1-2

 翌日、浩が学食で豚汁ライスなる底辺の食事をしていると、向かいの席に座った裕明が言った。昨日のお茶の水で出会った女子高生の話だ。

 「で結局、その娘とったのかい?」

 「ってねぇよ、まだ」

 「まだってことは、るつもりなんだな?」と、コーラのペットボトルを開けながら聞いた。

 「ま、まぁな・・・」浩は箸で里芋を突きながら答えた。

 「萌衣ちゃんには言ったのか?」

 「言うわけ無ぇじゃん! 言ったら殺されるって! ってか、絶対に言うなよ!」

 里芋で顔を指差しながら念を押すと、椅子の背もたれに大袈裟に寄りかかりながら、天井を見上げて裕明は言う。

 「いいねぇ、ギターはモテるから。俺なんかドラムだし~」

 「ばっ! そういうんじゃねぇつってんだろっ!」

 そこで浩は、女子高生との約束の時間が近付いていることに気付き、テーブルに広がった雑誌やらを急いで鞄に仕舞った。そしてトレーを裕明の前に押し出した。

 「悪ぃ、これ食べていいから片付けといてくれないか?」

 「あぁ、いいよ。毎度ありぃ~」

 浩は時計を気にしながら、地下一階の学食から地上に向かう階段を、小走りに登っていった。そこに萌衣が現れた。

 「あれ、浩だよね? なに急いで出ていったの?」

 裕明は息を吐く様に嘘をついた。いや、嘘ではなかった。本当のことを言わなかっただけだ。

 「さぁ。何か用事が有るってさ」

 「ふぅ~ん・・・」


 彼女はJR御茶ノ水駅の総武線、千葉・船橋方面のホームで待っていた。最後尾付近の柱に寄りかかり、ヘッドフォンで何かを聞いている。例の艶めかしい服で、その眩しい脚が遠くからでも彼女の存在を主張している。周りを行き交うサラリーマンたちは、彼女の健康的ではち切れそうな太腿に目を奪われ、危うくホームから転落しそうになる始末だ。

 後ろから近づいた浩が声を掛けても聞こえないらしい。ヘッドフォンで大音量の音楽でも聴いているのかもしれない。仕方なくその肩を軽く叩くと、彼女が振り返った。その顔がパッと明るくなり、むしり取る様にヘッドフォンを外す。そしていきなり「行こうっ!」と言って浩の左腕に絡み付き、そのまま電車の到着を待つ行列に加わるために歩き始めた。

 まてまて、女子高生と腕を組んで電車に乗る大学生? そりゃマズイだろ? 都条例に引っかかる直前だろ、それって? だが彼女は、その手を放してくれそうも無い。いや、ひょっとしたら仲の良い兄妹に見えるかも? ダメだ、そんな希望的観測で行動しては、後で痛い目に遭うに違いない。そんな葛藤に苦しむ浩を気にする様子も見せず、彼女は千葉行の電車に浩を連れ込んだ。


 並んで座る電車の中、彼女は一人ご機嫌な様子だ。特に何も喋らなくても気まずい感じにならないのは、浩にとって何よりも有難かった。だって、女子高生と何を話せばいいと言うのか? 今時の女子高生が、どんな会話をしているのかも知らないし、知っていたとしても、その会話を続ける自信は無い。そんな冴えない自分を発見するたび、自分が田舎者であることを痛感するのだった。とは言え、ずっと黙っているのも何なので必死に話題を探した結果、首から垂れているヘッドフォンに目が行った。

 「何聴いてたの?」

 彼女は目を輝かせて、浩の顔を見る。

 「これっ!」

 彼女はやっと手を放し、浩の左腕を自由にしてくれた。代わりにポケットからスマホを取り出してログインすると、駅で聴いていたアルバムのジャケットを見せる。ジェフ・ベックの名盤『Blow By Blow』だ。

 「ひぇ~。随分と硬派なのを聴いてるんだね?」

 「ボーカル物はあんまり好きじゃないんだ」彼女は目を輝けせて続けた。

 「女子高生はみんな、ジャニーズとか聴いてるとでも思った?」

 悪戯っぽく笑う彼女に、浩は言った。

 「そういう訳じゃないけど・・・ ってか、まずはお互いに自己紹介しないか?」


 彼女の名前は樋口めぐみ。決してAV女優が女子高生のコスプレをしているわけではなく、正真正銘の女子高生らしい。ただし、今着ている服は、恵が通う学校の制服ではなく、彼女が言うところの「女子高生っぽくてカワイイ衣装」だそうだ。そういった意味から、やはりコスプレしていると言っても差支えないのかもしれなかった。

