第27話 慈雨

「エリック、遅いね」


 奴隷部屋の奥にある隠し部屋、魔王城からの脱走を目論む者達が集うその場所で、マールは膝を抱えて座っていた。近くにはガイ、ローゼリッテの姿も見える。

 本城へと忍び込んでいくエリックを見送ってから、もう随分と時間が経っている。何事も無ければ既に戻って来ていてもおかしくない筈なのに、未だに彼は姿を見せなかった。


「亜人野郎の事だ。どうせ失敗したんだろ。

 ……はぁ、代案を考えておいて正解だったぜ」

「ガイっ! どうして君はいつもそんな事言うんだ!

 エリックを仲間に引き入れようって、皆で話し合って決めたじゃないか!

 それに代案って、何っ!? ボクは聞いてないよ!」

「喚くなよ、他の奴らが起きちまうぜ。

 あの場でみんな賛成したのだって、単にリーダーのお前を立てただけだ。誰も本気で仲間にしたいなんて思っちゃいなかったさ。

 代案は……、まあ言う必要がなかっただけだな」


 空々しく言ってのけるガイにマールは愕然とし、ローゼリッテにも視線を転じてみるも、ついと逸らされてしまった。


「……だって、ここから出られたとしても、タスクが無ければ結局生きていけませんし。

 それに、その……」

「アイツが居ると漏れなく人形女も着いてきちまうからな。足手纏が二匹も居たら成功するもんも成功しねえ」

「だから、あんな態度取ってたって言うの!?」

「ああ、そうすりゃ、向こうからお断りしてくれるって思ったからな。

 どうだ、上手くいっただろ? お陰で遠慮なく囮に出来るってもんだ」

「悲恋のお話の定番の組み合わせでしたから、フレデリカと二人で彼女たちを眺めるのはとても楽しいのですけれど、やはり実際に脱出することを考えますと……」


 マールは歯噛みする。悔しかった。腹立たしかった。周りの皆が考えていたことに。そして何より、それらをはっきりと否定し、説得するための言葉を上手く紡げないでいる自分が何より。


「それに、それだけじゃ無いのですの」


 俯くマールを少し覗き込むようにしてローゼリッテが髪を揺らした。


「あの娘の面倒を代わりに見ている時にどうしても気になってしまって、見てしまいましたの。

 ワタクシの力で、あの娘のタスクを」

「ああ、お前達のは……たしか、『村長』だったか?」

「『町長』ですわ! 間違えないで下さいましっ!」

「……それで?」

「はい、お姉様。それが、あの娘のタスク、読めなかったのですの。こう、文字がグチャってなっていて……。

 あんなの普通じゃありえませんわ! きっと噂は本当だったのです!

 だからお姉様、もう彼に関わるのはお止めになって下さいませ!」


 袖をキツく掴んで哀願するローゼリッテ。それにマールは力無く首を振る。


「例えそうだとしても、ボクは無責任な事はしたくない。

 危険な事をお願いしておいて、貰うものだけ貰って、それだけなんて……」

「お前がそうしたいんなら、好きにしろ」

「ちょっと、ガイ! アナタからもちゃんと説得して下さいまし!」

「どうせ聞かねえよ」


 言って、ガイは目線を合わせるようにしゃがみ込む。


「ただな、こればっかりは何度でも言うぜ? 良いか、俺はお前を生きてここから出す為ならなんだってやるからな。

 あの亜人達も、俺達に協力しようとしない臆病共も、卑怯者のチクリ魔も。

 俺は何もかも利用して、お前をここから逃がす」


 真っ直ぐに見つめられて、今度はマールが目を反らす。


「ガイ、気持ちは嬉しいけど、ボクは別に君のこと……」

「お前は勝手にするんだろ? なら、俺も勝手にするだけだ」

 

「あー、あー、全く、ワタクシはどうすれば良いのでしょうね、これは」


 空気を読んで、ひっそりと二人から離れていたローゼリッテが盛大に溜息をつく。

 いい加減眠気も強くなってきているので、そろそろ切りを付けたい所である。何よりお肌に悪い。

 尚も何か言い合っている二人を眺めながらそんな事をツラツラと考えていると、耳馴染みのある足音が聞こえてきた。


(どうしたのかしら? 随分慌てていますわね、フレデリカ)


