第30話 錆び塗れた子守歌
おやすみ、そう言ってから今日もどれだけ時間が経ったことだろう。
うなされるようにしていた大好きな人が、穏やかな寝息を立て始めたのを聴いてほっと胸を撫で下ろす。
今日もまた、いつもの長い長い夜が始まる。でも、もう不安は無い。
寝返りをうって、緩やかに上下する肩をじっと眺め、
「ぇぅ……。ぇぅ……」
大好きな人の名前を囁き掛けようとして、音にもならない掠れた息の流れにわたしはもどかしげに身を捩った。
(エル……エル……)
もう一度、胸の内で繰り返して、繋いだままの手をそっと握りしめる。
硬くて、ごわごわした手。マメが潰れた箇所がささくれだって、ちょっぴりチクチクする。
エルは自分からは何も言わないけれど、タスクの助けも無いのに自分の分まで懸命に働いてくれていたのがしっかりと伝わってくる手だ。
こっそりと治癒魔法を使ってみるけれど、やっぱり変化はない。怪我ではないから、なのかな。
エルの方に身を寄せて、少しでも労れるようにわたしはもう一方の手も重ねた。こうしていても、エルの温もりを感じられなくなった事は少しだけ残念に思う。
でも、それで少しでもエルの辛さをやわらげる事が出来るならば、わたしは何よりも嬉しい。
こうしていながら瞼を閉じてみれば、脳裏に浮かんでくるのは自分の身に起こり続けている数々の異常とこれまで一緒に過ごしてきたエルとの想い出だ。
始めに体がおかしくなったのは、いつだったろうか。
平和に暮らしていた町に魔王軍が攻め寄せ来て、捕まった頃はこうではなかった。お父さんとお母さん、そしてわたしを庇ってくれたお兄ちゃんが魔物に少しずつ齧られ、貪り食われていく光景が瞼に焼き付いて、魔王軍の檻で運ばれながら嘔吐と嗚咽を繰り返していたのは覚えている。
いっそ心など壊れてしまえば楽なのに、なんて考えていたせいだろうか。ある日を境に、世界の全てが暗闇に包まれてしまっていた。
何も視えない。何も聴こえない。
何の匂いもしない。何の感触もしない。
体は何処も動かず、声も出すことが出来なくなっていた。
一体何が起こったのか、分からなかった。いや、原因については今も分からない。
その時はわたしは死んでしまったのだ、と思っていた。
真っ暗なのは怖いけれど、これでお父さんやお母さん、お兄ちゃんと楽園の礎でまた会えるなら、それでも良いかなって、そんな風に考えていた時、ふと、誰かが手を握っていてくれていることに気がついた。
それでわたしがまだ生きているんだって気がついたんだ。
それから、徐々に体の感覚が戻ってきた。手を握ってくれる誰かの感触が次第にはっきりとしてきて、繰り返し語りかけてくれる優しい声が届くようになった。
声も、体もずっと想いを伝えることは出来ないままだったけれど、エル、わたしはずっとあなたの事を見ていたんだよ。
わたしよりも背が小っちゃいのに、歯を食いしばってわたしを運んでくれたあなた。
夜寝る時も、ずっとわたしの手を包んでくれていたあなた。
自分のご飯も食べずに、わたしに食べさせてくれたあなた。
こっちに着いてからの口移しは、その、わたしもすごく恥ずかしかったけれど…………、ふふっ、でも、顔を真っ赤にしながらご飯を食べさせてくれるエルは、とっても可愛いかったな。
だから、あなたがタスクを持たないと鑑定された時は、とても辛かった。
タスクなんて関係ないのに。エルは、こんなに一生懸命なのに。エルは、こんなにも優しいのに。
無遠慮にエルの事を見下す色々な目から守ってあげたかったのに、わたしの体はやっぱり言うことを効いてくれなかった。袖を掴むのが精一杯だった。あの時ほど、自分を悔しく思ったことはない。
「ん…………」
エルが小さく呻いて寝返りをうつ。わたしが邪魔しないように両手を緩めれば、エルの手がするりと抜けて行ってしまう。
空っぽになってしまった手の平に、わたしの中の意気地なしが目を覚ます。
でも、あの時の不安はこんなものじゃなかった。このままエルが帰ってこなかったらっていう想いがグルグル渦巻いて胸をぎゅうぎゅう締め付けてきた。
感じた嫌な予感のままに体が動いてくれた時はこれでエルの所に行けるって嬉しかったけれど、血を流して倒れているエルを見つけた時は心臓がどうにかなってしまいそうだった。
本当に、間に合って良かったと思う。
「とうさん……かあさん…………」
離れてしまった距離を詰めようとした所で微かに聞こえた寝言は、まるでわたしに聞かれないようにと少しだけ丸めた体の中で零されていた。
とてもエルらしいなと思わず笑みを零しながら、そんな背中を後ろから抱きしめる。
エルはいつだってわたしの前では気丈に、明るく振る舞っていた。きっとわたしの事を気遣ってのことだろう。こんな所に居るのだから、エルだって辛いことが無かったはずが無いのに。
寝てる時にまでわたしの事を気遣うエルの事が、どこまでもいじらしい。
笑顔でお話している時に、不意にすごく辛そうな顔をするエルを見ると、とても切なくなる。
だから、守りたいと思ってしまう。
エルがわたしの事を守ってくれるからじゃなくて、エルの事を好きになったから、わたしがエルを守りたい。
頬を伝う涙を拭ってあげてから、背中に頬を当てる。
こうしていれば温もりを感じることは出来なくても、鼓動が聞こえる。長い夜も怖くない。
鼓動を感じながら、ゆっくりと下の子を寝かしつける時にしていたようにエルの体にポンポンと手を置いてあげれば、小刻みに震えていた肩が安らいで、また規則正しい寝息が聞こえるようになった。
「ぁ……ぅ…………ぁぉ…………ぁ」
もう悪夢を視ませんようにと、お母さんがよく歌ってくれた子守唄を歌う。掠れた、音にならない声しか出なくて恥ずかしいから、こっそり、こっそりね。
歌いながら、ここから出られた後のことをついつい妄想してしまう。
二人で小さなお店を開けたら楽しそうだなって。わたしのタスクはお店とは関係なかったし、今はなんだか変なことになっているけれど、エルもタスクが無いんだから拘る必要なんて無い。
それか、森の奥で小さな畑を耕して暮らすのだって良いかもしれない。
そんな風にずっとずっと一緒に居られたら、どんなに良いだろう。
でも――――。
ううん、弱気になっちゃ駄目だ。
ねえ、エル。エル。わたしの大好きな人。
本当は不安で不安で仕方がないけれど、だけど、きっとあなたは何があってもわたしを守ろうとしてくれると思うから。
わたしも、あなたの事を守るよ。
ね。だからね、エル。
ずっと、ずうっと、一緒にいようね。
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