3-4
「マジっすかぁ、先輩!?」
隆二の放った大声が学食に響いた。周りのテーブルで食事をしたり雑談をしていた者たちが振り返る。
「やったぁ! マジっすね、先輩!?」
同じ質問を繰り返す隆二に、恵が少し笑う。
「あぁ、引き受けてあげるよ。アンタのバンド・・・ ラジカル・・・ 何だっけ?」
「ラジカル・ボンバーっす! やったぜぃ! ほぉーーーーっ!」
今、自分が座っていた椅子の上に片足を乗せ、子供みたいにはしゃいでガッツポーズを決める隆二に、恵は思わず吹き出した。プロレス技みたいなバンド名もジワジワ来る。隆二は早速スマホを取り出し、バンドメンバーに恵の加入を知らせるメッセージを送る。そして喰い付くように身体を乗り出した。弾みでテーブルが揺れて紙コップがひっくり返りそうになり、恵は慌ててそれを手で押さえた。
「じゃぁ、早速で悪いんすけど、来週の渋谷でのライブに出て貰えます? ベースが決まらなくてキャンセルしようかと思ってたんですよ」
そのまま紙コップを口元に持っていきながら、恵が応えた。
「来週? 随分と忙しいね、そりゃ」
「申し訳ないっす。でも先輩のテクなら問題無いっすよね? ウチら、そんな難しい曲やりませんし」
「あぁ、いいよ。取りあえずコード譜だけくれない? 後は適当に合わせるから」
「オッケーっす! 今から図書館でコピー採ってきますから、今日の講義が終わったら、また学食に降りて来てください。そん時に、他のメンバーにも紹介しますから!」
「ちなみに・・・」と恵が続けた。
「アンタがリーダーってことでいいんだよね?」
「隆二って呼んでください! そっす! 俺がラジボンのリーダーっす!」
あの夜以来、恵は大地の部屋に来ていなかった。それは、もう一週間になろうとしている。大地は、その現実を受け入れるしかないのであろうと考え始めていた。やはり、あんな話を恵にするべきではなったのだろうか? いや、遅かれ早かれ触れねばならない
しかしその一方で、先延ばしだろうが何だろうが、恵と共に過ごす時間を守ること以上に大切なことなど有りはしない、という思いも頭から離れなかった。男の意地とかプライドとかそんなものは、恵に比べれば取るに足らない細事ではないのか? 全てを投げ捨てて彼女の前に跪き、その差し出された手に最大限の敬愛を込めて口づけすべきではなかったのか? 恵はそれだけ大切な存在ではなかったのか? 自分は途轍もない愚かな選択をしたのかもしれない。だがそれは、既に大地の口を突いて出てしまったのだ。放たれた言葉は独り歩きを始め、もう発言者の意志とは無関係に周りの人間に影響を与え始める。何度かスマホを手に取り、メッセージを打とうと試みたが、やっぱりやめた。何を今さら言うのだ? 言い訳でも始めるつもりか? 今、ボールは恵の手の中に有るのだ。そのボールを投げ返すのか、あるいは投げ捨てるのか? それを決めるのは恵であり、今の大地に成すべきことは、もう何も無い。
そんな思いに耽っていると、躊躇いがちに玄関のドアが開いた。大地が首を伸ばして覗き込むと、そこにはソフトケースを肩に掛けた恵が立っていた。大地は恵に微笑みかけた。恵は少し恥ずかしそうに笑った。
恵が部屋に入ると、大地は「お帰り」と言った。肩からケースを降ろし、それを部屋の隅に立てかけながら恵も言った。
「ゴメン、バンドの方がちょっと忙しくて・・・」
「例のバンド、引き受けることにしたんだね?」
「うん・・・ まぁね・・・」
恵が大地が傍まで近づくと、大地は椅子から立ち上がり、そして恵の身体を抱きすくめた。大地は久し振りに恵の柔らかな身体を感じ、その甘い香りを吸った。恵はとろける様な気持ちで、その身体を大地に預けた。大地の首筋辺りに額を押し付けて目をつむると、また自分が大地の一部になった様な気がした。
そのままの姿勢で大地が聞いた。
「そのバンドのライブ、いつ有るの? 俺、聴きに行くから」
「今日。18時から渋谷。でも来なくていいよ。わざわざ聴きに来るほどの代物じゃない、クソみたいなバンドだから」と、大地の腕の中から答えた。
