第18話 人形

 それから、エリックは何をするでもなく、只々呆然として過ごした。

 一度はアイツへの怒りに奮った心も、己が振りまく災いに竦んだ身体も、今は圧倒的な脱力感が全てに取って代わってしまっている。


(災い避け……。僕に降りかかるはずだった災いが、周囲の人に代わりに行ってしまう祝福呪い……。もし、『僕が死ぬ』という事も災いの一つである、というのなら……)


 思うも、もう一度試してみる気には一切なれなかった。周りの魔物に降りかかるならばまだしも、籠に囚われた子ども達に被害が行ってしまうことも十分に有り得る。


(これから僕は、僕のせいで不幸になってしまう誰かを見ながら、ずっと生きていかなければならないのだろうか。こんな、何もかもなくしてしまった世界で、ずっと)


 両の膝を立てて、そこへ顔を埋める。


(憎い……。怖い……。苦しい……。僕は……、僕は……。

 ついさっき、アイツに復讐するって、決めたはず、なのに……)


(父さん……母さん……お父さん……お母さん……)



 それから、幾らの時が過ぎただろう。傾ききった太陽が木々に遮られ、ポツポツと灯る星明かりが辺りを照らし出した頃、それまでずっと同じ速度で掛け続けていた魔物の列が徐々に速度を落とし始めた。


(なんだろう……?)


 それに合わせて、籠の中でも幾らか変化があった。少なくない数の子ども達が、出入り口に集まるように位置を移動したのだ。

 隊列が完全に止まると、今度は魔物が列を離れて忙しなく動き始める。それを眺めていると、一匹の黒い巨人が近付いてきた。身の丈は四メートルにもなるだろうか。黒いゴム質の肌に半ば肩に埋まったような頭に巨大な目玉が一つ。口は何処にあるのか分からなかった。


「エサ ジカン。アラウ。エグゼ『スイリュウ』」


 その巨人が発したのだろう低いくぐもった声が聞こえた次の瞬間、エリックは回転する水流の中に閉じ込められていた。全くの不意打ちであり、驚きに開けた口の中から空気が溢れるのと代わりに、周囲の汚物と混ぜこぜになった水が勢い良くなだれ込む。


「ぐ……っ。ゲホ……こほ……っ!!」


 時間にして凡そ三十秒程、水流から漸く解放されたエリックは、空気を求めて激しく咽る。黒い巨人は、そんなエリックと同様に水を飲んでしまった子ども達の様子も一顧だにせず、ゆったりとした籠の扉を開け放つ。その途端、扉付近で構えていた子ども達は、我先にと籠の外へと飛び出していった。


「デル。ニゲル ダメ」


 黒い巨人はそれだけ言い置いて、別の籠へと歩いていった。代わりに扉の周囲には何匹もの裸狼が、監視するように彷徨く。一方巨人はどうやら他の籠へと向かっているようで、その先でも同じ事を繰り返している。籠全体を包んだ水流は、ややして籠から離れた位置に移動し、地面へその濁りきった汚水をぶちまけていた。その様子から、エリックは漸く今起こった事を理解した。


(そうか……僕達は、今、檻ごと洗われたのか、アイツに)


 奴隷として、つまりは労働力として連れて行くのだから、それなりには健康、衛生に気を配るつもりはあるのだろう。が、檻ごと水流に包んで丸洗いとは、まさに物に対する扱いである。そんな惨めさを噛みしめながら、エリックは隣の籠の様子を眺め続ける。

 あちらでも同様に扉が開け放たれ、やはり幾人かの子ども達が先を争うように外へ出ていく。あの魔物はエサ、と言っていた。つまり食事の時間という事なのだろう。となると、先を争うのは確実に食事にありつく為だろうか。

