第22話 蛇の道は日量(ひばかり)


 桜と青。

 姫と僧。

 茎で結ばれた桜桃サクランボのごとく一定の距離を保ったまま、二人の蛇が迫る。


 迎え撃つこちらは四人。

 化生の腕を二本失ったが、ひとまずは全員が五体満足。


 睨み合う光景は数分前の邂逅と似ている。

 違うのは、互いの手札が公開されていること。

 誰が歩兵で、誰が桂馬で、誰が金銀の将で、誰が飛車なのかがはっきりした。

 六人それぞれが持つ思考の盤面では敵味方の駒がどう動き、この戦いがどのように決するのか、数百数千のシミュレーションが繰り返されている。


 砂利を踏む音が速まる。

 俺たちは動じない。

 勝ち筋をすでに見定めているからだ。

 『道連れ』か『籠城』。

 ヒバカリがどんな能力の持ち主であれ、狙うのはこの二つ。 


 アドレナリンの過剰分泌で時間の流れが鈍化する。

 宙を舞う桜がスローモーションに見え始め、砂利踏み音はエコーがかった重低音に変じる。




 槍の間合いの三歩手前で、アオダイショウが帯の匕首あいくちを掴んだ。




 目釘が入っていないのか、柄はするりと抜けた。

 衣を脱いだ匕首は忍者の投げるクナイを思わせる形状だった。

 握り手部分――『なかご』は不穏に研ぎ澄まされている。

 両刃もろはだ。

 

 刃は僧兵の手の中でトランプさながらに広がり、五枚の薄刃と化した。

 青い剛腕が鞭さながらにしなり――――投擲。

 同時に、ヒバカリが刃の進路に手をかざす。


 ヒバカリの手の平からシャボン玉を思わせる不安定な透明色の球体が膨らむ。

 ぴぎょぱあ、と気味の悪い音が響き、ドーム内の時間が停止した。

 実際にそうしたドームが見えたわけでも、音が聞こえたわけでもない。

 極度の緊張のためか、ヒバカリの能力を理解したからか、俺の脳が知覚不能の現象に稚気じみた幻想をこじつけたのだ。


 縦回転を開始したばかりの五枚の刃が空中でぴたりと静止。

 カウントダウンが始まる。

 五。


(――!)


 五秒後に飛来する刃の雨は俺たちと蛇を分かつように真正面で静止している。

 時間停止を受けた物体は外部からのあらゆる干渉を受けないため、叩き落としたり振り払うことは不可能だ。


 だが何の問題もない。横に回避すればいいだけだ。

 問題はヒバカリ側へ回避するか、アオダイショウ側へ回避するか。

 全員が時間停止する状況は避けなければならない。

 なら回避する先は当然――




 四。


 ぐにいい、と。

 軟化した空気が引っ張られる気配。




 アオダイショウ。

 投擲を終えた腕を引くモーションが、ゴム化した空気を引くモーションと一体化している。


 三。

 僧兵は『空気のスリングショット』に別の刃をつがえた。

 

 アオダイショウの前に立てばスローナイフより強烈な刃の散弾が俺たちを襲う。

 受ければ治癒は必至だ。治癒とはユメミが足を止めることと同義であり、足を止めればヒバカリの能力でまとめて時を止められる。

 ではヒバカリ側へ抜けるか。――本末転倒だ。

 飛び出すタイミングをずらせば全滅は回避できるが、今度はアオダイショウが完全に自由になってしまう。


 正面は時間停止した刃の壁。

 横に抜ければ二人の蛇の射程内。


 二。

 やむを得ず、俺は三人の子どもを庇いながら後退する。


 空中で静止しているスローナイフは人を即死させるようなものではない。

 こちらにはジムグリの腕がある。

 傷はいくらでも癒せ




 ぐりん、と巨女のスリングショットがこちらを向いた。




 びゅ、と。

 弾け開く刃が飛んだその瞬間、ヒバカリが再び手を動かす。

 ぎょぱあ、と空間が歪み、既に浮かんでいる五枚に混ざる形で更に五枚の薄刃が停止。

 

 一。


 ゼロ。


 十枚の刃のうち、初めに放擲された五枚が銀の流星と化して飛来した。

 刃は両手を広げた俺の腕に突き刺さり、頬を削り、腿を掠める。


「づっ!」


 熱と痛みに呻く。

 が、目は閉じない。

 たった今アオダイショウが放ったスリングショットの刃が空中に残っている。

 飛んできたのは一投目のスローナイフだ。

 と、言うことは――――


(!)


