第24話 蛇の道は黒


 ラバースーツに似た蛇皮を纏う女が二人、大蛇の顎を蹴り、飛ぶ。

 マムシとタカチホの脇や股から布が這い出し、瞬く間に全身を包んでいく。

 まるで開花の瞬間を十倍速で見るかのような光景。


 マムシの下半身が濃緑のはかまに覆われた。

 上半身を包むのは肩部の突き出した陣羽織。


 タカチホは黒蛇を模したベルトだらけの軍服姿。

 虹色の光沢を放つショートマントが肩と腰に二枚。

 漆塗りの鞘に納まった刀が一振り。


 ざりん、ごつん、と。

 武人の草履ぞうりと軍人のブーツが玉砂利を踏んだ。

 船首付近の甲板に着地した緑と黒の蛇が、冷たい殺意のこもった視線を向ける。


 本殿のすぐ傍に立っていた俺は毛穴から汗が噴き出すのを感じた。

 恐怖のためではない。


(マジか……!)


 タカチホは以前、シロマダラが転覆させた船を元に戻した。

 俺たちは彼女の初手が99%の確率でシロマダラと同じ「転覆」だと踏んでいた。


 ――違った。タカチホは船に飛び乗った。

 出た目は99%ではなく、1%の方。


(っ!)


 思わず、客室層へ続く階段に目を向ける。

 本来なら俺たちは敵を階下へ誘い込み、そこで迎え撃つ予定だった。

 だがこうなると話が変わる。


 タカチホが初手で『転覆』を使わなかった理由は分からない。

 だが少なくとも今、甲板にはマムシがいる。彼女の能力は汎用性が低く、船から叩き落とされたら自力で帰還することは不可能だ。

 なら、これからの戦闘で『転覆』を使われる可能性は低い。

 甲板である程度消耗させて、それから客室層へ引き込んだ方がいいのではないか。


 ――いや待て。

 マムシごと船を転覆させても、『薙ぎ払い』で救助できるのではないか。

 タカチホに罰されたシマ達は一度宙に浮き、それから真横へ投げ飛ばされていた記憶がある。

 それを逆に使えば船外に落下したマムシを助けることもできる。

 つまりこれは甲板での戦闘を誘う罠の可能性が「兄ちゃん」


 走り出したシュウが声を残す。

 その背中は既に数メートルも離れている。


「ビビんなって」


「地雷かどうかは――」


 一拍遅れ、ロッコがシュウに続き船首へ走り出す。


「踏めば分かるでしょ」


 二つの背中が遠ざかる。

 行く手には破滅の白光を背負う二人の蛇。


「ちょ、おい! 作戦ッ! このパターンは――「追いつくのが先です! 止めないと!」」


 ひょるりとユメミが俺の脇を通り過ぎ、駆け抜ける。

 俺も慌てて後を追う。 


 合気道の達人のごとく両手をだらりと垂らし、マムシが前へ。

 タカチホは船首付近を動かず、白い光を背負う。

 二人の蛇の影は本人の十倍以上も長く伸びている。


「シュウ! ロッコ! 止まれっ! お前ら武器も――――」


 マムシの射程に踏み込むや、二人の子どもは左腕を盾のように突き出した。

 途端、攻撃態勢に入っていた緑の蛇がぴたりと動きを止める。

 こちらにはまだヒバカリとアオダイショウの腕がある。

 不用意に左腕を溶かせばマムシはかえって不利になる。


 敵が逡巡した一瞬の隙をつき、ロッコとシュウがマムシの傍を駆け抜ける。

 ディフェンダーをやり過ごすサッカー選手のごとき鮮やかな動き。

 が、俺は歯噛みしていた。


(腕のことは忘れろって言われただろうが、クソ……!)