 「だと思ったよ。その短すぎるスカート、絶対校則違反だと思うから」

 そう言う浩に恵が返す。短過ぎることは認めているらしい。

 「だってウチの学校の制服、超ダサいんだもん。全っ然カワイくないの!」

 恵が着れば、何だってカワイイだろうにと思ったが、何だかオヤジっぽくてあえて言わなかった。変態オヤジと思われるのは耐えられない。逆に恵が言った。

 「へぇ~、アンタ東央大学なんだ? そこそこ、頭良いんだね」

 女子高生に「アンタ」呼ばわりされることの方が、「そこそこ」扱いを受ける以上に違和感が大きかったというのが本音だが、恵のキャラからして「アンタ」と呼ばれるのが、最もしっくりくると思えたのも事実であった。事実、東央大学なんて「そこそこ」の大学でしかないし、そこに目くじらを立てられるほどのブランドではない。


 恵が「ここ」と言って下車した駅は、未だかつて利用したことの無い「総武本線、幕張駅」であった。改札を出た二人は海に向かって、入り組んだ町の細い路地をジグザグに進む。コンベンションホールなどで有名なのは「京葉線、海浜幕張駅」であり、在京プロ野球チームのスタジアムが有ったり、それは都会的でお洒落な一角だ。だが二人が降り立ったのは「海浜」の付かないただ・・の「幕張」である。そこには都会的とはかけ離れた雰囲気を醸し出す、少し薄汚れた印象の街である。辺りは背の低い建物が並び、なんとかコーポだのなんとかハイツといったアパート、マンション系の他に、老人ホームやらクリニックが目立つ。いわゆるベッドタウンという扱いなのかもしれないが、住人の平均年齢が高そうな印象を受けた。少なくとも、若者向けの何かが有るという感じはしない。名も無い、と言ったら叱られるかもしれないが、そこには正に名も無い中小企業がひっそりと息づいていた。

 恵は後ろを振り返る事もせず、ただ黙々と歩き続けた。浩も黙ってそれに続く。もし、恵に出会わなければ、一生、立ち寄る事など無いであろうと思われる街をこうして歩いていると、何だか不思議な感じがするのであった。

 「何処に行くんだ?」と聞いても、「こっちこっち」とか「うふふ・・・ いいところ」としか答えない。背の高い恵の尻は高い位置を保ったまま、例の・・目のやり場に困る太腿の動きに合わせて、男を誘惑するかのように左右に振れた。浩は、好きな所に連れて行けばいいさ、もうどうにでもなれという気分であった。


 いくつかの交差点を過ぎ、恵は大きな通りに出た。それは国道14号線。いわゆる千葉街道と呼ばれる幹線道路で、行き交う車は多い。首都高湾岸線、京葉道路と並ぶ、この海浜地区の大動脈と言ってよいだろう。大型トラックが巻き上げる粉塵と排気ガスを浴びながら、その通りに沿ってさらに進むと、打ち捨てられたような工場が見えてきた。と言っても、建物自体が朽ちているわけではなく、倒産した工場が、誰にも顧みられることなく、ただそこに鎮座しているといった印象だ。建物を解体するにも金がかかることを考えれば、そういった廃墟化した建屋が、そのまま放置されているのは何ら不思議なことではない。その裏手には、また別の工場が立っており ──そちらの工場は、幸いにも操業を続けているようだ── その廃工場は、大通りと活きた・・・工場の狭間に立っていた。直ぐ近くには民家も無いようで、おそらく夜間は、そんな廃墟に出入りする人間を監視する物好きもおらず、きっと誰からも咎められることは無いだろう。その廃工場と恵にどの様な関係が有るのか、或いは無いのか、それは判らなかったが、ひょっとしたら倒産した工場の社長令嬢みたいな感じなのだろうかと想像を巡らせる。