 漸進するアオダイショウが腕を振りかぶり、更なる刃を放る。

 ヒバカリの能力が発動。

 二投目の刃に混じり、三投目の刃が静止する。

 計十枚。


 二投目の時間停止カウントは『三』。

 そして三投目は、『五』。

 一つのカウントダウンが終わるより早く、別のカウントダウンが始まっている。


(多段攻撃……!)

 

 時間停止中の物体は外部からの干渉を一切受けない。

 干渉とは物理的な破壊のみならず、ヒバカリの能力すら含むらしい。

 数秒おきにナイフを投擲し、その時間を止め続けることでヒバカリ達は多段攻撃を繰り出せる。

 こちらにはジムグリの腕があるため死ぬことはない。

 だが――――


「イタチさん!」手首を掴まれ、後方へ引きずり戻される。「足を止めないで!」


 そう。

 アオダイショウとヒバカリは少しずつ前進している。

 となると、こちらは後退し続けるしかない。

 今、客室層へ向かう階段は二人のヤツマタ様の向こうに見える。

 このまま後退し続ければ船べりまで追い詰められて終わりだ。


 前進は不可能。

 左右は敵の射程内。

 後退は死出の道。


 先に『王手』に至ったのは向こう。


(――)


 帯の刃は有限。アオダイショウの刃が尽きるまで待つか。

 いや、向こうは放擲回数を調整できる。弾切れで自滅することはありえない。


 斜め後方に退いて、迂回しながら襲い掛かるのはどうだ。

 悪くはない。が、良くもない。

 この陣形を崩さなければ道連れも籠城もできず、追い詰められて終わる。


 なら――


「イタチさん。私が囮になります」

 

 ユメミの紫腕が俺に触れた。

 傷が癒え、突き刺さっていた刃がちゃりりと砂利を叩く。


「向こうは私が前に出るとは思っていません。だから――」


「囮なんか要らねえよ」


 俺は前に出ようとするユメミを下がらせた。


 ヒバカリは宙を掴んだ時、一定のフィールド内の時間を止める。

 対象は人だけではなく、着衣やナイフも含まれる。


(なら――!)


 爪先を砂利に突っ込み、思い切り蹴り上げる。

 ぶぱっと舞った石と砂粒が停止したナイフに弾かれ、あられのごとく視界に散った。


 一瞬。

 ほんの一瞬だが、桜の蛇は躊躇を見せた。

 そして手を掲げ、砂利の雨の時間を止める。

 見えない何かに吸着するようにして玉砂利が空中で静止。


 一。


 ゼロ。


 ぎゃぎぎぎ、とスリングショットの刃が停止した砂利に弾かれる。


 時間の止まった砂礫すなつぶては物理的な干渉を受けない無敵の盾だ。

 辺りに散ればナイフは弾かれる。


 ヒバカリの目元に不快の皴が寄った。

 広範囲に作用するがゆえの弱点。

 ヒバカリの能力は射程が『広すぎる』のだ。


 俺は既に爪先を砂利に突っ込んでいる。

 思い切り脚を振り上げ、再びの石礫いしつぶて

 三人の子供たちも俺の陰から飛び出し、めいめい掴んだ砂利や砂粒を投げつける。

 玉砂利は墨汁を散らすように飛び、砂礫は霧さながらに舞う。

 

 ヒバカリは両手を掲げ、空中の粒をすべて止めた。

 天災を止める女神のごとき所作。

 

 一。


 ゼロ。


 アオダイショウの放ったナイフが、ほとんど壁にも等しい石と砂の幕に弾かれる。

 その時にはもう、俺たち四人は次の攻撃の準備を終えている。


(――――!)


 時間停止で防がなければヒバカリは砂礫の雨をまともに浴びてしまい、ふた呼吸は動きが遅れる。

 さりとて能力を使えばフィールド内の時間が止まり、アオダイショウの投擲を妨げてしまう。

 十二単では機敏に回避することも難しい。自分を硬化させて防げば相方が無防備になる。


 こちらの「王手」。


 四人一斉に砂利を掴み、蹴り、投げる。

 ヒバカリは何度も宙を噛み、砂礫と砂利の時間を止める。

 アオダイショウは投擲の手を止め、憎々しげに顔を歪めた。


「投げ続けろ! 休ませるな!」


 砂利や砂粒でヒバカリを仕留めることはできない。

 良くて目潰しだが、確率は低いだろう。

 重要なのは――――


「怖いのはあいつだけだ! 一歩も動かすな!」

 

