3-3

 「恵センパ~ィ。一緒にやりましょうよ~」

 学食で隆二が恵を捕まえた。しかし恵は軽くあしらう。

 「悪いけど、今はそういう気分になれないんだよ」

 「そんなこと言わないでくださいよ~。あの伝説のロックバンド『ママズ・コンプレイン』を復活させましょうよ~」

 ママズ・コンプレインは、恵にとって宝物だ。よく知らない奴の薄汚れた手で、それをいじくりまわして欲しくない。軽々しく口にして欲しくもない。恵と浩と大地、その三人だけが共有することを許された思い出なのだ。恵はムッとして答えた。

 「アンタ、ママコンの演奏なんて聴いたことも無いくせに、何言ってんの?」

 確かに隆二は、ママズ・コンプレイン時代の恵を知らない。知っているのはプライム・ノートでの姿だけだ。だが学内の噂では、以前、恵はロックバンドを組んでいたと言うではないか。プライム・ノートのジャズっぽい演奏でもカッコ良過ぎるのに、それがロックを演奏していたなんて考えただけでもゾクゾクする。ハッキリ言ってジャズなんて年寄りの音楽には興味が無いし、退屈でしかない。あんな子守歌にもならないゴミを聴くくらいだったら、アイドルユニットの富坂49でも聴いていた方がマシというものだろう。隆二にとってはロックだけが音楽なのだ。スポットライトを浴びてロックを弾く恵。その神聖なイメージは、隆二の心を捕らえて放さなかった。

 「そりゃぁ、菅野先輩みたいには弾けないですけど~。俺、ギター頑張りますから!」

 「そういうテクニックの話じゃないんだよ。センスって言うのかな? 私、センスの無い奴とっても燃えないんだよねぇ。君がどれ程のセンスの持ち主なのかは知らないけどさ。ゴメン、他当たってくれる? ロッ研ロック研究会に結構上手い二年生、居るよ。工学部の・・・ 蔵元っつたかな? 声かけてみれば?」



 あの再会以来、二人は半同棲の生活を送っていた。それまで、女っ気が無くてむさ苦しかった大地の部屋が少しずつ色を帯び始め、可愛らしい小物が増えている。掃除、洗濯なども行き届くようになっていたが、恵が持ち込んだジャズベースだけはソフトケースに入れられたまま埃を被り、それがアンプに繋げられることは無くなって久しかった。それでも恵は、そんなことは気にもしていないようで、かいがいしく大地の世話をすることを楽しんでいるように見えた。

 だがそれは、恵が本心を胡麻化しているに過ぎないことを大地は知っていた。恵自身も、自分の心に燻る何か・・の存在を感じてはいたが、あえてそれを見ないようにしていたのであった。さらに言えば、お互いにそのことに気付いていることを、お互いが知ってはいたが、それを口にすることは巧妙に避けられていた。それを言葉にしてしまった瞬間、何かが終わりを告げてしまうような恐怖を、二人とも感じていたのかもしれない。

