6-3

 恵が部屋に戻ると、隆二が下着一枚の姿でベッドの上に座っていた。その目は何処を見ているのか判らないような、焦点の存在を感じさせない虚ろなものだ。その横を無言で通り過ぎ、脱いだ上着をハンガーに掛けようとする恵の後ろから、隆二が抱きすくめる。恵は思わず言った。

 「やめてよ。まだシャワーも浴びてないんだから」

 しかしその言葉は、隆二をいたく怒らせた。

 「お高くとまってんじゃねぇよっ!」

 恵の肩を鷲掴みにすると、そのままベッドに押し倒し、乱暴に服をむしり取る。最初は抵抗を見せていた恵であったが、面倒臭くなってそれを受け入れることにした。隆二は恵の下着を剥ぎ取ると、今度は自分の下着も脱ぎ捨てて強引に中に分け入った。

 「い、痛いよ・・・ もっと優しくしてよ」

 恵の懇願にも耳を貸さず、隆二は激しく突き始めた。安っぽいベッドのスプリングがギシギシと軋む。しかし恵はその時、久し振りに会えた浩のことを思い出していた。少し歳をとった感じは否めないが、それはお互い様だろう。あの笑顔は学生時代と変わらず、優しく恵を包んでくれた。本当なら、もっともっと色んな話をしたかった。これまでに自分の身に起きた出来事を、一つ一つ浩に話したかった。そして「バカだなぁ」とか「偉かったね」などと言われたかった。彼の周りには、自分が居るべき場所は無いのかもしれないが、せめて今日だけは、浩のことを思っていたい。出来ることならば、このまま静かに眠りに就いてしまいたかったのに、恵の意に反して、ベッドの軋み音が部屋に充満していた。

 そしていきなり、破裂音の様な音が響いた。

 パァーーーン・・・

 何が起こったのか判らなかった。だた恵は、自分の左頬が焼けるように熱いことだけが判った。その頬を片手で抑え、目を見開いて隆二を見ると、ヘラヘラとした薄笑いを浮かべている。ベッドはまだギシギシ鳴っている。隆二にのしかかられながら恵が抗議した。

 「何すんだよ!?」

 薄笑いを浮かべた隆二は、今度は反対の頬を打つ。

 パァーーン!

 恵が叫ぶ。

 「何のつもりだよ! ふざけんじゃねぇ! 降りろっ! てめぇ降りろよ!」

 自分の身体に乗っている隆二を降ろそうと、恵がジタバタすると、今度は両手を使って顔を打ち始めた。顔を庇う恵の腕を押さえつけ、空いた方の手で顔を打つ。恵はそれを嫌がって顔を背けるので、隆二の手は恵の頬ではなく耳や頭を打ち付けた。

 「てめぇ、クスリやってんだろっ! ふざけんなっ!」

 恵の髪は乱れ、グシャグシャのまま顔を振って平手打ちを除ける。そんなことは気にせず、隆二は腕を振り続ける。その間も隆二の腰は慌ただしく上下運動を続け、恵の股間を攻め立てていた。

 隆二の平手打ちを避けきれないと判断した恵が、遂に反撃を繰り出した。しかし女のか弱い腕では、男の突進を止めることなど出来るはずもない。隆二の顔に爪を立てるという望みの薄い攻撃を繰り出した時、恵は隆二の目を見た。

 そこには感情の欠片も含まれない、蝋人形の様な球体が納まっているだけであった。恵の背筋に悪寒が走った。完全にイってしまっている。クスリによって、隆二の脳は統率された動きを失っている。その各部位が勝手に指令を出し、精神的にも肉体的にもバラバラの状態だ。おそらく隆二は、自分が今、セックスをしているのか暴行しているのかすら判別できてはいない違いない。遂に隆二が奇声を上げた。

 「ほーーーーーーっ!」

 そして再び、恵の頬を打ち始めた。ベッドはより一層激しく軋み、振動によってその位置が少しずつ移動するほどだった。この安アパートの薄い壁一枚隔てた隣人が、堪りかねて壁を蹴る。そして壁を通した、くぐもった声が届いた。

