第27話 蛇の道は尾






 真っ白だった。






 前後左右はおろか、上下すらも白一色。

 ミルクの海に落ちた虫のような気分で、俺は辺りを見回す。


「――――?」


 どこだ、ここは。

 俺は灯籠廻船の客室層にいたはず。


 手にはまだマムシを殺した感触が残っている。

 全身の筋肉は焼けるように熱く、脇や股が汗でぬめっている。

 どっ、どっ、どっ、どっ、と心臓も力強く打っている。

 俺はまだ生きている。


 だが、ここがどこなのか、なぜここにいるのかが分からない。

 ただただ真っ白な空間が、どこまでもどこまでも続いている。 


「……!」


 危うく平衡感覚を失いかけたところで、気づく。

 やや前方に、俺が投げたスマートフォンが落ちている。

 この空間には床があるらしい。


 恐る恐るそこまで歩き、硬い電子機器を拾い上げる。

 身を屈め、手で床をなぞる。

 先ほどまでは畳が敷き詰められていたはずだが、感触は妙に柔らかい。 

 まるで大きな花弁のようだ。


 座り込み、後方を見る。

 やはり真っ白な空間が続いている。

 ただ、すぐ近くにロッコのかばんや辞書、シュウの荷物が置かれていた。

 やはり俺は死んだわけではないらしい。


 なら、呼びかけるべき相手は一人だ。




「ノヅチ!」




 俺の声が白い空間に響く。




「――いるか?」  




 数秒後、液面に浮かび上がるようにしてノヅチが姿を現した。

 浴衣姿に顔の上半分を隠す狐の面。

 唇にべに


『はいはい。呼びましたか?』


 女形はのんびりと答えた。


「呼びましたかじゃないだろ。どこだよ、ここ」


『「あの世」です』


「……?!」


 あ、とノヅチが付け足す。


『別にヒゲさんが死んじゃったわけじゃありませんからね? ……最初に説明しましたよね。この船はこの世からあの世へ死者を運びますよと』


 確かにその説明は受けた。

 だがマムシを討ち取ってからまだ一分と経っていないはずだ。

 そう問うと、ノヅチは肩をすくめた。


『あの世に「入った」だけですよ。到着まではまだ少~しかかります』


 俺は座ったまま右を見、左を見た。


「あの世って……白いのか」


『白く見えてるだけですよ。ヒゲさんは生きてるんだから、彼岸の景色を感じられる訳ぁありません』


「……それもそうか」


『マムシ様とタカチホ様がご健在なら、主様が今まで通りの夜を見せてくださったかも知れませんがね。もうお二方ともいらっしゃいませんから、ヒゲさんに配慮することもなかろうと』


 確かにマムシやタカチホと戦っている途中でいきなりこんな空間に遷移したら、俺はパニックに陥っただろう。

 逆に言えば、この白い空間は俺の勝利の証でもある。

 もう俺は戦う必要がないのだ。


(……?)


 ふと、俺は視線を感じた。

 座ったままゆっくりと振り返る。


 ユメミ。

 ロッコ。

 シュウ。

 すっかり見慣れた三人が立っている。


「……」




 三人とも、浴衣姿だった。


 側頭部には猿や忍者の面が付けられている。




「お前ら――」


 俺は一度だけ、大きく息を吐いた。

 重荷を下ろすような息。


「――やっぱり、死んでたのか」


 あら、とノヅチが声を漏らした。


『気付いてたんですか、ヒゲさん』


「まあな」


 三人は表情を変えなかった。

 目にも力がない。

 あの境内で見た死者たちのように、どこか虚ろな雰囲気を漂わせている。


「死んでた、ってのは違うな。死にかけてたって感じか」


 おそらくこの三人は俺に出会った時点で昏睡か、それに近い状態だったのだろう。

 心電図が規則的な音を奏でるベッドの上か。

 はたまた、ひしゃげた車の中か。

 本当の三人は、おそらくそこにいる。


 半死半生とでも言うのか。

 彼らは死者でもあり、生者でもあった。

 肉体的には死んでいたが、心魂の方はそうではなかった。――もしくはその逆。



 この三人は俺と共に灯籠廻船に乗った。

 おそらくは、決して乗ってはならない船だった。


 日本の俗話で、意識不明に陥った者が死んだ親族と出逢うというものがある。

 祖父や祖母が川の向こうで手を振っていた、という語りが最も多かったか。

 大抵の人間は、川を渡らない。

 引き返し、「こんな夢を見た」「危なかった」と胸を撫で下ろし、笑い話にする。


 この三人は、渡ってしまった。

 ――――あるいは、渡るしかなかった。


「……もし今夜まで生き延びてたら、こいつらは俺と一緒に戻れたのか?」


『ええ。「この世」と「ここ」の両方で生き延びてたら、ですがね』


 残念ながらそうはならなかった。


 最後の戦いの途中でユメミが消えたのは作戦でも裏切りでもなかった。

 現世でかろうじて生きていた方のユメミが、完全に力尽きたのだ。


 比喩的に言えば、肉体と心魂を結ぶ糸が完全に切れたといったところか。

 幽体離脱をしている最中に、元の肉体が生命活動を停止するような状態。

 それはつまり――――「死」。

 

