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 ママズ・コンプレインに裕明が加わって以降、かつての安定性と輝きを取り戻していた恵に、新たな局面が訪れた。バイクでツーリング中に転んで腕の骨を折ってしまった時田雄二に代わり、プライム・ノートのベースのピンチヒッターとして声が掛かったのだ。しかし、声を掛けたのは浩ではなく、ドラムの裕明であった。彼はママズ・コンプレインでの、恵とのリズムセクションを大いに気に入った様子で、恵に強く参加を呼び掛けて、その熱意に恵が折れた形だ。

 一方、浩はどちらかというと乗り気ではなかった。と言うのも、萌衣が恵の事を快く思っていないことは感じていたし、二人の衝突によって、恵が再び不安定な状況に陥りそうな気がしたからだ。しかし時田の代わりを探すのは火急の案件だったし、裕明に押されて渋々、恵のプライム・ノート入りを承諾したのである。

 もちろん、ジャズの経験の無い恵にはハンデが有ったが、主要なフレーズやテーマの部分は浩がタブ譜に落としてやり、あとは恵のセンスで乗り切ろうと言う目論見だった。事実、恵のテクニックが有れば、それも可能であるというのも、浩が了承した要因の一つでもあった。


 恵が参加して最初のライブは、神宮で行われたアマチュアバンドのフェスだ。さすがに恵は「借りてきた猫」状態で、大人しく演奏している。大学生の中に一人だけ女子高生が混じっているのだ。自由奔放な恵と言えども、バンド全体の音楽を壊すような事は出来なかったのであろう。その様子を見た浩は安心したが、逆にサディスティックな攻撃性に火の点いたメンバーが居た。萌衣だ。

 萌衣は、ことごとく浩のギターに絡み付いて来た。それは、単にソロの掛け合いをするだけでなく、伴奏中であっても萌衣の奏でるサウンドは大きく変化した。全体を包み込むように、時に突き放す様にそのニュアンスやスタイルを縦横無尽に変化させていた。それに合わせて浩のギターも微妙に、或いはダイナミックに変化し、呼応して裕明のドラムが刻むリズムにも変化をもたらした。萌衣に触発された浩や裕明も、曲調を変えるような変化を加え、お互いがお互いを鼓舞し合うようなインプロヴィゼーションの応酬となった。浩はそれを、久し振りのライブで萌衣がノッている・・・・・のだと思っていたが、その実は、そういった高次元でやり取りする音楽的な駆け引きを、恵に見せ付けるのが狙いだったのだ。元来、キーボードは音色が豊富で、ピアノやシンセサイザーも含めバリエーション豊かな世界観を演出できる楽器だ。その懐の広さは、ギターやベースなどの弦楽器に比べるべくもない。慣れないジャズで融通が利かない事も有り、恵は彼らの音楽世界に完全に飲み込まれ、そこでは息継ぎするのが精一杯であった。その技量とセンスに裏打ちされた、即興的であり、それでいて統一感の有る音作りに、恵は完膚なきまでに叩きのめされていた。こういったサウンドは、お互いが信頼し合い、長い月日をかけて築き上げた「呼吸」の中にしか産まれない。正式メンバーである時田が、ここにベースとしてどうやって食い込んでいたのかすら判らない。恵は彼らの世界を壊さない様に、下支えするだけで精一杯だったのである。


 新宿に繰り出して打ち上げようと盛り上がるメンバーに、「銀次が待ってるから」と恵が言った。確かに、大学生の飲み会に女子高生を引っ張り回すのもどうかという事である。下手をしたら、警察のご厄介になる可能性すら有るではないか。結局、恵だけは打ち上げに参加しないことになり、その代わり「今度、飯でも食いに行こう」と言う浩に、恵はただ「うん」とだけ答えた。駅で反対方向に乗る恵を、萌衣は勝ち誇った眼差しで見送った。