 エリックは暫しの逡巡の後、自分も食事を摂りに行く事に決めた。既に自殺する気は失せたのだ。それならば、当初の通り復讐を目指して生きる方が良い。

 エリックは立ち上がる為に膝へ力を込めた。ずっと同じ姿勢をしていたせいで固まってしまった筋肉が痛む。

 籠の中には、既に誰も残っていないようで、ひどく静かだった。外を彷徨く魔物の数も随分減っている。そうして外へ出ようとした所でエリックは気付く。一人だけ、まだ籠の中に残っていた。

 少女だった。歳の頃はエリックとそう変わらない。元は少し良い所の子どもだったのだろう。元は白かったと見える黒く汚れた服は、エリックの着ているそれと違って継ぎ接ぎが無く、滑らかな生地が水を含んで華奢な身体を浮き立たせていた。

 その少女は出口から近い場所に居るというのに、未だ座ったまま動こうとする気配が無く、肩口で揃えられた白亜麻色の細やかな髪から滑るように滴る水滴もそのままに、虚ろに宙を見上げるばかり。薄く開かれた目蓋からは月明かりに照らされて綺麗な空色の瞳が覗いていた。

 その整った面立ちに感情の抜け落ちた表情も相俟って、少女を造り物の人形のように見せていた。


「ねぇ、君。ごはん、食べに行かないの?」


 エリックは目線を合わせるように屈んで話しかけてみる。しかしやはりと言うべきか、少女からの応えいらえは無い。


「他の皆は、もう行っちゃったみたいだよ?」


 再度問いかけてみても、同様だった。瞬き一つすることもなく、呼吸の為に肩が浅く上下していなければ、或いはエリックは死体と勘違いしていたかもしれない。


(どう、しよう……)


 エリックは迷っていた。少女の、先の水流によって濡れた唇には、細かい罅が割れている。ここに押し込められてから、水も何も口にしていないのは明らかだった。このまま放置しておけば彼女は間違いなく衰弱して死んでしまうだろう。

 ここに居るのが前世の神崎 望であれば、迷いなく少女を助けるために動いていた。仮にも医師を目指そうとしていたのだ。捨て置けるはずがない。

 しかし、今ここにいるのはエリックだ。アイツ祝福呪いを受けたエリックだ。自分が関わることで、更なる不幸がこの少女に降りかかるかも知れない。

 そんな想いが、恐怖が、エリックを雁字搦めに縛っていた。

 少女に手を差し伸べる事もできず、周囲には手助けを頼める者も居ない。かと言って、見て見ぬふりも出来ない。


(……こうして迷っている姿を何処かで見ながら、アイツは今も笑っているんだろうか)


 今も耳に染み付くあの笑い声がエリックを嘲る。この娘をこんな風にしてしまったのも、全てお前のせいなのだ、と。


(……そうだ。その通りだ。この娘に不幸が訪れたのも全部僕のせいなんだ。

 だったらせめて、僕の手が届く範囲だけでも責任を取るべきだ)


 エリックは少女の腕を取って自分の肩へと回すと、背中に背負い上げる。力の抜けた人間の体はとても重いと何かで読んだ気がしたが、しかし少女の体は驚くほど軽かった。

 虚ろな少女の横顔が僅かに頬へ触れる。エリックは少しだけ彼女に視線を向けた後、ゆっくりと一歩を踏み出した。ずり落ちてしまわないよう注意を払いながら、籠から出てからは少し先に見える焚火の明かりへと歩を進める。

 血塗れの衣服越しに触れ合う肌の温もりが、彼女が人形ではないと、まだ生きているのだと静かに主張するようで、分けられた熱が冷え切ったエリックを徐々に溶かしてくれるようだった。

 焚火にたどり着いた時、既に食事は終わりかけのようで、火をジッと見つめている子どもや、頻りに辺りを伺う子ども、寄り添って項垂れるままの子どもの姿が散見された。子ども達の周りには、裸狼を始めたとした魔物が監視の目を光らせている。