 そんなある夜、ベッドの中で恵が言った。

 「最近、後輩の男の子からバンドに誘われてるんだけど・・・」

 その隣で、村上春樹の新刊を読んでいた大地が、本を閉じて恵の方を向いた。恵の側にある電気スタンドが作り出す黄色い明りが、大地の顔を浮かび上がらせた。

 「いいじゃん、やりなよ。恵、最近ベース弾かなくなっちゃって勿体ないなって思ってたんだよ」

 「・・・・・・」

 恵の顔は影となり、その表情は薄ぼんやりとしか確認できない。

 「で、どんな曲やるの?」

 「ヘヴィメタル・・・」

 「メタルかぁ。あまり恵のタイプじゃないかもしれないね。でも、やっぱり恵はベースを弾いてた方が絶対にいいって!」

 「なんか、つまらない曲ばっかりやってるみたいなんだよねぇ。今さらあんな子供じみた演奏したくないよ」

 その表情は判らなかったが、声の調子からして恵は若干、すねた様な顔をしているに違いない。

 「まぁ、そんなこと言わずにさ。昔みたいに生き生きした恵をもう一度見せてよ。ママコンの頃は、チョッと生き生きし過ぎてた感じも有るけどな。あはは」

 突然、恵の声のトーンが尖がった。

 「どうして?」

 「???」

 大地は恵の表情を読み取ろうと目を凝らしたが、背景の電気スタンドに目が眩み、それを見通すことは出来なかった。そこには暗く沈む一角が有るだけで、恵の顔を覆い隠すように、透明で、それでいて見透かすことの出来ない空間が存在していた。

 「どうして一緒にやろうって言ってくれないの? 私、大地とだったら直ぐにでも演奏するのに。ねぇ、どうして?」

 「それは・・・」

 「どうしてドラムやめちゃったの?」

 大地は悟った。自分の心の中にあるわだかまりを、恵に告げる時が来たことを。それが今であることを。その行為が、どのような結果をもたらすのかは判らない。恵がそれを、どう受け取るかも判らない。だが、それを隠し続けることは出来ないし、それが何なのか開示することを恵が望んでいることは知っていた。大地の口は、重々しく言葉を紡ぎだした。

 「俺・・・ 気付いたんだ。ってか、気付いてたのに気付いてない振りをしてたんだよ」

 「何を?」

 「なんて言うんだろう・・・ センスって言うのかな」

 「センス?」

 センスという言葉が的を得た表現なのかは判らなかったが、大地はそのまま話を続けた。恵の表情は、まだ良く判らない。

 「そう。音楽センス」

 「・・・・・・」

 「楽器に限った話じゃないと思うんだけど・・・ 世の中にはセンスの有る奴と無いヤツってのが居るよね。大部分は無い・・方なんだけど、やっぱり俺って無い・・方なんだよね」

 「そんなことないよ。私、大地のドラム、上手いと思うよ」

 「上手いとか下手とか、そういうテクニックの話じゃないんだ。技術面なら誰だって努力すれば、それなりのレベルには到達できる。でもね、センスってそうじゃないよ」

 大地は言葉を探した。どう言えば、自分が言わんとしていることを恵に伝えることが出来るだろうか? でも結局、スピーチのように原稿を見ながら話せるわけではない。予め考え抜いた文章を読み上げることが出来ない以上、悩んでもしょうがないではないか。大地は言葉を練る・・ことを諦め、拠り所無く心の中にフワフワと浮かぶ言葉たちを、心の赴くままに口にするという選択をした。

 「そりゃぁ俺だって、最初は思ったさ。自分には才能が有るんじゃないかって。確かに他の奴よりは上達も早かったし、難しいパターンだって直ぐに打てるようになった。でもね、それってただ単に人よりチョッと器用・・だっただけなんだ。俺みたいになんでもそこそこ・・・・こなすヤツって、結局、器用なだけでそれ以上の何物でもないのさ。それはある意味、才能と言ってもいいのかもしれないんだけど、それを使い切った時に初めて、自分には次のステージが用意されていないことに気付くんだ。それは小さな子供と一緒で、ポケットの中にお菓子が有るうちは、それが無くなった後のことを考えられない。最後の一個を食べ切った時に初めて、自分にはそれがもう無いという事実を突き付けられて途方に暮れる。でも他の友達を見ると、ポケットからは次々とお菓子が出てくるんだ。そこには、まだまだ沢山のお菓子が眠っているのさ。判るかい? 空っぽのポケットに手を突っ込んで、自分にもまだお菓子が有る振り・・をする気持ちが」

 大地は一気にまくし立てた。恵の表情が見えず少し不安になり、喋る速度を少しだけ落とす。

 「センスって、努力したからといって身に付くものじゃないし、長い間弾き続けたからといって蓄積される物でもない。それを磨く秘訣なんてものも無いし、そもそも無いものを磨くことなんてできない。結局、持って生まれた資質みたいなもので、たとえテクニックが無くても、センスの有るヤツが出した音って、聴いただけで判るじゃん。恵だって音楽やってるから、それは同意するだろ?」