 「うるせーよ! 静かにやれよっ!」

 そんな声は隆二の耳には入るはずもない。ギシッギシッギシッと軋み続けるベッド。時折響く、平手打ちの音。

 「ひぃぃぃぃーーーっ・・・ はっはっぁぁぁぁーーーっ!」

 そこに、奇声と笑い声が覆い被さった。


 悔しさに耐えかねて、恵はベッドに横になったまま涙を流していた。殴られ続けた顔は無残にも腫れ上がり、人相が変わっている。重たく腫れた目と滲む涙で、ベッドから見上げる部屋の風景はぼやけて見えた。流れた鼻血は既に乾き、赤黒い線となって頬にこびり付いている。切れた唇は濡れて、今もなお赤い血を滲ませていた。

 肉体的にも精神的にも痛手を負った恵が片肘をついて体を起こすと、ソファにドッカと座ったまま動かない隆二を認めた。全裸のまま脱力し切った様子でソファに沈み込むその姿は「大」の字というよりもむしろ、「火」の字に近かい。その目には生気が無く、トロンとした視線でボンヤリと恵の方を見ている。だらしなく開いた口からは唾液が流れ、顎から糸を引いて垂れていた。隆二の前のテーブルには、見たことの無い緑色の錠剤が散乱し、その横には半分ほど残ったバーボンのボトルが有る。隆二が新たに別のクスリを、その身体に追加したことは明白であった。

 体を起こした恵を認めると、隆二はゆっくりと立ち上がった。そしてヨタヨタとベッドに近付いて、またしても焦点の合わない眼差しを恵に注いだ。恵は恐怖を感じ、腫れた顔を更に歪ませた。隆二は、そんな恵にはお構いなしに両手を振り上げる。その手には恵のジャズベースが握られていた。

 「やめてっ!」

 恵がそう叫ぶと同時に、ベースが振り下ろされた。己を庇う為に突き出された恵の腕を容易く弾き飛ばして、ベースは彼女の頭を直撃した。ゴキッという不快な音が響いた。

 「ぎゃっ・・・」

 恵の頭から血潮が噴出したが、隆二は構わずベースを振り下ろし続けた。頭、顔、胸、腹、太腿。恵のありとあらゆる箇所に、それは打ち付けられた。それに応じて、安ベッドのスプリングが、ギャン、ギャンと悲痛な叫びを上げる。

 「ガッハッハ・・・ アッハッハ・・・」

 隆二の常軌を逸した笑い声とベースが打ち下ろされる音が交錯した。血が飛び散った。骨が砕ける音も聞こえた。直ぐに恵は声すら上げなくなり、身体を庇う為に突き出されていた両腕も、今は力無くベッドに沈んでいる。

 そして遂に、ボディとの連結部付近でネックが折れた。二つに分かれてしまった部品を繋いでいるのは、今や四本の弦だけである。隆二はヘッドのペグに絡み付く弦を無理やり引き千切り、ボディの方を部屋の隅に放り投げた。そして今度は、折れたネックを下向きに握り直し、破損部分の鋭利な木の断面を恵の身体に突き刺し始めた。

 ザクリ、ザクリと不気味な音がした。それでも隆二の笑いは止まらなかい。この新たな暴行手段は隆二の性的興奮を呼び覚まし、彼の萎れていたペニスは再び勃起を取り戻した。それを見た隆二は血に染まったネックを放り投げてベッドに飛び乗る。そして、再び恵の両脚を開き、その中に挿入した。

 またしてもベッドがギシギシと軋み始めた。恵の顔だった部分への平手打ちも再開された。だが血みどろの肉塊への平手打ちは、ビチャッ、ビチャッという不快な湿った音を伴い、その度に血がはねた。その血は隆二の顔だけでなく、部屋の壁にも飛散り、白地に赤い前衛的な水玉模様を描いたていた。

 ギシッギシッギシッ・・・ 軋みは止まらなかった。

 ビチャッ、ビチャッ、ビチャッ・・・ 平手打ちも続いていた。

 「ひぃぃーっ、はぁぁーーっ! 楽しいーーーーっ!」

 隆二の奇声も終わらなかった。

 再び、隣の住人が壁を蹴る音が聞こえた。



 110番通報があったのは、夜中の1時過ぎであった。隣の住人が騒いで近所迷惑だから、何とかしてくれというのがその通報内容であった。電話をしたのは、もちろん恵たちの部屋の隣人である。壁を蹴って文句を言っても聞かないので、ある意味、腹いせで警察に連絡したわけだ。