 ヤツマタ様の腕は強力だ。その場に無くともブラフとして使える。

 だが余った二つの腕を使うためには「マムシに左腕を溶かされる」という特殊なシチュエーションを挟む必要がある。

 敵側にその制約はない。最悪の場合、奪い返されるおそれがある。

 そんなややこしいものを戦術に組み込めば俺たちの策は複雑化し、選択肢は毛細血管のように分岐してしまう。


 一人ならともかく、俺たちは四人だ。

 択の多さは油断と判断ミスを招く。

 腕のことは完全に忘れ、ブラフとしても使うべきではなかった。


 だがもう遅い。

 ロッコとシュウを追うべく、マムシがゆらりと船尾に視線を移す。


「どこを見ているんですか」


 ジムグリの腕を持つユメミが加速し、射程に飛び込む。

 緑の蛇は弾かれたように振り向き、端正な顔を歪ませた。


「綺麗な顔ですね」


 ユメミの紫腕が開閉した。


「もう二つか三つ、増やしてあげましょう」


 溶解と過剰回復。

 必殺の腕を持つ者同士が、レスリングの選手さながらに広げた両手を構える。

 距離は畳一枚分。

 

「抑えます。二人を」


 頷き、対峙する二人の脇を抜ける。


 ロッコとシュウはタカチホから二十歩ほどの場所で足を止めていた。

 黒い蛇はなおも動かない。

 虹の光沢を放つスカートを揺らめかせ、じっと甲板を見渡している。


(――――この感じだと……)


 俺はシュウとロッコの手首を掴んだ。


「戻るぞ。ここは不利だ」


「不利だからやるんだよ」


 シュウが俺の手を掴み、引き剥がした。

 強い光を宿した目に見返される。


「『保険』があるじゃん。無茶はできる時にやっておいた方がいい」


「いや、ありはするけど危ないだろ」


「あいつの能力が分からないまま下に行く方が危ないでしょ」


 ロッコが冷えた言葉を投げつけた。


「この状況でマムシとタカチホに背中を向けてのこのこ階段を下りるの? もっと臨機応変に判断したら?」


「ぅ……」


 ロッコの言い分は間違ってはいない。

 1%の目が出たからとて俺たちが不利になったわけではない。

 むしろ甲板で戦い、タカチホの能力を見極める千載一遇の機を得たとも言える。


「シュウ。行くよ。青の陣」


「りょーかい」


 二人は玉砂利を拾い、手の中で遊ばせた。

 黒い蛇が緩やかに視線を滑らせ、俺たちを見る。


(クソ……こいつら強情になりやがって……!)


 ロッコとシュウは明らかに俺の言葉を聞く気が無い。

 力ずくで連れ戻そうとすれば、タカチホに対して隙を晒す形になる。

 ――やむを得ない。


(やるしかない……! ここでこいつの能力を見破る……!)


 ロッコとシュウが歩き出し、時折X字を描いて交差する。

 そこに玉砂利を握り込んだ俺が加わり、一度だけ視線を交わす。

 速度を上げ、軌道を変える。

 三人全員がS字を描く、三つ編みを作るような軌跡。

 目を留める相手を見失った黒蛇が小刻みに頭を揺らす。


 隙をつき、続けざまに石を投げつける。

 びゅ、ひょう、びょう、と速度も重さも異なる投擲。

 タカチホは身を屈め、サイドステップに似た動きで回避した。


(避けた……?)


 能力での防御ではなく、回避行動。

 続けて投石すると、黒い蛇は嫌がるように船べりを走り出す。

 向かう先は船尾。

 スピードは遅い。ジョギング程度の速さだ。


(逃げた……? ……)


 俺たちは目配せし、タカチホを追ってゆっくりと走り出した。

 全力を出せば余裕で追いつけそうだが、そうなれば向こうもスピードを上げるだろう。


 タカチホは船べりに沿ってなおも走り続ける。

 マムシと対峙するユメミを横目に、俺たちは更に彼女を追う。


(何で逃げるんだよ。ヤツマタ様の長なんだろ……?)


