第四章 : メグミ
4-1
大学の三年生になっていた恵は、隆二とパッとしない音楽活動を続けていた。相変わらず身内相手のライブをこなし、心が揺さぶられるような感動も無いまま、それはズルズルと続いていた。学際などにも出演したが、かつての恵のプレイを知る者たちには、彼女が昔ほどの情熱を傾けて演奏していないことは明白であった。プライム・ノートが解散して以降、恵のベースが演奏の表舞台に出てこないことを残念がる声も聞こえた。
そんなある日、いつもの渋谷での定期的なライブの後に、見知らぬ男が声を掛けてきた。楽屋から出てきたメンバーを捕まえ、恵に名刺を渡す。そにはこう書かれていた。
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WAKO MUSIC, INC:ワコー音楽事務所
プロデューサー
小宮 崇
東京都港区東青山4-236 青山プラザビル2F
TEL:03-****-****(代表)
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その名刺を横から奪い取った隆二が声を上げた。
「すげーっ! ワコーの方ですかっ!? おい、みんな見ろよ! ワコーの人が声かけてくれたぞっ!」
そう言って他のメンバーに名刺を見せた。
「えぇっ! マジマジ!?」
「おぉーーーっ! すげーーーっ! 本物じゃん!」
隆二が男に向き直り、興奮した様子で聞いた。
「俺たちのライブ、聴きに来てくれたんですかっ!?」
「あ、あぁ。まぁね」
小宮と名乗る男は、隆二の勢いに圧倒されながらそう言った。
「うぉーーーっ! マジかよーーーっ! で、どうでした、俺たちの演奏!?」
「えぇーと、そうだなぁ・・・ まぁ、もう少し経験を積めばもっといい音が出せるかな」
小宮は仕方なくそう言った。それは全てのバンドに対して言えることで、何ら特別なことではない。だが舞い上がっている隆二には、自分らの演奏に対するプロ視点からのアドバイスと聞こえ、有頂天になって応えた。
「そうっすよね! 俺たち、リハは結構多めにやってるんですよ。それでもまだ足りないってことですね!?」
「まぁ、そういう事になるかな・・・」
「で、今日は・・・ まさかメジャーデビューに向けたスカウトとか?」
期待に目を輝かせる隆二たちに、慌てて小宮が釘を刺した。こんな風に、己の技量も顧みず、分不相応な夢を語る奴らは何処にでも居るものだ。
「いや、そういう訳じゃないんだ。ちょっと気になったバンドには、話を聞くのも俺たちの重要な仕事でね。君たちは大学生かな?」
実際はそんな仕事など無い。メジャーデビューを狙っているバンドなど、東京だけでも星の数ほどある。そんな中で、ちょっと気になったくらいで名刺を渡していては、名刺が何枚あっても足りないではないか。業界の側から声を掛けるに値するバンドなど、そう滅多に有るものではない。つまり、小宮の狙いは他に有るのだった。
「そうっす! 東央大学っす」
「活動は渋谷がメインなのかな?」
「渋谷が多いっすけど、新宿とかでもやってます」
「そっか。じゃぁまた聴きに来るかもしれないから。その時はよろしくね」
「は、はいっ! 是非また聴きに来て下さい! 有難うございましたっ!」
隆二たちは、手を上げてその場を後にする小宮に向かって、丁寧に頭を下げた。そして、「メジャーデビュー近し」みたいなノリで、有りもしない輝ける未来を見据えた音楽談議に花を咲かせ始めた。恵は一人、「そんなバカな・・・」という思いでそれを見ていたが、その思いは小宮によって寸断された。
「ちょっと、ベースの君。いいかな?」
恵が振り向くと、小宮は彼女を少し離れたところに引っ張っていった。
「何でしょう?」
恵が不思議そうな顔で聞くと、小宮は声を潜めた。
「みんなで盛り上がってるところ悪いんだけど・・・ ウチが欲しいのは君だけなんだよね」
「えっ? バンドを評価してくれたってことじゃないんですか?」
「ううん、違うんだ。ウチのレーベルから近々メジャーデビューさせるバンドが有るんだけどね、そこのベースがどうしてもプロに転向は出来ないって言うんで、新しいベーシストを探してるのさ。できればアマチュアからのフレッシュな人材をね」
「・・・・・・」
「って言うか、君には判ってるよね? おたくのバンドが、そんな玉じゃないってことくらい」
「ま、まぁ・・・」
「俺に言わせれば、どうして君くらいのレベルのプレイヤーが、あんなつまらないバンドに居るのかって話なんだけど・・・ ま、それはいいや。だから彼らには、君の方から話しておいて貰えないかな? やんわりと」
「は、はい?」
「ゴメンね。なんか、皆を誤解させるような感じになっちゃって。君の名前、教えてもらえる?」
小宮は新しい名刺をもう一枚取り出し、それを恵に手渡した。
「樋口恵です」
「恵ちゃんね。オッケー。午後だったらその番号で繋がるから。じゃぁ電話待ってるよ」
