第19話 蛇の道は地潜(じむぐり)




 事態の認識を拒むかのように、思考が麻痺していた。




 黒無垢を脱いだジムグリは、象のそれほどもある巨大な蛇の頭蓋骨に手を乗せている。

 頭蓋骨からは脊椎と思しきブロック状の骨が鎖状に連なり、そこから何本もの肋骨が突き出している。


 肋骨は刀に似ていた。

 切っ先から流れた赤い血が、刀身を伝っている。


「――――」


 むわり、と。

 まず鉄錆に似た匂いがした。

 鼻腔の粘膜に粒がべったりと付着するような、濃い血の匂い。

 

 続いて、脂。

 裂けた服の繊維。

 僅かに遅れ、破られた畳や襖の匂い。


 客室層の障子窓からジムグリへ向かって風が吹く。

 先行した「肋骨刀」の軌跡を追いかけるように。


 自分の身に何が起きたのかを理解した瞬間、全身を裂傷が走った。




「いッ――ァ、おおおアアアアァァァァッッッッ?!!!!!」




 破れた水風船さながらにごぷごぷと血が流れ出す。

 血は顔に、腕に、胴に、脚に幕を作り、床を叩く。

 全身の肉が裂け、むき出しになった神経に外気が突き刺さる。


「ィィィィっ……でええええっっっ!!!! あああああっっ!!!!」


 体をくの字に曲げた俺はほとんど無意識のうちに叫び続けていた。

 おそらく痛みから少しでも意識を逸らすためだろう。

 まともに知覚すれば失神しかねない激痛を感じ、脳が受け身を取っているのだ。

 

 辺りには赤い霧が舞っていた。

 藤紫の女忍者は通路の真ん中に正座したまま、涙を流している。

 口を覆うのは夜叉の面。


(こいつ、今……!)


 ジムグリの能力は『掴んだものを癒す』。

 奴はそれを頭蓋骨に使い、肋骨や背骨を船外の『闇』から引き寄せたのだ。

 ちょうど、炸裂した手榴弾が逆再生で元の姿へ戻るように。

 そして頭蓋骨と窓の間に立っていた俺たちは――


「ぅ、ぎっ……!」


 振り向く。

 トマト祭りに参加したかのような子供の姿。


 血。

 血の海。

 鮮烈なまでの赤。


「――」


 危うく意識がブラックアウトしかける。

 が、全身の激痛が俺の正気を繋ぎ止めた。


「っシュウ! だ……大丈夫か?!」


「大丈夫なわけねーじゃん……!」


 苦悶を噛み殺しながら少年が立ち上がった。

 肩口の肉を削がれ、側頭部が裂け、片脚がぱっくりと裂けている。

 見るだに痛々しい姿だが、表面積の問題か、俺より傷は浅いようだ。


「いっ……兄ちゃん……」


 シュウの目が見開かれた。


「そ、耳……! ほ、ほっぺたも……」


「い、言うな! 意識したらまずい気がする……!」


 俺の全身のあちこちで肉がべろべろと垂れていた。

 皮だ皮だと思い込むようにしているが、実際には自重でみりみりと剥げ落ちるほど厚い肉だ。

 血と脂の混ざりものは俺の腿を絶えず濡らし続けている。


「ユ――」


 ユメミは血だまりに倒れ伏していた。

 身長のせいか、位置が悪かったのか。傍目にも分かるほどの重傷を負っている。

 すぐ傍には、見たくもないものが散らばっている。


 すぐ近くで横臥しているロッコも目の焦点が合っていない。

 悲鳴も上げられないほど致命的な一撃を受けたのだろう。


「っ……!」


 寒気。

 ばちゃりと血だまりに膝をつく。

 全身を痛みが貫いたが、それどころではない。


(やばいぞこの出血……!)


 辺りには血の池どころか、血の海ができている。

 二人とも呼吸はしているようだが、意識の有無は怪しい。

 すぐに止血して蘇生措置を施さなければ死んでしまう。


(止血帯……! 確かシャツで作ったのが……!)


