5-2
遂にレオンハートの単独ライブの日がやって来た。その当日の朝、リハーサルを始める前のメンバーを集め、小宮が訓示を垂れた。営業職のサラリーマンが毎朝行うミーティングとか、きっとこんな感じなのだろう。「部長さんってば、張り切っちゃって」と恵は思って聞いていたが、それには理由が有るらしい。小宮によると、ワコー音楽事務所のお偉いさんが、このコンサートを聞きに来ると言うのだ。社運を賭けて ──と小宮はよく言っているが、本当にそうなのかは判らない── デビューさせたレオンハートの
「だからメグミ、今日だけは余計なことを絶対にしないでくれよな。今まで俺たちの間には色々有って、わだかまりの様な物が有るかもしれないが、それはこの際、奇麗サッパリ忘れて、今日のライブに集中しよう。一緒に良いものを創っていこうじゃないか」
随分と勝手な言い分を、さも説得力が有りそうな顔で話しているが、そのコアに有るのは「俺に専務の前で恥をかかせるな」ではないか。相変わらずつまらないことに血道をあげている姿に呆れた恵は、上っ面だけで「はいはい」と答えておいた。しかし、その後の小宮の振る舞いは、恵にある種の感慨を呼び起こさせた。恵が知らなかった「世界」といっても良い。小宮はそれこそ太鼓持ちのように、専務の到着を待っているのだ。テーブルの灰皿の位置が悪いと、小間使いのように自らその位置を正した。デビュー祝いで搬入された花輪やフルーツの向きがおかしいと言い出し、スタッフ総出でその向きや配置を調整した。楽屋の壁に貼り付けられている鏡が曇っていると言っては、自らが雑巾を絞ってゴシゴシと拭き始めた時には、さすがにTOSHI☆YAが「自分がやります」と言って、小宮から雑巾を取り上げた。その後も、専務が歩くであろう廊下にゴミや埃が落ちていないか入念に、いや血眼になって何度もチェックを入れる姿は、これぞサラリーマンの鏡ではないかという思いを恵に抱かせた。
そう、小宮は他でもない、サラリーマンなのだ。以前、父と小宮を重ね合わせ、その小物ぶりに言葉を失ったことが有るが、サラリーマンとしての役割を演じ切るということは、それはそれで大変なことなのかもしれないと思えた。少なくとも自分には出来そうもない。ひょっとしたら父も小宮のように、プライドも何もかも捨てた上で上司に媚びへつらい、その代償として賃金を得ていたのだろうか。もしそうなら、そうやって稼いできた金を不倫に費やしていた妻が許せないのは当然ではないか。それを許せないという心理は、心情的には理解できる。そんなことをさせるために、額を床に擦り付けてご機嫌を取っていたのではないだから。そう考えると、いまだ和解出来てはいない父との関係が、何となく微妙な感じだ。それを嬉々としてやっていたのか、それとも嫌々ながらやっていたのかで、その意味合いは大きく異なってくるような気がするが、少なくとも恵は今、父に同情しようとしている。父が背負ってきた悲哀の一端が、理解できてしまいそうだ。大学を辞めると伝えた時の父の沈黙は、ひょっとしたらもっと違う意味を含んでいたのではないだろうか? 自分は、もっと違うことを父に言わねばならなかったのではないだろうか?
