました」
頭を上げると、父は腰のベルトに付けていた大きな袱紗から鏑木家の家紋のついた脇差を、もう一つの小さな袱紗からは陶製の白い杯を取りだした。続いて、片膝をついた姿勢で、黒塗りの脇差を鞘からゆっくりと抜く。口を真一文字に引き結び、カンテラの灯りを反射して妖しく輝く刃を、少女の白い頬に近づけた。
「……ときに景幸」
父がピタリと刃を肌に当てたところで、ふと少女が言った。父は手を止め、沈黙して続きを待っている。
「此処を出るのは……やはり能わぬのであろうな」
ぼそりと少女が零した言葉に、父は顔を引き攣らせた。眉をしょげさせ、噛み締めた歯の間から吐き出すように、
「……申し訳御座いません。そればかりは……」
景久はこの時、父が泣いているのではないかと疑った。そう思わせるほど、父の声は弱弱しく震えていた。
そんな彼の様子に、少女は咽の奥でクツクツと笑い、
「よい、戯れ言じゃ。まこと、虚しき問答よ……さ、はよう済ますがよい」
諦観に慣れきった貌に貼り付けられた微苦笑。父は見るに耐えないとばかりに一瞬だけ眼を伏せ、
「失礼仕ります」
スッと刃を引いた。白き美貌に一筋の線が生まれる。そこから、じわりと少女の血が染み出してきた。
青い色をした、血が。
景久は驚愕に眼を見張った。彼の知る限り、血の青い人間など存在しない。真紅の血であることが人間の証明でもあるのだ。では、この少女は何だというのだ。人間ではないのだとしたら、一体何だと。
父は杯を素早く傷口に押し当て、青い血を受けた。充分な量が溜まると、杯を両手で頂き、少女に一礼した。そして、振り返ると、目の前の出来事に硬直している景久にそれを差し出した。
「景久、これを頂くのだ。鏑木の嫡男が果たす最初の儀だ」
景久は逃げ出したかった。だが、体は言うことを聞いてくれず、気を抜けば小便を漏らしてしまいそうだった。
「さあ、景久」
父は業を煮やして、無理矢理に景久の手に杯を握らせると、口元へと持って行った。
杯の中の青い血は、草の汁のような青臭い匂いがしていた。景久の顎はガタガタと震えていた。そこに杯が入り込み、次いで中身が景久の口へ流れ込んだ。
刹那、苦味と痛みに似た感覚が口腔に広がり、あっと言う間に血は咽喉の底へと落ちて行った。
血を飲み下した景久は困惑した様子で、父を、そして少女を見た。すると、二人の顔がぐにゃりと歪みだした。
胃が焼けるように熱い。たまらず、畳に転がった。だが、熱は収まらず、逆に体中、四肢の先まで広がり始めた。
景久は灼熱感に悶え苦しみ、呻き、のたうち回った。
歪んだ景色が解像度を落とすようにぼやけていく。
最後に見えたのは鉄鎖で束縛された少女の姿。
赤い鎧と白い貌。
そして、青い――血。
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