 蘇生。心臓マッサージ。

 教習所で習って以来だ。やれるだろうか。

 いや、やらなければ二人は――「兄ちゃん」


 感情を押し殺したシュウの声。


「ムダだからやめて」


「はあァッ?!」


 怒号に近いものを発しながら振り返ると、シュウは前を見ていた。

 視線は通路を一直線に走り、正座したジムグリに留められる。


「二人とも動脈が切れてる。止血なんか意味ないよ」


「だっ……お前、何でそういう「治すなら」」


 シュウが振り返る。

 燃えるような怒りの表情。 


「あいつの腕を獲るのが一番早い!」


「……!」


「あいつはぐちゃぐちゃになったシマだって治したんだ。あいつの腕があれば二人を治せる!」


「いや、奪うったって……っ来るぞ!」


 ジムグリが僅かに身じろぎした次の瞬間、ぼっ、ぼぽぽっ、と左右の障子戸が破られ、襖が引き裂かれた。

 ヘリコプターのローターさながらに回転する肋骨が客室へ飛び込み、ジムグリ目がけて飛来する。 


「伏せろ!」


 びょびょう、と頭上を刀が掠めた。

 左右の窓から飛び込んだ『肋骨刀』は猛烈な勢いでジムグリの持つ頭蓋骨へ。

 かかかかっ、と脊椎が繋がり、より重い音を連ねながら肋骨が接合される。


 俺は吐き気を催すほどの激痛に呻いた。

 呻きは悲鳴に似ていた。


(近づけるかあんなモンに……!)


 ジムグリの持つ頭蓋骨を中心とした刃の嵐。

 初撃こそ裂傷で済んだが、不用意に踏み込めば待っているのは「串刺し」だ。

 ジムグリ本人も傷つく可能性はあるが、能力でいくらでも治癒されてしまう。


 弾切れを待つか。

 ――いや、悪手だ。 

 ライオンや象ならいざ知らず、あれは『細長い蛇』の骨だ。

 蛇の肋骨なんて何百本あるのか分かったものではい。

 もたもたしていればカガチが肉壁を破り、ユメミとロッコが本当に死んでしまう。


 だが、どうやってアレをかいくぐれば良いのか。

 まさかほふく前進するわけにも行かない。


 問題はもう一つあった。


 傷はおろか物体まで治癒してしまうジムグリは、まず腕を奪って無力化しなければならない。

 俺とシュウの二人だけでそれができるだろうか。

 うっかり体に触れられたら『過剰回復』でシマのような奇形にされてしまう。

 腕二本に対してこちらは二人。

 数字の上では対等だが、様々な要素を加味するとこちらの方が圧倒的に分が悪い。

 

 とたっ、と軽い音。


「!?」


 シュウが床を蹴り、客室へ飛び込んだ。

 窓ぎわに至った少年はそこから鋭角に反転し、ジムグリへ向かって走り出している。

 窓に背を向け、一直線に。


「シュウ! バカよせっ!」


「畳っ!」


「何?!」


「骨は外から来る! 俺の背中を護ってっっ!!」


(背中……)


 はっと気づく。


 今、ジムグリは通路の中央に座っている。

 そして左右の窓から飛び込んだ骨はジムグリの持つ頭蓋骨へ向けて飛ぶ。

 先ほどの俺たちは客室層の中央に伸びる通路を駆けていたため、左右から骨の嵐を喰らった。

 だが一度客室に飛び込み、窓を背にして走れば、後方から飛んでくる骨だけを警戒すればいい。


 慌てて畳を掴み、背に担ぐ。

 言われた通り窓に畳を向け、シュウを追って走り出す。


(っ!)


 少しでも身体を動かすと、割けた肉がぶらぶらと揺れ、全身のあちこちから血が噴く。

 文字通り身を引き裂かれるような激痛。

 だが痛がっている場合ではない。

 膝をついている場合でも。


(――)


 湿った心に火が点く感覚。


 ジムグリが動く。

 再び障子戸を破り、『肋骨刀』が飛んでくる。


 何本かが畳を掠め、何本かが突き刺さる。

 貫通こそしないものの、衝撃と重みが全身に響く。


「イ、ギッ!」


 突き刺さった肋骨はめりめりと音を立て、無理にでもジムグリの元へ向かおうとしていた。

 吠えながら、畳を投げ捨てる。

 だがかかかっという集合音。


「ふっ……ふっ……!」


 心臓が力強く打つと、全身の痛みが熱と興奮に塗り潰されていく感覚があった。

 異常なまでのアドレナリン分泌。

 死を目前にした肉体が脳を搾り、魂を搾り、滲み出した黄金の液体を全身に行き渡らせている。


(いける……!)


