第二章 : 銀次
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普段は大学の仲間とジャズを演奏し、時々、高校生とロックを演奏することは、浩にとって新鮮な経験であった。秋田でロックバンドに参加していた頃を思い出し、あの当時のワクワクを追体験している様な気分だ。しかし、そんなママズ・コンプレインとしての何度目かのライブ当日、恵が遅刻をするという事件が発生した。
夜7時からの演奏予定にもかかわらず、7時半になっても現れず、携帯に電話しても出ない。仕方なく、他のバンドと演奏順を代えて貰い、8時前になってやっと顔を出した恵が言った。
「ごめん、ごめん。間違えて池袋に行っちゃった」
ライブハウスとの調整は恵が自分でしたはずだ。それなのに場所を間違えたとは考え難い。浩はそれを、子供じみた言い訳だと思った。元来、時間にルーズな人間が嫌いなので、きつく叱責しようかと思わないでもなかったが、いい大人が女子高生相手にキレるのもみっともないか? 浩は「ちゃんとしろよ」と言うだけに留めた。しかし恵がちゃんとする事は無く、その後も、同様のいい加減さが続いた。
そんな不真面目な態度が改善されることも無く迎えたあるライブの日、恵が珍しく時間通り現れた。そしていつもの様に演奏していると、突然、恵があるエフェクターを踏んだ。普段であれば、
ある曲が終わり、彼女がおもむろにそれを踏むとベースの音が変わった。ハードロックと言うか、ヘヴィメタルの様な歪んだ重低音がライブ会場を満たす。そして恵は、聞き慣れないリフを勝手に奏で始めた。
「何っ!? "Purple Haze" だと!?」
驚いて目を合せる浩と大地をよそに、恵は何かに憑りつかれた様にジミヘンを弾き続けた。二人は慌てて恵に合せる。と言っても歌詞を覚えているわけではないのでボーカルは取れない。仕方なくアドリブのギターソロで間を埋めると観客は面白がり、かえって盛り上がっていた。恵がガッツポーズをすれば、観客たちも声援を送った。ライブは、これまでにない盛り上がりを見せていた。
しかし、この様に上手く合わせられる時は良いが、いつもいつもキッカリ演奏できるわけではない。特に恵がどんな曲を弾き始めるか判らないので、場合によってはベースだけで一曲終わってしまう事もある。それが曲としての形になっていればまだ良い方で、酷い時には出来の悪いフリージャズの様に、ただの騒音の羅列になってしまう事すらあった。そんな時は、観客は呆然とするのみで、盛り上がるどころかむしろ対応に困って、ザワザワとするだけだ。
「勝手な曲を弾くのはやめろ」と言っても、恵は意に介さず、よくライブそのものを滅茶苦茶にした。大地と二人になった折に聞いてみたが、恵がそんな行動に走る理由は判らないと言う。
「以前はあんなんじゃなかったんすけどねぇ・・・ 家庭で親父さんとお袋さんが上手くいってないって話なんで、その辺のストレス解消してるのかもしれないっす」
そうか。そんな問題を抱えているのか。そんな恵の、破壊衝動にも似た奇行に触れる度、浩は彼女の心の中に巣くう、暗澹たる何かを感じるのであった。
次第に、恵の奇行はステージ上だけに留まらなくなっていった。あるライブの帰り、大地は友達とカラオケに行くと言って離脱し、二人で駅に向かって歩いている時だ。普段の目に余る恵の行動に、浩が苦言を呈した。
「最近、どうしたんだ? なんでライブをぶち壊す?」
「ぶち壊してなんて無いよ。楽しけりゃいいじゃん」それは、恵の口癖になっていた。
「ぶち壊してるよ! こんなこと続けてたら、客が離れて行っちまうぞ。ちっとも楽しくなんかないし・・・」
「あっ! 猫!」