 何の躊躇も無く、すたすたと工場に入って行く恵に続いて中に入ると、そこには既に生産設備が取り払われた、だだっ広いスペースが有った。床には設備を固定していたのであろうアンカーの痕が規則正しく数学的なドットを刻んでおり、かつてはその機械たちがうるさい音を立てながら何かを生産していたに違いない。人件費の安い中国、東南アジアにその責を明け渡したのであろうか、今はその面影も無く、床に残る油染みが寂しく過去を物語っていた。何かの書類を綴じた布バインダーが床に放置されたままで、部屋の隅には何か ──それらはきっと、かつては重要な物だったに違いない── を詰め込んだまま放置されている段ボール箱が3個、積み重ねられて埃を被っている。そこはまるで、打ち捨てられた近未来の廃墟のように思えた。


 そのスペースの真ん中に、ヤマハの黄色いドラムセットとVOXのギターアンプ ──おそらく Pathfinder シリーズだと思われる── 、それからAMPEGの良く判らないモデルのベースアンプが置いてあり、其々のアンプには、メーカー不明のチェリーサンバーストレス・ポールと、ナチュラルカラーのフェンダーのジャズベースが立てかけてあった。その廃工場は、彼女たちのバンドの練習場なのだ。

 あの御茶ノ水の楽器屋で「私とらない?」と言って差し出した右手を取り握手した際、その親指のサムピング・タコに気付いた浩は、彼女がかなりのベースプレイヤーであることを、即座に見抜いていた。「うふふ」と含み笑いで見つめる恵に、浩は尋ねた。

 「電源はどうしてるんだ?」

 「電気代はちゃんと払ってるんだぁ。あっちの壁のブレーカーを上げたら普通に電気が来て、その翌月から東京電力が普通に、請求書を工場の郵便受けに入れてくるようになったの。だから私が普通に工場名義で振り込んでる。倒産した工場の郵便受けにも、毎月、請求書を入れるなんて律儀だよね。あはは」

 「電気を窃盗・・してるわけじゃないんだな。でも冷暖房完備ってわけにはいかなそうだな」

 「そうなの! 夏はクッソ熱いし、冬はクッソ寒い! どうにかなんないかな?」

 どうにもならないだろう。直火の暖房器具を持ち込むのは問題が大きそうだし、かといってエアコンを設置するのも難しそうだ。この広い空間をエアコンだけで冷やしたり温めたりしたら、いったいどれ程の電気代がかかるやら・・・。

 「じゃぁ、水は?」

 「水道は死んでる。だからトイレに行きたい時は、近くのコンビニまで行かなきゃならないの」

 「おぉっと、そりゃ面倒だな。水道は電気みたいに、勝手に使い出しちゃダメだったかな。確か水道局に電話して、開栓の報告が必要だったと思うが・・・」

 東京に出て来て一人暮らしを始めた頃、そういった手続きを色々やったはずであるが、その当時のことを思い出そうとしても何も出てこない。まったくもって、人の記憶ほど当てにならないものは無い。それを忘れていることにすら気付けないのだから。たった一年で何でも忘れてしまう事に驚く浩であった。

 「そうかもね。今度やってみるね」

 恵は「メモメモ」と言いながら、手のひらに文字を書く仕草をした。

 「じゃぁ、本題に入ろうか? ベース、弾いてみて」

 「私がベースだって、判ってた?」

 恵はニヤリと笑った。

 「まぁね。この状況なら、確率は三分の一。いや、俺がギターだから二分の一か」

 「さっすがぁ~」と言いながら、恵はベースアンプのスイッチを入れ、その上に腰かけながらチューニングを始めた。浩がギターを始めた頃は、音叉でAを採ったりして、あとはハーモニクスで合わせたものだが、今はチューナーで合わせるのが当たり前らしい。あの、キーボードに向かって「Aをくれ」というくだりは、もう古き良き時代の一コマなのか。チューニングする恵を見ながらそんな感傷に浸っていると、彼女がおもむろに弾き始めた。


 それは、「べべべべべべべべ、べべべべべべべ・・・」と、コード進行に合わせてベース音を八分音符で刻むような、退屈極まりない演奏とはかけ離れていた。決してひと所には留まらず、細かい上下を繰り返しながらコードからコードへと縦横無尽に動き続け、時にテンションコードを想定したりしている。時折挟み込まれるスタッカートポーズが、心地よいタイム感に裏打ちされたフレーズ全体に脈動を付与し、ツーフィンガーのアポヤンドスタイルで弾かれる微妙なアクセントが、生き生きと歌っていた。