 俺たちの油断を誘っているのか。

 ――その可能性は否めない。

 だがそれなら走る必要はない。

 それにもう一つ、見過ごせない可能性がある。


「あいつ、能力を使わないんじゃなくて、『使えない』んじゃねーの?」


 ジョギング程度のスピードで走りながらシュウが呟く。


「あの能力を使うには条件がある、とか」


 条件。

 能力発動の『条件』。

 シロマダラの時は満たしていて、シマの時も満たしていたが、今は満たしていない『条件』。


 時間。場所。それ以外。

 ――絞り込むには材料があまりにも足りていない。


「なら、時間が経てば経つほど向こうが有利になるってことでしょ」


 ロッコがスピードを上げつつ言葉を継ぐ。


「条件をクリアされる前に仕留めないと」


 シュウもスピードを上げ、つられて俺もスピードを上げる。


 三十歩。


 ニ十歩。


 十歩。


 船べりをするすると移動していた黒蛇が靴音の変化に気付き、振り向いた。

 俺たちは腕を振りかぶり、いっせいに石礫いしつぶてを見舞う。

 狙いはタカチホの進路上の一点。

 スピードを上げて逃げ出そうとした黒蛇は急停止し、連続バックステップで回避した。

 そして回避した分だけ、俺たちに近づく。


「はああっっ!」

「でええっっ!!」


 すかさず、ロッコとシュウが突っ込む。

 曲げた左腕を前に突き出した、ダメージ覚悟の構え。


 俺は一拍ずらして二人を追った。


 タカチホは佩刀はいとうしている。当然、斬撃が来るだろう。

 だが左腕を切断されれば蛇の腕を接ぐことができる。刃が骨で止まれば武器を封じることができる。

 左腕以外を切られれば深いダメージを負うが、攻撃後にタカチホは必ず隙を晒す。


(どう来る……?)


 タカチホはロッコとシュウを見据え――――斬撃ではなく前蹴りを放った。


(!)


 シュウとロッコは左右に分かれ、これをかわした。

 黒蛇は伸ばした足を戻そうとしたが、遅い。

 激戦を経て別人のように成長した子供たちが力強く踏み込み、軍人に飛びつく。


 ロッコが腰に。シュウが腕に。

 少女の手は刀の柄を抑え込んでおり、シュウの腕は黒腕に絡まっている。

 俺は速度を上げ、一気にタカチホへ突っ込んだ。


(こいつ……!)


 この女、大して強くはない。

 腕力も反射神経も並だ。

 カガチはおろか、マムシより弱いのではないか。


 俺の急加速に気付くや、黒い蛇は慌てたように大きく腕を回した。

 メリーゴーラウンドさながらに子供二人が振り回される。


「っく!」

「っ!」


 子供たちは離れない。

 が、殴りかかろうとしていた俺はたたらを踏んだ。


「何やってるのヒゲ! 私ごとでいい! 一発でもいいから入れてっっ!」


 ロッコが叫ぶ横で、シュウがさりげなく黒腕の肘部を掴んだ。

 そのまま体重を乗せて腕を引きちぎろうとしたが、僅かに早く気付いた黒蛇が膝を突き上げる。


「ぐっ!」


 顔面を膝で撃ち抜かれ、シュウが吹き飛ばされる。

 自由になった両腕でロッコの髪を掴み、タカチホが少女を引き剥がす。

 二人が砂利の上を転がる音を聞きながら、俺は左腕を盾にタカチホに殴りかかった。

 

 黒蛇は後方へ跳んだ。

 ぶおん、と俺の拳が空を切る。


(刀を抜かない……?!)


 着地と同時に身を捻り、タカチホは俺に背を向けて走り出した。


(まだ逃げるのか……?!)


