4-3

 恵は代々木上原に借りたアパートに帰っていた。両親には大学を中退したことを報告し、そのまま家を飛び出して来た形だ。この件に関し、父親は何も言わなかったし、母親は反応すらしなかった。「恵はもう大人だから」という言い訳を盾に、娘の人生に必要以上に干渉しない理解のある親を装って送り出して・・・・・くれたわけだ。今は自分たちの問題を解決することに忙しく、娘の事にまで首を突っ込んでいる暇は無いと正直に言えばいいのに。

 そもそも、父親は既に別居中だ。恵が高校一年の頃に勃発した両親の不仲は、つい最近まで醜い争いを繰り広げていたが、ようやくここに来て折り合いが付きそうな雰囲気になったらしく、父は恵を置いて家から出ていった。そもそもの発端は母の浮気にあると聞かされているが、事の真相は知らないし、興味も無い。母もそれを否定しない所を見ると、やはりそういうことなのだろう。父にしてみれば、恵が大学を中退することは、捻出すべき養育費の減額を意味し、それは父にとって好ましい選択だったのだろう。グローバルな一流企業の部長職にまで登った父にしてみれば、一人娘の学費を出すくらいでもないはずだが、母親似の娘の顔を見る度に、腸が煮えかえる様な思いだったのかもしれない。そんな矮小な心の持ち主が、よくぞ一流企業の部長なんぞに成れたものだと思わないでもないが、実のところ、そこまで卑屈な人間だからこそ上役の顔色を窺い、要領よく出世できるのかもしれない。当然ながら、母の浮気を赦し、受け入れるだけの寛容さがそんな男に備わっているはずも無く、前を向いた建設的な態度を期待することは出来なかった。父と母の間に有るのは醜い罵り合い、または冷淡な無視だけで、そこに娘の存在は考慮されていない。

 一方、母親は情緒不安定を絵に描いたような状態で、時として恵につらく当たったり、あるいは罵声を投げ付ける様なことも有った。しかし、その5分後には機嫌よく話しかけてきて、終いには「私を見棄てないで」などと泣き付くことも有る。そもそもそんな彼女が浮気をしたのは、家庭を顧みない父が云々かんぬんと聞かされていたが、父が稼いでくる潤沢な資金を享受しながら、それ以上に何を欲しいと言っていたのだろう? 人間の欲望は留まることなど無いのだろうか? 何処までも果てしなく求め続けるのが、本来在るべき人間の姿なのかもしれない。しかも、その浮気相手は父の同僚であったらしく、それが父の意固地な態度の決定要素となってしまった。「夫への当てつけ」と言えば、その行為によって巻き起こる全ての事象を意図的に引き起こしたかのような印象操作が可能だが、それにしては、あまりにも致命的で取り返しがつかない選択をしたものだと、恵は他人事のように思っていた。自分の母親ながら、決して賢い・・女ではないということを認めざるを得ない。結局、その浮気相手は父の画策によって会社を追われたわけだが、彼はより大きな有名企業へと再就職を果たし、むしろ父だけが惨めな敗北感を背負い込む結果になっている。そんな夫の姿を見る妻の心はただただ冷え切って、この家庭にどう終止符を打てば、最も自分の取り分が多くなるのか、そんなことに腐心する毎日を送っていた。そこに大学中退の話を持っていったところで、彼女の意識を幾分なりとも恵の方に向かせることなど、出来るはずも無かった。恵は何の感傷も感じることなく、家を後にしていた。