 部屋の入口にローゼリッテが目をやれば、丁度数段飛ばしでフレデリカが階段を降りきった所だった。


「たいへん! たいへん! たいへんだよぉっ!」

「うるさいぞ、フレデリカ。どうした?」


 はぁはぁと膝に手を当て気息を整え、フレデリカが眉を八の字に曲げた顔を上げた。



「あの娘が! あの娘が居なくなっちゃった!!」



 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 ああ、これは夢だ。

 冴え渡る初夏の青空に目を奪われながら、エリックは思う。吹き渡る風が何とも心地好い。

 これは一体いつ頃の事を夢視ているのだろうか。徐々に思い出している内に誰かに優しく頭を撫でられて、ああ、この時は母が膝枕をしてくれていたのだと思いだす。



 そうだ、確かまだ三歳の頃の事だ。

 思い出して、久しくなかった穏やかな空気に瞼を閉じて微睡みの感触を楽しむ。これが例え夢だと理解っていても。



「エリック、あのね……」


 ポツリ、と母が溢す。


「この間、村長さんの家に行ったでしょう? あの時ね、エリックのタスクを鑑定してもらってたの。

 本当は十二歳になるまで、鑑定していた事も子どもに話してはいけない決まりがあるのだけれど、でも……」


 エリックの名を呼びかけて紡がれる言葉は、しかしエリックが聞いていることを期待してのものではないのだろう。どちらかと言えば、自分自身の心の内を改めてなぞる為に声に出しているような、そんな雰囲気だった。


「母さんね、たくさんたっくさん喧嘩したのよ。おじいちゃんとも、おばあちゃんとも、色々な事を言ってくる村の人達とも、それに父さんとも、ね。

 可笑しいわよね、今まで誰とも喧嘩なんてしたことなかったのに。

 あんな大きな声が出せたなんて、自分でもびっくりしちゃった」


 同じリズムで撫でられていた手が止まる。気になったエリックは薄く目を開いてみるが、母の表情は逆光のせいでよく見えなかった。


「母ぁ……」


 せめて触れようと伸ばしたエリックの手は、半ばで優しく母に包まれる。


「大丈夫。、大丈夫よ。エリックが十二歳になった時、母さん達も一緒に出ていくことに決めたから。

 父さんとも話し合って、もう準備を始めてるのよ?

 だから、大丈夫……」


 母の手が微かに揺れている。この時、母さんは泣いていたのだろうか。


「だからね、エリック。これから何があっても、どうか諦めずに生きてね。

 母さん達のたった一人の、可愛い、可愛い、大事なたからもの」



「エリックは無事に産まれてきてくれて、母さんは本当に嬉しかったから」



「エリックが生きていてくれるだけで、母さんはとても幸せだから」



「だからね、エリック――――」




 そうだ。



 ああ。



 ああ、そうだった。



 だから、僕は。



 だから、神崎望は、あの時、エリックとしてこの世界で生きていこうと、そう決めたんだ。



 懐かしい、想い出の底に眠っていた大切な記憶。

 今は亡き母の手を小さく握り返して、エリックはまた瞳を閉じた。

 穏やかな初夏の風に浸る。



 そんな優しい時間に包まれながら、でも、とエリックは思う。

 どうして今、この夢を視ているのだろうか、と。

 ついさっき迄、自分は魔王城で必死の逃走劇を繰り広げていたはずだ。脱出に必要な物資を腹に抱えて。

 数匹の魔物をなんとか躱して、そして黒鎧の魔物が現れて――。



 と、エリックの頬を温かい雨粒が打った。

 ポツリ、ポツリと不規則に落ちてくる滴にエリックがゆっくりと目を開く。



「あ……? 君は……、どうして……?」



 そこに、あの少女が居た。ずっと虚ろのままだった空色の瞳に一杯の涙を湛えて。

 覗き込むようにしてエリックの事を見下ろしている。



「僕は……生きてるのか」



 エリックが目を覚ました事に気づいた彼女が、人形のようだった顔をクシャクシャに歪める。

 夢の中でそうしたように、エリックが手を伸ばすと少女は頬と挟むようにして手と手を重ねた。

 ぬくもりが、掌を通じて伝わってくる。



 あの時、僕は黒鎧から逃げ切れず、確かに斬られたはずだった。

 なのに今はどこにも痛みを感じない。むしろ、魔王城に潜入しようとした時よりも不思議と体が軽く感じられる。

 しかしそれらは、エリックにとって今はとても些細なことであった。

 少女が心を取り戻してくれた。その事が他の何よりも嬉しくて、嬉しくて。



 エリックの耳に何人かの足音が微かに聞こえてくる。

 派手な音を立てないように押し殺しているそれらは、マール達かもしれない。



 泣きじゃくる少女をあやすように撫でながら、エリックはこれからの事に想いを巡らせた。

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