第3話 森の逃走劇
「はっ……はっ……はっ……! ヤバい! ヤバいヤバいヤバいっ!!」
エリックは必死に森の中を走っていた。木々の枝や草むらが肌を打ち付けるのも厭わず、それはもうただ只管に。脇目も振らず。
七歳になって多少は手足も伸びたが、森の中は何かと障害物が多く中々速度が上がらない。小麦色の髪を振り乱し、継ぎ接ぎだらけの衣服のあちこちに葉っぱを引っ付けて、エリックは必死に走った。
「クーン、急げ! 早くっ!!」
「そんな、事、言っても、僕は、走るの、苦手、なん、だよ~!」
エリックの前を走るやや細身の赤毛の少年が視線だけで振り返り、二人の後ろを遅れて着いて来るややずんぐりとした焦げ茶の髪の少年へと叫ぶ。前後の二人ともエリックより幾らか年嵩で、村の大人達からは三人まとめて悪ガキと呼ばれていた。
エリックもまた、一向に速度の上がらないクーンに対して焦りの声を上げる。
「本当に急いで! でないと――っ!」
「グウゥルルゥゥーー!! ガウ! ガウ! ガウ!」
「「「うわぁ! 来たぁっ!?」」」
それと時を同じくして、クーンの後方の茂みが揺れて二つの影が飛び出した。飛び出して来たそれは、まるで狼のような姿をした生き物だった。しかしその体表には毛皮は無く、代わりにヌメリのある肌に所々を鱗のようなものが被っている。けたたましい吠え声を上げる口は三つに裂け、左右不揃いの場所にギョロりとした赤い目玉が一つ二つ付いている。
その姿は明らかに尋常の生き物ではない。それはエリックがこの世界で初めてはっきりと見る、楽園に巣食う魔物の姿だった。
「ひいいぃぃえぁぁぁぁああっ!! 助けてぇぇぇぇっ!」
後ろに現れた異様な裸狼を見て真っ青になったクーンが、それまでのポスポスとした走り方が嘘のように倍する速度でエリックを追い抜く。
「え!? あ、ちょっ!? クーン、置いてかないで!?」
エリックの悲壮な叫びも空しく、身長差の分だけ徐々に差が開いて行く。そんなエリックに掛かる声があった。
「クケケケケっ! ホゥレ急ゲ急ゲ! 喰ワレルゾ~!」
耳障りな甲高い声が突然聞こえて来て、エリックは思わず頭上に目を向けた。するとそこには底意地の悪い笑みを浮かべた紫色の小人がエリックの顔を覗き見るように飛んでいる姿があった。その小人には尻尾こそ無いものの、紫の肌に背中のコウモめいた翼、鉤裂きに裂けた口に額の小さな角も相俟って正に小悪魔と言った風情である。
小悪魔はエリックの必死な様子と、後方の裸狼をしきりに見比べながら甲高い声を上げる。
「ホレホレ、モット手ヲ振レ、足ヲ動カセ!
ホラ! スグ! ソコニ! 獣ノ!
キキキキキキッ!」
エリックを焦らそうとしているのか、心底この状況を楽しんでいるのか、頭上の小悪魔が楽しげに耳障りな声で鳴く。
エリックは頭上の声を努めて無視して走り続けた。確かに後ろの足音は大きくなって来ている。後ろを見る余裕はもう無い。息も、上がってきている。
「ヒヒヒヒヒヒッ! ホゥラ! ソゥレ! ガブリ――――ヘブチッ!?」
エリックが木の枝を潜ると同時に、頭上の小悪魔が後方に流れて行く。どうやら、ちゃんと前を見てなかったらしい。
「グルルルルゥ……」
すぐ側迄来てエリックを喰わんとしていた裸狼は、狼狽えるように立ち止まって地面にべしゃりと落ちた小悪魔の様子を伺っている。
「何シテンダ! グズ! マヌケ! サッサト追イカケロ!」
「ギャウゥ」
小悪魔に喚かれて裸狼は再びエリック達を追い出したようだったが、今の間にエリックは少し距離を開ける事に成功した。
「ああ、もう! アリーの言うことなんて聞くんじゃなかった!」
「何だよ! エリックも乗り気だったじゃんか!」
一息つけた事でエリックが今の状況を嘆くと、先頭を走るアリーが抗議の声を返した。
そもそも三人がこんな状況になった切欠は、悪ガキ三人組のリーダー各、アリーの提案だった。なんでも昨日の夜中、トイレに起き出したアリーが村近くの森へ入る怪しい人影を見たと言うのだ。三人が話す内に、いつしかその人影の正体を見極めるという流れになり、ついには三人は大人達の言い付けを破って森へ分け入って行った。
森への立ち入りが禁じられていた理由は、魔物や危険な動物、野盗と子どもだけで出くわさないように、という至極当たり前の事で勿論三人もそれは理解していた……のだが、結局好奇心の方が勝ってしまったのだった。
ほんのちょっと覗くだけのつもりで分け行ったエリック達は、しかし森の極浅い所で裸狼とバッタリ出くわしてしまい、そして今に至る。
(くっそう! 結局五歳の時でも何も起こらなかったから、油断してた!)