 エリックは空いている所にまずは少女を下ろすと、巨大な鍋の前に陣取る二足の甲虫型の魔物へ近付いた。暫し無言で見つめられた後、一杯の椀に半分ほど、鍋から薄茶色の粥のようなものを掠りに掠ってよそわれた。水の入った革袋は二つ与えられた。それらを持って、少女の元に戻る。


「ご飯だよ。どう、食べられそう?」


 エリックは一言、少女に語りかける。それから、匙で掬った粥の熱さを確かめ、少し息を吹きかけて冷ましてから少女の口に含ませてやった。

 暫くして喉が動くのを確認してから、もう一匙。次は少しの水。流石に水は口から幾らか溢れてしまったが、それでも多少は飲んでくれたようだった。

 エリックは何だか嬉しく感じながら、それをゆっくりとしたペースで繰り返した。その合間に、自分自身は革袋の水だけを飲んだ。



 椀に半分だけの食事は、どんなにゆっくり食べた所ですぐに終わる。すっかり空になってしまった椀と革袋を持って、エリックは立ち上がった。流石に他の子ども達は皆、食事を終えているようだ。

 相変わらず巨大な鍋の前に陣取っている甲虫の魔物がキチキチと吻を鳴らしながら四本の腕の内の一本をエリックに差し向ける。どうやら早く持ってこいと言いたいようだ。焚火を囲む輪の中で唯一立って歩いているエリックに魔物達の視線が集まる。

 以前裸狼に散々追い回され、喰われそうになった記憶のお陰で、エリックはどうにも落ち着かない。嫌な汗を堪えながら歩いていると、ついには足がもつれて転んでしまった。

 持っていた椀と革袋が弧を描き、宙を飛ぶ。派手に転んでしまったエリックに、一層魔物達の視線が向く。ガサリ、と何かが揺れる。空を飛んだ食器は三つとも、甲虫の魔物が器用に掴み取る。

 甲虫の魔物はそれらに土がついて無いことを確認するように眺め回そうとし、急に何かに気付いたように顔を上げた。


「ギギーーーーーーッィィィィィ!!」


 耳を劈く怪音が、甲虫の魔物から発される。気圧されるようにエリックは尻餅を着いた状態で後ずさる、が魔物達の視線は既にこちらを向いてはいなかった。


「ギー、ギー、ギギッ!」


 甲虫の魔物がそう鳴いて、森のある方向を指し示す。すると周りで警戒していた裸狼達が示された方へ向かって一斉に吠え立てながら駆け出した。

 エリックはそれらの様子に、何が起きたかを悟る。慌てて周囲を探ってみれば、子どもの数が減っている気がする。

 頻りに辺りを伺っていた子どもだ。あの子どもの姿が無い。


(さっきの、僕が転んだ時の隙に、逃げ出したんだ!)


 エリックは、心の中で叫んだ。そして祈った。どうか、逃げ切れますように、と。脱走に気付いた他の子ども達も、ざわめきながら機会を狙うように腰を浮かせる。


(今ので監視の数も減ってる。今なら……)


 俄に騒がしくなった雰囲気にエリックも立ち上がり、


(…………いや)


 変わらず虚空を眺める少女の隣に腰を下ろす。


(この娘と一緒にでは、多分逃げ切れない。別の機会を見つけないと)


 そっと少女の肩を抱き寄せて、エリックは祈る。この世界ではない、どこか別の所にいる神に。

 いよいよもって他の子ども達も駆け出そうとし始めた頃、しかし一匹の魔物が現れた事でその空気も終わってしまう。


「カゴ モドレ」


 茂みから現れた黒い巨人は低い声でそう言って、丸太より太いその巨腕を地に叩きつけた。衝撃が音を伴って地を、空を奔る。

 シンと静まった中を荒々しく子ども達を追い立てて回るその様はどこか悄然としているようにも見えて、エリックは一人ほくそ笑むのだった。

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