4-2

 もう大学に行くつもりは無かった。行けば隆二と顔を合わせることになるからだ。隆二がまた馴れ馴れしく話しかけてきた時、恵には自分の怒りを抑える自信が無い。アイツのことだ、その可能性は十分に有った。ひょっとしたらバンドのメンバーに、あの夜のことを色々触れ回っているかもしれず ──実際のところ、恵には隆二とったという記憶は、全く無いのだが── そう考えると、どうしても大学に足を運ぶ気になれないのだ。このままでは中退扱いになるだろうが、それでも構わないと思っていた。恵はスマホを取り出し、名刺に記載された番号をインプットした。

 「はい。ワコー音楽事務所です」

 「あ、あの、樋口恵と申します。小宮・・・」

 そこで恵は、も一度名刺を確認した。

 「プロデューサーの小宮崇さん、いらっしゃいますでしょうか?」

 女性事務員の機械的な応対が返ってきた。

 「小宮ですね。少々お待ちください」

 保留状態になった電話から、ビートルズの "In My Life" のオルゴールサウンドが流れ始めた。恵は思わず口ずさんだ。

 「There are places I remember・・・ んんんーん、んん・・・」

 最初のワンフレーズしか歌詞を覚えていないのは、浩と一緒だ。恵はクスリと笑った。以前、プライム・ノートのライブでビートルズナンバーを無茶振りして、浩がアップアップしていたことを思い出し、なんだかホッコリとした気分になった。

 「はい、お電話代わりました。小宮です」

 いきなり現実に引き戻された恵が慌てて応える。

 「あっ、樋口です。先日、渋谷のBig Man Eggでお声を掛けて頂いた・・・」

 「おぉーーーっ、恵ちゃん! 電話待ってたよ!」

 本来であれば、小宮が言うところの「メジャーデビュー直前のバンド」の音を確認し、それからベースを引き受けるかどうかを決めるべきであったが、もう恵には、そこ以外に行くところが無かった。大学もラジカル・ボンバーも、自分が居るべき場所ではない。

 「小宮さんの言うバンドで、ベース弾かせて下さい」

 「オッケー、オッケー! そう来ると思ってたよ! 早速で悪いけど、青山のウチの事務所に来てもらえるかな?」

 「ベース、持ってゆきますか?」

 「もちろん! 直ぐにリハーサルスタジオに言って、他のメンバーに会ってもらう」



 青山とは言え、そこは閑静な住宅街といった風情だ。街は清潔で、都会の喧騒は薄曇りの空を渡って、かすかに聞こえるのみである。酔っ払いが残したゲロ跡は無く、道端に空き缶が捨てられてもいないし、過激な風俗営業を宣伝する卑猥な貼り紙も電柱には見当たらない。塀に囲まれた高級住宅街には、それこそ高級な・・・人々が住んでいるのであろう。その塀の向こうには、確かに誰かの生活が息づいているらしいのだが、それらは高い壁によって賽の目状に分断されていて、各々の生活は個別に独自の世界を築いているようだ。それらの生活同士が、有機的な連携を保っているとは到底思えず、美しい街並みとは裏腹に、乾き切った不毛の砂漠の様な印象を与えた。あるいは、煌びやかなライティングで浮かび上がる、熱帯魚ブースが並ぶ水族館の一角を、薄暗いこちら側から眺めている印象だろうか。

 小宮の勤めるワコー音楽事務所は、そんな雰囲気の街にひっそりと佇むビルの二階に有った。都だか区だかの条例でも有るのだろうか、近付に背の高い高層建築物は見当たらず、その「青山プラザビル」も三階建てである。その開け放たれた中央エントランスから入った恵は、階段を上って二階へと上がり、踊り場付近に貼り付けてある入居社名の一覧内に『ワコー音楽事務所』の文字を見つけた。

 事務所のドアの前に据え付けられた電話から受話器を取り上げ、その横に置かれている内線番号案内表から「受付」の番号を確認する。そして201をプッシュすると、先ほどの電話で応対に出た女性と同じと思われる声が聞こえた。用件を伝えると「電話を切って、暫くお待ちください」という例の機械的な声が返ってきて、10秒ほどでドアが開いた。「こちらにお越しください」と言って、女性事務員は恵を中に迎え入れた。