 ジムグリが船を治癒したおかげで、畳はそこら中にある。

 これなら肋骨刀を防ぎつつ、奴の元へたどり着ける。

 俺は素早く別の一枚を担いだ。


「シュウ!」


「行くよ、兄ちゃん!」


 シュウに続いて走り出す。

 痛みは脳内麻薬で感じなくなっていたが、呼吸は荒れに荒れていた。

 自分でも意識していないうちに脚がもつれそうになり、うっかりすると畳を掴む手からも力が抜けそうになる。


「ふっ……ふっ……!」


 全身の穴という穴からガソリンが漏れ出すような感覚があった。

 脳が、全身が、休みたがっている。

 三徹明けの朝のように。


「ッッ!!」


 背負う畳に肋骨刀が突き刺さり、その衝撃で心臓が跳ねる。

 突き刺さった骨は引力でも得たかのようにぐいぐいと俺を押し、ジムグリの元へ向かおうとする。

 俺は畳を振り捨て、別の一枚を担ごうとした。


「!」




 シュウが俺を置き去り、わき目も振らずジムグリに突っ込んでいく。




 背中からは焦りを感じた。

 ユメミとロッコはもちろん、俺とてギリギリのところで身体を動かしている。

 少しでも早くジムグリを無力化しなければ総崩れになる。


 だが――


「出過ぎだ!! 戻れ、シュウ!」


 距離がぐんぐん縮むにも関わらず、ジムグリはぼうっとシュウを見やっている。

 いかにも戦闘能力の低い者らしい構え。

 あるいは――――


「シュウ! 行くな! ……シュウ!」


 血の滴を飛ばしながら走り出す。

 ――遠い。すぐには追いつけない。


 少年とジムグリの距離は既に10メートルを切った。

 7メートル。

 5メートル。


 シュウがビーチフラッグを掴むように低く、鋭く飛ぶ。

 狙いは頭蓋骨に触れていない左腕。


 ジムグリの反応は追いついていない。

 少年は彼女の腕を抱きかかえ、思い切り捻る。




 ジムグリの腕は、ちぎれない。




「?!」


 シュウは全体重をかけて前後左右に腕を捻るが、ジムグリのそれはびくともしなかった。


 単なるパワー不足だろうか。

 それにしては―― 




 ぬぼん、と。

 忍び装束の襟元から腕が飛び出した。


 ――『三本目の腕』が。




「ッ!」


 理解する。

 ジムグリはあらかじめ自分の能力を自分に使い、微調整した「過剰回復」で腕を三本に増やしていたのだ。

 それを装束の袖から出し、本物の腕は胸にしまっていた。

 ちぎれないのはシマの『複製』と違い、『過剰回復』で生み出された模造品イミテーションだからだろう。


(野郎、いつの間に……っ!)


 ジムグリの腕が襟から飛び出し、忍び装束の半分がはだけた。

 白い肌にサラシを巻いた、賭場の骰子さいころ振りを思わせる姿。


「シュウッ!!」


 全力疾走する俺は数メートルの距離まで迫るが、遅い。

 本物のジムグリの手はすとんとシュウの頭に触れた。


「――!」


 治癒の力が注ぎこまれ、シュウの傷が癒えて行く。

 俺の脳裏にシマの姿が過ぎった。

 出目金かイソギンチャクのようなクリーチャーに変じた少女。


「じっ、ジムグリこっち見ろ! お前の敵は「大丈夫」」


 シュウは片手をズボンの尻に突っ込んでいた。


「『掴まれる』ところまでは読んでる……!」


 ジムグリが少年を見下ろす。

 少年の手に骨のナイフが握られている。


「何が大丈夫だ! そいつにナイフなんか効かな」




 シュウは。

 自分の胸にナイフを刺した。




「?!」


 ごぼっと血が噴き出す。

 口からも、鼻からも。


 だが傷は癒える。

 ジムグリが彼に触れているからだ。

 血は元通りに吸い込まれ、肉は塞がって行く。


 シュウは胸に突き刺したままのナイフを、真横に動かした。


「ぐ、カッ!」


 血が噴き出し、新たな傷が創られる。


 ジムグリは躍起になったように手に力を込めた。

 新たに生まれた傷が癒え――シュウがまた己の胸を裂く。


「お前は相手を無理やり治して、体を造り変えるんだろ……?」


 血を吐きながら、シュウが笑った。


「なら、治されるより早く傷を増やせば、お前の能力は効かない……!」


(!)