 重要なのは、分断。

 ヒバカリは攻撃能力を持たず、アオダイショウは攻めが単調だ。

 片方を潰せば勝機の光は太く、強く差し込む。


「投げ続けろ! できるだけ目を狙え! 一発でいい! とにかく攻撃を入れろ!」


 ――『来い』。

 呪詛のごとき念をアオダイショウに向けて這わせる。

 

 シロマダラとの一戦で煮え湯を飲まされたお前は、今夜が雪辱戦だ。

 不退転の覚悟で臨んだのだろう。誇りを賭してここに来たのだろう。

 無視され、軽んじられるのは我慢ならないはず。


 ――『来い』。

 俺の胸中から滲んだ呪詛は影のように地面を這い、巨女の脚に絡む。


 ヒバカリは砂利と石を防ぐのに手いっぱいだが、お前は動ける。

 踏み込んで来い。お前が動けばこの状況は打開できる。


 アオダイショウがぎょろりと目を動かし、俺を見る。

 そして――――ヒバカリを庇う位置に動いた。


(!)


 白頭巾の僧兵は姫を庇うや、素早く青腕を突き出し、引いた。

 空撃ちのスリングショットが石と砂を弾く。

 一、二、三射で空中の砂礫が拭われた。


「――――」


 冷静だ。

 徹底してコンビネーションを崩す気がない。

 プライドよりチームの勝利。

 以前のアオダイショウとは違う。

 だが――――


(その位置なら……!)


 アオダイショウはヒバカリの前に立った。

 この位置関係ならヒバカリは時間を止めることができない。

 不用意に使えばアオダイショウまで巻き込まれるからだ。


 巨女は緑の左腕で帯を探り、背中側へ回した。

 石と砂の粒を浴びながらもナイフを投げる気か。


「イタチさん」


 石を投げ、砂を投げながらユメミが傍へ。

 子供たちが叫ぶ中、声音は低い。


「六番をやります」


 六番。

 初手でロッコが使ったのと同じ戦法。

 ジムグリの腕を使い、事前に分割した『襖の刃』を引き寄せる攻撃。

 

 あれは敵の死角から攻撃できる。

 奇襲が成功せずとも、回避または防御を強制できる。


「準備を」


 準備。つまり移動だ。

 二人の蛇を釘付けにしている今なら俺たちも横へ動ける。

 少しずつ移動し、ユメミの持つ破片と刃の軌道上にヤツマタ様を立たせ「兄ちゃん! 来るよ!」


 アオダイショウが背中側に回していた左腕を前に出した。

 その手には俺の予想通り、トランプのように開かれた匕首あいくちが――――




 握られていない。

 アオダイショウは何も掴んではいない。


 ただ、腕の色が変わっている。

 緑から、桜へ。




「?!」


 直線上で重なり合っていたアオダイショウとヒバカリが、すっと左右へ別れる。

 ヒバカリの左腕がマムシのものに、アオダイショウの左腕がヒバカリのものに置き換わっている。

 着脱自在の腕の『交換スイッチ』。


「ばっ……!」


 何故気付かなかった。

 後悔と共に視界で不安定な透明色が歪む。


 ぎょぱ、ぎゅぱあ、と二人の蛇が桜の腕で空間を『噛む』。

 ドーム状のフィールドが歪み、時間が停止する。


「っ!!」


 後方へ跳ぶ。子どもたちも跳ぶ。

 転がるように退き、また後退する。

 二人の蛇は焦らず逸らず、一歩ずつ迫る。

 歩きながら自分たちの正面を噛み、フィールドの時を止め続けている。

 