 しかし、通報を受けた警察署が、一番近い交番の巡査を向かわせた時には既に騒ぎは収まっており、通報した隣人は申し訳なさそうに顔を出した。

 「さっきまで大騒ぎしてたんすよ。今は静かんなっちゃったけど・・・」

 「いつもそんな感じなんですか?」と聞く巡査に、隣人は答えた。

 「いや、いつもはそうでもないんすけどね。今日のは酷かったなぁ。ドッタンバッタンって感じで」

 「じゃぁ、一言だけ注意を与えておきますから。今日のところは、それでいいですかね?」

 「はい、よろしくお願いします」

 そう言って隣人は玄関のドアを閉めた。巡査はそのまま隣に行き、ドア横のインターホンを押す。夜中の静かなアパートに、そのチャイムは大き過ぎるくらいの音で響いた。その部屋の住人は、既に眠ってしまったのか、中からは何の反応も無かった。

 「これじゃ、このチャイムの方が騒音だな」

 そんなことを考えながらドアに手を掛けると、それは音も無くスッと開いた。鍵もかけずに寝ているのか? 巡査が更にドアを開けると、部屋の中には煌々と照明が点いている。

 「樋口さーん・・・」

 表札に有る名前を、遠慮がちに呼んでみる。やはり反応は無い。巡査はそっと玄関に身体を滑り込ませた。

 玄関から入ると直ぐ右側に、小さな流し台が据え付けられていて、その中には、鍋やらコップやらが洗わずにそのまま放置されている。流しの向かい側、つまり左側にはバス、トイレのユニットバスだ。照明は点いていなかったが、換気扇だけは低い唸りを上げて回っている様だ。巡査はもう一度「樋口さーん」と声を掛けながら、部屋に上がった。

 その先がワンルームのリビングとなっていて、メインルームは左側に広がっている。その手前で足を止めた巡査は、乱雑に散らかった室内の様子に足をすくめた。ネックの折れたベースが放り出してあり、それには得体の知れない赤黒い液体が付着している。突き当りのソファとテーブルの周りには、空になったウィスキーのボトルやらグラスやらが転がり、見たことも無い色の錠剤が散らばっていた。それよりも何よりも、部屋の壁一面に飛散った赤い液体。それは紛れも無く血液と思われた。ペンキを染み込ませた刷毛を振り回したかのように、それは辺り一面に飛散し、室内のあらゆる物を難解な芸術作品に仕上げていた。よくよく見れば、血液が付着した手を擦ったような跡が、壁だけでなく流し台や玄関ドアにも付着していた。

 一歩踏み出すと、ユニットバスの陰になるスペースに置かれたベッドの一角が見えた。その一部から判断してもシーツはグシャグシャで、そこにも赤い水玉模様が広がっている。更に一歩進むと、何者かの足首が見えた。色白で小さく、ペディキュアが施されたところを見ると、それは仰向けに眠る女の脚と思われた。巡査がゆっくりと進むと、ユニットバスの陰から、足首、脛、膝と、脚の部位が順番に現れた。女は何も身に着けていないようだ。ただ巡査の心には、なんら性的な感情は巻き起こらなかった。何故ならばその脚は上に行く程、赤黒く乾燥した物がこびり付き、その身を横たえるベッドは、途方もない量の血液によって満たされていることが判ったからだ。

 巡査の心拍は早鐘のように上昇していた。脚はガクガクと震えている。交番勤務で、口うるさい主婦の小言を聞くだけの生活しか知らなかった彼は、今、自分の目の前に広がる光景を受け止めるだけの度量も精神力も持ってはいなかったのだ。自分がこんなにも得体の知れない「現場」に足を踏み入れることになるなど、想像したことも無かった。出来ることならこのまま逃げ帰り、酔っ払いの相手でもしていたいと心から願っていた。しかし、彼の中に僅かばかり残っていた警察官としての使命感が、そうすることを拒んでいる。更に進むと、血液にまみれ、その損傷部から大腿骨の一部が露呈した太腿が顔を出す。もう疑う余地は無かった。巡査は震える脚に力を込めて大きく一歩を踏み出し、部屋の中に進入した。


