2-4
左腕の包帯も痛々しかったが、恵はご機嫌に演奏していた。この前のライブハウスは出入り禁止となってしまったので、同じ池袋の別のスポットだ。繁華街からは少し離れていて、あまり名の通ったスポットではなかったが、設備が古いわりに広めで、恵はここが気に入ったようだ。恵の様子はいつもの奇行とは異なり、はしゃいでいる様な感じだった。
そもそも、あの自傷事件の後、浩は暫くライブは控えようと進言したが、恵がそれを受け入れなかったのだ。
「大丈夫だって。もう傷は塞がってるから」
「傷の心配をしてるんじゃない!」
「大丈夫だよ。もう絶対あんなことはしないから。約束するよ」
少し反省した様子を見せた恵であったが、それもつかの間。直ぐにふざけ始めたかと思うと、何だかいつもより、むしろ嬉しそうだ。
「それよか、この包帯。逆にカッコよくない?」
付き合ってくれなきゃ、一人でもやるというので、渋々ライブを引き受けた浩と裕明は顔を見合わせた。このバンドで演奏することが、楽しくてしょうがない様子だった。
そんな会話を思い出しながらも、生き生きと楽しそうに演奏する恵の姿を見て、あれは杞憂だったかと浩が思い始めた矢先であった。浮かれて騒ぐ恵がステージの照明を支える足場に登り始めた。それは自傷行為の様な深刻な様子ではなかったが、悪ふざけである事には変わりない。浩は演奏を続けながら近寄った。
「危ないから降りろ!」
「アハハハ、眺めがイイよここ!」
グラグラ揺れても恵は一向に気にせずベースを弾き続けた。観客は大盛り上がりだ。だか次の瞬間、その足場が倒壊し始めた。こんな古い設備は、それほど堅牢に造られてはいない。本来であれば、そういった構造物が崩壊する際にはその前兆となる不快な音が響くはずであるが、ここはライブハウスだ。しかもロックバンドが生演奏している。誰も、その致命的な破壊の前兆を感じることは出来ないまま、それが始まった。
遂に足を掛けている部分が外れ落ち、恵が体勢を崩した。恵は直ぐに右手で柱を掴んだが、その時には既にその柱も傾倒を始めていた。落下する恵の身体を受け止めようとした浩であったが、人ひとりの重さを受け止め切れるはずもない。床に倒れ込む二人の上に、轟音を従えて崩れ落ちる足場が容赦なく降り注いだ。運良く恵はその直撃を喰らわず、自身の落下に伴う打ち身だけで済んだが、浩はそれほど幸運ではなかった。重くて加熱した照明器具が浩を直撃した。
耳障りな悲鳴と怒号と、立ち昇るきな臭い埃が会場に充満した。浩に駆け寄った恵は、照明器具の合間で横たわる彼の動かない身体を発見した。浩は苦痛に顔を歪め、何やら呻き声を上げている様であったが、周りの騒音によってそれを聞き取ることは出来なかった。急いで、その身体を抱き起こすと、頭からの出血が恵の包帯を赤く染めた。恵は蒼白となった顔で両目を見開いた。
「だ、誰か・・・ 助けて・・・」
その声は震えていた。そして絶叫に変わった。
「誰か救急車を呼んで! お願い、助けてっ!」
頭蓋骨陥没の重傷を負った浩は、病院のベッドに寝ていた。裕明は病室前の廊下で、ベンチシートに座っている。そこに萌衣が駆け付けた。息が上がっている。騒然とするライブハウスの人混みにもまれ救急車に同乗できなかった彼女は、救急車を追って電車で駆け付けたのだ。しかし受け入れを断られ、たらい回しになる救急車があちこちに行き先を変えたので、予想以上に時間が掛かってしまった。廊下で顔を合わせた二人は、交わす言葉が見つからない。裕明が何かを言おうとしたが、それを差し置いて萌衣が病室のドアを開けた。
浩が眠るベッドの脇に、恵がジッと座っていた。彼女の服や包帯は、浩の血に染まったままだ。病室は必要以上に明るかったが、浩の横たわる一角にだけは、その光を吸収して漏らさない、薄暗い空間が居座っているように見えた。