 子供たちが叫ぶ。

 放られた小石が、ぎょぱ、ぎゅぱ、と空中で停止する。

 ヒバカリとアオダイショウは停止した砂と石の幕をするりと避け、悠々とこちらに歩み寄る。


 苦い唾が滲んだ。

 この状況はまずい。

 先ほどまでの優位は二人が完全に役割を分担していたからこそ生まれたものだ。

 砂と石の雨は、ヒバカリが無力でアオダイショウが単純だからこそ通じた戦法。

 どちらも独力で戦闘できる状態になってしまっ






 ては。


 消えた。

 二人が。

 時間停止。射程を見誤ったか。


 振り返る。

 ロッコの傍にヒバカ






 リがいる。

 緑の腕が振るわれ、ロッコの頭が半分溶






 けている。

 いや、もう癒えている。

 癒えているが、倒れている。意識を失ったの






 か。

 ユメミがヒバカリの両腕を掴み、追撃を阻んでいる。

 桜の蛇の手首が回り、時間停






 止。

 マムシの腕がユメミに添えられている。

 ユメミは動かない。時間停止を受けたのか。

 シュウが吠えながらヒバカリに飛びかかっ






 た。

 いつの間にかユメミが再始動し、シュウと共にヒバカリに迫る。

 だが完全に腰が引けている。ヒバカリの射程が広すぎて踏み込めないのだ。

 二人では礫も足りない。

 何とかして援






 護に――

 三人の位置が変わっている。


 知覚がぶつぶつと切れている。

 おかしい。時間の跳び方が。

 なぜ俺だ






 けがこんなに。

 砂利音。子供たちの叫び。

 首を巡らす。

 アオダイショウが俺を桜の腕で捕捉し






 ている。

 悪鬼を封印する陰陽師さながらに桜の腕を俺に向け続けている。


(こいつ……!)


 身構えたが、攻撃は来ない。

 拘束に徹するつもりか。

 厄

 





 介だ。

 攻めて来なければ振りほどけない。

 後方へ跳ぶ。

 同じだけアオダイショウが跳






 ぶ。

 子どもたちがヒバカリに翻弄されている。

 助けを求めている。

 だがどうすればいい。

 一対一で、射程ぎりぎりの地点から『時間停





 

 止』を喰らい続けている。

 距離はおよそ五メートル。一足飛びで懐に入るのは無理だ。

 後ろや横へ逃げても一瞬で詰められる。

 砂利を投






 げても動きを止められない。

 ヒバカリの能力の真価はこれだ。

 張り付かれたら完全に一人が行動不






 能に――


(!)


 どこかから襖の槍が飛んできた。

 狙いは――アオダイショウ。


 好機。

 そう思い、アクセルを吹かすようにしてかかとに力を込める。

 アオダイショウは桜の腕を俺に向けたまま青腕で己を噛んだ。

 飛来する槍が、ぶにいい、と巨体に食い込






 む。

 否、既に跳ね飛ばされている。

 槍は砂利の上をむなしく転がり、停止するところだった。


(クソ……!)


 ヒバカリがマムシやカガチと連携しなかった理由が分かった。

 あの二人は個々の戦闘能力こそ高いが、片手が塞がった状況では自衛がおぼつかないのだ。

 アオダイショウは違う。己を青腕で噛めば、ほとんどの攻撃を防げる。


 時間停止を使った完全拘束。

 自力では振りほどけず、援護もシャットアウトされる。


 まずい。

 このままではまずい。

 アオダイショウが青腕を攻撃に使い始めたら最






 後だ。

 ヒバカリ一人に翻弄される三人はいずれアオダイショウの援護で沈む。

 そうなる前に俺が動かなければ。

 だが振り払えない。こいつが。

 

 人間ならばはったりも利かせられるが、こいつは喋らない。

 喋らない相手とは駆け引きが成立しない。

 力ずく以外の選択肢が存在しない、蛇の闘争。


 汗が噴き出す。

 酸を帯びたように熱く、肌をちりつかせ






 る汗。

 

「――――?! ――!」


 ユメミの声。

 ぱららら、と何かが風に煽られる音。

 砂。石。どちらでもない音だ。

 何だ。何が起きた。


 アオダイショウの目線が俺を外れ、肩越しに後方へ。

 血走った目が、かっと見開かれる。


(今――!)


 焦燥を見て取った瞬間、俺は大きく横へ跳んだ。

 幅跳びさながらに数度地面を蹴り、全速力で仲間の元へ。


 三人の子どもはヒバカリから離れるところだった。

 幸い、致命傷を受けている者はいない。ジムグリの腕も奪われていない。


(……?)


 ユメミは片手にノートを握っている。

 桜の蛇は羽毛のごとく舞う紙束の隙間から子供たちを見据えていた。


「い、イタチさん! 無事ですかっっ?!」


「平気だ! それよりお前らは――」


 アオダイショウがヒバカリに合流する。

 下手を打ったとばかりに桜の蛇が肩をすくめ、再びこちらを見た。

 伸びた手の平から、しょるるる、とピアス付きの舌が覗く。


(どうする……)


 状況が変わった。 

 今やどちらも遠隔範囲攻撃ができる。

 砂利程度では足止めにならない。


 ざ、ざ、ざ、と砂利を踏む音。

 蛇が迫る。

 後ずさる。

 

 六番。

 襖の刃は。

 ――ダメだ。角度が悪い。

 それに両方が時を止められるということは、後手を強制するアドバンテージが半減――




「堅い堅い」




 気安い声。

 ひやりとした手に手首を掴まれる。

 