機会が有ったら、もう一度父に会いに行こうと思った。お互いの生活が落ち着いたら、多分、酒でも飲みながら話せる時が来るような気がした。それがいつになるかは判らないが、少なくとも母親よりは通じ合えるものを見付けられそうな気がした。
レオンハートの実質的なデビューコンサートは、定刻通りに幕を上げた。そこまで大きなコンサート会場ではないが、アマチュアが単独で埋め尽くせる規模ではない。メンバーは自分たちがプロのミュージシャンになったことを実感し、感動もひとしおという感じだ。ただし恵だけは、このプロという言葉に違和感を感じていた。恵は自分が今、岐路に立たされていることを感じていた。自分はどうなりたいのか? 自分は何処までを受け入れて、何処からを譲れない一線として守るのか? そんなことを考えているうちにコンサートは進行してゆき、前半の〆としてTOSHI☆YAのドラムソロが始まった。他の三人は袖に引っ込んで、ドラムを乱打するTOSHI☆YAを見守ったが、その間も恵の自問自答は続いた。
『ただ闇雲に自分らがやりたい音楽をやって、どう弾いたらカッコいいロックになるか、そればっかり考えてた』
SACの加藤の言葉が蘇っていた。恵は唇を噛んだ。拳も強く握られていた。やっぱりそれしか無いんだという思いが、恵の心を満たした。小宮の様な商業的成功を追い求める姿を否定するものではないが、それによって得られる物に自分は何の価値も見いだせない。自分のベースは、そんな物の為にあるのではないのだ。そんな物を奏でたくてベースを弾いてきたのではないのだ。恵はステージ裏の方に向かって声を上げた。
「ローディーッ!」
コンサートスタッフの一人が、恵の声に反応して駆け寄った。ボーヤとかバンドボーイと呼ばれるコンサートスタッフを
「何でしょう、メグミさん?」
「ねぇ、プライヤーかニッパー持ってたら貸してくれない?」
ボーヤは「有りますよ」と言って、腰に付けたツールベルトをガチャガチャとまさぐり、取り出したプライヤーを恵に手渡した。
「何に使うんですか? 何か作業だったら俺がやっときますけど」
「えっへっへ~、内緒~」
そしてドラムソロが終わって、再び全員がステージ上に姿を現した。ここから後半戦である。タクローが観客相手に、「イェーィ!」などとお決まりのやり取りをしているが、やはりどうにも盛り上がり切らないという感じだ。ミュージシャン側も観客側も、お互いに相手の個性を掌握し切れていないため、どういった方向性で盛り上がっていいいのか判らず手探り状態だ。仕方なく、定石通りの煽りで適当に盛り上げてから、後半の一曲目が始まった。すると、演奏を開始した途端に、バンドのメンバーが「おや?」と思った。袖から見ていた小宮も、その変化を感じた。
勿論、観客の殆どはそんなことに気付きもしないが、演奏が変わっていたのだ。前半とは全く異なる世界観で、曲が進行している。何故か? その理由は、ミュージシャンではない小宮の耳にも明らかだった。恵である。恵のベースが変化したのだ。よく聞くと、恵の弾くベースの音が全く変わっている。まるで「別の楽器か?」と思わせるほどの変わりようである。しかし、どうやってそのような変化をもたらしたのか? 弾き方を変えた? フレーズが違う? エフェクトを掛けてる? いや、どれも違う。恵が何かを変えたのは明らかなのに、それが何なのかが判らない。バンドメンバーは弾きながら、小宮は舞台の袖から、注意深くベースの音を追った。そして遂に、その理由に辿り着いた。
恵のベースから、
TOSHI☆YAがドラムソロを執っている間、ローディーに借りたプライヤーでフレットを全て剥ぎ取ってしまったに違いない。恵は
「ほらほら、チンタラ歌ってんじゃないわよ! 気合い入れて弾きなさいよっ! じゃないと、このメグミ様が喰っちまうよ!」
そんな声が聞こえてきそうなベースが、他の三人のケツを痛烈に蹴飛ばした。そして三人もそれに負けじと応戦し、前半とは異なる生き生きとした演奏が始まった。ベースが押せばギターが押し返す。そこにドラムが絡んで、ボーカルも加わった。時にはドラムが押して、ギターとベースが共働して押し返す・・・ と見せかけて逃げたり。それはスタジオ版レオンハートとは全く趣を異にする、生のレオンハートであった。各メンバーが元々持っていた ──そして、今まで隠されていた── ステージ巧者としての個性が解放された、本来のレオンハートの姿だ。そこでは、ロックだとかジャズだとか、或いはブルースなどといったジャンル分けは無意味であった。そもそも、そのようなカテゴライズがナンセンスであることに気付くべきなのだ。無論、生物学における「目・科・属・種」の様な分類が、都合良く機能する場合が有ることは否定しない。しかしそれは、あくまでも分類するという目的に対してのみ有効な手段なのであって、何科だろうが何属だろうが、その生き物がそういった生物学上の名札をぶら下げて生きてはいないのと同様に、ミュージシャンはジャンルという看板を背負って演奏しているわけではないのだ。これこそがライブであった。観客も演奏に引っ張られるように、テンションを上げた。それら双方の相乗効果により、会場は割れんばかりの声援で満たされた。