エリックは内心で毒づいて、走りながら周囲に視線を巡らせる。裸狼達に追い立てられて随分と森深くまで来てしまっていた。
「はぁ……はぁ…………もう……駄目だぁ…………」
力無く掠れた声で前を行っていたクーンが漏らすと、ガクンと速度が落ちる。駆け足が小走りに、小走りが引きずるような歩きになり、そしてついには立ち止まってしまう。
「クーンっ! クッソ!!」
アリーがその様子に気づき、いつの間にか拾っていた木切れを手に踵を返す。エリックもそれに合わせてクーンを庇うように立ち止まる。手近の枝を手折って武器にしてみたが、子供の力でも折れたそれは細く柔く、なんとも頼りない。
ガサガサ、ガサガサ、と茂みの向こうから裸狼がエリック達を追い縋る音が飛んで来る。
(怖い……怖い……っ!)
エリックは震える脚を抑えるために地を踏みしめる。
茂みの切れ間から裸狼が飛び出した。
横に立つアリーが、ギリと歯を食いしばって猛然とこちらへ駆けてくる裸狼を睨めつける。
(しっかりしろ、エリック……! どうせこのまま走っていても逃げ切れないんだ! ここで何とかするんだ!)
「目だ! エリック、目を狙うぞ! そうすれば逃げ切れるはずだ!」
アリーが鋭く言うのに小さく頷いて返す。裸狼は、もう、すぐそこに迫っていた。
もう少し。
あと、
少し。
「「うああああああああっ!!」」
「「ガウウアアアアウウウ!!」」
二匹の裸狼がエリックとアリーそれぞれに飛びかかる。
二人はそれに木切れを振って迎え撃つ。
森の只中で四つの影交差しようとする正にその瞬間、二人と二匹の横合いの茂みが大きく揺れ、
「
鋭い叫びとともに二人と二匹の間に銀色の光の壁が立ち現れる。
ガッ! ギィンッ!!
裸狼の牙とエリック達の木切れが光の壁に阻まれ、金属質の音を立てて弾かれる。
継いで烈迫の声が森を貫く。
「
文字通り瞬く間の出来事だった。
茂みから大柄な人影が躍り出ると、銀色の閃光を一閃。ただそれだけで、二匹の裸狼は後ろの森の木々諸共に真っ二つになっていた。
「キッ!? ギギイイィィィィィッ!?」
エリック達に追いつこうとしていた小悪魔は状況が一変した事を敏感に感じ取ったのか方向を急転換、幾つかの枝葉に引っかかりながら一目散に逃げ出し、姿を眩ませてしまった。
「逃したか。ふむ、しかしこのような所に尖兵とは……」
突然現れたその人物は低く嗄れたしゃがれた声で呟くと手にした直剣を収めるとエリック達に向き直った。
真っ白な髪に真っ白な口髭。皺が深く刻まれた顔のあちこちには多くの古傷が残っている。齢五十はとうに過ぎているであろうに、その使い古した簡易な革鎧の下には隆々とした筋骨が収められているのが伺わされた。
「さて、坊主達。どうしてこんな森深くに居るのかな?
友達を守ろうとする勇気は感心するが、子どもだけで森に入るのは誉められた事では無いのう」
その逞しい老人は若草色の外套を翻して剣を収めると、片眉を上げながら未だ尻もちを着いたままのエリック達を覗き込むように腰を屈めた。
しかし、エリック達三人は、その問いかけに誰も応えることは出来なかった。
当然だった。何故なら、こんな辺境に住む自分達には無縁の人物がそこに居るのだから。
それでも、どんなに有り得ない事でも、しかし銀の閃きを振るう者などこの世にたった一人しかいない。
静けさを取り戻した森の中、三人の悪童達は只々呆然と老いた勇者を見上げるのだった。
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