第9話 楽園世界
草原に身を委ねたままエリックはこの十年で知った様々な事を思い返していた。
その中で、一つだけ認識を改めてことがあった。
この世界は、確かに楽園である、と。
エリックがまだこの世界に産まれたばかりの頃は、人を襲う魔物や、それを纏める魔王がいると聞いて、こんな世界の一体どこが楽園なのか、と疑っていた。現に魔王軍の人間狩りなどで南方の村や街が滅んだという話は、両親の会話によく上がっていた。
しかしそんな恐ろしい話がある一方、村の日常は平和そのものだった。たまに魔物が現れても、村人達が魔法ですぐに退治してしまう。魔王や人間狩りなど対岸の火事でしかなかったのだ。
そして人々の生活もなんとも気楽なものであった。見掛け上は井戸から水を汲んできたり、薪で煮炊きしたりと、前世で言う所の所謂中世ヨーロッパ風の暮らしである。
しかしその実態は地球のそれと大きく掛け離れている。水汲みは井戸から水瓶まで魔法で宙に水路を引いてお仕舞い。薪割りは『樵』が立木を魔法を込めて斧を一回入れれば完了だ。帯状になった木の皮で小分けされた薪束の山が出来る。薪に着火するのも勿論魔法で、畑に植えた作物さえ一週間で立派なものが成長する。
どんな仕事でも楽園の力で簡単に済んでしまうのだ。一見文明が未発達な世界に見えても、単に科学が求められ、発展する余地など何処にも無かっただけなのだ。
そんな訳だから普通は昼迄で仕事は終わりである。後は昼寝したり、お喋りしたり、酒を飲んで騒いだり。
ぼーっと何も無い宙を見つめている人もいるが、あれはエリックに見えない何かで本を読んでいるらしい。実は一度、村の隅の方でアリーの父親が宙をニヤニヤと眺めている所に出くわしたことがある。あんまりにも気持ち悪くて、エリックが後ろからそっと声を掛けてみると、酷く慌てた様子で絵本を読んでいるのだと教えてくれたのだった。なお、声を掛けたのがエリックと気付いたおじさんが心底ホッとしていた理由迄は分からない。
話が逸れてしまったが、仕事が楽に、お昼までで終わり、余暇を過ごす手段もあるのならば、確かにこの世界は楽園と呼んでも良いのだろう。或いは、地球よりも余程進んだ世界と言っても良いかもしれない。
まだ魔法が使えないエリックにとっては不便な時もあるが、それはご愛嬌と言うものだ。
「おや、こんな所で寝転んで何しているんだ。明日の祭に向けて何か企み事か、悪ガキ坊主?
早く帰らんと、また母さんに叱られるぞ」
「父さん!」
コツンと軽く頭を突かれて、エリックが顔を上げると鍬を肩に担いだ父がそこに立っていた。
「ほら、エリック」
「ん、ありがとう、父さん」
差し出された手を握って立ち上がる。父の手は、今日も泥にまみれていた。エリックは服に付いた草を手で払いながら、ニヤリと笑みを浮かべる。
「父さんも、ちゃんと泥を落としとかないと、また母さんに叱られるよ?」
「おっと、こりゃヤバい!」
慌てていくつかの魔法で泥を落とす父を横目に、エリックは村の方へ目を向ける。ここは少し丘の様になっているので、茜に染め上げられた様が良く見える。この光景は、やはり何度観ても飽きる事はない。
「よし、こんなものだろう!
さあ、行こうか。母さんの旨いご飯が待ってるぞ!」
「うん!」
父と連れ立って黄昏の村を歩く。夕焼けの世界を家の影法師が疎らに切り取り、夕げを支度する炊煙が白い軌跡を描いている。
(前も父さん達と歩きながら、こんな景色を見てた事があったっけ。
あの頃は僕も早く魔法を使いたいって、事ある毎に母さんにせがんでいたっけ)
エリックは横に並んで歩く父を見上げる。
(父さんは……)
今日のアリー達とのやり取りがあったからか、この世界の『法則』について考えていたからなのか、エリックが聞けずにいた疑問が自然と口から溢れていた。
「父さんは……、父さんはどうしていつも遅くまで働いているの?」
「うん? なんだ、エリック。ようやく父さんの鍬捌きに興味が出来たのか?」
「そうじゃなくって!」
「あっはっはっはっ! 分かってる! 分かってる!
まあ、その、なんだ? 父さんには少しやっておかなきゃならん事と、それから試しておきたい事があってなぁ。
いつも気付いたらこんな時間なんだよ」
「やらなきゃいけない事? 試したい事?
それって何なの?」
「それはなぁ……」
エリックの疑問に、父は自慢の鍬を担ぎ直してニッと笑う。
「お前が十二になるまで、秘密だ!」
そうして帰って来たのは、いつか母から聞かされたものと同じ答えであった。
「チェック!」
「んが!? ちょ、ちょっと待ってくれエリック!
待った、じゃ、待った!」
「あはは、勿論良いですよ。存分に悩んで下さい」
「んぐむむぬむむむ…………」
盤面の終盤、エリックは対戦相手から待ったを掛けられ、打つ手を止める。
「ほれ、だから言ったんじゃ! あそこは『聖女』を下げるべきだったんじゃ!」
「いいや、お前は分かってねえ! アレはアレで正解じゃった! それよりも今は『戦士』をだな――――っ!」
「いやいや、ここはあえて『勇者』を――――っ!」
(んっふっふっふっ、事この局面に至れば全て手遅れ! 攻防一体のこの構え、そう簡単には崩せませんよ~!)