 そのベッドには、全身をズタズタにされた全裸の女が、惨たらしくも悍ましい姿を晒して血の海に沈んでいた。想像を絶する凄惨な殺人現場を目の当たりにし、巡査はその場に尻餅をつく。彼の大きく見開いた両目が、虚ろな眼差しを投げかける女の目を捕らえた。薄く開いた巡査の口はワナワナと震え、言葉にならないうわ言が漏れた。彼は赤ん坊の様な四つん這いで玄関に向かった。被っていた帽子がハラリと落ちた。流し台とユニットバスの間を抜けて玄関に到達し、そこにあった傘立てを掴んで立ち上がろうとしたが、どうしても脚に力が入らない。無理やり立ち上がると逆にバランスを失い、大きな音を立てて傘立てと一緒に横倒しになってしまった。何故か腕に絡み付く傘立てを必死の形相で振り払い、巡査は玄関前に転がり出てきた。

 また騒ぎが始まったのかと、隣の男が顔を出した。あまりにも大きな物音に驚いた別の住人も、玄関ドアを開けて顔を見せた。そんな彼らが見たものは、その場で四つん這いになり、激しく嘔吐する警察官の姿であった。蒼白な顔で胃の内容物を全て吐き出そうとする巡査の口からは、黄色く泡立つ、酸っぱい匂いの液体しか出ては来なかった。

 自分の胃からは何も出て来ないことを悟った彼は、四つん這いの姿勢から、床に尻を付けた着座の姿勢に変り、自分が這い出して来た部屋の方を再び見る。その口の周りは胃液で濡れていたが、彼は気付かないようだ。そして震える手で左胸に取り付けられている無線機の通話口を取り、本部に連絡した。

 「お・・・ 応援要請・・・ 応援要請・・・」

 その声も震えていた。



 集結したパトカーに、夜明け前の住宅街は騒然としていた。いや、誰もが押し黙り、粛々と現場検証が進められる様子は、騒然と言うよりむしろ静寂と言うべきか。静寂が耳を打つとは、こういう状況を言うのかもしれない。そのアパートの住人だけでなく、近隣の住民もパジャマ姿で表に出て、事の成り行きを見守っている。彼らが時折交わすひそひそ声が、かえってその静寂を強固なものに変えているようであった。狭い路地の両脇には家々が立ち並び、本来であれば暗く静かな夜明け前の眠りに就いているはずの時間帯であったが、今はパトカーの屋根で回る無音の赤色灯に照らされ、踏切の遮断機の照り返しを受けているかのように赤く浮き出たり沈んだりを繰り返している。

 最初に通報したアパートの住人が警察の事情聴取に応じていた。本部に連絡した巡査は、青い顔をしてアパートの脇のブロック塀に腰かけて、茫然としている。暫くは口もきけないほどのショックを受けており、彼に対する聴取は先延ばしにされているようだ。

 住人によると、その部屋の借主は女性だと言う。おそらくベッドで惨殺された女性と同一人物と思われた。しかし数年前から男が足繁く通ってくるようになり、いつの間にか居ついてしまったようである。その男の名前も素性も判らないが、第一の重要参考人とみて間違い無いだろう。聞き取りを行っていた刑事は、周辺に非常線を張るように指示を出した。住人によると、男が車やオートバイ、自転車等を乗り回している姿は見たことが無いらしく、徒歩で逃走した可能性が高かったからだ。この時間帯では電車は動いていないし、交通機関を使うとすればタクシーしかない。刑事は「代々木上原」付近で不審な男を乗車させた車は無いか、都内各所のタクシー会社にも情報提供を求めるようにと付け加えた。


 付近を捜索していた所轄の刑事が、犯行現場のアパートにほど近い公園で不審者を発見したのは、最初の通報から4時間後のことであった。夜明け前の薄暗い公園で、街灯の心細いスポットライトに浮かび上がるようにして、俯いた姿勢でベンチに座り込んでいた。こんな時間に出歩いている奴は、普通ではない。浮浪者であればねぐらに帰って寝ている時間だ。刑事が声を掛けた。

