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 学生たちでごった返す学食は喧騒に包まれていた。こういう時にテーブルを確保するのは至難の業だが、二人は要領よく隅の席を確保し、向かい合って座っている。ただ、萌衣は疑うような視線を浩に向けていた。コーラの入ったカップの氷をストローで弄びながら聞いた。

 「ふぅ~ん。で、そのバンドのギター、引き受けたんだ?」

 「まぁね。でも、プラノーの方を優先するから、その合間で付き合うって約束になってる」

 ほんの少し、沈黙が場を満たした。萌衣の視線が痛い。

 「ふぅ~ん。で、そのベースのって、可愛いの?」

 そこで正直に「カワイイ」と言えば、萌衣が膨れっ面になるのは目に見えている。下手をすると氷と一緒にコーラが飛んできそうだ。かと言って「そうでもない」などと嘘をついたところでいずれバレるし、その無理やり感がかえって状況を悪化させそうだ。思い余った浩は話をすり替えたが、それはかなり白々しかった。

 「そうなんだよ! あの娘、すっげー上手いんだよ!」

 萌衣の氷の様な冷たい視線がますます冷え込んで、凍て付いた目力に背筋が凍り付いた。蛇に睨まれた蛙って、きっとこんな気持ちなんだろうと、妙な同情心が湧いた。しかし、浩がコーラのシャワーを覚悟した瞬間、プライム・ノートのパーカッション担当、新田茂が学食に姿を現した。その人の好さそうな、或いは人を小馬鹿にしたような顔が天使に見えたのは、後にも先にもその一度きりだ。

 「よっ、菅ちゃん! 高校生のバンド、手伝うんだって?」

 浩は「九死に一生を得た」とは、こういう時に使うのだろうと胸を撫で下ろす。なおも冷たい視線を投げかけ続ける萌衣には、気付かない振りを貫き通すしかあるまい。それ以外に浩が生き残る道は残されていなかった。

 「そうなんですよ、先輩。来月、渋谷のライブハウスに出る予定らしくって、急いで何曲か仕上げないとダメなんすよ」

 「ロックバンドって聞いたけど、最近の高校生ってどんな曲やるの?」

 「それがボーカル無しのインストゥルメンタルなんです。良かったら聴きに来て下さいよ」

 「へぇ~、インストねぇ。あぁ、都合が付いたら行くよ」

 その時、空になったカップを少々乱暴に「ダン」とテーブルに置いた萌衣が言った。浩は首をすくめた。新田が目を丸くした。カップの中の氷がマラカスの様な音を立てた。

 「私、聴きに行くから。いいでしょ?」

 「も、もちろん、構わないよ。ってか、一緒に行こうよ」

 その提案には答えず、萌衣が席を立つ。

 「じゃぁ、私、次の講義が有るから」



 「去年の東央の学際でプラノー見ましたよ。菅野さんたち、ダントツでカッコ良かったっす」

 小田川大地はドラムセット前に座り、タムタムドラムヘッドの張りを調整しながら言った。大地は優等生風で、恵と一緒にロックバンドを組んでいるのが不思議な感じすらした。ただ、優等生と言っても気難しい印象とか、ひ弱な印象は与えず、人懐こいタイプで、初対面で年上の浩とも気さくに会話できるようだ。色んなジャンルにも潰し・・が効くドラムという楽器の常として、恵に付き合わされているのかな、とも思いながら、浩もチューニングしつつ答えた。

 「サンキュー。学際に来たってことは、受験はウチの大学受けるのかい?」

 「えぇ、多分。でも、本命は慶陵の法科です」

 「ひぇー、慶陵かよ! 慶陵から見たら東央なんて滑り止めだな」

 「そんなこと無いっすよ。東央の法科は一流じゃないっすか」

 「法科はね。法科だけは一流なんだよ、ウチの大学は。ちなみに俺は工学部です、すみません」

 「進路相談は終わったかしら?」

 恵が腰に手を当てて、いたずら小僧たちを見下ろす母親の様に立っていた。


 恵から連絡を受けていた数曲を軽く合わせて、「これなら直ぐに形になりそうだ」と思った浩は、恵に注文を付けた。かなりハードな選曲なのに、恵のベースが大人しい感じがしたからだ。そもそもギタートリオで、ましてやボーカルの居ないインストで、ベースが引っ込んでしまっては面白みが無い。ギターだけが前に出た音なんか聴き続けたら、ギタリストであったとしても飽きてしまうだろう。