 ここに来て、俺の胸中に不安がきざした。

 いくら何でもタカチホの挙動がおかしい。

 この逃げ方、分断を狙っている可能性がある。


 だが、おかしい。

 左腕に治癒の腕を持つ限り、今のユメミはマムシに対してほぼ無敵だ。

 どこかを溶かされても即座に傷を癒せる上、隙を突けば過剰回復のひと噛みでマムシを殺すことができる。

 タカチホとてそれは理解しているはずだ。

 この状況で俺たちとユメミを分断する意味はない。


 しかし現に、ヤツマタ様の長は俺たちから逃げ続けている。


(……どうする。追った方がいいのか……? それとも……)


 タカチホの身体能力はさほど高くない。

 能力もなぜか使えない。

 下手をすると三人がかりで押し込めば勝てる。


 だが彼女は逃げに徹している。

 弱さを補うためマムシと組むのではなく、あえて一人で逃げ続けている。

 そこに違和感がある。

 俺たちがユメミから離れることが奴の狙いなら、乗るわけにはいかない。

 今すぐ反転してユメミに加勢し、マムシを袋叩きにするという道もある。


「兄ちゃん! あいつ雑魚だ! たたみかけよう!」


 シュウの言葉で我に返る。


「雑魚は言い過ぎだ。あいつはシマを全滅させた奴だぞ」


「俺たちはシマじゃない。あのやばい能力も使えなきゃ意味ないだろ」


 走り出そうとするシュウの肩を掴む。


「待て待て! もう少し考えさせろ! ユメミさんに加勢した方がいいかも知れな「何言ってるの!」」


 ロッコの声がきいんと耳を貫く。


「言ったでしょ。能力発動に条件があるなら、時間が経てば経つほど向こうが有利だって!」


「……」


「あいつが逃げ回ってるのは『条件』を満たすために決まってる。それを阻止するのが優先でしょ?! バカなの?!」


「いや、そうだと決まったわけじゃないだろ」


 本当はタカチホの能力に条件など無いのかもしれない。

 今、彼女が逃げ回っているのはもっと泥臭い戦術に基づいた行動の可能性もある。

 例えば『能力を使った時、確実に仕留められる場所までの誘導』だとか。

 あるいは俺の推測した『分断』。


(……)


 ロッコかシュウをユメミの援護に向かわせる手もある。

 が、その場合マムシは弱い方を狙うだろう。治癒能力と溶解能力の均衡が崩れてしま「ヒゲ」


 ロッコが腕を組んでいた。


「余計なことは考えなくていいから。とにかく今はあいつに集中して」


「余計なことってお前……ミスったら誰かが死ぬんだぞ? 誘いに乗るのはマズ「先行くよ」」


 たっとシュウが駆け出す。

 一瞬虚を突かれたが、俺はすぐさま後を追い、少年を引き戻す。


「っ! 待てって! おい!」


「放せよ兄ちゃん!」


 シュウは俺を振りほどこうとしたが、こちらも力を緩めるつもりはない。


「アホか! 何で一人で突っ込むんだよ!」


「話し合ってる暇なんかないだろ! あいつ一人なら俺たち三人でやれるって!」


「だったら俺とロッコと一緒に行けよ! 何で突出しようとするんだ!」


「そんなのそっちが合わせればいいだけだろ? ロッコ姉ちゃんだって俺と同じ考えなんだから――」


「……だからと言って、何の説明もなく突っ込む理由にはならないと思うけど?」


「あ、うん……まあ」


 冷めた視線を向けられ、シュウが口ごもる。


「おいおいおいおい!」


 俺は思わず大声を上げていた。


「何でここに来て連携がボロボロになるんだよ……! 今まで通り足並み揃えろって。でないと――」




 ぞるり、と。


 首筋を冷たい殺気が撫でた。


 


 振り返る。

 俺たちの影法師が長く長く伸びている。

 その更に先、石造りの鳥居の下でタカチホが動きを止めている。


 黒髪をなびかせた蛇の長は、ゆっくりと片手を上げた。


(まさか――――)