周囲で対戦の行方を見守っていた長老方が好き勝手言うのを横に、エリックは密かに笑みを深める。
今指しているのは村で流行りの駒遊び、『勇者と魔王』だ。基本的な所は前世の将棋やチェスのようなものだ。対戦形式は一対一、王将に当たる駒を先に獲られた方が負けだ。相手の駒を獲っても自分の駒に出来ない点からすると、チェスの方が近いかもしれない。
特徴的なのは、『勇者』として指すか『魔王』として指すかでゲーム性が大きく変わる点か。手駒の数や質が大きく異なる等色々とあるが、一番は王将の扱いだ。
『魔王』側の王将は勿論、『魔王』。一歩も移動出来ない変わりに周囲のマスへ魔物の駒を配置する事ができる。そして何より、『勇者』でしか討つ事が出来ない。
一方『勇者』側の王将、『勇者』は、盤上の『聖女』が無事である限り何度でも勇者を再配置する事が出来る。
「やはりここはまず『左腕』をだな――――」
「いや待て、そうすると『右腕』が攻めて来るぞ!」
「おのれ大魔王め、小癪な!」
初めは村のじい様方の何かの気紛れであった。偶々近くを通りかかった時に指し手として呼ばれて以来、ずっと魔王として君臨して来たエリックは、将棋のセオリーの応用と数々の対戦経験を経て、いつしか大魔王と称される迄に至ったのであった。
(まだ、もう少しかかりそうかな?)
相手が長考に入ってしまったので、エリックは盤面から目を離す。ここは村の中央広場に面した集会所の、そのすぐ側に設けられた簡素な東屋で、少し視線を上げれば広場の様子が良く見えた。
穏やかな風が吹き込む。今日の村の空気にはご馳走が満ちていた。
今日は年に一度の秋祭りの日だ。村の中央の広場には小さな祭壇が設えられ、その周囲に今年の収穫物が大量に奉じられている。これは今年一年も無事に過ごせたこと、冬を越すのに心配が無い事をご先祖様に報告するという意味がある。
神様に、ではない。ご先祖様に、だ。
この世界では神様に祈ったり敬ったりという事が無い。それ所か、エリックはこちらで『神』に類する単語すら一度も聞いた事が無い程だった。代わりに村の人々は自分達の先祖をとても大切にしている。
これは、先祖がかつて楽園を築き、そしてその残滓が今も自分達の生活を助けるタスクを
そして秋祭りの今日、十二歳になった子どもは成人の儀式を通じてそのタスクを目覚めさせる。
この村は大人の数に比べて子どもの数がとても少ない。今年の成人の儀式は久しぶりの開催とあってか、祭りの準備にも一段と気合が入っているようだ。主役のアリー達も今頃は村長宅で儀式の真っ最中のはずである。
広場では祭の準備に多くの村人が行き交っている。太陽はとっくに天辺を過ぎているが、流石に今日ばかりは午後も働くようだ。村の女達が様々な料理を忙しなく運び込み、男達が卓や丸椅子、ゴザを準備して回っている。
「いよっし、これじゃ! これしかぁ、無い!」
パチン、と小気味良い音と共に漸くの一手が指される。対戦相手のじい様が決意の籠った目で睨み付けてくるのを、エリックは邪悪な笑みでもって迎える。
そのまま数手差し合い、
「あっはっはっはっ、残念ですが逃げられませんよ~!」
エリックの止めの一手で、遂に勇者は討ち果たされるのであった。
「ぐ、ぐぬぬぬぬぬぬ…………っ! ええい、もう一局、もう一局じゃ!」
「待たんか、クソジジイ! 次は儂の番じゃろうが!」
「いや、お前さん達には任せてはおけん、ここは儂が!」
「いや、えーと、あの……」
次の対戦順を巡って長老方が喧々諤々の言い争いを始めてしまい、エリックは困惑に目を泳がせる。エリックの足元には二本の木剣。これは、儀式が終わったら持ってくるようにとアリー達に頼まれたものだった。
「はいはい、良い年した大人があんまり子どもを困らせるもんじゃないよ!」
この場をどう収めようかとオロオロしていると、この惨状を見かねたのか、恰幅の良いおばさんが手を叩いて場に割り込んでくれた。クーンの母親だ。目元や体型がよく似ている。
「ほらエリック、今の内にお行きなさいな。ウチのバカ息子達に頼まれ事があるんだろう?
成人の儀式も、もうそろそろ終わる頃だよ」
「うん、ありがとう! おばさん!」
エリックは手早く木剣を抱え上げると、礼を述べて村長の家へと駆け出す。
「あ、それと! ついでだから、祭の準備は終わったって、村長さんに伝えてちょうだい!」
「うん、分かった!」
村長への言伝の頼みに手を大きく振って応えるエリックを見送り、クーンの母はそっと息をついて村の長老方に向きなる。
「それで、まーた負けたのかい? あのエリックに」
「そうなんじゃよ。全く、どういうことじゃろうな、これは」
「あたしが知るもんかい。
そんな事よりさっさと片付けて頂戴な。祭の準備が整ってないのは、後はここだけなんだよ?」
クーンの母の後ろには、いつの間にか荷物を持った女衆。彼女達に凄まれて、老人達は年を感じさせない素晴らしい速度で机を片付けるのであった。
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