 自室で小宮から貰ったスコアと睨めっこしながら、恵は思った。メロディアスなフレーズが印象的な和製ロックという感じか。スローなバラードあり、ハードな曲もあり。オリジナルの楽曲としては、なかなか悪くないと思えた。譜面の右上には、『作詞・作曲:タクロー』との記載が。曲作りは彼の担当らしい。そういった意味で彼がバンドマスターという扱いなのだろう。ただしその下には『編曲:レオンハート』とあるので、全体の音作りに関しては、全員が集まってアイデアを出し合うような感じかもしれない。その証拠に、主要なテーマ部分とかリフ以外は、ベース欄には何も記載されていない。そこは恵の裁量で、ある程度自由に演奏して構わないという意思表示と思えた。恵はボーカルのメロディラインを拡張してゆき、イメージを膨らませて独自のベースラインを構築していった。それに合わせて、ギターのアレンジやドラムパターンを少し変えた方がいいと思える部分を譜面に書き込んでいった。明日のリハーサルでは、この辺をみんなと擦り合わせようと考えて時計を見ると、既に午前3時を過ぎている。こんなに音楽に集中したのは久し振りであった。恵は心地よい疲労感を感じ、ヘッドフォンを外してベースアンプのスイッチを切った。腹が減っていたが、引っ越してきたばかりで冷蔵庫の中には何も入っていない。こんな時間にコンビニまで行くのも気が引けるので、今日はこのまま寝てしまおう。明日、駅に向かう途中でお握りでも買えばいいだろう。いや、時間に余裕があるので、マクドナルドにでも寄るか。恵は目覚まし時計を9時にセットし、部屋の照明を消した。

 目をつむると、さっきまで考えていたベースラインが、ユラユラした視覚情報となって浮かんでは消えた。それはシルクでできた長い布が、風に煽られてはためく様な時もあったし、小さな雲がフワフワしながら、音符のように空中に並んだりした。時折、砂丘に風紋を残して過ぎ去る風が、砂粒を従えてその姿を現すようなイメージも浮かんだ。そんな音の連なりをながら、恵は深い眠りに落ちていった。



 スタジオで一曲目を合わせてみた。やはり恵にとっては、少し物足りない感じだ。曲としてはまとまっているが、もう一つアクセントが欲しい。そこで昨夜考えたアイデアをメンバーに伝え、ギターとドラムのパートを少し変えて貰う。譜面に落とすのは面倒だったので、口で音を出して「こんな感じで」という具合だが、それでも二人は、「オッケー」と言って、直ぐに恵の意図を理解してくれた。そしてもう一度、同じ曲を演奏してみると、さっきよりも明らかにバリエーションに富んだ豊かな曲調に仕上がった。弾きながら、他のメンバーの顔もキラキラと輝く様な反応だ。

 演奏が終わって直ぐにヒロが声を上げた。

 「恵ちゃん! いいよ、これ! 絶対こっちの方がいいよっ!」

 TOSHI☆YAも賛同した。タクローも言った。

 「聴いてて思ったけど、なんだか各メンバーが、自分のバックグラウンドをほんの少しだけ垣間見せた、みたいな印象だったよ。ミュージシャンとしての懐の深さをそれとなく・・・・・匂わせるような」

 恵の注文通りに、直ぐに演奏パターンを変えることが出来るのは、やはりこのメンバーはかなりのテクニシャン揃いだということだ。恵は少し嬉しくなった。

 「じゃぁこの曲は、この線で行こうよ。まだ少し、細かいところをパチッと合わせたいから練習を積む必要が有るけどね」

 するとその時、スタジオのドアを開けて小宮が入ってきた。「おぃーす」と、いつもの挨拶をしながら。メンバーが「おはようございます」と挨拶をすると、直ぐにタクローが小宮に言った。

 「小宮さん! 恵ちゃんが凄いアレンジを考えて来てくれたんですよ。今、一回だけ合わせてみたんですけど、絶対にこっちの方がいいと思うんですよね」

 「ほぅ、じゃぁチョッと聞かせてもらえるかな?」

 小宮は部屋の隅からパイプ椅子を引っ張ってきて、その上にドッカと座った。

 そして四人は、新しいアレンジでもう一度演奏した。その間、小宮は目をつむり、腕を組んで聴いていた。だが、演奏が終わっても小宮はその姿勢を変えることも無く、また、何も言わなかった。

 「どうでした?」

 小宮の意外な反応に、タクローは躊躇いがちに聞いた。小宮は「うーん」と唸りながら、言葉を探すような素振りだ。

 「悪くはないよ。曲に変化を持たせる発想は悪くないと思う。でも・・・」

 「でも?」タクローは心配そうだ。

 「ギターのあのフレーズは、もう少し大人しく抑えてくれないかな? ボーカルとのバランスが悪くなるから。それからベースはチョッとうるさい」

 「うるさい?」今度は恵が聞いた。

 「そっ、うるさい。もちろん、ボリュームの話じゃないよ。俺が言ってるのは、他の楽器を喰っちまってるってことさ。そこで喰われないようにするには、ヒロもTOSHI☆YAも、もっとテンションを上げて弾かなきゃならないわけだけど、そうなるとボーカルが死んでしまうからね。レオンハートのメインはあくまでもボーカルだってこと、忘れないでね」