「また、そんなこと言う。それじゃぁ、今から出かけなきゃ」
大地が笑うと、恵も笑った。大地が少し顔を下げて唇を求めていることを感じ取った恵は顔を上げ、それに応えた。甘い口づけが続いた。
顔を放したタイミングで恵が聞いた。
「ね、一つだけ教えて?」
「何?」
「ドラムを辞めちゃったのに、何故あの時、お茶の水の楽器屋に居たの?」
大地はチョッとだけ考えた。
「恵とキスしたかったからさ」
「それで上手く言ったつもり?」
二人は再び笑った。そしてもう一度、長い口づけを交わした。
渋谷のライブハウスは、それなりの盛況を極めていた。このバンドに、それ程の固定客が居るとは思えなかったが、おそらく隆二たちの友人が、
「サンキューッ、トーキョー!」
オープニングの曲が終わった後、隆二がマイクに向かって喋り始めた。
「今夜はみんなに、俺たちラジボンの新メンバーを紹介します・・・」
これから口にするフレーズを脚色するかのように、隆二はそこで一旦、言葉を切った。いかにもロックにカブレた連中が好みそうな茶番に、恵は苦笑いした。高校生ならいざ知らず、大学生になっても
「オン ベース!」
ドラムが『ダダダンッ!』と効果音を挟んだ。
「メグミ ヒグチッ!」
「それじゃぁ2曲目聴いて下さい・・・」
ラジカル・ボンバーが演奏するのは、全て素朴なコード進行で構成される曲ばかりであった。時として、そういったシンプルなロックを演奏することは ──例えば、スリーコードのブルースとか "Johnny B. Good" などをたまに演奏するのは悪いものではないし、クラシック・ロックの名曲を演奏するのも新鮮でいい── それなりに楽しいものであることを否定はしないのだが、やはりそればかりだと飽きてくる。その手の曲に、とてつもなく傾倒していればテンションを保った演奏も可能かもしれないが、どうやら恵にはそれは無理そうだ。仕方なく恵は、曲の途中に変則的なフレーズをアドリブで挟み込み、退屈な曲を
しかし、そんな気分は長続きしなかった。演奏する楽しさを再確認すれば当然ながら、かつて在籍したバンドのことが心に浮かんだ。ママズ・コンプレインやプライム・ノートでの演奏を思い出し、言い様の無い寂しさに襲われた。ベースがこんな風に変化をすれば、浩のギターや萌衣のキーボードが必ず何かしらの反応を返し、音を使った会話がもたらされたはずである。時には曲調がガラッと変わってしまうことすら有った。ところが今のメンバーは、予め決められたリハーサル通りに演奏することしか頭になく、そういった事よりもむしろ、客を煽ったりして盛り上がる方に重きを置いている。それはそれで、音楽というエンターテイメントとしては
ライブは大成功を納め、メンバーは大はしゃぎであった。客が引けて後片付けを終わらせた後、それぞれが楽器を持ってライブハウスの裏口から出てきてもなお、高いテンションで喋り合っていた。
「やっぱ恵さん、最高っすよ! 俺の目に狂いは無かったっす!」
「マジ半端ねぇっす、恵さん! あんなライブ、俺たちは初めてでした!」
鼻息の荒いメンバーたちに、恵も調子を合わせて言った。
「ありがとね。私もそれなりに楽しかったよ」
直ぐに隆二が提案した。
「おぅ、みんな打ち上げに行くぞっ! 恵さんも来ますよね?」
それを聞いた恵が申し訳なさそうに言った。
「あぁ・・・ ゴメン、私・・・ 彼氏が待ってるんだ。また今度ってことでいいかな? 悪いね。んじゃぁね」
そう言い残して、恵は他のメンバーを置いて一階に続く外階段を先に降りて行った。その降り口の向こうには、見知らぬ男が植え込みの前のベンチに座っているのが見えた。恵はその男と一言二言、言葉を交わすと、二人連れだって通りの方に消えて行った。隆二はその親しげに歩く後ろ姿を、ジッと見つめていた。