唯一、小宮だけが飼い犬に手を噛まれた風情で、苦々しくステージ上を睨み付けていた。そう、小宮にとってレオンハートは、飼い犬でしかないのだ。
コンサートが終盤に差し掛かったところで、歓声が収まった瞬間を見計らい、恵がおもむろにベースを弾き始めた。他のメンバーは、初めて聴くその曲と、それを弾く恵を黙って見守った。それは、レオンハートとしてラインナップされた曲ではなく、恵が心の赴くままに紡ぎだすインプロヴィゼーションだ。静かなハーモニクスから始まったそれは、次第にうねる様に流れ始め、徐々にその姿を変えた。それはフレットレス・ベースの特性を最大限に生かした、
四人が楽屋に戻るとそこには既に小宮が居て、メンバーを待っていた。パイプ椅子に座って貧乏揺すりをするその姿は、全くもって不吉な災厄を体現化する、邪悪の使いのように見えた。その姿を見たヒロは、恵に右手を差し出した。これから起こることを、四人は知っている。おそらく、それを回避することは出来ないだろう。
「ありがとう。メグミちゃんのお陰で、自分らの進むべき道が見つかったような気がするよ。自分らが追及すべき音を教えてくれたね」
その手を握りながら恵が言った。
「そんな大層なもんじゃないよ。私こそ楽しかったよ。ありがとうね、ヒロ」
TOSHI☆YAも右手を出した。若干、その目に涙が浮かんでるように見えた。
「俺、これからもメグミちゃんの大ファンだから。ずっと大ファンだから・・・」
「あはは、ありがと。やだ、TOSHI☆YAったら、シンミリしないでよ。私まで妙な気分になっちゃうじゃない」
そしてタクローが右手を出した。それを恵が掴んだ瞬間、タクローが腕をグィと引き、そして恵の身体をハグした。恵はチョッとビックリしたが、それをそのまま受け入れた。恵の耳元でタクローが呟いた。
「メグミちゃんを守ってあげられなくて、ゴメンね」
タクローの背中に、恵も軽く腕を回して言った。
「いいんだよ。元々私には無理だったんだよ」
そして身体を引き離しながらタクローは言った。
「ありがとう。楽しかったよ」
「私の方こそ、ありがとう。タクロー」
「青春ごっこは終わったかい?」
そこに苦々しい顔の小宮が割って入った。
「自分が置かれてる立場が判ってるみたいだな、メグミ」そう言ってネチネチした顔を向けたが、その顔を見ると胸糞が悪くなるので、恵は明後日の方を見ながら言った。
「さっさと言えば? 言いたくてウズウズしてるんでしょ? 貴方にはそれを言う権利が有るってことを、今日、私は学んだんだ」
「何を言っているのか、俺には判らんね。あぁ、言うさ。俺に逆らった奴がどうなるか、お前らちゃんと見ておけよ!」
そう言って残る三人の方を指差し、その指をゆっくりと恵の方に回した。そして、スゥーっと息を吸い、人差し指で恵の顔を指しながら叫んだ。
「クビだっ! 俺の前から失せろっ! チョッとばかしテクニックが有るからって、いい気になってるんじゃないっ! この部屋から出て行けっ!」
勝ち誇る小宮を無視して、恵は三人に言った。グィと親指を立てながら。
「アンタたちさ、今日のライブは最高だったよ」
三人も親指を立てて返した。
恵が去った楽屋に、ワコー音楽事務所の衣山専務が顔を出した。
「小宮君! 良かったよ~」
ワコーの社運を賭けたプロジェクトとして、レオンハートは全社を挙げた最重要課題となっている。その重要な仕事に小宮が抜擢されたのは、いかに彼が社内で高評価されているかということを物語っているわけだ。
「はい、ありがとうございます!」小宮は破顔した。
「いや~、君たちも良かったよ」差し出された手を、メンバーは両手で受けて恐縮した。
「有難うございます」
上機嫌の衣山は続けた。
「特に、ベースの彼女ががフレットレスに持ち替えた後半。最高だったね」
「・・・・・・」
小宮の表情が固まった。バンドメンバーも、一瞬息をのんだ。
「前半はありきたりな感じで退屈だったけど、後半は息を吹き返したように