 四人は、先ほどまでの気勢を削がれ、シュンとなっていた。

 「もちろんコンサートなら、ある程度のやんちゃ・・・・は許されるんだけど、スタジオのレコーディングでは、もう少し違った視点を持って欲しいんだよね。君たちもプロとしてやってゆくのなら、そこはキッチリと分けて欲しい」

 「は、はい。判りました」タクローが代表して答えた。

 確かに小宮の言う通りかもしれない。これまでアマチュアとして、ライブを中心に活動してきたので、スタジオでのレコーディングを念頭に置いた弾き方とか音作りは経験が無い。恵としては不満が無いではなかったが、ここは小宮のアドバイス通り、少し抑えた演奏が必要な局面なのだろう。恵はそう思って自分を納得させることにした。

 「じゃぁ、ついでだから、恵ちゃんの名前を決めちゃおうと思うんだけど・・・」

 「は? 名前? あたし恵ですけど」

 発言の意図が読み取れずポカンとする恵に、小宮が言う。

 「そう、漢字で恵じゃピンと来ないから、片仮名でメグミでいいと思うんだが・・・ どうかな?」

 小宮が辺りを見回すと、タクローが賛同した。「いいんじゃないっすかぁ」

 他のメンバーも頷いている。恵は訳が分からない。

 「ちょっと待って。何、その片仮名って?」

 「だって漢字じゃ、ぽく無いっしょ?」と、ヒロが普通に答え、それを受けて小宮も、独り言のように言った。

 「タクロー、ヒロ、TOSHI☆YAとくれば、メグミかな、やっぱり」

 「はぁ? ってか、アンタら片仮名だったんだ?」

 あきれ顔の恵に、メンバーは「それが何か?」みたいな顔を返した。小宮が説明を加える。

 「そうだよ。あっ、でもTOSHI☆YAだけはローマ字で、YAの前に☆が入るんだ。ってことで、メグミでいいよね?」

 どーでもよかった。恵は心の底から、どーでもいいと思った。

 「・・・いいです。何だって・・・」


 その後も、アルバムに収録する曲を一曲ずつ作り込んでいったが、どの曲においても恵のアイデアは却下された。もちろん小宮にである。とにかく小宮は、どこかで聞いた事が有るような音を目指しているとしか思えず、その理由が全く解せないのであった。遂に堪りかねて、恵はレコーディングの合間にメンバーに聞いてみた。もちろん小宮が居ない時にである。

 「ねぇ、みんなの正直な気持ちを聞かせてよ」

 他のメンバーは恵が何を言い出すのか判らず、ポカンとした顔を向けた。

 「小宮さんの言うことだけどさ、あれ、本気で言ってるのかな? どの曲もつまらない方向に導いてるとしか思えないんだけど」

 恵以外の三人は顔を見合わせた。彼らだって素人ではない。むしろ、それなりのテクニックを持つプレイヤーなのだから、恵の言わんとすることは、薄々感付いていた。さらに言えば、おそらく小宮はプレイヤーとしては大成せず、今のポジションに落ち着いたのであろう。つまり楽器を演奏することに関しては、既にレオンハートの面子の方が彼より長けているのだ。そういった人間の言うことに説得力を持たせるには、微塵なりとも不信感が存在してはならない。

 「うう~ん、確かにメグミちゃんの言うことは判る様な気はするな」とタクローは言った。「どう言ったらいいのかな・・・ 『冒険しない』って言うのかな・・・」

 「でしょ? どうして他のバンドと似たような音作りをしなきゃいけないんだろう? その方が安全だってこと? リスクが無いってことなのかな?」

 TOSHI☆YAが言った。

 「小宮さんなりに、俺たちを売るためのセオリーみたいなのが有るんじゃないのかな。その辺のことになると俺たちには判らないから、専門家・・・ つまり小宮さんの言う通りに弾くしかないのでは?」