右手の親指と小指を立て、それを耳元に持っていって電話のポーズを取りながら、小宮は後ずさった。そしてその手を開いて顔の横に掲げ、軽く手を振ってから振り返り、そのまま歩き去った。なんだかバブルの頃のテレビドラマの様な気がした。恵は他のメンバーに気付かれないように、名刺をそっとポケットに仕舞った。
ライブの打ち上げは、いつにもまして大盛り上がりであった。もちろん、小宮の出現がその引き金だ。メジャーデビューした後の初任給は幾らだの、アリーナツアーをするには、どれくらい売れなきゃならないだのと、子供が「パイロットになりたい」、「宇宙飛行士になりたい」などと夢を語る以上に可能性の薄い話で、いい大人が盛り上がっていた。いや、子供たちの場合は確かに可能性が有るのに対し、このバンドは・・・ 恵はどう切り出していいか判らず、皆の話に愛想笑いをするので精一杯だ。こんなに盛り上がっているメンバーを前に、「スカウトされたのは私だけだよ。お先に失礼」などと言えるわけが無い。そうやって言いそびれているうちに飲み過ぎて、いつしか恵もフラフラになるほど酔いが回っているのであった。
気が付くと、一緒に飲んでいたメンバーは一人減り二人減りし、いつの間にか隆二と二人きりになっていた。それでも隆二はご機嫌で、まだ有ること無いことを想像して夢を語っている。今は、コンサート機材を満載した専用トレーラーで、日本中をツアーで回る話に夢中だ。あの話を切り出すとしたら、やはり隆二だけで充分だろう。彼に話せば、他のメンバーにはどうしたって伝わるのだから。恵は辛抱強く、話を切り出すタイミングを計ったが、それはいつまで経っても訪れなかった。ただ闇雲に、酒の消費量が増えていくのだった。
意識を取り戻した恵が最初に思ったことは「頭が痛い」であった。チョッと気を許すと、目の前の風景がまたグルグルと回りだしそうだ。恵は自分の頭を押さえながら、ズキズキする痛みに堪えた。どうやら昨日は飲み過ぎたようだ。そして脳内に覆い被さっていたモヤが徐々に晴れ始めると、自分の置かれている状況が認識され始めた。自分がいるのは、見覚えの無い部屋だ。壁には
「???!!」
恵は息をのみ、そして直ぐに自責の念に襲われた。こんなことは初めてだ。こんなことは、暇な主婦が好みそうな三流テレビドラマの中でしか起こらないことだと思っていた。なのに自分が、その当事者になってしまうなんて。自分は、ここまでだらしない女だったのか? いくら酔っぱらっていたとはいえ、こんな女は最低ではないか。恵は堪えきれず、思わず「キィィィーーッ!」と声を上げそうになったが、隆二が目を覚ましてしまうと厄介なので慌てて声を飲み込んだ。隆二は昨夜のことを覚えているのだろうか? 自分と寝たことすら覚えていないくらい、泥酔していてくれたらいいのに。恵には、隆二と
ベッドからそっと抜け出した恵は、物音を立てないように服を身に着け始めた。それでも頭はガンガンと痛んだ。そして着衣が終わり、壁に立てかけてあったベースを手に取ろうとした時、いきなり隆二が後ろから抱き付いた。
「なぁ、いいだろ? もう一発さぁ」
驚いた恵がその身体を押しのけると、隆二はフラフラとベッドに倒れ込んだ。昨日のことを隆二が覚えていなければいいのに、というささやかな願いは神様には通じなかったようだ。それどころか、恵が恐れた事態になりつつあった。目を見開く恵に、隆二が言った。
「なんか朝飯作ってくれよ、恵。俺、腹減っちゃった」
恵の口が怒りと絶望でワナワナと震えた。そして我慢しきれずに叫んだ。
「アンタ、いつから私のこと呼び捨てにするようになったのさ!? 一発ぶち込めば、女が自分のものになるって勘違いしてんじゃないわよ!」
恵が怒っている理由が判らず、隆二はすねた子供のように言った。
「なんだよ、何怒ってるんだよ、恵」
「私を呼び捨てにするなって言ってんのが判んないのっ!」
私を呼び捨てていい男は・・・ そこまで考えて、恵は思った。こんなヤツとは今すぐ手を切るべきだ。すると隆二が口を尖らせた。
「どうしたんだよ。昨日はコンドーム無しで
これ以上、このバカの相手なんかしていられない。幸い、昨日の小宮が言うように、自分はこいつらとは
「私、アンタらのバンドから抜けるから。もう二度と声掛けないで」
隆二が何かを言う前に、恵は部屋を飛び出した。そして見覚えの無い街を怒りに任せてカツカツと大股で歩き、遠くに見える鉄道の高架を目指して進んだ。それがJRなのか私鉄なのか、そんなことはどうでも良かった。一刻も早く、この薄汚い街から離れたかったのだ。都会の埃っぽい乾いた風に吹かれながら歩いていると、身体が震える様な憤怒が収まり始め、今度はそれに代わって自分の軽率な行動に対する後悔の念が沸き上がった。忘れられるものならば、忘れてしまいたい。何かと引き換えに一日だけ時間を遡れるのなら、恵は何だって差し出したであろう。もう恵の足は、トボトボとしか前に進まなかった。そして自分の怒りの矛先が隆二に対してではなく、実は自分自身に向けらられていたことに気付いた時、恵は道端にしゃがみ込んで両手で顔を覆った。バカは自分じゃないか。思わず涙が流れた。
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