 「このオープニングのリフ、恵も一緒に弾けよ」

 「えぇー、出来ないよ。アンタみたいに、そんなに速く指動かないって。タッピングだってしてるんでしょ?」

 「大丈夫だよ、出来るって。てか、このリフをユニゾンでぶちかまして、最初に一発、ガツンと喰らわせようぜ。大地も要所要所では、もっと手数を増やしていいと思うぞ」

 大地が「了解」という具合に敬礼をするのに対し、恵はまだ心配そうだ。

 「でも・・・ できるかな? ちゃんと音出せないと思う・・・」

 「恵なら出来るって。スラップ使ってもいいよ。最初にこれで度肝を抜けば、『女の子がベースかよ』っていう色眼鏡なんか吹き飛んじまうぜ」

 元々恵は、充分に練習を重ねて完璧な演奏を行うのではなく、その場のノリでアドリブを重ね、メンバー同士が競い合うような、丁々発止のハイテンションな演奏を好んでいた。浩としても、そういった演奏の方が楽しいので、恵にも大地にも、もっと自由に弾く様にと導いた。グチャグチャになりそうな時に上手くまとめて形にするには、そういった場数を踏む必要が有る。テクニック的には申し分の無い二人に、浩は「自由」というスペースを与え、もうワンランク上の音楽を創出する喜びを教えていったのだ。

 そして、そんな練習を何度か積み重ねた後、渋谷でのライブ当日となった。


 古ぼけたビルの一階は、あまり繁盛しているとは言い難い不動産屋であった。その通りに面したガラス面には、何枚もの物件情報が貼り出されていたが、その一部は「いつから貼られているのだろう?」と思わせる様な、黄ばんだ紙が使われている。その不動産屋の右側に地下へと続く、狭くて薄暗い階段が有り、その降り切った先が今日の演奏を行うライブハウスとなっていた。音楽や生演奏などに興味のない人間は、おそらく決して足を踏み入れる事の無い禁断の領域と言っていい。


 会場裏の狭いスペースが楽屋代わりとなっており、ママズ・コンプレイン以外にも、二つばかしのバンドが演奏順が来るのを待っていた。狭い空間にひしめき合っているという感じだ。一つは、黒いフェイクレザーのお揃いで決めた、パンク系と思わせる高校生バンド。もう一つは大学生の様 ──少なくとも東央のキャンパスでは見たことのない奴らだ── だったが、TシャツとGパンで音楽ジャンルは不明。そのむさ苦しさからロックではなさそうだが、ギターがオープンGボトルネックを持っているところを見ると、おそらくブルース系だろうか? 浩は「D.オールマンとかJ.ウインターみたいなサウンドだったら、聴いて帰ってもいいかな」と思った。


 浩がいつもと違うソフトケースからギターを取り出すと、例の女子高生スタイルの恵が目を輝かせた。

 「今日はストラトなんだ!?」

 取り出したのは、白いピックガードとローズウッドの指板を持つ、フェンダーの白いストラトキャスターであった。浩がいつも使っているギブソンのEー335とは、だいぶその個性や音色が異なるギターだ。

 「セミアコのイメージしか無かったから、すっごい違和感」

 「おいおい『違和感』って言うなよ。せめて『新鮮』とかにしてくれよな」と言いながらチューニングを始めると、恵が更に食い付いて来た。

 「そんなギター、持ってたんだね?」

 「まぁね。最初に買ったギターがこれなんだ。押し入れで埃被ってたんだけど、このバンドにはこっちの方が合ってるかなって。ちょっとボリュームにガリが出てるけど、そのうち修理するよ」

