第三章 : 鍵

3-1

 「それじゃぁ、ゼミで忙しい時田先輩に代わってベースを弾いてくれる子を紹介するよ。今年、文学部に入学した樋口恵ちゃんでーす」と浩が言う。場所はいつもの学食の隅だ。浩は既に三年生になっていた。

 「私、ジャズは全然経験が無いんで、色々教えて下さい。よろしくお願いします、先輩方!」恵もおどけて頭を下げた。

 勿論、全員と面識が有る。伊藤裕明が「よっ、久し振り!」と言った。高木萌衣は仏頂面で言う。

 「あくまでも暫定メンバーよ。浩がどうしてもって言うからOKしただけ。ウチのサウンドを壊したら即クビだからね。判ってるわよね」

 「はい、判ってます、萌衣先輩。でも、先輩のピアノを私のベースが食っちゃうのは・・・ いいんですよね?」

 悪戯猫の様な表情で見つめる恵。その挑発を受けて立つ萌衣。

 「やれるもんなら、やってみなさいよ。てか、何その恰好。女子高生じゃあるまいし」

 浩はニヤニヤしながら、ストラップを肩に掛けた。そしてアンプの繋がっていないギターで、ビートルズの名曲 "Hard Day's Night" のオープニングコード、Fadd9をかき鳴らすと、学食の喧騒の中に針金の音が溶け込んでいった。


 卒業論文の作成に取り掛かる必要上、バンドから足を洗う時田と新田の後を継ぎ、無事、高校を卒業して東央大に入学して来た恵がプライム・ノートに参加するのは自然な成り行きだった。その頃には、もう完全に落ち着きを取り戻していた恵は、大学生という新生活を謳歌し、ロックよりもジャズに傾倒していた。以前の、ガラスのナイフの様な脆くて儚い攻撃性は影を潜め、いっぱしの女子大生になっている。ただしそのファッションはあの当時のままで、オープンキャンパスにやって来た女子高生さながら、学内男子の視線を否が応でもかっさらっていた。「もう少し落ち着いた格好をしなさい」と、事ある度に萌衣から忠告を受けていたが、はた目から見れば、彼女たちは仲の良い姉妹のように見えるのであった。

 また、恵の加入によってプライム・ノートのサウンドは大きく変わっていた。新田の脱退によってパーカッションが不在となり装飾音が無くなった分、バンド全体の音作り・・・のウェイトが下がり、逆に個々のフレージングの重要性が増した。更に時田のベースに比べ、ファンキーな色を持つ恵のベースが全体を下支えすることによって、よりテンションの高い演奏へとシフトしていた。つまり、完成度を目指す音作りよりも、アドリブの妙技を売りにするような個性を帯び始めたプライム・ノートは以前に比べ、よりJAZZYな方向性を探っていたと言える。

 そんな中でも恵の暴走は頻発したが、それはかつての様な痛々しいものではなく、むしろご愛敬・・・と言えるような、お約束的な意味合いを持っていた。メンバーにも内緒で突然弾き始められるそれは、ジミヘンだったりディープ・パープルだったり、あるいはアメリカ国家だったりして、一種、プライム・ノートのライブにおけるアトラクションと言うかイベントのような趣だ。ライブ会場に来る観客たちも、今日は恵が何を弾き出すのかと、興味津々で待っている程である。一度、恵がビートルズの “Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band” を弾き始めたことが有り、普段の役割上、仕方なく歌い始めた浩であったが『It was twenty years ago today・・・』以降の歌詞を全く覚えていないことにその場で気付き、グダグダになったことが有る。それでも温かな観客たちはゲラゲラ笑いながら指笛で囃し立て、それはそれで盛り上がったりしていた。最初は、恵のおいた・・・に呆れるような顔をしていた萌衣も、いつの間にか “Smoke on the Water” ではハモンドオルガン調の音で合わせるようになり、プライム・ノートのお転婆娘を陰ながらサポートするのであった。

 ただ浩だけは、そんな恵の姿を見るにつけ、彼女の中に燻るロックへの渇望を感じ、その欲望のはけ口となりそうな曲もレパートリーに入れるようにしていたのであった。


 そして、秋の学園祭シーズンが到来した。工学部の6号館にある大教室では、音楽系サークルの連中が入れ替わり立ち代わりステージに上がっており、当然、プライム・ノートの演奏も予定されていた。楽屋となっているC11教室では、ジャンルもバラバラなバンドが多数、順番待ちをしている。今ステージに上がっているのは、軽音楽部のポップなガールズバンドだが、その前はフォーク同好会の二人組が、アコースティックギターで切々と歌い上げたりしていた。そういった連中を見る度に浩は、時代がグルっと回って一周したことを感じるのであった。