既に恵は、浩の言葉に耳を傾けてはいなかった。その代わり、道路の真ん中で動けなくなっている子猫を見付けて指差した。片側二車線道路の真ん中で、走り過ぎる車に恐れをなして固まっている。そんな猫の存在に気付かぬドライバーは、減速することも無くその真横を高速で通り過ぎていく。猫に気付いたドライバーでさえも、若干スピードを緩めて大きく蛇行して避けるだけで、決して停車して助けてやろうとはしない。その瞬間、恵は周りを確認することも無く道路に飛び出した。
「おぃっ! 危ないっ!」
浩の声が、急ブレーキの音にかき消された。けたたましく鳴るクラクションがそれに覆いかぶさる。ウインドウを開けたドライバーからは怒号も飛ぶ。しかし恵は一直線に子猫に駆け寄ると、その小さな体を抱き上げた。浩は周囲の車に両手を掲げて制止しながら、自分も道路に出た。怒り心頭のドライバーたちにペコペコと頭を下げながら。道路の中央まで来て恵に怒鳴る。
「何やってるんだっ! 危ないじゃないかっ!」
危うく車に轢かれるところだったにも関わらず、恵は浩の方を振り返りながら「私、この仔を飼う!」と言った。浩はかける言葉を失い、その顔を見つめる事しか出来なかった。
二人はそのまま、幕張の練習場に向かった。飼うと言っても、恵の自宅に連れ帰る事は出来ないし、浩のアパートで飼えるわけでもない。仕方ないので、いつもの練習場に行くしかなかったのだが、ケージにも入れず腕に子猫を抱いて電車に乗れば、当然、乗客達から白い目で見られる。人間の都合など御構い無しに、子猫は「ニャァニャァ」と鳴いた。乗客たちの好奇の視線に、浩は恐縮しかりであったが、恵はそんな周りには気付かないのか、或いは無視しているのか、いっこうに構わない様子だ。むしろ、「お腹空いてるのかなぁ」とか「お母さんとはぐれちゃったのかなぁ」などと、しきりに浩に話しかけてきた。
途中のコンビニで餌になりそうな物を買い込んで練習場に着くと、子猫は一心不乱に魚肉ソーセージを貪り始めた。栄養状態は良くなく、痩せ過ぎの身体が痛々しかった。あばらの浮き出た脇腹に対し、ポッコリと膨らんだ腹は寄生虫が巣くっていそうだし、目ヤニも溜まっていて、とても健康体とは言えない。口周りと手足だけが白い黒猫だったが、体毛の艶も無く酷い有様だ。それでも、そんな仔猫の背中を撫でながら、魚肉ソーセージに食らいつく姿を心配そうに見つめる恵に浩は言った。少し呆れた様な、諦めた様な様子で。
「ここで飼うんだったら、猫砂を用意しなきゃダメだぞ。あと、水も」
「猫砂? 何それ?」
魚肉ソーセージを食い終えた仔猫は、今は恵の足にスリスリしていた。
「猫のトイレだよ。そんなことも知らずに飼うって言ってたのか?」
「へぇ~、アンタ、猫に詳しいんだ?」
恵は子猫を顔の前に抱き上げて、鼻と鼻をくっ付けた。子猫は「ニャァ」と鳴いた。
「まぁね。子供の頃からずっと、家に猫が居たからな」
恵に抱き上げられた仔猫の鼻の辺りを、人差し指でクリクリしながら浩が続けた。
「名前、決めたのか?」
「銀次」と答えて、浩の顔を嬉しそうに見つめた。
浩はため息をつきながら言った。
「コイツはメスだ」
恵は浩に教わった通り、銀次 ──恵は意地を張り、メスっぽい名前に変えることを拒んだ── の世話をするために、練習場に日参していた。餌用に真新しいアルミの皿も買い込んできた。それは猫の形をした妙なデザインの皿であったが、恵はいたくそれが気に入っているようだ。だが、餌だけでなくトイレや水の世話もかいがいしくやっているのに、銀次があまり懐いてくれないのが恵にとっては不満な様子だ。膝に乗せても、直ぐに何処かに行ってしまうらしい。時々遊び相手になってくれるようだが、それは気まぐれでしかなかった。これでは、どちらが飼い主か判らない程だ。それを見た浩は「猫の扱いに慣れていないから懐いてくれないんだな」と言う。
「こうやって抱きかかえる様にして、猫に居心地がいい場所を作ってやればいいんだよ」
浩は銀次を膝の上に乗せ、腕で囲むようにしてやった。たったそれだけのことだ。猫好きだったら、誰だって出来る。すると銀次はその場で丸くなって動かなくなった。そして食後の常として、左前脚で自分の顔をペロペロと洗い出した。拾ってきた時のギスギスした感じは無くなり、ふっくらとして毛艶もいいようだ。安心して眠りそうな勢いに、恵が不平を漏らす。