「まず逃げなきゃ」


 声の主はロッコだった。

 ただ、俺の知るロッコとは雰囲気が違う。

 癇癪持ちの短慮な少女が浮かべているのは、どこか悠然とした笑みだった。


 逃走の気配を察し、ヒバカリとアオダイショウが速度を上げる。

 あっという間に時間停止の射程に入り――


「ユメミさん」


 水を向けられたユメミは抱えるノートのページを乱雑にちぎり、更に細かくちぎり、高らかに投げ上げた。

 ひらひらと舞う紙片は桜の腕を掲げた二人の蛇の眼前に散った。


 すんでのところで時間停止を中断したアオダイショウが手で打ち払うも、紙片はひらひらと羽毛さながらに舞う。

 もう一度アオダイショウが打ち払うと、今度はシュウの放った紙片が辺りに舞った。


 ぎょぱあ、とヒバカリが半ば強引に時間を止める。

 スノードームのように散った紙片が停止し、二人の蛇の往く手を塞いだ。


「ダメダメ」


 ロッコが歌うように嘲った。


「紙は石と違って動きにブレがある。能力を使ったらかえって進みづらくなるんじゃない?」


 彼女の言葉通り、散った紙片は蛇たちの目の高さや腰の高さ、足の高さで静止している。

 硬直が解けると再び紙片は散り、舞い上がり、舞い降りる。

 この状況で不用意に時を止めれば障害物となるだろう。


 二人の蛇は目配せし、そろそろと接近し始めた。


「……。この期に及んでそう来るの」


 くくっとロッコが含み笑い、俺の手を引いて走り出す。

 ユメミとシュウは籠から桜吹雪を放つようにしてノートを破り、投げながら追従する。

 二人の蛇は抜刀体勢の武士さながらに、紙吹雪の中を静かに近づく。


 このまま逃げ切れるとは思わない。

 ノートは遠からずページが尽きる。


「ど、どうする気だ、ロッコ」

 

「まともにやり合う必要なんてないでしょ。退散退散」


「退散んん?!」


 どこへ逃げる気だ。

 船の上に逃げ場などない。

 客室層へ向かうのなら話は分かるが、彼女が向かっているのは――


(堀……?)


 堀。

 堀だ。

 昨夜、ジムグリが完全に復元した堀。


「『時間停止』は今までで戦った能力とは格が違う」


 ロッコは淡々と告げた。


「射程が広いし、無敵過ぎる。妨害はできても防御ができない。受けたら完全に終わり」


「……」


「でも無敵なのはあくまでも『能力』。本人が無敵なわけじゃない」


「?」


 歩き続けるロッコがざぶざぶと黒い堀に浸かる。

 手を引かれる俺、ユメミ、シュウもくるぶし、膝、腿まで水に浸った。


 俺たちが堀の中央に至る頃、堀の縁でヒバカリとアオダイショウが停止した。

 橋の掛かった堀は50メートルプールほどの広さがある。

 その中央付近で振り返った俺は、青と桜の蛇が身を強張らせるのを認めた。


「ここに入って来れる? お二人さん」


 ヒバカリに声を放るロッコは宮廷の悪女を思わせる笑みを浮かべた。


「この場所で、五秒で私たちを捕まえられる?」


(――――!)


 ここは堀。腿まで水に浸かればヤツマタ様とて移動速度が極端に落ちる。

 ましてヒバカリは十二単が重く、アオダイショウは肥満体。

 俺たちの時を止めたとしても、近づくまでに数秒を要する。

 つまり『時間停止』の射程に入ることは会っても、本体の『攻撃』の射程に入ることはない。


 喜びかけた俺は、はたと我に返る。


(待て……違うぞ……!)


 この場所に満ちているのは『水』。

 水の時間もヒバカリの能力で止まるのではないか。

 その場合、ヒバカリの射程内の水はコンクリートのように硬化するはずだ。

 フィールド内に人間がいる場合、キノコを逆さまにしたような形で水ごと時間停止する。


 となると、二人の蛇は水に足を取られることはない。

 腿の高さの段差さえ登れば難なくこちらに近づけてしまう。


(まずい……ロッコの策には穴が――――)


 血の気が引いたその瞬間、ざぶんと二人の蛇が堀に浸かった。


「あら、いいの? 綺麗なお召し物が汚れちゃうけど?」

 

 ロッコの嘲りは耳を貸さず、二人の蛇がじりじりと距離を詰める。

 確かに歩みは遅い。

 だが俺たちも水中で動きが鈍っている。

 これでは陸の上と状況が変わらない。


(この場所であいつらを倒す方ほ――)




 唐突に、ロッコが蛇に向かって歩き出す。




「?! お、おい!」


 ざぶざぶと堀に波を引きながら、少女が迷いのない足取りで突き進む。

 止めようにも水の中だ。

 走り出した俺たちの目の前で、ヒバカリが悠然と手を掲げた。


(もう射程に――!)