 ぐっ、と。

 心臓を握りつぶすかのような動き。


「ぁ?」


 俺は両腕と胴に違和感を覚えた。

 視線を落とそうとした次の瞬間、黒い手がカーテンでも開け放つように真横へ動く。 




 音もなく、俺の足裏が地面を離れた。




 ドット絵のように玉砂利が敷きつめられた甲板。

 目を見開き、こちらを見上げるロッコとシュウ。

 船の進路から放たれる光が創り出した、長い影の数々。

 そのすべてが一瞬で遠ざかる。


「イッ?!」


 衝撃を伴う一撃ではなかった。

 まるで風に煽られた羽毛のごとく、何の抵抗もできないまま俺は真横へ吹き飛ぶ。


「う、おおおあああっっ?!!」


 ――『真横に落ちた』。

 そう錯覚するほど一直線に俺の身は横っ飛びし、そのまま闇の果てへ――


「こ、のおぁぁっ!!」


 空中で身を捻る。

 手足をばたつかせる。

 軌道が僅かに変わり、俺の肉体は砂利の上に叩き付けられ、転がる。


「えぶっ! ぐっ!」


 顔を上げる。

 ロッコは既に暗闇へ放り投げられ、今、シュウの身が浮かび上がるところだった。


(――――!)


 タカチホは鳥居の下を一歩も動いていない。

 無造作に突き出した片手で宙を掴んでいるだけだ。

 だと言うのに、二十メートル近く離れたシュウの身が浮き上がっている。

 まるで見えない巨人にでも掴まれたかのように。


 ぶおん、とタカチホが腕を振るう。

 シュウもまた、ロッコの後を追うように船外へ投げ出された。


「ゆ、ユメミさんッッ!!!」


 俺は腹の底から声を上げた。

 きっかり二秒後にシュウとロッコが船外から引き戻され、逆再生を思わせる挙動で空中を滑る。

 その行く先は――――マムシと対峙するユメミだ。


 ユメミは衣服のあちこちにふすまの破片を仕込んでいる。

 治癒の力が発動したことで、同じ破片を持つロッコとシュウが引き寄せられている。

 タカチホの能力で船外に叩き落とされた時のための『保険』だ。


 俺の身も同じように浮かび上がり、ユメミに向かって引き寄せられる。

 

(何なんだ今の――――!)


 タカチホの能力を目の当たりにするのは三度目だ。

 だが何が起きているのかまるで分からない。

 奴は相手に触れることなく、その身を吹き飛ばした。

 それも、まるで重さが無いかのよ


(!)


 黒い蛇が透明の棒でも握るように片手を構えている。

 その目線は空中を滑る俺に合わせて動いていた。

 さながら、標的を見据えるスナイパーのように。


「おい、まさか――」


 あり得ない。

 奴と俺は既に二十メートル近く離れている。

 この距離で何を掴


「むぶっ?!」


 突如、俺は自分の顔が歪むのを感じた。

 頬と唇の肉が潰れ、鼻の軟骨が軋む。


(こ、これ――)


 ――『掴まれている』。

 あり得ないことだが、そう表現するしかなかった。

 今、俺の顔は確かに誰かに掴まれている。

 それはタカチホを置いて他にいない。

 しかも――


「ぐ、ぎっ……!」


 ジムグリの癒しの力が俺をユメミの方へ引っ張り、タカチホに掴まれた顔がその場にとどまることを強制する。

 空中に縫い留められる格好となった俺は、相反する力に挟まれている。

 つまり――――


「ぉ、ごぁぁぁあっっっ?!!!」


 みりりり、めちちち、とあちこちの皮膚が裂け始める。

 ぶつん、ぷつん、とどこかでワイヤーが切れるようにして血管が切れる。


(嘘だろ何だよこの力……!!)


 ジムグリの癒しの力を注がれた物体は、落下する人間を引き上げるほどのパワーを発揮する。

 そのパワーとタカチホの『掴み』が互角。

 このままでは車裂きだ。


「ぐ、ぶっ! ユ、めみっ!」


 止めろという言葉を発しようにもタカチホが俺の顔を掴んでいる。

 いよいよメリメリと肉体が悲鳴を上げ始め、俺の意識が混濁し始める。

 視界の隅が焦げるように黒ずんでいく。


(――――……!)


