6-4

 「何だよそれ・・・ つまんねぇよ・・・ そんな冗談」

 浩は顔を背け、窓の外を見下ろした。大地から聞かされた言葉を受け入れることを拒むかのように。夜の国分寺には忙しなく行き交う人々が溢れ、平日ながら繁華街の夜を謳歌しているようだ。そういえばプライム・ノートのメンバーで飲みに行った時も、丁度あんな感じで楽しかったことを思い出した。あの頃はつまらないことで大騒ぎしたものだ。萌衣も裕明、そして恵も。今でも彼らの笑顔が、ついこの間のことのように思い出される。

 「冗談でこんなことが言えるわけないじゃないですかっ!」

 大地がムキになって声を荒げた。すると、折角の楽しい思い出に浸っているところを邪魔された浩は、もっとムキになって子供のように叫んだ。

 「だって俺が先週、恵に会ったって言ってるじゃんっ!」

 浩は大地を睨み付けるた。すると、聞き分けの無い子供にキレたかの様に大地がテーブルを叩いた。

 「だからその後に殺されたんですよっ! 浩さんと別れた後に!」

 浩は目を逸らした。あくまでも大地の言葉を受け入れるつもりは無いようだ。大地はまだ食って掛かる様な姿勢だ。

 店内が一瞬、静まり返った。店員も、周りのテーブルで飲んでいた客たちも、二人の緊迫したやり取りにつられ口を閉ざして視線を向けた。しかし彼らが見たものは、黙って俯く男と、それを睨み付けるもう一人の男の姿で、二人は固まったように動かず、ただその姿勢を保ち続けるつもりの様に見えた。有線で流れる軽薄なポップスが、その空間を満たしていた。

 どうやら、今から取っ組み合いが始まるわけではなさそうだ。そんな見えない安堵感が音も無く店内に広がり、客たちはまたパラパラと自分たちの世界に戻り始め、間もなく全てが元通りとなっていった。もう、二人に注意を払っている者は居らず、いつもの喧騒が居酒屋に充満した。

 テーブルを打った大地の右手は、まだそこに有った。それはワナワナと震えている。そして浩の顔を睨み付けながら言った。だがそれは、自分に対してぶつけられている言葉だった。

 「教えて下さい! 俺たちはアイツに何をしてやれたんですか!? 何をしてやれば良かったんですかっ!?」

 浩は大地の顔を見ることが出来なかった。ただ俯いたまま、大地から投げ付けられる言葉を甘んじて受け止めていた。その言葉は、ザクリザクリと浩の心に突き刺さり、傷口からは止めどなく血が流れ出した。大地も、浩から答えが得られるとは思っていなかった。堪え切れず、大地の表情が歪んだ。

 「浩さん・・・ 恵の目には何が映っていたんですかねぇ・・・ アイツは何処に行こうとしていたんですかねぇ・・・」

 奥歯を噛みしめる大地の頬を涙が伝った。



 浩はフラフラと電車に乗った。車窓を流れる風景は、何だかいつもと違うようだ。そして酔っ払いの帰巣本能のように、意識せずに電車から降り立った時、浩はそこが幕張駅である事に気が付いた。何故かここに来てしまったようだ。もう何年振りだろうか? 恵と大地と一緒にママズ・コンプレインを組んでいた時以来だ。

 かつて歩いた町工場の間を抜けて、あの場所に向かう。相変わらず捨て去られた工場の雰囲気をまとい、あの頃よりも幾分朽ちた印象を与えたが、あの場所は今でもそこに有った。明かりの消えた窓が何かを飲み込もうとするかのように口を開け、静かに浩を見下ろしている。「今更、何をしに来た?」と非難している様だ。建屋を見上げる浩の後ろを、トラックや乗用車が引っ切り無しに通り過ぎて行く。車が通り過ぎる度に、ヘッドライトが浮かび上がらせる浩の影は、その工場の壁の中でなぎ倒されるように揺れた。

 ポッカリと開いた入り口から入り、薄暗い廊下を伝ってゆくと、中から何かの物音が聞こえた。スネアドラムの音だ。トントンと軽く叩きながら、ヘッドの張りを調整している。そしてベースの音も聞こえる。チューニングをしているようだ。「ドゥーン」という重低音が床を通して響き、廊下の壁を揺らしている。浩はそのドアをそっと開けた。

 眩い光が浩の瞳を射抜いた。思わず掌で影を作る。そして萎んだ瞳孔が明るさに慣れると、そこには大地が居た。恵も居た。そのミニスカートから延びる脚が眩しい。浩の姿を認めた恵が、ベースアンプの上に座ったまま言った。