 その事務所は八畳程のスペースに、事務机がひしめき合うように並んでいた。そこに居たのは、先ほどの女性を除けば3人だけで、明らかに机の数に対して少な過ぎると思われたが、おそらく外回り(?)にでも出ていのであろう。それぞれの机は書類やパンフレットの山で埋もれ、今時珍しくタバコの煙が充満している。色々なミュージシャンのポスターが掲げられた壁の前にはキャビネットが並び、入りきらない書類やら丸めたポスターらしき物が、その上にうず高く積まれて見える。それら雑多な物たちが殺風景な部屋を強調しながらも、ポスター内のミュージシャンたちが、ある意味場違いなカラフルな色彩を壁から加えていた。部屋の奥には、少し小ぶりな部屋がもう一つ併設されている ──いや多分、パーテーションで区切られているだけだろう── ようで、そのドアには「会議室」の文字が見えた。会議室横の狭いスペースは少し奥まった給湯室になっていて、シンク横には洗って伏せられたコーヒーカップや湯飲みが見える。その横にはインスタントコーヒーの瓶が出しっ放しになっているようだ。

 そんな部屋の様子を見回していると、一番奥に座っていた男が片手を上げながら立ち上がった。渋谷で声を掛けてきた小宮だ。小宮はあの時とは違い、少し人懐こそうな顔で話しかけてきた。

 「恵ちゃん、いらっしゃい!」

 そう言って周りに居た男たちに、軽く恵を紹介した。

 「ほら、さっき言ってた、レオハーでやって貰うベーシスト、樋口恵ちゃん。ああ見えて腕前は確かなんだぜ。アマチュアレベルじゃないから」

 恵は軽く頭を下げた。レオハー? それがバンド名なのだろうか?

 小宮は自分の鞄と上着を持つと、恵の方に歩み寄った。そして女性事務員に向かって声を掛けた。

 「じゃぁスタジオに行ってくるから。今日はそのまま直帰ってことで」

 女性事務員はパソコンのディスプレイを見ながら顔も上げず、キーボードをカタカタいわせながら「はーぃ」と答えた。


 小宮の運転するPROBOXの助手席に座った恵は、車窓を流れる青山の風景を見ていた。この営業用ライトバンの荷室には、先ほどの事務所内に散乱していたような書類やらパンフレットの他に、アンプやらケーブル類が所狭しと詰め込まれていた。恵のベースはそれらの上に乱暴に置かれ、荷室内の乱雑さを更に強調する一要素になっていた。ステアリングを握りながら小宮が言った。

 「ウチの会社はそこそこ名が売れて来てるけど、実際はさっき見た様な小さな会社なんだよ。ビックリしたろ?」

 悪戯っぽく聞く小宮に、恵は言葉を選びながら慎重に応えた。

 「えぇ、正直言って、ちょっと意外でした。ワコー音楽事務所って、もっと大手のイメージだったから」

 「だよなー。まっ、来年には六本木に本社ビルをおっ建てる予定らしいんだけどね。そうなったら、もう少しちゃんとした会社っぽくなると思うけど」

 「人は意外に少ないんですね?」

 「まぁね。でも青山の他に新宿にも事務所が有るし、あと大阪と福岡にも有るから、全部で60人近くは居るんだよ。あっ、青山事務所はお抱えミュージシャンのマネージメントとプロモーション、それからCDとかDVDのメディア関連を担当してる。一方、新宿事務所は主にコンサート関係になるね。ウチのミュージシャンだけじゃなく、外タレの来日公演なんかもプロデュースしてる。まっ、近年CDの売り上げは右肩下がりでパッとしないし、花形は新宿の方ってことになるけどね。わっはっは」

 「ですよね? ってか、いや、あの、青山が地味だって意味じゃなくって・・・ あの、海外アーティストのコンサートとかで、よく「ワコー音楽事務所」って文字、見ますよね」

 慌てて取り繕う恵に小宮は大笑いした。

 「よし、着いた! ここがウチが良く使うスタジオ。リハだけじゃなくレコーディングも出来るんだ。恵ちゃんには暫く、ここに通ってもらうことになるかな」

 小宮は車を駐車場に停め、ドアを開けて車外に出た。恵もドアを開けて駐車場に降り立った。そこに有ったのは、やはり三階建てくらいのビルであったが、マンションっぽくもなく、かといって雑居ビルとも違う。一見すると、何のための建物か判らないような感じで、白く塗り上げられたモルタルの外壁が幾分お洒落な印象を与えた。最上階の前面はカフェテリアっぽく、屋外に並べられたテーブルと椅子、それからクリーム色と深緑のツートーンのパラソルが、手すり越しに並んで見えた。

 小宮に連れられて入ってゆくと、それはビルのワンフロアを改造したスタジオで、都内に多数展開している音楽スタジオの一店舗であることが判った。プライム・ノート時代にも何度か、同系列の別スタジオを借りたことが有るが、ここまで規模の大きなものは初めてだ。そんな恵の様子に気付いた小宮が言った。