 ぱちゃあん、と。

 ロッコが水面を叩いた。


 水しぶきが舞い散る。

 同時に、時間停止が発動した。




 ロッコの時間が止まる。

 と同時に、辺りに舞い上がった水滴も静止する。


(!)


 その場の全員がロッコの意図に気付いた。

 水滴は少女の叩いた場所から円状に広がっており、その粒一つ一つが鋼鉄のごとく硬化している。

 これでは誰もロッコに近づけない。


 飛沫の少ない後方へ迂回しようにも、水中では動きが鈍る。

 飛び道具で負傷させたところでジムグリの腕がある。

 ヒバカリとアオダイショウはその場で逡巡し、思考した。


 二。

 一。

 ゼロ。


 ぱちゃぱちゃと水滴が落ち、水面を叩く。

 再始動したロッコがゆっくりとまばたきを一つ。

 にたりと笑みが浮かぶ。


「……効くみたいね」


 ロッコは再び水面を叩いた。

 ぱんっと今度はより高く広く水滴が広がる。

 ヒバカリが時間停止をためらう隙に少女は後退に転じ、俺たちに合流した。


「どうする? 追いかけっこしてみる?」


 ロッコの見出した勝算はこれだ。水しぶきのバリア。

 水面を叩くだけで俺たちの周囲には水滴が散り、時間停止と同時に無敵の障害物と化す。

 陸の上ならカウントゼロのタイミングで特攻することもできただろうが、腿まで水に浸っている状況では不可能。


 投擲武器で有効打は与えられない。

 ならばこれから始まるのはロッコの言う通り「追いかけっこ」だ。


 カガチやシロマダラなら勝ち目はないが、この二人なら。

 ただでさえ鈍重なうえ、茎で繋がれた桜桃さくらんぼのように足並みを揃える二人との「追いかけっこ」なら。

 堀の外と堀の中を行き来する児戯のような追いかけっこなら。


(こっちの持久力が上なら逃げ切れる……!)


 俺が静かに拳を握った瞬間、ロッコの声が響いた。


「王手」

 

 数分前まで歩兵だった少女が嫌らしく宣言した。

 その佇まいには金銀の将を思わせる力強さがある。

 俺の全身に震えが走った。


 一瞬だけヒバカリと視線を絡ませたアオダイショウが、憤然と突撃を始める。


 闇雲に手が開閉され、時が止まる。

 ロッコはドラムでも叩くように気安く水面を叩き、水滴を散らす。

 巨女は近づけない。

 無理に近づこうとすればパチンコ台の釘のような水滴が肉体にぶにりと食い込む。

 肉体を軟化させれば耐えることはできるが、押し通ることはできない。


「兄ちゃん! 援護だ!」


 俺、ユメミ、シュウはロッコに近づき、同じように水を飛ばした。

 砂と石の次は水。まるで子どもの遊びだ。

 だがアオダイショウは明らかに狼狽している。

 時を止めれば水が障害物となり、使わず突撃すれば逃げられる。

 どう能力を使おうとこの状況を打破できないのだ。


(このまま耐えられるか……?! 不安要素は……)


 例えば十二単を脱いだヒバカリがカガチ並みの敏捷性の持ち主なら、陸上で不意を突かれる可能性がある。

 だがそんな身体能力の持ち主なら腕を交換したあのタイミングで脱いでいるはず。


 今もって単を着ている理由は――――おそらくアオダイショウが弾切れした時のためだ。

 あの衣装の下には無数の武器が隠されているのだろう。

 逆説的に、ヒバカリの隠し玉はこの状況を打開し得な


「兄ちゃん! ヒバカリがっ!」


 シュウの声で我に返る。

 桜の蛇は青蛇を離れ、堀の縁に沿って移動していた。


(あいつ、何を……)