 「遅いっ! 遅刻だぞ!」

 そう言って浩の顔に向けて人差し指を突き出す。大地はニヤニヤしながら、ハイハットの開き具合を調整している。

 「新しい曲、ばっちり練習して来たから、早く合わせようよ」

 恵が笑顔で言う。

 「あ、あぁ・・・ ごめん、遅くなって・・・」

 浩が肩に掛けたギターケースを降ろした瞬間、甲高い音が部屋に木霊した。

 カラン、カラン・・・

 下を見ると、アルミの皿が転がっていた。銀次にエサをあげていた、あの猫型の皿だ。それを浩が蹴飛ばし、耳障りな音が響いたのだった。だがそれを見た瞬間、浩の心臓は凍り付く。よく見れば、皿にこびり付いているキャットフードは、まだ比較的新しいものではないか。つまり、つい最近まで恵がここに来て、銀次に餌をやっていたということなのか? 浩たちが通り過ぎ、忘れ去り、思い出すことすら無かったこの場所に、恵は今までずっと一人で居たというのか?

 浩が目を上げると、そこには何も無く、薄暗くてだだっ広い部屋が横たわっていた。窓から差し込む月明りが、床に打ち込まれたアンカーの痕をぼんやりと浮かび上がらせている。世界中の静けさを凝縮したように押し黙る、青白く浮き上がる伽藍洞のような空間が有るだけだ。そこで繰り広げられたあらゆる出来事を、記憶として仕舞い込んだ無の空間が眠っている。その眠りを邪魔する者の干渉を拒絶する意思のようなものが、部屋の温度を幾分下げているのだろうか。吐く息が、少し白い様な気がした。ここで一人、恵はいったい何を思っていたのだろう。


 『一緒にいてよ・・・ これからも、ずっと一緒にいて』


 浩は俯いたまま、その場所を後にした。再び、朽ち始めた工場の玄関から表に出ると、サッと何かが足元を横切った。そちらに目をやると、黒白の猫が警戒するようにこちらを窺っている。

 「銀次か?」

 しゃがみ込んだ浩が手を出しながら、「チッチッチ」と舌を鳴らすと、猫は「シャァーーッ!」と威嚇の声を上げ、再び走り出した。そして隣の敷地との境に有る塀の上に軽々と飛び乗ると、そこから浩に一瞥をくれた。猫は向こう側へと消えて行った。


 それからどうやって家に帰り付いたのか、全く解からなかった。気付くと、目の前に我が家の玄関が有ったのだ。ポケットから鍵を出すのも億劫で、浩がインターフォンを鳴らすと、中から萌衣が「はーい」と応える。

 「遅かったわね」玄関ドアを開けながらそう言う萌衣に、浩は口ごもる様に答えた。

 「あ、あぁ・・・」

 しかし萌衣は、そんな浩の様子に気付くことも無く、ウキウキした様子で言う。

 「ねっ、チョッと来て。見せたいものが有るの」

 そう言って浩の左手を掴み、グイグイと部屋の中に引っ張って行く。そしてダイニングテーブルの横に立ち、その上に置いてあった何かを取り上げた。それは白い電子式の体温計の様な物だ。

 「見てっ!」

 萌衣が差し出すそれには小窓の様な穴が開いており、そこから覗く白い不織布状の物の上に、青い線が二本見えた。

 浩の顔を覗き込む萌衣の顔は、キラキラと輝いて見えた。なんて美しいんだろう。そして、なんて幸せそうなんだろう。浩はそう思った。そこには、何の懸念も、躊躇も、困惑も、苦悩も見当たらない。有るのは、約束された未来への期待や、希望や、歓喜や、夢想だけだ。その顔を見つめ返すと、これまで堪え続けてきたものが浩の目から溢れ出した。もうそれを止めることは出来なかった。子供のようにしゃくり上げながら萌衣の肩に顔を埋めると、彼女は優しく浩の頭を抱き締める。その手は浩の後頭部を労わるように優しく撫でていたが、それでも浩の涙は止まらない。遂に立っていることも出来なくなり、崩れ落ちた浩は萌衣の腹にすがり付いた。それを見た萌衣は言った。

 「馬鹿ねぇ。まだ妊娠初期なんだから、動いたりはしないよ」

 そう言いながらも萌衣は、浩の頭を自分の腹に押し付けるように抱えた。

 浩は「うん」と頷いた。堪えても堪えても抑えきれない嗚咽が、喉を締め付けるように溢れてきた。泣きながら、また「うん」と頷いた。

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