第26話 蛇の道は足

 

 鏡の刀を下ろし、ゆっくりと振り返る。


 立ち上がったマムシは満身創痍だった。

 黒髪は乱れ、肩は激しく上下している。

 腹には槍が突き刺さったままで、手の平からは鮮血が滴っていた。


 それでも、目にはぎらついた殺意の光が残っている。


(……)


 俺は手を開閉し、先ほど彼女を貫いた時の感触を思い出していた。

 手ごたえはあった。

 中身の詰まった肉袋を貫く、あの不快な手ごたえが。


 だがマムシは立ち上がっている。

 陣羽織が厚かったのか、切っ先が肋骨にでも当たってしまったか。

 いずれにせよ、奴はまだ動く。


 歩き出そうとしたマムシがふらつき、よろめく。

 かろうじて踏みとどまり、俺を睨む。

 その手が自らを貫く槍を掴み、液化させた。


「……」


 鏡の刀を手にした俺は、船尾へ向かってそろそろと後ずさる。

 マムシは時折よろめき、足をもつれさせながらも俺を追って来る。

 彼女の落とした血の痕が点々と畳を汚す。


 俺とマムシの視線は絡みついたままだった。

 人ならざる化生の放つ殺気が恐怖を呼び、俺の心胆を冷やしていく。


「フゥゥゥ……!!」


 河豚ふぐのように口を窄め、熱のこもった息を吐く。

 火は絶やさない。

 火を絶やせば恐怖に呑まれてしまう。




 ばりり、と。


 船側の障子戸を突き破り、黒い大蛇が現れた。




 怪獣のような大蛇は身をくねらせて俺を避け、倒れ伏したタカチホを舌で絡め取る。

 ずぞぞぞぞ、と黒い大蛇が闇へ去ると、水を打ったような静けさが訪れた。


 一歩、退く。

 一歩、マムシが距離を詰める。


 二歩、退く。

 二歩、よろめくマムシが距離を詰める。


 三歩。

 三歩。


 広大な客室層のあちこちで思い思いの遊びに興じていた死者たちが、いつの間にか俺とマムシを取り囲んでいた。

 面をつけた死者たちはしげしげと俺たちの動向を伺い、何かを囁き合っている。


 ユメミはいない。

 ロッコも、シュウもいない。


 ヤツマタ様の腕はない。

 槍や畳はあるが、マムシには通じない。

 あらゆるものを溶かす彼女にはどんな武器も通用しない。


「!」


 マムシが足をもつれさせ、ひざまずくように崩れた。

 死者たちが音もなくどよめく。


 緑の蛇の腹部には赤い血が滲んでいた。

 手の平からはなおもボタボタと血が溢れ、畳を汚し続けている。

 顔を上げたマムシの額には汗の粒がびっしりと浮いていた。


「……根性あるな、お前」


 鏡の刀を下ろす。

 彼我の距離は15メートルほど。


「他の願いだったら聞いてやりたくもあるんだけどな、実際」


 以前にも似た状況があった。

 ここへ来た最初の夜。

 腰を抜かした俺を見て、マムシは手を止めた。


 自死を選ぶのなら船外へ叩き落とすことはしない。

 ノヅチを通じて、彼女は俺にそう告げた。


 あの時、俺は立ち上がった。

 両親への怒りと恨みを杖にして。


 今は違う。


「戻らなきゃいけないからな、俺」


 マムシが肩を上下させながら俺を見上げる。


「家族を待たせてるんだよ。……もしかすると、長い間な」


 鏡の刀を向け、切っ先をちょいちょいと動かす。

 マムシはその動作の意味を正しく理解したようだった。


 緑の蛇がゆらりと立ち上がった。

 殿しんがりを務める将よろしく、殺意と闘志が凝縮されていくのが分かる。


 俺は再び後ずさり、脳内に残された手札を一枚ずつ確認する。

 使えない札。

 使えない札。

 使えない札。

 ――使える札。



 すり足で五歩後ずさると、マムシが六歩距離を詰める。


 七歩後ずさると、九歩。


 九歩後ずさると、十一歩。



 少しずつ距離が縮む中、俺の背中が客室の壁に行き当たった。

 壁の向こうには風呂とかわやがあるが、中央通路を使わなければ入れない。

 そのどちらの部屋も出入り口は一つだけ。

 つまり、行き止まり。


 切っ先を向けたまま身を屈め、畳を剥ぐ。

 マムシがじりじりと近づいて来る。


 ロッコの鞄を取り出す。

 シュウのランドセルを取り出す。

 辞書を取り出し、ノートを取り出




 障子戸を突き破り、緑の大蛇が現れた。




 出血の止まらないマムシの負傷が「重傷」と認識されるに至ったのだろう。

 赤い舌が鞭のごとく伸び、マムシに迫る。


(……!)