萌衣は駆け寄ると、椅子から立ち上がった恵に平手打ちを喰らわせた。打ちひしがれる恵を見据え、その身体は怒りでワナワナと震えている。殴られた時の姿勢のまま、恵はか弱い声で言った。
「良かった。じゃぁわたし帰る・・・ この人が目覚めた時に一人ぼっちじゃ可哀そうだったから・・・」
唇を噛みしめながら、恵は病室を出ていった。ベンチに座った裕明は顔を上げることも、声を掛けることも出来なかった。恵も何も言わず、その前を通り過ぎた。
翌日、恵が再び病室を訪れると、浩の枕元には萌衣が居た。一晩中、付き添っていたのだろうか、昨日と同じ服を着たままの姿は幾分やつれているように見え、目の下の隈も痛々しい。
「何しに来たの?」
恵は何も言わない。
「貴方のせいで浩がこんな目に遭ったのよ。いったい、どの面下げて来てるの?」
「約束したから・・・」と、棘のある萌衣の口調に、恵は消え入りそうな声で答えた。
「約束?」
「ずっと一緒に居るって・・・」
萌衣は堪らず、声を荒げた。
「そんなの、貴方を喜ばせるために言ったに決まってるじゃない!」
「そんな出まかせ言う人じゃないもん」
今まで俯いて目を合せなかった恵が、真っすぐに萌衣の顔を見た。少し怒ったような言い方だ。
「し・・・ 知ってるわよ、それくらい。判ってるわよ・・・ だから困ってるんじゃないの」
萌衣は狼狽えた。自分より恵の方が浩の事を判っている様な会話の流れになってしまった事に。
そのまま暫く沈黙が続いたが、その静寂を先に破ったのは萌衣だった。部屋の隅にあるパイプ椅子を顎で示して言う。そもそも恵が事の発端だとは言え、彼女に悪気があったわけでは無いことは判っている。今の状況の責任を恵一人に押し付けてみたところで事態が好転するわけでもなく、ましてや浩の怪我が癒えるわけでもない。浩だって、そんなことは望んでいないだろう。冷静さを取り戻しつつある萌衣は、声のトーンを落とした。
「いつまでそうやって、突っ立ってるつもり? あの椅子持って来て座れば?」
チョッとだけ躊躇したが、恵は黙って言う通りにした。そしてまた沈黙が、その病室を支配した。浩の微かな寝息だけが聞こえた。その沈黙を再び萌衣が破る。
「私、最初は貴方に嫉妬していたの。浩が貴方に心を奪われているんだと思って」
ポツリポツリと萌衣が話し出した。恵は椅子に座ったまま、黙って俯いている。
「でも違った。彼は貴方に手を差し伸べていたのね。何かを求めてもがき苦しんでいる貴方を見て」
恵の顔が崩れた。込み上げる涙を精一杯堪えた。
「だけど貴方ったら、彼がいくら手を差し伸べても、それを振り払うばかりで・・・」
恵はもう涙を堪える事が出来なくなっていた。ポロリ、ポロリと流れ落ちる涙が、頬に線を残した。
「だからお願い・・・ 浩が差し伸べた手は、しっかりと握り返してあげて」
頬を伝って落ちた涙は、恵の太腿に不規則な模様を形作った。膝に添えられた両手は、グッと握られている。
「じゃなきゃ彼は、どんどん足場の悪い所に行ってしまう。今は、彼が貴方を必要としているのよ。その事を自覚して欲しいの。彼の為にも」
両手の甲をその目に当てて、恵は子供の様に泣きじゃくっていた。「うん、うん」と声にならない声を上げて頷いた。
恵が泣き疲れた頃、萌衣が声を掛けた。
「彼・・・ 薬で眠ってて、今日は目を覚まさないらしいから、また今度にしてくれる?」
泣き腫らした目で恵が聞いた。
「また来てもいいの?」
「どうぞ、ご勝手に・・・ いや・・・ 是非来てあげて。貴方の元気な姿を見たら、きっと彼も元気になれると思うから」
久し振りに恵が笑った。少し寂しそうな笑顔で。
「私、憧れてたの。萌衣さんのこと。浩さんとあんな風に演奏出来る人が羨ましかった・・・」
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