 「ちょっと失礼。身分証明書を拝見できますか?」

 男はベンチに座ったまま、微動だにしない。刑事の声が聞こえていないのか。再び声を掛ける刑事。

 「申し訳ありません。身分証明書を・・・」

 そこまで言うと、いきなり男は立ち上がった。とっさに後ずさる刑事。同行していた警官は、脇のホルスターに手を伸ばす。それを手で制した刑事は、注意深く男を観察した。

 女もののコートを羽織っているが、襟元から覗く胸は、その下に何も身に着けていないことを教えていた。コートから延びる脚も何も履いておらず、よく見れば裸足である。一見してまともではないことが伺い知れた。

 男はゆっくりと顔を回して刑事を見据えた。その顔は赤茶色のペンキを塗りたくったようにどす黒く染まり、そこに穿かれた二つの眼が異様に白く浮き出ていたが、その眼からは、何も映ってはいないのではないかと思わせる、無気力さが滲み出ていた。だがその口元は笑っていた。

 男が唾液でベトベトになった口を開いた。

 「あい・・・と の・・・さ・・・ しょ・・・ん」

 妙な節回しの付いたうわ言だ。こいつが口にしているは、ローリングストーンズの “Satisfaction” と思われた。刑事は直ぐに納得した。こいつはジャンキーだ。クスリでぶっ飛んでいるに違いない。

 「不法薬物使用の容疑で逮捕する。大人しくしろ」

 男はポカンとした顔で刑事を見た。そして突然、大声を上げて笑い出した。

 「ガァハッハァーーッ! みんな愛してるぜーーぃ!」

 男は両手を掲げ、刑事の方に歩み寄った。公園の照明では細かなところまでは判らなかったが、おそらく凶器等は所持していないようだ。しかし刑事の背後から、警官がホルスターのボタンを外す音が聞こえた。マズい。このままではパニックに陥った警官が発砲しかねない。おそらく、このジャンキーには、相手に危害を加える意志など無いのであろうが、事は急を要する。刑事は瞬時に男の右腕を抱え込み、腰投げの要領で地面に叩きつけた。

 地面に酷く叩きつけられてもなお、男は何かを口走り続けていた。

 「愛いしてまーす! ハッハッハーー! 楽しーーーいっ!」


 殺害現場の検証は進んでいた。凶器は破損したベースギターだと思われ、部屋中に飛び散る血液の型は全て同一であった。つまり、全てがこの被害者のものと考えられた。血の海と化したベッドに横たわる女の遺体は、鑑識班があらゆる角度からの写真を撮り終えた後、ビニール製のシートを被せられるという一応の配慮を受けていたが、今もなおそこに静置されたままだ。現場検証中の年配の刑事が漏らした。

 「ひでぇな、こりゃ・・・ こんなマル害見たの、俺は初めでだぜ」

 若い方の刑事は、ハンカチで口元を抑えながら言った。

 「哲さんでも経験が無いくらい酷いんですか、これって?」

 「あぁ、酷ぇってもんじゃぁねえよ、こりゃ。これじゃぁ肉をミンチにする機械に巻き込まれた仏の方が、まだマシだぜ。この異常性は怨恨の類じゃなくて、イカレた奴の仕業だろうな」

 「あっちのテーブルに散らばってるヤク、鑑識結果が出ないと、まだ断定はできませんが、最近、渋谷近辺で出回り始めたヤツっぽいですよ」

 「そうか。やっぱジャンキーがクスリぶっ込み過ぎてイっちまって・・・ って感じなんだろうな」

 その時、アパートへの出入りを規制していた警官の無線機が鳴り、イヤホンでその報告を聞いた警官が色めき立った様子で、殺害現場である部屋に駆け込んできた。

 「重要参考人と思われる男の身柄を確保!」



報告(05)11-No.12

1240決No.18-092

報告者:高桑雅俊、中野1


容疑者:竹田隆二、23歳男性。長野県佐久市出身。

東央大学卒業後、定職には就いておらず、2年前より被害者のアパートに棲み付き、いわゆる被害者のヒモ状態。

被害者と同棲を始める以前より、常習的に、かつ依存的に違法薬物に手を出していたことが周辺の調査から判明。

身柄を拘束した刑事、及び同伴した巡査の証言からも、犯行当日の竹田は過剰な薬物摂取により心神喪失状態であったと推定される。

身柄拘束時、竹田は被害者のものと思われるコートを着用するも、その下には何も身に着けておらず、靴も履いておらず、更にその全身は同被害者のものと思われる返り血を全身に浴びていた。