 「ここはね、音楽だけじゃなくダンスとかにも対応する複合施設になってるんだ。スタジオも個人練習用途からビッグバンドサイズまでバリエーションが有って、ウチのミュージシャンは殆どが、ここを使ってる。いわゆる法人会員ってやつだね。だからここでリハやってると、ウチの事務所の他のバンドとかとも顔を合わせることになると思うよ」


 小宮がスタジオのドアを開ける。すると、ドラムセットの前で輪になって何かを話し込んでいた見知らぬ男たちが三人、一斉にこちらを振り返った。小宮が「おぃーす」と言いながら片手をあげて挨拶すると、三人は若干姿勢を正し、「おはようございます」と返した。力関係と言うか、上下関係はそういうことらしい。礼儀正しく挨拶してはいるが、三人の視線は小宮にではなく、その後ろに控える恵に注がれていることは明白である。小宮が三人に近付きながら恵を紹介した。

 「この前言ってた新しいベース、樋口恵ちゃんだ。よろしくお願いするよ」

 それを聞いた男たちは、恵が予期しなかった言葉を返してきた。恵は、新ベーシストが女であることで一悶着有るのではないかと予想していたのだ。例えば「女なんかと一緒に演奏できるかよ!」とか「ルックスじゃなくてテクニックが重要だ!」とか。もちろんテクニックに関しては、その辺の男どもを黙らせる自信は有ったが、性別に関してはどうしようもない。だが、恵のそんな杞憂は肩透かしを食らい、男たちは愛想良く恵を迎え入れた。どうやらロックロックした不良少年の様な連中ではなく、意外に素直で毒の無い若者たちのようだ。

 「俺、ボーカルのタクローです。よろしく」そう言ってニコリと笑いながら右手を差し出した。

 「んで、コイツがギターのヒロ」と、引き続いて紹介した。ヒロは「ども」と言って、軽く頭を下げた。どうやら、このタクローという男がリーダー格のようだ。

 「それからアイツが・・・」

 そう言ってドラムセットの奥に座る男を指差した。

 「アイツがTOSHI☆YA」

 その男はドラムスティックを握った右手を挙げて「よろしく」と挨拶した。恵は三人に向かって頭を下げた。

 「恵です。よろしくお願いします」

 そこで小宮が口を挟んだ。

 「これが新生レオンハートのメンバーってことになる。デビューまであまり時間が無いから、気合入れて仕上げてくれよな。レオハーのオリジナル曲のスコアは後で渡すから、恵ちゃん、自主練しといてね。んじゃぁ、今日は取りあえずスタンダードナンバーとかで適当にジャムって、お互いの感触を掴んでみて。俺、ここで聴かせてもらうから」


 それから恵たちは、共通認識として持っている昔の名曲を合わせた。それはレッド・ツェッペリンだったりイーグルスだったりした。そしてヴァン・ヘイレンの "Panama" を合わせている時、恵は思った。この連中、決して下手ではない。いやむしろ上手いと言っていいだろう。ボーカルの少しハスキーで、それでいて哀愁を感じさせる声質も好感が持てる。だがそこには、音楽にかける情熱の様なものが感じられなかった。情熱と言う意味では、まだ隆二の方が下手糞なりにも「熱かった」様な気がする。元々このメンツで演奏してきた仲間ではないのかもしれず、デビューに向けて急ごしらえされたバンドで、仕方なくレオンハートのメンバーを演じているといった匂いを感じた。言ってみれば優等生的・・・・な、あるいは職業的・・・な演奏だったが、それはオリジナル曲ではないからなのかもしれないと思い直し、恵はこのバンドに対する評価を一旦、棚上げにすることにした。いずれにせよ、そのうち明らかとなるのだから。急ぐことは有るまい。

 最後の曲が終わると、小宮が立ち上がって拍手をした。

 「いやぁーー、良かったよ! やっぱ恵ちゃんのベースが入ると、バンドのレベルが一段階上がるね。思った通りだよ!」

 続いて他のメンバーたちも恵を称賛した。特にTOSHI☆YAは、恵とのリズムセクションが気に入ったようだ。

 「すっごいね恵ちゃん! 俺なんかベースに引っ張られて、自分のテクが上がったみたいな気になっちゃったよ!」

 恵は照れ隠しに笑って胡麻化した。

 この人たち、悪い連中じゃなさそうだ。暫く、ここに居てみてもいいかな。恵はそんな風に思っていた。

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