 発想は、おそらく正しい。

 その証拠にジムグリが僅かにまごついている。


 だが彼女の能力はものの数秒で対象を完全に治癒してしまう。

 浅い傷をちくちくつけても治癒に追いつかれ、追い越されるだけだ。


 だからシュウはただの「傷」ではなく「致命傷」を選んだ。

 絶えず自分に致命傷を与え続ければジムグリの「過剰回復」を防ぐことができる。


(嘘だろ……?! 何でそんな……!)


 まともではない。

 まともな発想では。

 まるで百戦をくぐり抜けた戦士のごとき覚悟。


「ウアアアぁぁぁっっ!!」


 シュウが濁った叫びを発した。

 獣じみた咆哮。


 胸に突き刺さったナイフがぎりぎりと真横へ動く。

 肺、もしかすると心臓までもが刃に抉られ、血が噴き上がる。

 が、ジムグリの治癒が発動し、開かれた傷口は瞬く間に癒え、塞がる。


 ジムグリは手を離すこともできる。

 治癒の能力を止めればシュウは自滅し、戦いは終わる。

 が、少年の目線は蛇女から逸らされていない。

 ジムグリが手を離した瞬間にナイフを抜き、完全に治癒された状態で襲い掛かるつもりだ。


 ナイフで刺された程度でジムグリは死なないが、今度は逆に「致命傷を与えられ続ける」可能性がある。

 そうなれば確実に彼女は己の治癒に専念しなければならない。

 重傷を放置すれば大蛇の「迎え」が来るからだ。


 ジムグリは攻撃の手を緩められず、シュウもまた自力では事態を打破できない。


 拮抗状態。

 そのただ中に、俺は飛び込む。


「ああああぁぁぁぁッッッ!!!」


 全身を巡るアドレナリンがガソリンと化して燃えている。

 激痛は怒気や殺気と混じり、焔となって俺を包む。


 頭蓋骨に乗ったジムグリの腕に全身で飛びつく。

 マンションから落ちた赤ん坊でもキャッチするように、死に物狂いで。


 ユメミの見様見真似でねじ切り、紫の右腕を奪い取る。


「奪ったッッ!!」


 ぐりん、とジムグリが俺を見る。

 目からは涙。

 俺はマムシの腕を振り上げ、床を叩く。


「落ちて消えろ!!」


 マムシの腕が畳を溶かし、床を溶かす。

 溶解。そして地盤沈下。

 が、シュウの身を離れたジムグリの手が床に触れ、『治癒』の力を注ぎ込む。

 液化した床が瞬く間に復元され、畳が蘇る。


「っ……!」


 もう一度、マムシの腕に力を込める。

 液化した地面が大きくへこむが、すぐにまた隆起する。


「落ちろ! 落ちろ! 落ちろォォっっ!!!」


 溶解。隆起。

 溶解。隆起。

 溶解。隆起


 つばぜり合いに似た相殺。

 涙を流す隻腕のジムグリは『治癒』の力を注ぎ続ける。


 溶解。隆起。

 溶解。隆起。

 溶解。隆起。


 溶


「ふッ!」


 ひゅっとマムシの腕を引き、床に触れるジムグリの腕へ伸ばす。

 イミテーションの腕が掲げられるも、シュウが飛びついて阻止した。


 肘を掴む。

 びるるる、と手の平から伸びた舌が暴れた。

 一瞬の後、びしゃりと肘が溶け、左腕が畳を転がる。


 ジムグリと目が合う。

 涙で顔を濡らした女は、にっこりと笑った。


「ッ!」


 俺の振るったマムシの腕が彼女の顔の高さを通り過ぎる。

 ぱあん、と水風船が割れるような感触。


「――――」


 ぱたた、と。

 マムシの手を濡らす滴が畳を叩いた。


 首から上を失くしたジムグリの身が、ぐしゃりと崩れる。






 左腕にジムグリの腕を接いだ俺はまずシュウを癒した。

 肉が塞がるとナイフは落ち、痛みに呻く子供だけが残される。


「痛ッ……! いっでええええっっ!!」


「馬鹿野郎!! 何勝手なことしてるんだよ!!」


 怒鳴りながら、自分を癒す。


 難しい調整は必要なかった。

 ジムグリの腕で掴んだ瞬間、自分の肉体が中身を半分ほど抜いたサンドバッグのように感じられた。