 「うん! そっちの方が絶対いいよ!」

 「そう言う恵の、ナチュラルのジャズべはロックっぽくはないけどな」

 「じゃぁ、新しいの買ってよ!」

 「おこずかいを貯めて、自分で買え」


 パンクの高校生による学園祭の様な演奏が終わると、次にママズ・コンプレインの順番が回って来た。疎らな拍手に送り出された満足げな彼らと入れ替えに、薄暗いステージで準備を進める。ステージと言っても、大コンサート会場の様な立派な物ではなく、六畳ほどの、高さ二十センチの段差と言った方が良い。ステージ上は狭く、これなら廃工場の練習場の方がはるかに広い。いつもより極端に近い恵と大地の方が、浩にとってはよっぽど違和感であった。

 足元に並べるエフェクター類もいつもと毛色が違う。それだけ見ても、全く違う音楽ジャンルであることが判ると言うものだ。それらの準備が完了し、会場全体が静まり返った。テーブルに着く観客らのひそひそ声が聞こえた。

 「ベース、女の子じゃん」

 「ボーカル居ないみたいだな」

 「どんなバンドか知ってる?」

 予想通りの反応が漏れ聞こえてきた。それらを無視して、二人に目で合図を送ると、二人からも同様の合図が帰って来た。一呼吸おいて、浩がリフを弾き始める。ピックアップリアに設定して、硬質な音を使っている。解放弦を多用し、タッピングもするトリッキーなリフが狭い会場に響き渡り、次に大地の手数の多いドラムが覆い被さると、予想を裏切るハードなサウンドが観客の度肝を抜いた。そのショックから立ち直る暇も与えず、次に恵のベースが加わった。ギターとベースは、完全なユニゾンで同じリフをかき鳴らし、その分厚い音が観客の内臓を揺り動かす。オクターブ違いの二人は、速いパッセージを挟んでリフからリフへと移行した。ベースでこんなフレーズが引ける奴は、そうそう居ないはずだ。恵は完全にそれをモノにしていた。

 リフを数回繰り返したところで、「ダン!」と、三人が一斉にポーズに入った。その一瞬の静寂を突いて恵がマイクスタンドに近付く。

 「Do you hear what I sa-a-a-a-a-y?」と、女子高生とは思えぬセクシーなボイスを挟むと、再び三人はあの暴力的とも言えるリフを再開した。ライブハウス全体が揺り動かされていた。その衝撃的なサウンドに、全員が鳥肌を立てていた。観客から歓声が上がる。他のバンド目当てで来ていた客も、ママズ・コンプレインの演奏に飲み込まれていった。

 「このバンド、半端ねぇーっ!」

 「スゲーよ! カッケーよ!」

 「あの女の子、めっちゃ上手いじゃん!」


 盛大な盛り上がりを見せる会場を、ひっそりと後にする一人の影が有った。薄暗い会場の隅で、見つからない様に潜んでいた萌衣である。彼女はママズ・コンプレインの演奏に衝撃を受けていた。それは、演奏そのものではなく、浩のロックギタリストとしての側面を知ってしまったからだ。プライム・ノートでは決して見せない、ある意味、攻撃的とすら言えそうなギターは、萌衣の知らなかった浩の一面だ。自分にすら見せたことの無い姿を、浩はあのに見せているのだ。いや、あのが引き出したと言うべきか。

 萌衣はジメジメした階段を昇りながら、複雑な心境を抱えていた。階段側面の壁には、剥がれかけた安っぽいビラが所狭しと貼り付けられ、参道を見守る宗教的な彫像か何かのように見えた。そう、この参道の奥では、人類が創出した物の中で最も強力で慈悲深く、それでいて平和的な「音楽」という宗教が、その信者たちの心を揺さぶっている最中なのだ。階段を昇り切るとそこには、今、この地下で何が起こっているのかを知ることも無い人々が行き交う、いつもの渋谷の風景が有った。

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