 暫くして、ママズ・コンプレインの活動が再開した。結局、プライム・ノートとの掛け持ちメンバーが三人もいるという事で、あまりリハーサルする時間も採らずに迎えたライブで、恵のベースが爆発した。それは、プライム・ノートでの抑圧されたプレイで溜まった欲求不満が火を噴いているかのようであった。その容赦なく攻め立てるハードなプッシュには、浩と裕明ですら真剣に向き合わないと「食われて」しまいそうだ。ベースをかき鳴らすその姿には、殺気とも言えそうな気迫がこもっていた。

 そしてライブも佳境を迎えた頃、恵が懐から何かを取り出した。右手で持ったそれを、恵が自身の左腕に振り下ろすと、そこから赤い物が噴出した。何かのパフォーマンスだと思った観客から大きな歓声が上がったが、最前列に居た数名は目を見開いた。そしてPAの音量を上回る悲鳴がライブ会場をつんざいた。カミソリであった。恵は自分の身体を傷付けたのだ。

 観客の異常な反応に気付き、演奏を中断し駆け寄る浩に、恵は笑いながら言った。

 「あははは。わたし、ノッてきたよ」

 ギターを放り投げた浩は、騒然とする会場を後にして恵を楽屋へと引っ張って行く。その間も恵は、驚愕のあまり言葉を失った観客に嬉々として手を振っていた。浩はギターストラップで応急的な止血を施し、裕明の車に恵を押し込んだ。三人を乗せた車は渋滞に捕まりながらも、一路、病院へ向かった。ステアリングは裕明が握った。浩は助手席に座った。その車中でも、気持ちの高揚を抑え切れない恵は、後部座席で平気な顔で喋り続けている。おそらく過剰に分泌されたアドレナリンのおかげで、痛みを感じないのであろう。浩も裕明も前を向いたまま、恵の言葉に反応する事は無かった。


 救急に運び込まれた恵は、直ぐに七針も縫う処置を施された。幸い傷は浅く、筋肉や腱には損傷は及んではいないようだと医者は言っていた。それを聞いた裕明は安心し、そのままにしてきたライブ会場の後始末のため、再び会場へと戻って行った。楽器だって放ったらかしのままだ。浩は待合室で一人、術後の処置が終わるのを待った。既に、通常の診察時間を過ぎた病院では、ナースステーションから聞こえる時計の微かな音が、薄暗い救急の廊下に染み渡っていた。

 暫く待つと、左腕を包帯でグルグル巻きにされた、痛々しい姿の恵が姿を現した。そして浩の姿を認めて笑った。「えへへ」と言ってペロリと舌を出す。一次的な陶酔から醒めたような、気恥ずかしい風だ。浩は待合室のベンチシートから立ち上がると、ツカツカと詰め寄る。そして恵の左頬を平手で打った。

 恵は右に顔を背ける様にして、黙って痛みに堪えた。その視線は病院の床を見つめている。浩は恵の両肩を掴み、そして揺すった。

 「どうして欲しいのか言えよ! 何でもしてやるから、はっきりと言えよ! 俺はどうしたらいいんだよ!」

 顔を上げた恵は、浩の顔を見つめながら言った。

 「一緒にいてよ・・・ これからも、ずっと一緒にいて」

 一瞬、唖然とした浩であったが、直ぐに脱力した様に肩を落とすと「ふぅ」と息を吐いた。傷口を労わる様にそっと抱き寄せて「あぁ」と呟くと、恵は浩の肩に顔を埋めながら泣きそうに顔を歪めた。それでも歯を食いしばって涙を堪えた。


 恵を駅まで送ってアパートに戻ると、ベッドに腰かけた萌衣が待っていた。今日のライブでの騒動は、既に裕明から伝わっている様だ。浩が肩からギターケースを降ろし、それを壁に立てかけると直ぐに萌衣が立ち上がり、そして抱き付いた。

 「浩、もうあの子と付き合うのはやめて。何だかあなたが、どんどん消耗してゆくようだわ」

 浩も萌衣を抱き締めた。

 「大丈夫だって・・・ ちょっと疲れただけさ・・・」

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