 彼女は船側に最も近い位置でぴたりと停止し、マムシの左腕を振り下ろした。

 どぷりと堀の周縁が溶ける。

 意図を悟り、ぞっとする。


「兄ちゃん! あ、あいつっ、堀の水を――!」


 ヒバカリは堀から船側せんそくへ続く溝を作り、水を船外に出し尽くすつもりだ。

 水が抜ければ堀はただの窪地。

 地の利は失われ、再びこちらが劣勢に立たされる。


「と、止めなきゃ!」


 すかさずアオダイショウが猛攻をかける。

 ぎょぱ、ぎょぱあ、とカスタネットを叩くように桜の手が開閉するたび、視界に球状の空間が歪む。

 俺たちは水しぶきを上げて妨害を試みるが、今度は静止した水滴が俺たちの前進を阻む壁と化す。


 そうしている間にもヒバカリは堀の外周を溶かし、ぐんぐん船側へ近づいていく。


「っ……!」


 思考が高速回転を始める。

 頭蓋から火花が散り、ぱちぱちと雷が爆ぜる。

 シミュレーションが組み替えられ、敵味方の指し手が変わる。

 脳が焼け焦げるほどの思考の末、俺は吠えた。


「……っシュウ! 『飛べ』!」


 言葉とほぼ同時に、ユメミがどぷんと水中に消える。

 アオダイショウが目を細めた次の瞬間、ヒバカリが作っていた溝が急速に復元された。

 逆再生するようにめりめりと溝が埋められ、桜の蛇が堀に押し戻される。


 異変に気付いたアオダイショウが振り返り、愕然とする。

 ざぶんと水柱を上げるほど激しくユメミが浮上。

 彼女は濡れた黒髪を振り、その隙間から糸目を覗かせた。


「この腕があるのを忘れましたか、ヒバカリ」


 紫の腕。

 堀の底を掴んだユメミは、一瞬で船体を『治癒』した。

 かつてジムグリがそうしたように。


「鈍い閃きでしたね」


 振り向いたヒバカリが怒りの形相でユメミを睨んだ。

 堀の決壊は不可。

 彼女は次の指し手を脳内に求め、アオダイショウは姫君への妨害を防ぐべく身構える。




「あーらら。気付けなかった」




 ぎゅん、と二人の蛇の視線がロッコに向けられる。


「まあ、気づけても何もできないんだけどね。だって――」


 ロッコが指を天に向けた。


「どっちの能力でも、手出しできない場所からの攻撃だから」


 アオダイショウが上を見る。

 ヒバカリが一瞬早く事態に気付くが、発声器官を持たない彼女に警告を発する術はない。

 手の平から、にょろろろ、とピアス付きの舌が長く飛び出しただけだった。


 次の瞬間、アオダイショウがぐらりと身を傾がせた。

 彼女はかろうじて踏みとどまり、その目を黒い堀へ向け、そして俺たちへ向けた。

 ロッコ、ユメミ、俺。

 ――――シュウがいない。


「『飛べ』ってのは『下に行け』って合図だ」


 本来は客室層への退避を促す符丁だが、この場面での『下』とは水中。

 ユメミの派手な浮上と同時にシュウは水中へ入り込んだ。

 そしてアオダイショウの元まで泳ぎ、脚を攻撃した。

 使ったのは地面に落ちた匕首あいくちの一つだろう。


 巨女はヒバカリの腕を掲げ――――凍り付く。

 シュウは水中だ。

 時間停止を使えば辺りの水もろとも固まり、手出しできなくなる。

 そもそも脚に組み付くほどの至近距離ではアオダイショウ自身まで能力の巻き添えを食う。

 自分を軟化させてもシュウは振りほどけない。


 選択肢の多さは土壇場での判断を遅らせる。

 アオダイショウが匕首による攻撃が最適解だと気づくまでに二秒ほどの時間を要した。

 その隙をつき、シュウの刃が再びアオダイショウを襲う。


 びくんと巨体が跳ね、半ばもがくようにして青腕が持ち主を噛んだ。

 時すでに遅く、バランスを崩した巨体が水中に沈む。

 カバが転んだかのように水しぶきが散る。


 アオダイショウは肥満体だ。加えて足に傷を入れられたのなら立ち上がるのは容易ではない。

 水中では時間停止も軟化も意味を為さない。

 

「行け! 行け、行け、行けっっ!!」


 俺、ユメミ、ロッコはいっせいに水中のアオダイショウに飛びかかった。

 頭に、脚に、胴に。

 掴みかかり、刃を突き立






 て。

 軟化と時間停






 止の






 嵐。

 無駄だ。

 軟化は噛んでいる間だ






 けしか意味をなさず、時間を止めれば馬乗






 りのシュウや水が重石となって巨体の動きを封じ






 る。

 ヒバカ






 リは遠すぎる。

 水をかき分けて走って来





 るが、間に合わない。

 