 大学の学園祭が初経験の恵にとっては、そういった多種多様な連中が独自の価値観でモゾモゾと蠢く大学というもの自体が、新鮮で興味深い観察対象のようで、出店で買い込んだ焼きそばを頬張りながら、キョロキョロと周りを見るのに忙しそうだ。それは音楽に限った話ではなく、例えばスポーツに打ち込む連中や合コンに命を懸ける男ども、あるいは何がやりたいのか判らない団体など、雑多な人種の坩堝と言えた。鉄道研究会とかアニメ研究会といった、大きな声で人には言えないような、あるいは普段は何処に潜伏して何をしているのか判らない組織も、学際の時は判りやすく、ここぞとばかりにその存在を主張している。全ての大学生が感じる、一般社会に出る前の予行演習の様な感慨を、恵も感じているらしい。世の中に出れば、それこそ目が回る様に多様な価値観に飲み込まれ、その中で自分を見失わずに生きて行く術が必要となるのだから。それは同時に、彼らが時間を共有できるのは大学生であるひと時だけであり、卒業した後はそれぞれが別々の道を歩んでゆくことも併せて示していたが、恵はまだ卒業後のことにまでイメージを膨らますことは出来てはいないようだ。だが、今はそれでいい。今しか味わえない時間を、心行くまで堪能すべき時なのだから。

 そんな恵に萌衣が言った。

 「何やってんの恵。歯に青のりが付いてるわよ」

 「えっ? やだぁ! 浩さん、取って!」

 浩に顔を近付ける恵の襟首を掴んだ萌衣が、グィと後ろに引っ張った。

 「あたしが取ってやるから、その顔寄越しな!」

 「先輩、痛くしちゃ嫌」

 「うるさい! 黙ってろ!」

 女子二人が楽屋の隅でペチャクチャやっている時、裕明がしんみりした様子で浩に言った。

 「来年は四年だから、実質、これが最後の学際だよな」

 「だな・・・ 就活、面倒くせぇなぁ。お前、メーカー希望なんだっけ?」

 「一応な。大学院に行く金も頭も無いからな。お前は? 化学系ってどんな企業を狙うんだ?」

 「まぁ、メーカーなら有機系、無機系、色々有るし、プラント系ってのも選択肢だな。でも・・・ どうすっかな」

 「ほんと、どうすっかな・・・だな」

 歯に付着した青のりを萌衣に取って貰いながら、恵は二人の会話を聞いて一抹の寂しさに襲われていた。このプライム・ノートでの活動が楽しくてしょうがなかったのに、たった一年でそれが終わってしまうなんて。恵以外のメンバーは全て、来年は四年生ということで、バンド活動からは遠ざかってしまうだろう。自分一人で新たなメンバーを募り、新生プライム・ノートとして活動を継続する選択肢もあるが、恵はそんな気には少しもなれなかった。今のメンバーが揃わないのだったら、それはもうプライム・ノートではない。三人が去った後の自分を想像するだけでゾッとした。恵は叫びだしたいほどの寂寥感に襲われていた。

 その時、学際の実行委員が声を掛けた。

 「プラノーさん、出番です! スタンバって下さい!」


 本来であればその曲は、ミュートしたトランペットの為の曲だったが、プライム・ノートではその役割をギターが負っていた。ドラムとベースが刻む強弱のダイナミクスに富んだリズムは、下手な奴が演奏すると途端にモタモタした感じになりがちだが、裕明と恵は抜群のタイム感でどっしりとした基礎部分を築いている。そこに萌衣が鋭角的に切れ込むようなコードで色を添え、その三者が必要最小限の音でサウンド全体を作り上げていた。と言っても単調に音を出し続けるわけではなく、時折、それぞれが「うるさ過ぎない」程度の変則性を織り込んで、曲の進行にバリエーションを持たせている。浩のギターは、彼らが作り出す音の流れに、時折急降下して波紋を残す鳥のように、自由気ままに演奏した。それは、チョーキングを多用した粘りのある短いフレーズを、豊富なポージングと併用して断続的に散りばめる手法だ。浩のギターは、いわゆるジャズギターのスタイルではなく、むしろロックのテイストと言ってよく、ママズ・コンプレインでの演奏を彷彿とさせるものだ。沢山の音を一度に詰め込むことは、経験の浅い、あるいは歌心の無いプレイヤーが陥りがちな落とし穴であるが、プライム・ノートのメンバーたちは既に、そのような段階は通り過ぎている。これが今のプライム・ノートの一つの形であった。観客たちは、その安定した、それでいてスリリングな演奏に喝采を送った。