 タカチホは鳥居の下で手を伸ばしたままだ。

 力む様子も、地に足を踏みしめる様子もない。

 人間の顔を掴んでいるにしてはあまりにも気安い佇まい。


 その手はきつく閉じられている。

 何かを掴んでいることは間違いない。

 だが一体何を――――

 



(!!!)




 その瞬間、俺の脳内で幾つかの火花が散った。


 俺は気づいた。

 彼女が掴んでいるモノの正体に。

 タカチホが伸ばした手の先にあるのは――――


「ッ!」


 ジムグリの引き寄せる力が弱まり、俺の肉体が悲鳴を止める。

 どうやらユメミが異常に気付いたか、マムシの攻撃を防ぐ必要に迫られたらしい。

 完全な浮遊状態。

 タカチホが無造作に腕を振るうと、俺は再び船外へ飛ばされる。


「の、わああっっっ?!!!!」


 船べりを越え、闇へ。

 マンションほどもある大蛇が俺を見下ろしている。

 船が遠ざかる。

 赤い星が遠ざかる。


 ぎゅん、と。

 唐突に俺の肉体が重力に逆らって浮かび上がる。

 胃袋がひっくり返るような感覚。

 

 癒しの力。

 船体に沿って上昇し、船べりを越え、俺の肉体が再びユメミに向かって吸い寄せられる。

 ユメミが位置を調整したせいか、今度はタカチホの手が届かなかった。

 黒蛇は「またそれか」と言わんばかりに肩を軽く揺らす。


 叩き付けられるようにして砂利の上を転がる。

 二転、三転、四転。


「だっ! あっ……! がっっ!!」


 本殿の傍では、襖の槍を掴んだシュウと玉砂利を握ったロッコがマムシを牽制している。

 不用意に攻撃すればカウンターで噛みつけるよう、ユメミが小刻みにステップを繰り返している。


「イタチさん、無事ですか?!」


 ユメミはこちらに目線を寄こさず、吠えた。


「タカチホの能力が分かった!」


「え?!」


 唾を一度飲む。


「あいつは俺たちの――」


 地に這いつくばった状態から身を起こし、俺は自分の脚を見る。

 脚から伸びる、影を見る。

 影は、優に二十メートルほどの距離まで歪んで伸びている。




「俺たちの、『影』を掴んでる」




「影……?!」


 第三夜。

 シロマダラが転覆させた船は赤い星明かりを受けて水面に影を落としていた。

 第四夜。

 シマが来た夜は時折稲光が閃いていた。


 タカチホは船の影やシマ達の伸ばした影を掴み、本体を操っていた。

 能力を定義するなら――


(……影を掴んで、本体を動かす能力……。……?)


 うまく言葉にできない。

 ともかく、ヤツの攻撃のトリガーは『影を掴むこと』だ。

 影を掴まれると一切抵抗できず、重さが無くなったかのように自在に肉体を操られる。


 俺の知る限り、自然光を受けた物体の「影」は本体の二倍から三倍ほどまでしか伸びないはずだ。

 だがここは彼岸と此岸の狭間。

 船の往く手から差す光は月光や陽光ではなく、あの世から差す死の光。

 そのせいだろう。俺の影は物理法則を無視して、俺自身の十倍近く伸びている。

 直立した場合、およそ二十メートルほどになる。


 この影すべてがタカチホの攻撃対象。

 今まで戦ったどのヤツマタ様よりも射程が広い。


 船尾の黒蛇が動き出すのが見えた。


「客室に入るぞ! ここはまずい!」

 

 ぎゃん、と腹を蹴り飛ばされた犬のような悲鳴。

 ロッコが右腕を溶かされ、足払いで転ばされている。


「バカッ! 何で左手出さないんだよっ!」


 シュウが砂利に埋めていた槍を掴み、振るう。

 脛を薙ぐ薙刀に似た挙動。

 身長差のあるマムシは対処に窮し、バックステップで回避する。


「シュウ! 下に行くぞ!」


「何でだよ?!」


「タカチホは『影』を掴む! あいつが船尾にいる限り、こっちが一方的に不利だ!」


 タカチホが初手で転覆を選ばなかったのは、船首方向から光が差していたからだ。

 船体の影は船尾の遥か後方に伸びている。

 そこに大蛇を寄せて影を掴めば、確実に俺たちに能力を見破られる。

 