 ロッコも、シュウも。

 奇跡的に息を吹き返すことなどなく、死んだ。


 灯籠廻船に乗った方の三人は無事だったが、「この世」側の三人が死んだ。

 半死半生の状態であるため生者として扱われていた三人は、その瞬間、完全な死者となった。

 おそらく俺が一人で戦っている間、この三人は背景の死者たちに紛れていたのだろう。


(……)


 灯籠廻船は死者をあの世へ運ぶ船だ。

 そしてノヅチ以外の人々はすべて死者。


 死者は仮面をつけ、浴衣を着ているが、年齢はバラバラだ。

 死者ばかりなら五十代以上に集中するのでは、と俺は当初疑問に思った。

 ノヅチはこう説明した。




 ――死を迎えると、時間という概念から解放されますからねぇ。現在も過去も無関係。夢の中にいるようなもんです。


 ――夢の中だから自分の時間も曖昧……ってことか?


 ――そんな感じですねぇ。だから皆さん、好き勝手なことなさってるでしょ? 賭博に踊り、料理に謡曲……とね。




 死者の年齢は外見と一致しない。

 八十歳で死んだ者が、船に乗っている時は五歳になっている可能性があるということだ。


 ユメミ、ロッコ、シュウの三人はおそらく夢の中にいるような気分で船に乗り込んだ。

 自分達が外見通りの年齢だと思い込み、それぞれが少年少女のように振る舞っていた。


 次第に、彼らは記憶を取り戻した。

 心身の死が近づいたからか、あるいはその逆か。

 それとも単に時間が経過したせいか。


 理由は分からないが、彼らは徐々に自分が何者であったかを思い出した。

 だから、急激に大人びた言動を繰り返すようになった。

 

 まずシュウ。

 その次がロッコ。

 少年らしからぬ洞察力や少女らしからぬしたたかさを見せたのは、本来の記憶を取り戻していたからだろう。

 俺は初めこそ少年少女と共に戦っていたが、途中からは成人男性、成人女性と共に戦っていたのだ。


 考えてみれば恐ろしい話ではある。

 自分が、自分の思う年齢でないと気づくのは。

 俺も自分が二十六のフリーターではなく、実は六十過ぎの末期癌患者だと知ったら衝撃を受けるだろう。


(――――)


 俺は、どうなのだろう。

 俺は本当に二十六歳の「鎌ヶ瀬かまがせ 偉達いたち」なのか。


 もし。

 もし、違っていたら。


 俺は――――


『そうですねぇ』


 ノヅチが鳩でも見るように三人を見やった。


『あれだけ大っぴらに人が変わりゃ、鈍~いヒゲさんでも気づきますよねぇ。実は死んでるんじゃないかって』


「いや」


 俺は軽く首を振った。


「ロッコとシュウが死人だろうなってのは、船に乗った時から何となく分かってた」


『……へ?』


「お前は知らないだろうけどな。現代日本にはこよみがあるんだよ」


 俺は昼間見た景色を思い出していた。


 あの世の時間で七夜前。

 この世の時間では、ほんの数時間前。


「……今日、新茶市しんちゃいちだったんだよ」


 数週間に渡って続いた豪雨明けの晴天。

 翻るのぼり

 緑の山々と、緑の茶葉。


『茶市、ですか』


「そ。客が大勢来ててな。少し早い夏祭りみたいにごった返してた」


 ちょっとした行楽地並みの混雑。

 談笑し、酒を飲む人々。

 親子連れ。商業高校の女子高生。




「今日、日曜なんだよ」




 たとえ夕方でも、ランドセルを背負った小学生や制服姿の中学生を見かけることはほぼない。

 運動部なら可能性もあるが、シュウとロッコの持ち物に体操服の類は無かった。

 都会なら塾や補習の可能性もあるだろうが、ここは田舎だ。


「もしかするとロッコとシュウは普通じゃない奴かもな、って思ってた」


 ただ、と俺は最後の一人を見る。


「……ユメミだけは生きてると思ってた」


 気のせいでなければ少しだけ色彩が薄れて見える女が、俺を見た。

 表情は乏しいが、まるで感情を読み取れないわけではない。


 左肘から先を失くした姿のユメミは、少しだけ申し訳なさそうにしていた。


「お前、人殺しなんかじゃなかったんだな」


 ユメミは何も言わなかった。

 今までは糸目だったが、もうぱっちりと目を開いている。


(? こいつ、わざわざ目を細めてたのか……?)