 学際での演奏は客のノリも良く、大成功と言えた。浩たちは打ち上げと称して、そのまま新宿にくり出した。居酒屋のテーブルにはビールやハイボールのジョッキの他に、肴として刺身の船盛や焼き鳥の盛り合わせ、ピザやサラダなどが所狭しと並んでいる。浩の右隣には萌衣が座り、その向かいに恵が居た。つまり裕明が浩の正面だ。先ほどから、この四角形の対角線の一つで何らかの議論が白熱していた。

 裕明はジョッキを煽ると、それをダンとテーブルに置いた。

 「だからさぁ、アイツは弾き過ぎなんだと思うんだよね」

 「そうかしら? 私はそうは思わないけどな」

 萌衣は焼き鳥を裕明の顔に向けて、それをクルクル回しながら返した。二人ともかなり赤い顔をして目が座り始めている。酒に弱いんだから、そんなに飲まなきゃいいのに、この二人は飲むと直ぐに音楽議論を開始するのが悪い癖なのだ。

 「ソロは良いんだよ、ソロはさ。でもさ、伴奏に回ってる時の音が多過ぎるのさ。だろ?」

 刺身につけたワサビが効き過ぎた裕明が涙目で言うと、醤油のキャップをひねりながら萌衣が反論した。それを見た恵が叫ぶ。

 「萌衣さんっ! それタバスコじゃないよっ!」

 萌衣はそんな忠告には一切動じず、それをピザに振りかけながら言う。浩と恵は、口を揃えて「あぁ~あ」と漏らす。

 「それは違うんじゃないかしら。彼はソロだけじゃなく、伴奏においてもモードジャズの新しい解釈を試行していたと考えるべきでしょ」と言いながら醤油ピザを口にする。

 しかし浩に言わせれば、二人の主張の何処が対立の構図を成しているのかが良く判らない。酷い時など、お互いに同じことを別の表現で言い合っているだけなのでは、と思わされることもしばしばだ。そうなると、好きで議論しているとしか思えないのだが。

 「俺はドラムだからさ。そういった音楽理論に基づく話は判らないけどさ。確実に言えることはコルトレーンみたいにさ。切々と歌い上げる様なプレイとなら相性が良いってことさ」

 酔っ払った裕明は「さ」が多くなるのも、いつもの特徴的な変化だ。

 「って言うより、マイルスみたいに無音の瞬間も音楽の一部にする様なタイプとは、反りが合わないってことじゃない?」

 どうやら、マッコイ・タイナーのことで揉めてるらしいことがようやく判明した。「また始まったよ」という具合に、笑いながら恵の方を見ると、彼女も肩をすくめて笑っている。まぁ、これがプライム・ノートの飲み会なのだ。こういった雰囲気でワイワイするのが楽しいのだ。

 悪戯心が芽生えた浩は、二人の議論を飛び越して恵に話しを振った。お題は『果たしてジミー・ペイジはギターが上手いのか?』という大問題だ。これにより、「マッコイ・タイナー問題」と「ジミー・ペイジ問題」が交錯し、テーブル上は大騒ぎの様相となるはずである。浩の意図を理解した恵が、ニヤニヤしながら意見を述べた。

 「上手いか、下手かで言ったら、下手クソっしょ?」と言いながら、既に笑いを堪えられない様子だ。恵がそう言うなら、反論するかの様な顔をして、同じような意見を言わねばなるまい。

 その時、萌衣の言葉が二人の目の前を横切って行った。

 「それは『彼はビル・エヴァンスではない』という意味かしら?」

 当たり前である。マッコイ・タイナーはビル・エヴァンスではない。遂に、堪りかねた恵が「ブゥ~ッ!」と吹き出した。浩は真面目な顔を作って言った。

 「って言うか・・・ ブラックモアの方が上手くね?」

 恵は腹を抱えてゲラゲラ笑った。

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