本人から得られた供述は、薬物の使用に関しては認めたものの、殺害に関しては「何も覚えていない」のみ。



報告(05)02-No.32

1160決No.18-184

報告者:谷内英夫、新宿3


被害者:樋口恵、24歳女性。千葉県船橋市出身。

容疑者とは東央大学の先輩後輩の関係にあたり、その当時から何らかの接触が有ったと思われ、被害者がプロのロックバンド、レオンハートを脱退した頃から急速に接近したとの証言有り。

被害者が22歳当時に在籍していたレオンハートは今も活動を続けており、今では中堅ロックバンドとしてそれなりの知名度を誇っているが、本人は、当バンドを脱退後は目立った音楽活動をしておらず、時折、スタジオミュージシャンの様なアルバイトをして生計を立てていたもよう。

ただし、それだけの収入では十分とは言えず、その生活は転落の一途を辿っていたと思われる。

いずれにせよ、被害者が稼いだ金を竹田に貢ぎ、或いは竹田に摂取され、その金が違法薬物へと姿を変えていた構図が浮き彫りである。



報告(05)06-No.09

1230決No.18-074

報告者:菊池章、本富士1

執刀医:山家勝司、東女医


骨折は頭蓋骨をはじめ、全身49か所に及び、肋骨は半分以上の17本が折損。左眼球は外部に露呈。左鼓膜は破損。肝臓の一部は破裂。膣内には血液と共に、大量の精液が残留。

(報告者追記)精液のDNA鑑定は、現在実施中。


全身の刺傷により、あらゆる内臓器官に損傷が見られ、肺に届くものが3か所認められつつも、肺胞の中には血液が貯まっていないことを確認。よって、肺の損傷を受けた時、既に被害者の心拍は停止していものと推定できる。

(報告者所感)解剖結果より、竹田は被害者を撲殺した後、なおも執拗にその身体を性的に犯しながら、その遺体を傷付け続けたとみられる。



1230決No.18-074(追)

報告者:菊池章、本富士1

執刀医:山家勝司、東女医


被害者の体内より微量の薬物が検出されたが、それは身柄拘束後の竹田の血液から検出された薬物と一致しており、犯行時に負わされた傷から、或いは性的な接触により竹田の精液から膣を通して体内に吸収された可能性があり、被害者当人も薬物摂取を行っていたかどうかは判断できない。


被害者の膣内に残留していた精液のDNA鑑定の結果、当該精液は竹田のものと断定。



 その後の調べで明らかとなったのは、意外にも隆二が恵を深く愛していたといことであった。恵の死を知らされた隆二は泣き崩れ、その理由を刑事に問い詰めたという。勿論、その凶行は隆二自身の手によってであり、それを知らされた隆二は、気も狂わんばかりに暴れたと記録されている。

 当初、それは己の罪を軽くするための故意的な行動、つまり殺害時の心神喪失を印象付ける為の芝居の可能性も示唆されたが、その現場にて取り調べを行っていた刑事らの心象からは、隆二が本気で恵の死を悼み、己の罪悪を心から悔いているようだとされた。

 加害者と被害者が、どういう精神構造で繋がっていたのかは、今となっては知る由も無い。恵が隆二の元を去らなかった理由は当人たちにしか、ひょっとしたら恵にしか判らないのかもしれない。ただ、これまでの捜査の結果から、恵がそれほど不幸な思いをしてはいなかったのでは、との意見が支配的になりつつあった。隆二の薬物中毒さえ無ければ、二人はそれなりに幸せな関係を続けていたのかもしれないと考える警察関係者は、少なからず居たのだった。その推測が合っているのか、間違っているのか? それは結局、確かめようが無く、たとえどちらであったとしても今となっては何にも影響を与えることは無いし、誰も気に留めてはいなかった。今は、隆二が所持していた不法薬物の出所、流通経路がその捜査の主眼にとって代わっていて、つまり警察にとってこの殺人の案件は、既に終わりを告げていた。

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