3-2

 クリスマス、年末・年始、春休みと、大学生としての最初の一年があっという間に過ぎ、恵は一人学食に居た。他の三人は既に、卒業論文の作成に向けた体勢に入り、プライム・ノートの活動は実質的に終わりを告げている。特に理工系の二人は卒業研究という形のため、昼休みくらいしか学食に顔を出すことはない。あの4人が学食に集まって、ワイワイすることも無くなり、時折、校内で見かけた折に、「よっ!」などと軽く挨拶を交わすだけになって久しい。そんな生活に張り合いが無く、恵は沈んだ気持ちを、どうしても振り払うことが出来ないでいた。

 「俺たちが居なくても、新しいメンバーを集めて活動を続けろよ」という浩に、恵は歯切れの悪い答えを返すだけだ。今となっては、浩たち以外のメンバーとバンドを組むような意欲は湧かない。このまま演奏を辞めてしまおうか、そんなことすら考える様になっていた。


 その時、背後から遠慮がちにかける声が聞こえた。

 「あ、あの・・・ 先輩・・・」

 恵が振り返るとそこには、今年入学してきた一年生と思える男子学生が立っていた。見るからに垢抜けていない田舎の高校生が東京に出て来た風で、見るもの聞くもの全てが新鮮です、という声が聞こえてきそうな男の子だ。

 「何?」

 少し眉に皺をよせ、不信な目で見据えてぶっきらぼうに答えると、男子学生は緊張した面持ちでまくし立てた。

 「お、俺、去年の学際に見に来て、せ、先輩の演奏見ました! すっげぇカッコ良かったっすっ!」

 その、あまりにも純朴な様子に、恵はクスリと笑った。浩も東京に出て来た当時は、こんな感じだったのだろうかと想像し、つい笑ってしまったのだ。

 「えっ、何、何? 私のファンってこと?」

 「は、はいっ! 大ファンっす!」

 「あはは、ありがと。君も何か楽器やるの?」

 「はい。ギターを少々」

 その言い方がおかしくて、恵は吹きだした。

 「ギターを少々ね。あはは」

 恵に笑って貰って勢いづいた男子学生は、思い切って訪ねる勇気を得た。

 「次のライブ、何処でやるんすか? 俺、絶対に見に行きますっ! 先輩のこと見に行きますっ!」

 「次のライブかぁ・・・ うぅ~ん、今んとこ予定は無いんだよね~。ごめんね」

 「そ・・・ そっすかぁ・・・」

 男子学生は明らかに気落ちし、それに合わせるかのように肩も落とす。その時、テーブルに置いたスマホの時計を見た恵は言った。

 「ゴメン、わたし次の講義が有るから。じゃぁね」

 席を立ち、地上階へと続く階段に向かって歩き始めた恵の背中に、男子学生が言った。

 「俺、隆二って言います! 竹田隆二!」

 恵は振り返らず、右手を上げて「聞こえたよ」の合図を送り、そのまま階段を昇っていった。ジャズベースを仕舞ったソフトケースではなく、教科書類がギッシリと詰まったバッグを携えるその後姿はいつもと異なり、やはりもの悲し気に見えるのだった。


 新入生や新社会人たちでごった返す総武線のドア付近に立ち、ぼんやりと窓の外を眺めていると、眼下に神田川が見えた。そして土手に穿かれたトンネルに、シルバーと赤で特徴付けられた丸ノ内線の車両が吸い込まれて行く。それを見た途端、思わず電車を降り、恵は駅のホームに降り立った。そこはJR御茶ノ水駅。恵にとって思い出深い駅だ。

 水道橋寄りの階段を昇り、西口改札を出ると、そこには電車内の人種構成をそのまま複写したかのように、新社会人やら新大学生やらがひしめき合っていた。スクランブル交差点の人混みをぬう様に歩き、懐かしい楽器店の前に出る。キラキラと輝く店内は、薄暗くなり始めた通りからみると人を惹きつける様な温かさを帯びていたが、これに惹きつけられる人種は音楽をしている奴らだけであることを思い出した。自分もその人種の一人であることを再認識した恵は、当ても無く店内に足を進めた。

 色彩豊かなギターやらベースやらを漠然と見ながら奥に進むと、楽器たちに負けないくらいの鮮やかな色彩をまとった楽譜が、大きな本棚に納まっていた。ギタースコア、ベーススコア、ピアノスコア。弾き語り用のスコアにバンドスコア。フォーク、ロック、ジャズ、クラッシック。あの赤・白・黄のバイエルも有る。それはまさに色とりどりだ。

 あの時ここで、浩はスコアを見ていたっけ。そんな彼に声を掛けたところから全てが始まった。そう、あの瞬間に、何もかもが始まったのだ。そんな感慨にふけながら、スコアたちの背表紙を指でなぞっていると、何者かが恵の肩に手を掛けた。恵が振り返ると、その男は言った。