 藤紫の手からじわりと溢れ出す温かいものをが注ぐと、サンドバッグは満たされ、傷は癒えて行く。

 ポリタンクに灯油を注ぐ感覚にも似ている。

 程良く袋が満たされたところで手を離せば『完全回復』。限界を超えて注ぎ続ければ『過剰回復』。


 傷は塞がり、筋は繋がり、飛び散った血液は生き物のように傷口へ飛び込む。

 衣服や畳に染みた分までは戻らないようだ。

 もちろん、痛みも消えない。

 ジムグリの腕は対象を癒すだけで、麻酔の効果など無いのだ。


「う、ぐ……!」


 シュウの苦悶は止まらない。

 自分の胸や腹を何度も掻っ捌いたのだ。

 傷そのものは塞がっても酷い激痛に苛まれているのだろう。


「ああいうことするつもりなら先にひと言ぐらい――」


「そ、そんなのいいから。は、早く二人を、治して……。俺、ちょっと動けない」


 ごろんと横になるシュウを残し、俺はユメミとロッコの治療に取り掛かった。


 ジムグリの手で掴むと血や肉片が二人の肉体へ飛び込み、瞬く間に傷が塞がって行く。

 マムシに溶かされた部位だけは骨が生え、肉が絡みつく形で『治癒』された。


 眠る女の頬をぴたぴたと叩く。


「ユメミさん! 起きろ! 治ったぞ!」


「……っく……」


 よろよろとユメミが身を起こしかけ、呻く。


「立てるか?」


「す、少し待ってください。まだ痛みが――」


 そう言いつつも、ユメミは糸目で周囲の様子を探る。


 首と両腕を喪ったジムグリは今まさに大蛇の『迎え』を受け入れているところだった。

 ぺろりと蛇女を飲み込んだ大蛇は残された骨をもばりばりと咀嚼し、船外へ出て行く。


「ロッコ。おいロッコ!」


 ロッコは息も心拍も正常だが、こちらは完全に気を失っている。

 頬をいくら叩いても呻いたり寝返りを打つだけで、目覚める気配がない。


「無理に起こさないでください。それより……」 


 ユメミは俺の左腕に視線を落とした。

 紫色の腕。


「イタチさん。その腕、私にくれませんか」


「……また腕を溶かすのか? せっかく治ったのに」


 ユメミは今や完全な五体満足の姿だった。

 裂傷がすべて塞がったうえに、マムシに溶かされた右肩から先も復元されている。

 この状況でジムグリの腕を接ぐのなら、左右どちらかの腕を溶かさなければならない。


「私自身の腕よりそちらの方が良いです。掴めば終わりですから」


「そうだな。じゃあ――」


 納得しかけたところで、理性が警鐘を鳴らす。


 『ユメミにヤツマタ様の腕を渡す』。

 ――本当にいいのか。


 激戦をくぐり抜けた仲間であることは間違いないが、こいつは俺に嘘をついている。

 こいつは女子高生ではない。

 それどころか、連続殺人鬼の可能性がある。

 そんな奴にヤツマタ様の腕を渡していいのか。


 共通の敵がいる間は問題ない。

 だが、もしかすると最後の最後に――――


「に、兄ちゃん!」


 シュウが地に臥せたまま呻いた。


「カガチだ!!」


 弾かれるように振り返ると、船首へ続く階段に血が流れ落ちるところだった。


 幕が下りるように一段。

 また一段。

 レッドカーペットに似た染みが客室層に長く長く広がっていく。


 こつん、こつーん、こつん、と。

 ヒールブーツが階段を踏む音が近づく。


 己の姿を映す血の海をぱちゃりと踏み、カガチが客室層に降り立った。


 烏帽子と神主装束は美しい赤茶色を保っている。

 『透明の鎧』で返り血を防ぎつつ、あの無数のシマを切り刻んだのだろう。


 前髪で隠された目が俺とユメミを向く。

 全身の毛が逆立ち、血管を巡る血が冷え切った。


「――――!」


 その殺気が合図となった。

 神主装束の裾を翻し、カガチが歩き始める。

 小走りを始める。

 走り出す。


 準備も覚悟も許さずに死闘が始まった。




 俺は素早くジムグリの腕を引きちぎり、マムシの腕を接いだ。