 取るに足らない疑問だ。

 俺はその考えを振り捨て、再び彼女の目を見つめる。 


「あんたの本名、『ゆきしろめぐみ』じゃないんだな? ……。いや、そうとも限らないのか?」


 無言。


「あんたはロッコやシュウみたいに人が変わったりしなかった。最初から記憶、ちゃんとあったんだよな?」


 無言。


「なあ、ユメミさん」


 無言。

 俺はちらりとノヅチを見る。


『もう死者ですからね。あんまりヒゲさんとは話さないように、って主様に釘を刺されてるんですよ』


「主様?」


 俺は辺りを見回した。

 どこまでも続く真っ白な空間。


「……いるのか? どこかその辺に?」


『その辺も何も、ヒゲさんの目の前にいらっしゃいますよ』


「は?」


 俺は目の前の空間を見た。

 ――――何もいない。


「いないぞ」


『見えやしませんって言ったでしょうが』


「そりゃ言われたけどさ。なんかこう……あるだろ? 威圧感とかオーラとか」


『そんなことアタシに言われてもねぇ』


 俺がなおもユメミに話しかけようとすると、ぱん、ぱん、とノヅチが軽く手を叩いた。


『はいはい。与太話よたばなしは後にしてください』


「与太話ってお前――」


『忘れたわけじゃありませんよね? ヒゲさんはお客さんじゃない』


「……」


『アタシにゃヒゲさんをあっちに連れて帰る道理もないし、そんな義理もありません』


 道理も義理もない願いをかなえてくれる存在はただ一つ。

 俺の目には映らない、感じることもできない巨大な存在。

  

 灯籠廻船に迷い込んだ生者が元の世界へ戻るためには、主様の名を呼ばなければならない。


(……)


 俺は一度だけ、三人を見た。

 ユメミも、ロッコも、シュウも、既に身体が透けて見える。


 残念だが、連れて帰ることはできない。

 理屈ではなく、直感でそれが分かってしまう。


 死者は蘇らない。

 がくを離れた桜の花弁を戻すことができないように。


 三人は必死だった。

 必死に生きようとした。

 だが、それは叶わなかった。

 

 悲しく、悔しいことではある。

 ある種のむなしさも覚える。

 だが、俺が嘆いたところで何かが変わるわけではない。

 

 俺にできるのは、彼らの戦いを――生きようとした意志を無駄にしないことぐらいだ。

 少なくともロッコとシュウには家族がいる。

 二人の本当の年齢によっては、彼らの父母に何かを伝えてやることができる。

 供養もしてやれる。

 ――俺が生きて戻りさえすれば。


『さ、ヒゲさん』


 ノヅチに促され、俺は白い空間を見上げた。

 誰もおらず、何の存在も感じない空間を。


『どうぞ』


 マイクを向けられるような感覚。

 選手宣誓さながらに、俺は緊張の中で息を吸う。




「主様。あんたの名前は――――」




 真っ白な空間に、俺の声が吸い込まれる。






「『       』だ」






 白い沈黙が流れた。


 数秒。

 あるいは数分。


『はい?』


 矢庭に、ノヅチが斜め上方を見た。


『……。……ええ。ではそのように』


 電話でも終えたかのようにそう呟き、ノヅチが俺に目を向ける。


『ヒゲさん』


「何だ」


 俺はできるだけ威圧的に返した。

 痛くもない腹を探られ、不快だとでも言うように。


『主様がですね? どうもヒゲさんのお声が聞き取りづらいと』


「――――」


 嫌な汗が背中を伝った。


『ヒゲさんが読み書きのできない方なら今ので良いんですけどね? 読み書きができるんなら、ぜひとも名を――「見せて」もらいたいと』


「――――!」


 予感はあった。


 主様の名前の一部は、『謎』を解かずとも言い当てることができる。

 だが『謎』を解くと、今度は逆にその部分だけが分からなくなった。


 昨夜、ユメミが問うたように。

 主様の名を「呼ぶこと」と「書くこと」の間には大きな隔たりがある。


 タカチホとの戦いの最中、俺は『謎』を解いた。

 そしてユメミと同じ、行き止まりにぶつかってしまった。


『大事な大事な一答ですもの。聞き違いがあっちゃいけませんからねぇ』


 ノヅチが俺の手を握った。

 白く長い指は蛇のように冷えており、俺は思わず手を引っ込める。


『ほら、それで道具は足りるでしょ?』


 ノヅチは俺の指を示した。

 人差し指の第一関節が黒いもやのようなものに覆われている。


 試しに宙に滑らせてみると、筆のように文字を書くことができた。


『主様の名前ぇ――』


 いつの間にかすぐ傍に近づいたノヅチが、ぽんと俺の肩を叩く。

 声音は低く、抵抗を許さない重い響きがあった。


『「書いて」もらえませんかね?』


(……っ!)




 それが、俺に突きつけられた最後の試練だった。




 主様の名は、既に分かっている。


 それは俺の予想通り、単純知識を問う名前ではなかった。

 どんな辞書や古典にも記載されておらず、神話や寓話で語られたこともない名前。

 死生の間の波をたゆたう、ノヅチとヤツマタ様しか知らない蛇の名前。


(……クソ。最後の最後に……)


 全身に粘ついた汗が噴き出した。

 鼓動は、これまでのどの戦いよりも激しく高鳴っている。


 


 主様の名は、既に分かっている。


 ただし、「音」だけだ。

 その名を示す、「字」が分からない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る