 「よっ、久し振り」


 そのまま近くのパブに入った二人は、久し振りの再会に祝杯を上げていた。

 「慶稜の法学部に行ったって聞いたけど」

 「そうなんだよ。東央の法科も受かったんだけどね・・・」

 「まぁ、ウチの大学より慶稜の方が拍が付くからね。将来を考えたら、やっぱそっちだよ」

 「別にそういう訳じゃないけど」申し訳なさそうに大地が言った。

 「けど? ウチに来れば、また一緒にバンドやれたのにな。ってか、大学が違ったって一緒にはやれるけどね」

 「まぁね・・・」

 「ひょっとして、もうドラム叩いてないの?」

 「まぁ、嗜む程度って感じかな。あはは」更に申し訳なさそうだ。

 「そっか・・・『ドラムを少々』ってやつか・・・」

 「何それ? あっ、でも聞く方は昔よりも聞いてるかも。俺が抜けた後のママコンとか、プラノーのライブなんか、殆ど聞きに行ってたんだぜ」

 「ホントに!?」

 恵は目を見開いた。

 「だったら何で声かけてくれなかったのさ? 浩さんだって喜んでくれたのに」

 「うん、ゴメン・・・ なんだか、声かけにくくって・・・」

 「??? まっ、いいや。んで、成田から通ってるの? 都営三田線に乗り換えるんだっけ? あそこからだと、随分と遠いんじゃない?」

 「そうなんだよ。電車の本数も少ないしさ。直ぐに終電になっちまうし。それで親に無理言って、都内にアパート借りてるんだ」

 恵の顔が輝いた。

 「へぇ~、マジ? 何処何処?」

 「三鷹」

 「えぇーっ! いいなぁ~、私も一人暮らししてみたい!」


 二人はそのまま、三鷹にある大地のアパートにやって来た。北口改札を出て、駅前ロータリーから斜に延びる細い商店街を進む。駅から15分ほど歩いた所のそれは、袋小路となった静かな住宅街の路地奥にあり、見た目は新しいが、さほど高い物件でもなさそうな普通の二階建てアパートだ。その通用門横には、ゴミ出しルールを守らない誰かが置いたレジ袋が放置され、野良猫がその周りをうろついていた。しかし、大地と恵がやって来ると、野良猫は警戒して何処かに潜んでしまった。おそらく二人が去った後に、再び現れるだろう。

 玄関ドアを開けて電気をつける大地。玄関には、男物のスニーカーが散らばり、女っ気の無い生活臭が漂っていた。玄関の上り口には、汚れ物を満載した洗濯籠が置かれており、そろそろコインランドリーに行くべきタイミングなのだろうと思わせた。というか、そこまで溜まる前に、もっとこまめに洗濯しなさいよ、と思う。乱暴にシューズを脱ぐと、大地は「どうぞ」と言いながら、先に部屋へと入っていく。女性には見せたくない物とかが有るのかもしれない。恵は小さな声で「お邪魔しまーす」と言いながら靴を脱ぎ、気を使って、わざとゆっくりと部屋に入った。

 恵がリビングに足を踏み入れた途端、大地が恵の両腕を掴み、万歳させる様な姿勢で壁に押し付けた。恵が声を上げる暇も与えず、大地の唇が恵のそれを覆った。暫くの間、そのまま口づけを交わし、大地がゆっくりと顔を引いた。恵は上に掲げた両手を壁に固定されたまま、大地の顔を見た。

 「いつから?」

 そう問う恵に、大地は答えた。

 「高校一年の時から」

 「ばか・・・」

 恵は両腕で大地の首を抱えるようにして、今度は自分から唇を求めた。大地は恵の腰に腕を回し、自分の身体を使って、更に強く恵の身体を壁に押し付けた。


 翌朝、目を覚ますと既に大地の姿は無かった。その代わり、ベッド脇のテーブルには置手紙が残されていて、その上には見慣れない鍵が乗っていた。恵はシーツを巻き付けて体を起こすと、眠そうにその手紙だけを取り上げた。


 / 今日は一時限目から授業が有るから先に行くよ。

 / ゆっくり寝ていけばいい。

 / あっ、恵の時間割を知らないから、

 / 起こした方が良かったかな?


 そこで恵はクスリと笑った。そして巻き付けたシーツがずり落ちないように小脇に挟みながら、左手に手紙をもって冷蔵庫まで行った。中を覗くと液状ヨーグルトが目に付いたので、それを頂くことにする。一応、確認すると、賞味期限は過ぎてはいないようだ。大地は意外に抜けているところが有るので要注意である。

 それを持ってベッドまで戻り、ヨーグルトの蓋を開けようとしたら、つい脇が甘くなりシーツがパラりと落ちた。全裸となった恵は気にする様子も無くそのままベッドに腰かけ、ヨーグルトを一気に半分ほど飲み干した。容器を右手に持ったまま再び手紙に目をやる。


 / 冷蔵庫にある物、適当に食ってくれ。


 「もう頂いてます」と言って、恵は笑いながら少しだけ容器を掲げ、小さなお辞儀をした。


 / 部屋のスペアキーを置いてゆくから、

 / いつでも来ていいよ。

 / って言うか、おいでよ。

 / 今日は6時くらいには戻れるから、

 / 一緒に晩飯でも食いに出よう。

 / 大地


 その手紙と半分残ったヨーグルトの容器をテーブルに戻すと、今度は手紙の上に乗せられていた鍵を取り上げて、ベッドにゴロンと横になった。仰向けで寝っ転がり、鍵を顔の前に掲げて眺めた。

 「今時、置手紙ってどうなのよ、大地くん? 普通、LINEとか使わない?」

 恵はベッドの上で左向きになり顔の左半分を枕に埋め、右目でシゲシゲと鍵を見つめた。その枕からは大地の匂いがして、自分が今、彼のベッドに寝ていることを再認識させた。大きく息を吸い込むと、自分の身体の全てが大地の匂いに包まれている様な錯覚を覚える。恵は昨夜の大地とのこと・・を反芻した。なんだか不思議な感じがした。右手が自然と自分の乳房に延び、少し硬くなった乳首をちょっとだけ弄んだ。そしてうつ伏せの態勢になって顔を枕に埋め、もう一度大きく息を吸い込んだ。大地の匂いが肺一杯に満たされた。

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