第二章 呪いと祝福と

プロローグ


「ふーーーー…………っ」


 耳元で唸りを上げる風切り音を聴きながら、黒髪の青年が意識を集中させていた。

 その鬼灯の様に赤い瞳に写るのは、猿と蛇と鳥を混ぜ合わせたような醜悪な怪物。

 世界に仇なす魔物の一体が、青年を縊り殺そうとジリジリと距離を詰めてきていた。

 蛇の尾の様な左腕には、その体高にあったやや大振りの直剣が握られ、翼の様な右手はまるで盾の如く油断なく構えられている。どこか金属的なものを思わせる黒い光沢を返す羽根が、それなりの強度を持つことを伺わせた。


 魔物の動きに合わせて、僅かに弧を描くようにして青年もまた距離を詰める。

 やがて、彼我の距離が七歩程まで近づいた所で、青年は仕掛けた。


 左手に持った投石紐スリング、回転させ、勢いを付けていたそれを解き放つ。


 狙い過たず、放たれた礫が猿の面に吸い込まれていき、と同時に青年は駆け出した。


 投石は魔物に当たる寸前で硬質な翼に阻まれてしまう。


 だが、想定内だ。視界が遮られた隙に距離を詰める。


 駆けながら、腰に吊った礫入れから、左腕一本で次弾を装填する。


 再び回転させ勢いをつける。


 そうして、翼に隠れた顔が再び現れるのを狙い――、直後に、悪寒。

 青年は慌てることなく、身を捩る。

 先程まで身体があった場所に、蛇の頭を持った尻尾が勢いよく噛み付いていた。


(ちっ、あっちにも視覚があるのか)


 舌打ちし、つけた勢いそのままに左手のスリングで蛇の頭を殴りつける。


 そのまま魔物へ駆け寄り、右手の剣で足元を薙いだ。

 が、これは躱されてしまう。


(くそ、まともな剣があれば!)


 内心、毒突く。半ばで折れた剣ではリーチが短い。さっきの様に届ききれず躱されてしまうことが間々あった。


 魔物が攻撃を躱された青年へ向けて剣を振りかぶる。

 青年は体勢が崩れるのに逆らわず、身を投げてこれを躱した。が、そこへ蛇の牙。肩に突き立てられてしまった。


 同時に、身の毛もよだつ何かを流し込まれるような感触。

 噛みつかれた箇所を中心に、肌が石の相へと変化していく。


 勝ちを確信したのか、魔物が歪な笑い声を上げた。


「こ……のっ!」


 青年は肩に喰らいついた蛇引き離そうと掴むも、うまく力が入らないのか、するりと手が滑り落ちてしまう。

 そのまま膝立ちに崩折れた青年から、蛇がゆっくりと牙を引く。

 宙を這い、引いていく蛇の顎からは粘度の高い黒い汚泥のようなものが滴った。

 その汚泥は不思議なことに、地に落ちる間もなく霞の様に消えていく。

 その様は蒸発とは全く異なる。蛇が牙に持っていたのは毒ではなく、呪いの類だったのだ。


 肩を中心とした石化が、ピシピシと音を立てながら拡がる。

 そんな青年へ向け、魔物が一歩一歩悠然と近づき、そして歪な剣を長い蛇の腕を活かして高く高く振り上げた。


 斬る、というよりも突き刺すような角度で剣が振り下ろされる。


 鮮血が舞う。


 青年の頬を掠めた剣が勢いそのまま地を穿つ。


 全身の、一切の力を失っていたかのように見えた青年は、バネを弾いたかのごとく身を跳ねさせ、凶刃を躱してみせたのだ。


 体を伸ばし、地を蹴り、未だ次の動きに移れないで居る魔物へと肉薄する。


「おおおおおおっ!!」


 肩に付着していた薄い石の皮膜が風圧にパラパラと宙を舞い、赤い肉が覗く。


 跳び上がった青年は、折れた直剣の、その残った刃を首と思われる部位に押し当てて一息に引き裂いた。


 おぞましい悲鳴が辺りに響き、どす黒い血が吹き出す。


 着地し、しかしそこで気を緩めることなく、割れ尖った鋼をその無防備に晒された胴体へと無理矢理にねじ込む。


 突き入れた衝撃に魔物が仰向けに傾いでいく。


 さらに左の投石紐スリングを一回転。


 自身の身体に押しつぶされて身動きできないでいる蛇の頭へと力強く叩きつけた。


 断末魔の叫びを上げる間もなく、代わりに汚い染みが地面へと拡がる。


 それでも、青年は油断なく構えを解かない。

 やがて倒れたむくろがしゅうしゅうと音を立てながら急激に劣化を始め――、


 そこで漸く、青年は緊張感を緩める。

 荒く息を整えながら血の付着した石礫を放ってスリング紐を左腰に吊るし、右手の折れた直剣もその場に投げ捨てる。

 代わりに、魔物の手にあった、青年にとってはやや大振りの直剣を拾い上げる。剣身は随分と歪んだ形をしているが、日にかざしてみれば中々に鋭い輝きを返す。

 それなりに使えそうな獲物が手に入ったことに青年は最初は小さく、そしてすぐに大笑いを始めた。


 一頻り笑いたて、満足した青年は呟く。


「ははっ、これでもっと効率的に魔物を殺して回れる」


 青年はほくそ笑みながら魔物の死骸から鞘を剥ぎ取って刃を収め、背に負った。

 風に乗って僅かに聞こえてきた喚声に振り仰いで遠く見晴かせば、蟻の群れにも見える人間の集団が残り少数となった魔王軍の一団を押しつぶそうとしているのが見える。

 あちらも、遠からず決着が着くだろう。


 青年は歩みだす、彼方の人間たちには背を向けて。

 その手には先程まで闘っていた魔物の将の首と、多少は食えそうに見えた一部の肉。


 腹を満たすなら、もう少し煙が目立たなくなる所へ移ってからが良い。


 歩きながら、痛みに先の戦闘で負った傷を思い出す。

 一旦立ち止まり、青年は軽く瞳を閉じて暫し何事かを念じる。すると、肩の傷も頬の傷もみるみると癒えていった。

 石化によって肌が剥がれ、肉が露わになっていた部分も痕跡無く、ただ青年は思案気にそこへ手を当てた。


 牙を突き立てられた時、身体から力が抜けていったのは油断を誘う演技でもなんでも無かった。実際の所は薄氷を踏むような勝利だったのだ。

 蛇に噛まれてすぐ今のように治癒を試みていたが、血に乗って全身を巡る石化の呪いの方が圧倒的に早くて――、しかし、誰かの手が青年の肩に触れたような感触があったと思った時には、弛緩した肉体に活力が戻っていた。


 土壇場での、ただの幻覚かもしれない。

 しかし、あの朧気な感触は何故か懐かしさを感じさせるもので、気が付けば青年は空を見上げていた。


 そこに広がるのは冴え渡る初夏の青空。


「テサ…………」


 視界一杯に満たされたその色に、青年はかつて愛した少女の瞳を思い起こす。


 魔王城を脱出してから、三年。


 青年は、ノゾムは、十四歳になっていた。

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