 船尾側に着地しなかったのは俺たちが本殿の近くにいたからだ。

 客室層への逃走を念頭に置いて戦う俺たちは船尾の敵と対峙する際、本殿を背にする。

 そうなると俺たちの影が本殿の影に入り、タカチホは攻撃できない。


「本殿の影に入れ!」


 速度を上げたタカチホの表情が険しいものに変わる。


 腕を癒されたロッコが本殿の影へ飛び込み、ユメミとシュウがマムシを牽制しながら後退する。

 俺はタカチホに目を配りつつ、賽銭箱の裏に隠していた槍を掴んだ。


「シュウ! 先に行け! マムシは俺が――」


「俺はいい! 兄ちゃんが先に行ってて!」


 シュウはマムシに向けた槍の穂先を軽く持ち上げた。


「影の中にいればタカチホは攻撃できないんだろ? だったらまだ時間がある。せめてこいつに一発ぐらい――」


「何を言ってるの!」


 ユメミが糸目を開き、怒声を発した。


「全員で行動しないと――「だーいじょうぶだっ「ちょっと!!!」」」

 

 ロッコの金切り声がその場の全員の耳を貫いた。

 駆け寄るタカチホまでもが急停止し、マムシも脚を止めている。


「何なの、さっきのはっっ!!」


 肩を怒らせたロッコがシュウに歩み寄り、その頭を掴む。


「『何で左手を出さなかった?!』 あんた、こっちが殺されそうだったのにフォローもしないで……!」


「治るから別にいいだろ?! それに準備の時に言ってたじゃん! マムシを前にしたらぜったい左手を盾にしろって!」


「それができなかったからってバカとは何?! あんた、私が死にかけてるのに「おいやめろ!」」


 俺は苛立ちの余り槍を投げ出した。

 そして二人を荷物のように左右の脇に抱え上げ、そのまま本殿に飛び込む。


「ちょ、兄ちゃん!」

「ヒゲ! 下ろして!」


「うるせえ! 暴れんな! 階段だ!」


 転がり落ちるように階段を駆け下りる。

 ユメミが俺に追いつき、階段の中頃で振り向いた。

 ばん、とジムグリの左腕を階段に添える。

 めぎぎぎ、みぎぎぎ、と。

 階段が四方八方に枝分かれし、ねじれ、身をよじり、タンブルウィードのような塊と化す。


 客室層に降り立ったユメミは忌まわしい癒しの力を更に階段へ注いだ。

 階段がぐねぐねとねじれ、ぼこぼこと増殖し、拡大し、蛇たちの進路を完全に塞ぐ。

 上階から差していた光すら、もう届かない。


 俺は両腕の少年少女を下ろし、溜息をついた。


「頼むよ、お前ら……」


 腕の疲労がかろうじて怒りを薄めていた。


「シュウ。退けって言われたら退いてくれよ」


「何でだよ」


 シュウがむっつりした顔で言い返す。


「一発も入れずに逃げるとか、兄ちゃん慎重すぎるんだって。向こうは傷を治せないんだから、じりじり弱らせてここに誘い込むのが一番だろ」


「そりゃそうだけどさ。お前一人突出されても困るんだって」


「怪我は治せるし、落とされても保険がある」


「それは別の話だ」


「俺は」シュウがずいと顔を寄せる。「兄ちゃんより上手くやれる」


「……!」


「俺に指図するな」


 牙を剥いた獣を思わせる表情。

 もう少し年齢と背丈があれば、俺は気圧されていたかもしれない。


「ダメだ。俺はお前に指図する」


「……」


「聞けないなら脚折ってトイレにぶち込むぞ。足引っ張る味方は敵より厄介だからな」


 で、と俺はロッコを見やる。


「お前もだ、ロッコ。キンキン叫ぶのはともかく、敵の前で喧嘩とか勘弁してくれよ」


「だってこいつ」人差し指がシュウに向けられる。「右手溶かされた私に「左手を出せバカ」って言った!」