雲行きが怪しくなってきた。考えてみれば、小宮以外の業界人の意見は聞いたことが無い。彼の言うことが正解である保証など何処にも無いことに、レオンハートのメンバーが気付いた瞬間であった。
「し、しかし専務。確か役員会議では、レオンハートのターゲットを20歳前後の女性に絞るという結論になったと聞いておりますが・・・」
「あぁ、確かにあの時はそういう結論だったな。だから前半は、あえてあの音作りだったわけか。なるほど、さすが小宮君だ」
「は、はい・・・」
ワコー音楽事務所という限られた範囲内ですら、これだけ異なる意見が混在しているのだ。音楽という大きなくくりの中で、何が正解かなどと悩むことはナンセンスであり、同時に、誰かの言葉を鵜呑みにすることの危うさが露呈した。
「でも君だって音楽を知っている業界人だ。そんな銀行みたいな、コチコチな考え方で凝り固まっている所に未来など無いことには気付いていたわけだな? 特に、今回のように、貴重な才能と巡り合った時は、会議での決定事項など取るに足らん細事だということを実証して見せたわけだ。いや、実に見事だったよ、小宮君」
「恐縮です・・・」
強いて言うなら、音楽における正解は自分がやりたいことを、やりたいように演奏すること。そしてそれが楽しければ、それ以外のことは全て副次的なものである。そんなシンプルな価値観すら受け入れてもらえない現実に、精一杯反抗した恵の姿勢は、レオンハートのメンバーの心を貫いた。彼らは恵の教えに従い、これからも演奏してゆくことになるのだろう。レオンハートを
「で、ベースの彼女は何処にいるのかな? 是非とも挨拶をさせてくれ」
駅へと向かう石畳の歩道には、コンサートの余韻に浸るファンたちが、まだ立ち去り難い気持ちを持て余しながら、あちらこちらにたむろしていた。主に女性が多いが、彼女たちの心にもズシリとした何かを、恵が
「あの・・・ メグミさん・・・ ですよね?」
「あぁ、そうだよ」
ちょっとぶっきら棒でボーイッシュな恵の反応に、彼女たちは一斉に駆け寄ってきた。黄色い歓声も交じり、その現場は一時騒然となった。
「すっごい素敵でした。」
「カッコ良かったですーっ!」
「サインして下さい!」
そんな彼女らに、適当に合わせていた恵も、ついに堪りかねて本当のことを言った。言わねば、この場を落ち着かせることが出来なかったのだ。
「ありがとう、みんなありがとう。でも私、たった今、レオンハートをクビになったんだよ」
ファンたちは事態が呑み込めず、「うそ・・・」とか「なんで?」と、口々に呟いた。中には、早速、涙目になっている子もいる。一人が突っ込んで聞いた。
「どうしてですか? 今日のコンサートも凄く盛り上がったのに」
「それが良くなかったみたいよ。なんか、都合悪い人が居たらしい」
「そんなぁ・・・ 訳判んないですよ・・・」
「全くだね。私にも判らないっつうか、判りたくもないね」
そう言って視線を上げた恵は、石畳の先の欄干に腰かける人影を確認した。その人影は、遠くで突然発生した人だかりを何事かと眺めているようだ。
「ゴメンね、知り合いが待ってるみたいなんだ。私、行かなきゃ」
そう言ってファンの一群から後ずさった。
「みんな今日は有難うね。私もすっごく楽しかったよ。私が居なくなってもレオンハートのこと応援してあげてくれる? んじゃぁね」
手を振りながら恵は立ち去った。ファンたちは名残惜しそうに、その背中を見送った。その恵は、彼女たちから30メートルほど進んだ所に居る、ある男の前で立ち止まった。
恵は首だけをその男に向けて見下ろしていた。その顔には、何の表情も現れてはいなかった。男は欄干に座ったまま脚を4の字に組み、タバコを吹かしながら恵を見上げた。その顔はニヤニヤ笑っていた。恵は無言のまま正面に向き直り、その男の前を通り過ぎた。何事も無かったかのように、駅に向かって大股で歩き始めると、男は慌ててタバコを投げ捨て、それを足で踏み消してから恵の後に付いて歩き始めた。男は言葉を交わすわけでもなく、肩を並べて歩くわけでもなく、ただ恵の後ろを歩いていった。
恵は思った。「またか・・・」自分に居場所が無くなると、決まって隆二が姿を現す。プライム・ノートが解散した時もそうだった。そしてレオンハートをクビになった今日もそうだ。自分にはこの男が、お似合いだとでも言うのか? もしそれが誰かの仕業だとしたら、そいつが神様であろうと何であろうと中指を立ててやる。恵は本気でそう思っていた。
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