 俺は全身の緊張を緩めかけたが、マムシは迫る大蛇の舌に手の平を向けた。

 ばちん、と舌先を掴む音。

 バケツ一杯分ほどの赤い液体が爆ぜた。


 舌先を溶かされた大蛇は蟹に鼻を挟まれた猫のごとく身をよじり、どたんばたんと船を揺らしながら逃げ出していく。


「おいおい。撤退命令は聞いとけよ……!」


 俺は大蛇を見送りながら、目的のものをポケットにしまった。

 そして最後の武器を取り出す。


 長めにカットしたふすまの槍に、交差する形で何本もの短い槍を結んだ武器。

 凶悪な櫛状の刃を持つ、テレビアンテナを思わせる槍。

 鏡の刀をズボンに挿し、両手で長大な槍を握る。


 これを振り抜けば、マムシが刃を数本溶かしたところで無駄だ。

 確実に数本の刃が肉にめり込む。


「切り札だ」


 マムシは足を止め、目を細めた。

 互いの距離は既に十歩ほどにまで縮んでいる。


「行くぞ」


 俺が一歩踏み出したその時だった。


 マムシが、がくんと膝を折る。

 そしてそのまま地面にへたり込んだ。


「……!」


 緑の蛇は虚ろな視線を畳に落としている。

 袴はクラゲのように丸まり、陣羽織の肩当ては片方が外れかけている。

 両手はだらりと垂れさがり、指先に新たな血が流れた。


 俺はそろそろと距離を詰めた。

 八歩。

 七歩。


「限界か。まあよくやっ――」




 弾かれたようにマムシが立ち上がり、跳んだ。




 びょう、と緑の輪郭を残しながら蛇が迫る。

 今までの動きが嘘のような、虎のごとくしなやかな跳躍。

 俺は――――


「っの野郎ッッ!!」


 俺は僅かに早く後方へ跳んでいた。

 マムシが重傷を偽っていることなど予想済みだ。


「二回も――」


 着地。

 力を溜め――


「騙されるかッッ!!」


 長大な槍を水平に薙ぎ払う。

 空気が唸り、畳のくずが巻き上げられる。


 が、マムシの方が一手速い。

 緑の蛇はぐんと身を沈め、薙ぎ払われる槍を真下から掴んだ。

 槍が両断され、マムシにダメージは入らない。


 蛇が力強く踏み込むのと、俺が槍を手放すのが同時だった。


 マムシが格闘の間合いに踏み込む。

 もう遮蔽物はない。

 俺はポケットへ手を入れ、硬いものを取り出す。


 マムシの肩越しに船首方向を見やる。

 息を吸い、腹の底から声を上げる。




「ユメミさんっっっ!!! 今だッッ!! 受け取れ!!」




 怒声と共に、俺は手にしたものを放り投げる。

 それはマムシを通り過ぎ、畳の上を滑った。




『はい。受け取ります』




 女の声。

 攻撃態勢に入っていたマムシがぎょっとしたように振り返り、同時にそちらへ腕を突き出した。

 が、彼女の手が伏兵を溶かすことはない。


 マムシの視線の先には――――アシスタント機能を起動したスマートフォン。

 ユメミはいない。


『あれ? でもわたしは、何を受け取ればよいのでしょう? そうか、あなたの感謝の気持ちですね!』


 いるのは、音声入力に反応する電子アシスタント。

 ヤツマタ様と同じく、この世にいない女。




 どっ、と。

 マムシの身が大きく揺れた。




 汗で濡れた黒髪が散り、俺の鼻に触れる。

 黒く甘い、死の香りが鼻腔をくすぐる。


 体当たり気味の一撃。

 俺がズボンから抜いた鏡の刃が、マムシの心臓に深々と突き刺さっている。


「『死ね』とか言って悪かったな」


 俺は刀を握る手首を捻った。

 鏡の刀身が砕け、マムシの肉と混ざり合う感覚。


「お勤めご苦労さん……!」


 突き飛ばすように身を離す。

 こちらを振り向いたマムシは鼻と手の平から血を噴きながら、なおも歩き出そうとした。

 一歩、二歩。

 おぼつかない足取りでこちらに迫ろうとした蛇は、ばったりとうつ伏せに崩れ落ちた。




 死者たちに見守られながら、最後の夜が終わる。


 そして、俺の視界が白一色に塗り潰された。

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