 「それは・・・ そうかもしれないけど・・・」

 「で俺、プラノーの演奏を聴いてて思ったんだよ。あぁ、この人たちは俺が登れないステージに立ってるんだって。恵は俺が見ることが出来ない景色を見てるんだって」

 ここで初めて、恵が反論らしい反論を口にした。

 「そんなの、関係無いじゃん! 音楽って、もっと楽しい物でしょ? センスとか何とか言ってないで、楽しければいいじゃん! 私、大地と一緒に演奏するのが楽しかったよ!」

 「俺は・・・ 楽しくなんかなかった」

 想像もしていなかった言葉に、恵が言葉を失った。大地の口から、そんな台詞が出てくるなんて。

 「・・・・・・」

 「自分が恵や浩さんの足を引っ張っているのが辛かった・・・ 二人が目指しているものに応えられない自分が情けなかった」

 大地がそんな思いでいたなんて、恵は考えた事も無かった。自分は楽しかった。心からママズ・コンプレインでの演奏を楽しんでいた。それだけで十分だと思っていた。だが言われてみれば、演奏中の自分は浩を見ていた。浩だけを見ていた様な気がする。その陰で、大地がそんな風に考えていたなんて。でも今、大地の言葉に同意してしまっては、彼の葛藤が取り消し様の無いリアルになってしまう。何とかして反論せねば。そんな思いから、恵は言った。

 「私、そんな風に思ったことなんか無いよ。浩さんだってきっと・・・」

 「ありがとう。でも、俺の言っている意味、判るよね?」

 「・・・・・・」

 ずるい。そんな言い方、ずるいよ、と恵は唇を噛んだ。

 「恵・・・ お前のベースは、もっともっと高み・・を目指していいんだよ。そうするべきなんだよ」

 恵は思わず声を荒げた。それは心からの叫びだった。

 「私、高みになんて行きたくない! 大好きな仲間と一緒に演奏できれば、それでいいっ!」

 しかし、そんな恵の感情の昂ぶりを超える勢いで、大地が叫んだ。聞き分けの無い子供に、思わず感情を露にしてしまった親のように。

 「お願いだから、これ以上俺を苦しめないでくれ! 音楽をやっている限り、俺は浩さんという存在を超えられないんだよ!」

 恵が息をのむ音が聞こえた。それきり沈黙が部屋を支配した。それはまるで、電気スタンドの光が及ばない闇に潜んで機会をうかがっていた静寂が姿を現し、二人の上りにフワリと覆い被さったようであった。大地は声を落とし囁くように言った。そうすれば、波立った恵の心に自分の言葉が浸み込むとでもいうかのように。

 「あそこでは、恵の一番近くに居ることが出来ないんだよ・・・ 俺は」

 「・・・・・・」

 「ごめんな。こんなイジけた男で。自分でも嫌気がさすくらい小さい人間だと思うよ。でもね、これが俺の正直な気持ちなんだ。浩さんと掛け合いしてる時の恵、すっごく輝いてたよ。でも俺はそれを、嫉妬の目で見ていた。俺が話せない言葉で、二人が親し気に会話してるのを見るのが辛かったんだ。そう、俺は浩さんが羨ましかったんだ」

 陰になった恵の表情が、少しだけ歪んだように思えた。「ふぅー」っと、恵が息を吐く音が微かに聞こえた。それはまるで、今まで呼吸することを忘れていたかのような、長く静かな息だった。大地には、その吐き出した息に何かの思いが溶け込んでいるような気がした。その息と共に、恵は何か・・を吐き出したのだと思った。

 寝返りを打って大地に背を向けた恵が、優し気な声で言った。

 「判った・・・ 電気、消すね」

 「うん・・・ おやすみ」

 結局、大地には、最後まで恵の表情が判らなかった。

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