大地はベッドの上で胡坐をかいていた。恵は脚を広げ、その膝の上に跨るようにして座っていた。二人の結合をより確かなものにするかのように、大地は恵の腰を強く抱きしめ、恵はその姿勢のまま身体を上下させていた。恵の左腕は大地の首に回され、右腕は脇の下から背中に回されている。先ほどから二人は顔を突き合わせるような姿勢で、お互いの身体を求め合っていた。大地の背中に回した恵の腕は、時折訪れる快感の昂ぶりに応じて強く抱き返したり、あるいは優しくさするように動いた。微かに軋むベッドの音と、二人の静かな、それでいて熱い吐息が部屋を満たしていた。
その時、大地のペニスが突然、力を失い、恵の中からスルリと抜け落ちた。それでも二人はお互いの息が落ち着くまで、暫くそのままの姿勢で抱き合っていた。
「どうしたの? 調子が出ないの?」
そう問いかける恵に、大地が申し訳なさそうに答えた。
「う、うん・・・ ごめん・・・」
少しうなだれる大地の膝から降りた恵は、彼の両肩に手を添えると、その身体を押してそっと横たわらせた。そしてそのまま大地の下半身に移動し、力を失ったペニスを口に含んだ。大地は枕に頭を乗せ、ボンヤリと天井を見上げた。今までに何度、二人はこんな風に愛し合っただろう? 恵の左手は大地の腹筋辺りをまさぐり、右手は睾丸を弄んだ。ゆっくりと上下する恵の頭の動きに合わせて彼のペニスは少しずつ力を取り戻していく。再び強固な勃起を獲得すると、大地は身体を起こして乱暴に恵を押し倒した。そして恵の両脚を広げ、もう一度その中に強引に分け入った。
二人は結合したまま見つめ合った。今度は大地がゆっくりと動くと、恵は一瞬だけ悲しそうな顔をし、そして切ない声を漏らした。だがそれは、大地の動きによってもたらされた、快感によるものであることを大地は知っている。更に腰を動かすと、恵の喉からは止めどない呻き声が漏れた。それでも二人は見つめ合ったままだ。大地は更に激しく腰を前後させた。大地の荒々しい息遣いと、恵の悲鳴にも似た声が続いた。しかし二人は見つめ合うことをやめなかった。お互いの目に映る、お互いの姿を見つめ合った。
その夜、二人は一晩中交わり続けた。恵は何度も昇りつめ、大地は何度も射精した。それでも二人は、お互いが自分の身体を使って相手の性器を愛撫することをやめなかった。こんなにも激しく求め合っているのに、お互いに充足し合えない焦燥は、二人が身体の半分ずつを失ってしまったかのような、ある種の孤独感をもたらしていた。半身同士の二人が重なれば一つの完全体が完成するはずなのに、二人の身体は決して補完し合えないのだった。ただ闇雲に求め合う姿はまるで、見えないものを手元に手繰り寄せ、曖昧な形を明瞭にして確かなものへと変容させる為の、或いは、見えない振りをしてきたものに光を当てて、先送りにしてきた迷える心に決断する勇気を与える為の、悲壮でいて決意の籠った行為に見えた。この先に
翌朝、大地が目を覚ますと、恵は既に下着を着けた後だった。恵はベッドに背を向けて立っている。大地はベッドの中から、その後ろ姿を見つめた。恵は大地が目覚めた気配を背中で感じ取っていたようだ。上着の袖に腕を通しながら言った。
「ごめん・・・ 私、もうここには来ない」
大地は何も言わなかった。
「やっぱり、こういうの良くないよ」
やっとの思いで、大地は声を絞り出した。
「もし俺に・・・」
「・・・・・・」
「もし俺に音楽センスが有ったら、もっと違った形になっていたのかなぁ」
それには、恵に対してというよりは、むしろ独り言の様な、あるいは自分に対する問いかけの様な響きがあった。大地は、自身の身体に自分で負け犬という烙印を押したのだろう。その問いには答えず、恵はベースを肩に掛けた。
「今まで、ありがとう」
カタリという音と共に、恵が躊躇いがちに玄関を閉めると、大地の部屋には再び沈黙が降りてきた。冷蔵庫のモーターがブーンと唸り始め、その沈黙を埋め合わせる。その冷蔵庫の上には、この部屋のスペアキーが残されていた。
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