 接着が始まる。

 肉が、神経が、そのどちらでもない何かが繋がる。


 一秒。


 二秒。


 三秒。


 秒針はあまりにもゆっくりと打った。


 カガチは大魚のごとくゆらりと半回転し、不可視の手裏剣を投擲する。

 俺とユメミは左右に飛び、これを回避。

 たかかかかっ、と軽い音が畳を叩く。


 カガチは20メートルほどの距離で脚を止め、じっとこちらの挙動を窺っていた。


 合流。

 ユメミの左肘から先を溶かし、紫の腕を押し付ける。

 カガチは巨大な壺を抱えるように手を動かした。

 人間ほどもある巨球が一つ、二つ、三つ生まれ、蹴りを受けて転がり始める。


 俺たちは二言三言を囁き合い、カガチへ向かって走り出す。

 ごっ、ごこっと球体が通路を転がり、復元された襖にぶつかって跳ね返る。


 アオダイショウの腕を失った今、こちらに遠距離用の罠は無い。

 大がかりな仕掛けはなく、小粒の罠は見透かされている。

 カガチを止める術は無い。

 迫る巨球を避け、かわし、いなす内にカガチと俺たちの距離は10メートルを切った。

 

 7メートル。

 6。

 5。


 踏み込みと共に、赤茶の残像が走る。

 装束の袖が翻り、宙を泳ぐ。

 網膜に映るのは烏帽子を乗せたカガチの後頭部と背中。

 一瞬の後、一回転したカガチが太刀を振り抜いた。

 

 長さ不明、形状不明の一太刀を俺とユメミは地に伏せてかわす。

 びょう、と真上を通過する刃。

 反撃に転じようとしたところで、剣の柄を握る手が一本であることに気付く。


 カガチの左手が何かを掴んでいる。

 回転に連動した武器生成。


「――!」

 

 叫ぶ。

 間に合わず、新たな刃がユメミに振り下ろされる。

 

 ユメミの掲げた右腕に刃が食い込み、野菜を輪切りにするような音が響く。

 幸い、腕は繋がっている。

 硬い骨がカガチの刃を防いでいる。


「――!」


 血と痛みを怒声でかき消し、ユメミがジムグリの左腕を伸ばす。

 狙いは剣の柄を掴む左手。

 カガチは剣を『直に』掴んでいる。

 つまりそこに防具は無い。


 藤紫の手が触れる。

 癒しの力が注ぎこまれ、必殺の『過剰回復』が




 ――発動しない。


 カガチは右手で振り抜いた剣を己の腿裏に突き刺していた。




「――!」


 シュウと同じ、『自傷による治癒相殺』。

 ユメミの注ぐ忌まわしい癒しの力が、腿を切り裂く動きで完全相殺されている。

 

 マムシの腕を突き出す。

 ほぼ同時にカガチの膝蹴りがユメミの頬をえぐる。

 ジムグリの手が離れ、自傷の刃も抜かれる。


 ユメミの右腕で止められていた刃が自由を得、ひょるりと俺の鼻先へ。


「――」


 のけ反るようにかわし、左手を振るう。

 空気を固めた刃が溶け、滴る。


 ぱっと左右の武器を手放し、カガチの両手が己の身を掴んだ。

 『空気の鎧』だ。

 作られたが最後、『マムシの腕』以外の攻撃が通らなくなる。


「――!」


 怒声を聞き、前髪に隠れた視線が俺の横へ滑る。

 ユメミが血をか細い煙のように流し、カガチに飛びかかっている。


 鎧の生成よりもコンマ数秒先に敵を掴める、完璧なタイミング。

 両手で我が身を抱いたカガチは強い蹴りを放つこともできず、回避も間に合わない。


 勝った。

 そう確信しつつも俺はマムシの腕を掲げて飛び込




 視界が赤茶に染まる。


 我が身を掴んだカガチはテーブルクロスを引き抜くようにして自らの装束を脱ぎ、前方へ放っていた。




 すべての力を特攻に注いでいたユメミにかわす術はない。

 彼女は赤茶の海にダイブし、いなされる。

 マタドールのごとくユメミをかわしたカガチは、続く俺の攻撃もたやすく回避。


 大きく強く踏み込んでいた俺はたたらを踏んだ。

 振り返る。

 既にカガチは何かを振り上げている。

 