 恵は呆れた様な顔をした。

 「アンタらさぁ、そんな腐った会社のサラリーマンみたいな演奏してて面白い? そんな生活がしたくてロックやってるの? アンタらの言うミュージシャンって、そんな犬みたいな存在なの?」

 恵の歯に衣着せぬ言い草に、三人は口をつむんだ。デビューするためには小宮の言いなりになる必要が有るのは事実だが、もちろん恵の言うような、自由な演奏がしたい。それが本当の気持である。しかし・・・ 小宮に飼い慣らされるうちに、いつの間にか牙を失っていた三人は、最近になって恵に触発され、再び以前の様な情熱を取り戻しつつあったのだ。

 「俺だって、メグミちゃんが言うように演奏した方がカッコイイと思うし、楽しいと思う。俺なりに皆の意見を聞きたいと思ってるアイデアだって有るし」とヒロが言った。

 「今まで、特に深く考えもせず小宮さんの言うことを鵜呑みにしてたところは有るよね、俺たち」と言うTOSHI☆YAは、更に続けた。「きっとそういうもんだろう、みたいな。そういった意味では冒険してなかったのは俺たちも同じだな」と、若干自虐的に自分たちの不甲斐なさを認めた。

 「だからさ、今度、小宮さんにチャンと話してみたらどうかな? しっかり筋道立てて話せば、意外に直ぐに判って貰えるかもしれないよ。小宮さんだって、いい音楽を作りたいって思ってるのは同じなんだから」とタクローが提案した。

 みんなはその提案を受け入れたが、果たして上手くいくだろうか、と恵は思った。小宮は自分たちの理解を超えた、全く異なる人種である、という感じがして仕方が無いのだ。



 「それじゃぁ、アシクロアシッド・クローラーとかネクモンネクスト・モンキーと同じじゃないですか? そんなんじゃ彼らを超えられませんよ」

 食い下がるタクローに小宮が言った。

 「同じでいいんだよ。超える必要なんて無いんだよ。だって俺たちはレオンハートなんだから。ナンバー1になる必要なんて無いんだよ」

 「・・・・・・」

 熱く語る小宮に、四人は呆れて言葉を失った。小宮以外の全員が同じ思いを共有していた。コイツはバカなのか?

 「そういう音楽的に高度な要素は、例えばグレサマザ・グレート・サマー・トライアングルとか渡辺龍一バンドに任せておけばいい。レオンハートには必要無いんだ。ウチのレーベルには、今、創り上げようとしている線のバンドが無いことは知ってるよね。だからこのバンドでは、先ずはその簡単な・・・ファン層を押さえることが重要なのさ。それこそがレオンハートに求められている姿であり、あるべき姿なんだよ。この小さな成功が大事なんだよ」

 見えた。小宮の底が見えた。やはりこの男は、その程度でしかなかったのだ。結局、自分のことしか考えてはいない。良いものを作ろうとか、そういった意識は皆無で、ワコー音楽事務所という組織の中で自分の存在を誇示したいだけなのだ。自分の立ち位置を、より盤石にしたいだけなのだ。更に言えば、自分が上から認められることが重要であって、ワコー音楽事務所の将来など知ったことではない。そのサラリーマン根性に付き合わされているのがレオンハート、という構図がやっと理解できた。恵たちは、この米つきバッタ・・・・・・野郎の駒でしかないということだ。

 「恵ちゃん・・・ 君がアマチュアの頃、ママズ・コンプレインやプライム・ノートで演奏していたことは、もちろん知ってるよ。業界でも有名だったし、すっげぇバンドが有るもんだなぁて思ったよ、俺だって。だから、ああいった音楽性を追及したいという欲求は良く判る。でもね、俺たちがターゲットとしているファン層が、ああいう音楽を聴きたがると思うかい? ハンバーグを食べに来た子供に蕎麦を出して喜ばれると思うかい?」

 恵にはこれ以上、小宮の詭弁に付き合うつもりは無かった。聞くだけ無駄だし、何の生産性も無い。だったら、さっさと小宮が満足するものを作って、この作業をとっとと終わらせる方が得策だろう。恵はより良い・・・・アルバムを作ることは諦めた。

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