 「この、センス有るな」浩は直ぐに、それを感じ取った。

 そのグルーブ感溢れるフレージングは、ロックというよりむしろジャズやファンク系のベーシストと思わせたが、本人はロックにしか興味が無いと言う。というか、ロックしか聴いたことが無いということだろう。その、恵が所属するロックバンド、ママズ・コンプレインのギターとして参加してくれないか、という依頼だったのだ。

 好き勝手に色んなフレーズを奏でる恵の前を通り、浩はそこに有ったレス・ポールを手に取り ──取り上げてみてみると、メーカーはギブソンではなく、TOKAIとあった── ギターアンプのスイッチを入れた。それを見た恵はアドリブの演奏を続けながら、その顔に期待の色を浮かべた。ワクワクが止まらないといった様子だ。ベースの音に合せてチューニングをする。そして「何で合わせようかな?」とちょっと考えて、電車の中でのジェフ・ベックを聴いているという会話を思い出した。そこで、ベースが比較的自由な裁量で弾けそうな代表曲の一つ “Freeway Jam” を弾き始めると、恵も直ぐに合わせて来た。

 その後も色々な曲 ──誰もが知っているような有名なスタンダードナンバーを── を合せ、浩は久し振りにロックの楽しさを満喫した。こんな感じは、秋田での高校生の頃以来だ。大学に入学してからはジャズに傾倒してきたが、やはりロックもいいもんである。恵も楽し気な様子で演奏を満喫していたが、そのテクニックときたら浩すら舌を巻く程で、彼女と一緒であれば、ジャズにも負けない質の高いロック・・・・・・・を生み出せそうな予感がした。


 「前のギターが辞めた理由は?」

 「あたしがクビにしたの。だってアイツ、だっせーんだもん!」

 「だっせーって、見た目の話か? 俺がダサくないってわけじゃなかろうに」

 「見た目じゃなくってさ。ギター演奏そのものだよ。あいつ、練習した通りにしか弾かないんだよ。ダサくない? 私が練習と違うことすると『お前、それ間違ってるよ』って顔で見てくるし、私がわざとやってるって気付いた後は、別の意味で『お前、それは間違ってるよ』って感じ」

 恵は「信じられない!」といった様子で、大袈裟に肩をすくめる。

 「あぁ、アドリブはしないってタイプか。そういう人は居るよね。じゃぁ、ドラムは居るのか?」

 「居るよ、同級生の大地君ってのが。結構、上手いんだ」

 「ほぅ・・・」

 これだけのテクニックを持つ恵がそう言うなら、そのドラマーもそこそこの腕と見てよかろう。

 「ボーカルは?」

 「ボーカルは居ない、っつうか要らない。ボーカルの奴ってさ、変に勘違いしてる奴ばっかりじゃん! そういうのはチョッとって思わない?」

 「その発言に関しては、否定も肯定も出来ないな。気持ちは判らんでもないが・・・ ちなみになんで俺を? 俺は普段、ジャズやってるのを知ってるんだろ?」

 「わたし、ジャズって黒人さんがラッパ吹いてるイメージしか無かったの。でもフェスに出てたプラノーの演奏聴いて、これもジャズなんだ、ってショック受けたんだぁ」

 この時の恵の瞳はキラキラと輝いて見えた。

 「まぁ、そのイメージ通りのがジャズと考えていても間違いではないんだが・・・ 今ではもっと色んな系統・・のジャズが有るよ。そういった意味では、プラノーはジャズ系・・・・と言うべきかもしれないけどね」

 「でね。フェスに出てたアンタとピアノの掛け合いを聴いた時、これは私のやりたい音楽と似てるって思ったのさ」

 浩は心の中で「なるほどね」と合点した。恵のベースは、まさにそういう演奏に特化した個性を持っている。

 「で、どう? 私とる?」

 恵は瞳をクリクリさせながら聞いた。その表情はまるで、クリスマスプレゼントが待ちきれない少女の様だ。

 「あぁ、るよ」

 恵は「やったぁ!」と言って浩に抱き付き、その頬にキスをした。その弾みで、ギターとベースの弦同士がぶつかり、「グワン・・・」と大きな音がした。恵は浩の顔を見つめながら「えへへ」と笑った。浩も笑った。

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