「それもデリカシーないと思うけどさ、この状況で味方にキレるのってどうだよ」


「それにあんたも!」


 びしりと指を突きつけられる。


「俺?」


「何で私が「余計なこと考えるな」って言ってるのに立ち止まるの?!」


「……は?」


「あんたがぐじぐじ悩むからタカチホに追いつけなかったんでしょ! 私の言った通りにすぐ追いかけてればあいつを落とせたかも知れないのに!」


「それは結果論だろ。向こうの狙いが分断かもしれないって考えるのは別にミスでも何でもない」


「ミスでしょ。考える必要のないことを考えて大チャンスをふいにしたんだから」


「……」


「下手の考え休むに似たりって知ってる? いいから私の言う通りに――」




 ぱん、と。


 乾いた音が響いた。




 ユメミの平手を喰らい、ロッコの首が真横を向いている。


「いい加減にしなさい」


 聞いたことのない低い声。

 ユメミの左手がシュウの髪を掴み、引き寄せた。


「あっ、ちょ――」


 ばあん、と。

 更に痛烈な一打。

 顔面に平手を受けたシュウはうずくまり、ぐぶっと呻く。


「あなた達、今がどういう状況なのか分かってるの?」


 押しつぶすようなユメミの声を受けたせいか、ロッコとシュウは顔を伏せたまま動かない。


「その耳と頭は飾り? さっき話したこと、もう忘れたの?」


(……?)


 数十秒、ユメミは黙ったまま二人を見下ろしていた。

 自分の放った言葉が二人の脳に染みるのを待っているかのようだ。


 ユメミが二人に背を向け、通路の奥へ向かって歩き出す。

 

「協力しなさい。犬や猿だってそれぐらいのことはできます。今のあなた達はそれ以下です」


 再びの沈黙。

 ロッコとシュウの頭蓋の内ではユメミの言葉が何度も何度も反響しているに違いない。

 俺もいたたまれなさを感じ、床に視線を落とす。


 十秒。

 二十秒。

 三十秒。


 さすがに沈黙が長い。

 俺は顔を上げた。




 ユメミが、いない。 




「ユメミ……?」


 右の客室、左の客室。

 通路の奥。


 いない。

 音も聞こえない。

 ユメミが消えた。


(まさかマムシかタカチホが……)


 天井を見上げる。――穴は見当たらない。

 床にも当然、穴は無い。

 ヤツマタ様の攻撃ではなさそうだ。


 なら、自分の意思で消えたのか。

 なぜだ。

 なぜ急に。


(まさか――――)


 ぞわりと背筋が震える。

 脳裏をよぎるのはアクリルオイルに漬けられた瓶詰の子どもたちの姿。


 まさか、ここでか。

 最終夜を越えたタイミングではなく、このタイミングで来るつもりなのか。


「……!」


 俺はロッコとシュウを庇い、通路の奥を見やる。


「兄ちゃん……? ユメミ姉ちゃんは……」


「黙ってろ」


 心臓が警鐘を鳴らし始める。

 はっ、はっ、はっと息が乱れる。


(待て。ユメミが言ってた『さっきの話』って何だ……?)


 もしかするとシュウとロッコに何か吹き込んだのではないか。

 戦闘のどさくさにまぎれ、自分と共に俺を刺せだとか―― 


「ヒゲ」


「黙ってろって」


「ち、違う。あれ……!」


 振り向く。


 た、ぱたた、と。

 雨漏りのように茶色い水が床を叩いている。


 奇形化した階段の集合体のあちこちから、液体が滲み出している。

 マムシとタカチホが来る。

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