2-5
病院の中庭には、スノードロップの可憐な花が盛りを迎えつつあったが、色味を欠いた花壇は、かえってもの悲しさを感じさせた。それでも徐々に暖かさを増してきた二月、ポツリポツリと梅の花もほころび始めていた。まだまだ朝夕は冷え込むが、日中のポカポカとした陽気に誘われた浩は、萌衣の押す車椅子に揺られながらこの中庭に降りてきた。
もう車椅子など必要ないというのに、何かあったら大変だからという理由で、萌衣は浩に自らの足で歩く事を決して許さないのであった。萌衣は、中庭のベンチ横に停めた車椅子のホイールをロックすると、自分は薄緑色に塗り上げられた木製のベンチに腰かけた。浩の膝の上に置いてあったバスケットを取り上げると、その蓋を開けて、中から自らがこしらえた手作りサンドイッチを取り出した。病院食ばかりでは飽きてしまうので、こうやって萌衣が持ち込む弁当を持って、お昼を採りに来るのが最近の日課になっていた。
サンドイッチと一緒に持ち込んだポットには、熱い紅茶が入っている。浩はポットの蓋に自分で紅茶を注ぎ、食べる前に喉を潤した。
「暖かくなってきたね」という萌衣に浩は応えた。
「そうだね。新学期までには退院できそうで良かった」
浩はBLTのサンドイッチを頬張った。
「留年も免れたのは大きかったわね。ご両親に余計な負担を掛けずに済んで」
「まったくだ。東京の私立大学に通ってて、おまけに留年なんかしたら実家が破産しちまうよ」
そんな取り留めのない会話を交わしていると、萌衣の後ろからやって来る恵が見えた。渡り廊下から逸れて中庭へと続く通路を、手を振りながらこちらに向かってくる。
「浩さーん! 萌衣さーん!」
駆け足でやって来た恵は息を切らしている。
「居た居たーっ。病室に居ないから、多分こっちだと思って」
そう言って萌衣の隣にチョコンと座る恵に、浩がサンドイッチを勧める。
「恵も食うか? 昼飯くってないんだろ?」
「ううん、私、食べてきた。それに萌衣さんが浩さんの為に作ったお弁当を頂くわけにはいかないでしょ?」
「あら、いいのよ。恵の分くらい有るから遠慮しないで」
萌衣は自分の分の玉子サンドを手に取った。恵は「じゃぁチョッとだけ」と言って、サンドイッチの横に添えられていたプチトマトを頂いた。
その様子を見ていた浩は、いつか聞かねば、と思っていたことを口にした。
「そんなことより、いつから俺のことを『浩さん』なんて、しおらしく呼ぶようになったんだ?」
恵は狼狽えた。プチトマトから飛び出た種が、そのまま口から飛び出した。
「俺が気を失っている間に、何か有ったのか?」
恵が慌てて口を押える。
「萌衣さんの前で『アンタ』なんて呼べるわけ無いでしょ?」
そう答える恵に、今度は萌衣が食い付いた。
「チョッと恵! 何? あなた浩のこと『アンタ』呼ばわりしてたの!? 『浩さん』とかじゃなくって、『アンタ』だったの?」
「いや・・・ そ、それは・・・ 若気の至りというか・・・」
今度は浩に向かって言った。
「何よそれ? 聞いてないんですけど。大学生が女子高生に『アンタ』って呼ばれるのって、おかしくない? どーゆー関係だったわけ、二人って?」
浩にしてみれば、自分が「浩さん」と呼ばれるよりも、萌衣が「恵」と呼び捨てにしていることの方が意外だったし、嬉しかった。二人の間に存在していたであろう、わだかまりは消失しているということか。自分の知らない所で二人は、既に何らかの繋がりを持っているのだろう。
「まっ、そんなことはどうでもいいや」と浩は言った。
「そうよ、どうでもいいよ」と恵も同意する。
「いや、どうでも良くないでしょ」萌衣は不服そうだ。
「そんなことより~・・・」と、恵が急に明るい調子で話題を変えた。「今日はお二人に、ご報告が有ります!」
恵はサッと立ち上がり、気を付けの姿勢から敬礼のポーズを取った。
「わたくし樋口恵は、この春から東央大学に通うことになりました! シュタッ!」
萌衣が驚いて目を見開いた。浩も同じような表情で、二人は顔を見合わせた。
「何それ、何それ? 私、聞いてないわよ! 立智大の英文受けるって言ってたじゃないっ!」
「マジかっ! 恵がウチの大学に?」
恵は得意そうに言った。
「へっへぇ~。学科も萌衣さんの後輩ですよ~。要らなくなった教科書下さいね。あと、ノートも見せて下さい!」
「あなた、世の中舐め切ってるでしょっ!?」萌衣は不機嫌そうだ。
「萌衣さぁ~ん・・・」恵は猫撫で声を出す。
「甘えるんじゃないわよっ!」
ピシャリと跳ね付ける萌衣に、恵の涙がちょちょぎれる。
「うぇ~ん、浩さ~ん。萌衣さんが怖いぃ~」
「あなた、生まれてきたこと後悔させてやろうかっ? マジでっ!」
浩が見上げると、病院の建屋に切り取られた四角い空が、なんとなく春めいて見えた。二人の賑やかな会話は、浩の耳を右から左に抜けていき、そのまま柔らかな空に吸い込まれた。もう直ぐ桜が咲くだろう。新しい季節の予感がする。浩はそんな春の予感を含んだ空気を、胸一杯に吸い込んだ。
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