 時間停止が止んだのはユメミがアオダイショウの腕をもいだからだ。

 ワニを狩る原住民よろしく、シュウがナイフを繰り返し突き立てる。

 俺が両目両耳を潰し、ロッコが傷口に指を入れ、ユメミが足をへし折る。


 ぬるりとしたものが水に混じり、不快な匂いが漂い始める。

 今夜の二人は治癒手段を持たない。

 致命傷を察知し、夜天に青蛇が現れた。


 怪獣じみた青蛇が口を開けるのを認め、俺たちは素早くアオダイショウから離れた。

 ざぶんと大きな口が堀に沈み、アオダイショウを咥えた大蛇が頭を上げる。

 両腕を失った満身創痍の巨女はまだやれるとばかりに鈍く身動きしていたが、大蛇は容赦なく彼女を飲み込み、滝のごとき水滴を垂らしながら夜空へ消える。


 残されたヒバカリの表情には晦渋が滲んでいた。

 

「惜しかったね」


 ロッコが冷ややかに告げる。

 勝敗を分けたのはたった一度の判断ミスだった。

 もしヒバカリがアオダイショウから離れていなければ――


「水の中になんて入らなければ、あなた達は余裕で勝てたのに」


 俺は思わずロッコを見た。

 嘲笑の浮かぶ横顔。


「時間停止で水を固めて、その上を歩いてこっちに来れば良かったのに」


「!」


 二人の蛇が堀の縁に立った時、ロッコが放った煽り文句を思い出す。

 ――『入って来れるか』。

 ――『服が汚れるのにいいのか』。

 あれは敵に「水に入らず攻撃する」という選択肢を見失わせるためのものだったのか。


(こいつ……)


 息を呑んだのは俺だけではなかった。

 ユメミとシュウも険しい表情でロッコの背中を見つめている。


「あなたの敗因は、もったいぶったこと」


 ヒバカリがマムシの腕で十二単を掴んだ。

 衣服が溶け、隠されていた刃がどぼどぼと堀に沈む。


「腕の交換はもっと早くやるべきだったし、その服ももっと早く脱ぐべきだった。そして二人同時に全力で突撃すべきだった。そうすればどちらかが欠けても私たちに勝つことはできたはず」


 言われてみればそうだ。

 ヒバカリの攻めは慎重で、常に温存が垣間見えた。

 腕の交換も、十二単に隠された武器も、その気になればもっと早く使えたはずだ。

 シロマダラやアオダイショウ一人ならそうしただろう。


「スマートに勝ちたかった? それとも精神的優位がないとパニクるタイプ? どっちにしろ、能力を過信したね」


 くすりと少女が笑った。


「ゲームじゃないんだから、切り札は最初に切らないと」


 ヒバカリが一度脱力し、全身に闘志を滲ませた。

 彼女にはまだ桜の右腕とマムシの左腕がある。

 まだ戦えるのだ。


 が、ロッコは肩をすくめた。


「王手って言ったでしょ? 指し間違えたんだからもう『投了』」


 少女の視線が動く。


「ね、ユメミさん?」


 ヒバカリの視線がロッコからユメミへ滑る。

 糸目の少女は水中に沈めていた紫の腕を持ち上げた。

 水に濡れながら現れたのはアオダイショウから奪った桜の左腕。


 治癒が発動した瞬間、ヒバカリが青ざめた。


 ぐん、と桜の蛇の身が浮き上がり、真横に落ちるようにしてユメミに引き寄せられる。

 姫は手足をばたつかせたが、無駄だ。

 ジムグリの腕に掴まれたヒバカリの腕目がけ、本体は無限に引き寄せられる。


 ユメミは既に堀から陸に揚がり、最も近い船側へ走っている。

 糸を結ばれた凧のごとく、ヒバカリもそちらへ吸い寄せられる。


 桜の腕。マムシの腕。

 どちらを使っても事態は打破できない。


 ヒバカリの身が船側のユメミに接近した。

 射程に入った瞬間、桜の蛇は苦し紛れにユメミと彼女周辺の時を止める。


 が、既に紫の腕は桜の腕を手放していた。

 治癒の引力が途切れる。

 吸い寄せられる慣性に乗ったままのヒバカリの肉体は船外の闇に投げ出され―――――消えた。




 夜空を舞う桜は数を増し、天の川を思わせる幻想的な光景を作っていた。

 最後から二番目の夜は、まだ十数分しか経過していなかった。

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