第26話 逃走
「っっ!? っかひゅっ! ひゅー……っ! ひゅー……っ! ひゅー……っ!」
エリックの体が呼吸する事を思い出し、足りない酸素を求めて激しく喉を鳴らす。
「くび……首……? 首……っ!? 着いてる……!?」
強張る両手で慌てて喉元をまさぐり、それを何度も確認する。今一瞬、確かにこの世界ごとエリックは何かに切り裂かれたと、そう感じたのだ。
しかし実際には体には何も起こっていない。勿論世界は切り裂かれていないし、周りの観客席にも変化は無い。
――錯覚。
だとするならば、それを
恐怖に凍てつく肌を摩り、エリックは視線を上げる。そして、目が合った。
反対側の、恐らく貴賓席と思われる場所に悠然と腰掛ける紅い髪の女。艶然と笑みを湛えた黄金の瞳で、じっとエリックの事を見下ろしている。ただそれだけだというのに、息をするのも
「ぁ……っぁあ…………あ」
エリックは知っている。あの女の事を知っている。あの夜の、村の全てを切り裂いた魔物だ。
紅い髪の魔物は肘までしか無い腕でこちらを指し示し、背後に控えた黒鎧の魔物と、あの黒い巨人に何かの指示を出している。
(見つかった……見つかった……。見つかった……!)
逃げなくては、頭ではそう分かっているのに足が、心が言う事を聞こうとしない。
その時、広場の方で喚声が上がった。
眼球だけを何とか動かして、そちらを見る。
四匹の黒狼が、中心の子ども達へと一斉に襲いかかっていた。牙が、爪が振るわれて為す術無く子ども達が打ち倒されていく。
その最初の犠牲者は、クーンだった。
クーンが、丸太よりも太い腕に吹き飛ばされ、ボールのように宙を舞う。弧を描き、地面に打ち付けられるも、しかしすぐには速度は殺されず、砂利まじりの砂を巻き込みながら長く転がった。赤く滲む軌跡が描かれていた。
眼前に繰り広げられた光景が衝撃となってエリックの心を打ちのめす。
しかし皮肉なことに、今に限ってはそれがエリックの恐怖の呪縛を解く力となった。
「ぁぁぁぁああああああっっっっ!?」
意味不明な叫びを上げる。
震える足を引き剥がす。
尚も響き渡る悲鳴を背に、脇目も振らずエリックは逃げ出した。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
数々の美品煌めく豪奢な廊下、そこに似つかわしくないけたたましい足音が響く。音の主は、エリック。重厚な絨毯でも音を殺しきれない程の勢いを載せて、走り続けていた。
どの道を通れば良いかなど、わからない。
このまま、あの奴隷部屋へ戻ってしまって良いのかも、わからない。
わからない。
わからない。
それでも、逃げなくてはならない事だけは理解っていた。
だから、走る。
勘はアテになりそうもない。まるで溶岩の中を潜っているかのように、熱く絡みつくような悪寒が全方位から感じられる。
こんな感覚は、初めてだった。
角を曲がると、潜入してすぐの頃に見つかりかけた、あの巨大な魔物が通路の先をこちらへと歩いてきていた。
予期していなかったのだろう、魔物が僅かに硬直する。
エリックはその魔物へと、構わず突っ込んだ。
気を取り直した魔物が空いた右手を伸ばして掴みかかってくる。
徐々に迫ってくるその巨大な掌を見据えながら、エリックはあることに気がついた。
――溶岩に、濃淡がある。
濃厚に辺りを満たす嫌な予感を僅かに薄い箇所を掻き分けるようになぞる。
エリックの頬を掠めるように魔物の手が過ぎ去る。
そのまま股下をくぐり抜けて、エリックは再び全力で駆け出した。
背後を伺えば、その巨体が徒となって振り返ることが出来ないでいる魔物の姿が見えた。
すぐに前方へと意識を戻す。
やがて、見覚えのある通路に差し掛かった時、次なる障害が現れた。