「あぁ~、ズルい~」
少々ギクシャクしていた二人の仲も、銀次という緩衝材を通して復調しているかに見えた。しかしそれは、あくまでも一時的なものでしかなかったが。
そのライブでは、恵は全くベースを弾かず、マイクを握って歌い続けていた。観客はシラケ切っていたが、それでも気にせず歌い続けた。時折、想い出した様にベースをかき鳴らし、そしてまた歌った。最初、その無軌道なパフォーマンスに音楽的な意味付けをしようと努力していた浩と大地も、いずれお手上げの状態となり、その無駄な努力を放棄せざるを得なくなっていた。もう、拍手をする観客は居なかった。恵の下手糞なボーカルは、パブに流れる耳障りなBGMと同じ扱いとなり、それを聴く者は居なくなっていた。観客はステージを無視して勝手に雑談を始め、飲み食いしているだけだ。気が付くと、既に大地はステージを降りており、浩だけが馬鹿の様に恵に寄り添っていた。
楽屋に戻った浩はツカツカと恵に歩み寄り、怒りに任せて彼女の左腕を掴み上げた。
「もっと真面目にやれよ! じゃなきゃ、俺は抜ける!」
しかしその怒りは、直ぐにシュワシュワと萎んでいくのだった。驚きと、ほんの少しの恐怖に顔を歪めた恵が、「痛いよ。放して」と言って背けた顔が、あまりにも悲し気であったからだ。
「判ったよ。アンタの言う通りにするからさ。そんな冷たいこと言わないでよ」と続ける恵に、浩はそれ以上何も言う事が出来なくなった。怒りの矛先を失った浩は、やっとの思いでこう言った。
「銀次が腹空かしてるぞ」
銀次が恵の膝の上でゴロゴロと喉を鳴らしていた。彼女はその首筋辺りを掻いてやりながら、「ヨシヨシ」と話しかけていた。浩は練習場の隅で、壁に背をもたれながらその光景を眺めていた。浩には判らなかった。恵がどうしたいのかが。いったい、何を求めているのかが。そして、それが判らない自分が、酷く不完全な存在の様に感じるのだった。浩は言った。
「恵・・・ チョッとこっちに来いよ」
恵はジッと浩を見つめ、そして膝の上の銀次を優しく床に置いた。恵がゆっくりと浩に近付くと、銀次もその足にじゃれ付きながら近づいた。座り込む浩の前に立つ恵。浩はジッと見上げ、恵はジッと見下ろす。そして浩が恵の腕を取ってグィと強く引くと、その身体は浩の膝の上に倒れ込んだ。でも、何も言わなかった。膝の上に横座りの様な格好でいる恵の身体を、浩は強く抱きしめた。恵は抵抗もせず、ただ黙ってその腕に抱かれていた。
足元の銀次が「ニャァ」と鳴くと、恵が言った。
「ねぇ・・・ このまま暫く抱きしめていてくれない?」
恵は何かを渇望していて、それが手に入らなくてもがき苦しんでいるのだ。自分がその心の隙間を埋めることは出来ないのだろうか? 自分では苦しむ恵を受け止めることは叶わないのだろうか? 浩は左肩辺りにある恵の頭に頬を押し付け、ことさら強く抱きしめた。恵は浩の腕の中で瞳を閉じた。
数日後、大地がバンドを辞めると言って来た。
「もうアイツには付き合い切れないから。菅野さん、あとはよろしくお願いします」
今のママズ・コンプレインの状態では、引き止めることなど出来るはずも無かった。むしろ、本当の理由は受験勉強なのかもしれない。浩はその申し出を快く受け入れた。
「慶陵に行ってもドラムは続けるんだろ?」
「東央に行くかもしれませんよ」
「じゃぁ、縁が有ったら、また一緒にヤろうぜ」
大地は躊躇いがちに浩の目を見た。
「菅野さん・・・ 恵ちゃんのこと押し付けちゃったみたいで・・・」
「気にすんな。野良猫の扱いには慣れてるから」
そう言ったものの、浩にはその扱いに全く自信が持てないのであった。
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