「キヒヒヒッ。何ヤラ騒ガシイト思ッテキテミレバ、ゴミ野郎ジャネェカ! 何でコンナ処二イヤガルンダ?」
これまた見覚えのある紫色の小悪魔が、エリックの走る速度に合わせながら器用に後ろ向きに飛んでキヒヒと嘲笑う。
「マ、ドウデモ良イカ。ゴミニハ ゴミ二似合ッタ場所ガアルッテ、コノ エクォッド様ガ教エテヤンヨッ!」
一転して拳を振り上げて拳を振り上げるエクォッド。濃淡を頼りにそれを躱そうとするも、それを圧倒的に上回る速度でエクォッドが殺到、紫色の拳が鳩尾に深くめり込んだ。
吹き飛ばされ、廊下を無様に転がる。
反吐を吐きながら起き上がった所にエクォッドの追撃、今度は顔を殴られて壁へと叩きつけられた。
しかし今度は壁を支えに、倒れずに踏みとどまる。
尚も追撃してこようとしていたエクォッドに対して反撃の拳を振るった。
が、それは敢え無く空を切る。寸前でエクォッドが軌道を変えて躱したのだ。
「ケケケ、ゴミノ トロイ攻撃ナンテ当ッカヨ!」
拳の届かない宙空をフラフラと飛び回りながら厭らしくエクォッドが嘲笑う。
「この……っ!!」
偶に近づいてくるエクォッドに何度も拳を振るも、全て躱され、そしてその度に耳に障る笑い声にエリックは顔を歪めた。
(くそ、完全に、
いつまでも、こんな奴に煩わされる訳にはいかない。あの黒い巨人や、鎧の魔物だって追ってきているはずなのだ。あれらに捕まっては完全に終わってしまう。
業を煮やしたエリックは、すぐ側に飾られていた高価そうな花瓶をむんずと掴み取り、エクォッドへと投げつけた。
もっとも、エリックは楽園の力を持たぬただの十一歳。その筋力では水の入った重い花瓶など到底届くはずもなく、目標よりも随分と低い軌道で飛んでゆく。
しかしこのヤケクソの行動に、エクォッドは酷く慌てた態度を見せた。エリックに殴りかかるよりも実に素早く動きで、回転し、中の水と花を撒き散らしながら空を行く花瓶を、やんわりと受け止める。
そうして空中で少しづつ速度を殺した小悪魔の背中が廊下に飾られていた大鎧にぶつかって止まった。衝撃に、鎧が揺れる。
「バッキァローッ!! コレ、高インダゾ!
壊レタラリシタラ、俺様ガ アノ方達二殺サレルジャネェカ!」
花瓶を横へそっと置いたエクォッドが、手を振り上げて身勝手な抗議の声を上げる。だが、エリックの目は別の所へ意識を向けていた。
ゆらり、ゆらりと揺れている。
「テメー、ゴミノ分際デ余所見シテンジャ――」
「あ……」
「ア……?」
ずっと揺れていた大鎧から、兜の部分がコロリと取れて落下する。
一回、二回とそれは回転し、がぽり、と良い音を立ててエクォッドを中に閉じ込めてしまった。
「~~~~~~~ッ! ~~~ッ~~~~~~ッ!!」
何かを喚く声が聞こえる。兜の中から抜け出ようとしているのだろう、僅かに全体が浮き上がるが、しかし見た目通りかなりの重量があるらしく、すぐにまた落ちてしまう。さらにエクォッドにとっては運の悪いことに、未だ揺れの収まっていなかった大鎧がガラガラと崩れ落ちる。耳をつんざく重い金属音と、花瓶の割れる音が廊下一面に響き渡り、そして兜はすっかりと埋もれて山の一部と化した。
喚く声は、もう聞こえない。たまにカタカタと小刻みに震える音が響くばかりである。
暫し呆然とその様を眺めていて、すぐにはっと気を取り直す。悠長に眺めている場合ではないのだ。早く逃げなくては。
未だふらつく足を叱咤して、一歩踏み出す。
なんとか、また一つ角を曲がろうとして、それと同時にエリックの耳が異音を捉えた。
ガチャリ、ガチャリと金属が擦れ合う音。
音の出処は崩れた大鎧ではない。もっと遠い。
息を飲んで振り返れば、通路の先、黒塗りの大剣を携えた黒鎧の魔物が悠然と歩いてきていた。
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