「――!」


 側転で回避。

 顔を上げる。


 カガチは得物を振り上げた姿勢で停止している。

 ――フェイント。

 気付いた瞬間、咄嗟に両腕を顔の横に添える。


 ざく、と。刃が左右の手首に食い込む。

 熱と痛み。

 刃が骨を叩く衝撃。


「――!」


 フルスイングを決めながら、カガチは柄を握る手の一つを宙に滑らせていた。

 俺の目の前を通り過ぎた赤茶の手がぐっと握られると、空中に『握った状態のナイフ』が生まれる。


「――」


 回避する間などあるわけがなかった。

 赤茶の残像を残す、最速の刺突。

 右目で見える世界が赤く染まり、黒く死ぬ。


「――!!」


 身体のバランスが崩れ、片膝をつく。

 卵の白身に似たものがどろりと眼窩をこぼれ、畳に落ちていく。


 ひょるるる、とカガチが空中に何かを描く。

 見えない。それが何なのか、片目ではまるで分からない。


 何かを構えたカガチが――――半回転しつつ背後を斬りつける。


 ぶおん、という風切り音。

 つるりと赤茶の肢をくぐり、シュウが俺の傍へ。

 冷や汗で濡れた顔面。

 本当にギリギリのところでカガチの一撃をかいくぐったのだろう。


「――!」


 勝ち目がない。

 トイレへ逃げよう、といった言葉。 


 カガチが振り返りざまに何かを薙ぎ払う。

 身を伏せた俺とシュウは両手で床を押し、後方へ転がる。


 何かが肩に触れた。

 畳に落ちた液体が眼窩へ吸い込まれ、真っ黒な視界が色彩を取り戻す。

 すべての傷が癒え、痛みだけが残る。


 完全回復したユメミが俺とシュウに並ぶ。

 

「――」


「――!」


「――」


「――!」


 籠城の提案を無視する俺とユメミにシュウが怒る。

 が、彼の提案も決して最善ではない。

 もうこちらにアオダイショウの腕は無いのだから、石扉は無敵の盾たりえない。

 ロッコを引きずっての退避も無謀だ。

 それにカガチなら足場を組んでトイレの穴から中へ入ることもできる。


 赤茶の蛇女は四つ指を立てた左右の手を頭上で重ねた。

 膝の高さに至る二つの半円を描き、何かを掴み上げる。

 ――巨大な円月輪。


 バレリーナがそうするように一歩、二歩、三歩と地を蹴り、カガチが舞う。

 

 大ぶりの一撃。

 散開して回避し、一斉に攻勢へ転じる。


 マムシの腕。円月輪が溶ける。

 ジムグリの腕。カガチの全注意がユメミに向けられ、慎重に攻撃が捌かれる。

 シュウのナイフ。いつの間に造ったのか、不可視の鎧を纏った蹴りがこれを弾く。


 ぱん、と手を打ったカガチが刃を掲げる。


 マムシの腕。新たに生まれた刃を溶かす。

 ジムグリの腕――に見せかけた関節技。カガチが脚を絡め取られ、僅かに姿勢を崩す。

 シュウのナイフ。カガチは背中に目でもついているかのように少年の手首を掴む。


 みききき、と。

 能力が発動し、シュウの手が硬化してゆく。


「――!」


 今だ、という声。

 マムシの腕がシュウを掴んだ赤茶の手首を捕え、溶かす。

 ばちゃりと液化した肉が畳を打ち、カガチが初めて身じろぎした。

 

 すかさずユメミが脚を折ろうとするが、カガチは僅かに速く片手で目潰しを放ち、拘束を逃れる。

 一歩、二歩、三歩。

 カガチはこれまでより一歩多く距離を取った。


 その隙にユメミがシュウを掴んだ。

 『固める』能力の直撃を受けた部位が、柔らかく癒される。


「――!」


 やれる。

 少年がそう叫ぶ。


 カガチは手首の先を失った左腕を見下ろし、俺たちを見た。

 寒気を感じさせない、冷淡な気迫。


「――!」


 怒声を発しながら、三人一斉に飛びかかる。

 マムシの腕が緑の、ジムグリの腕が紫の、ナイフが白の弧を描く。




 すべての攻撃が空振りする。


 カガチがやおら後方宙返りを決めたからだ。




 くるりと一回転し、赤茶の肢体がすとんと着地。

 初めてカガチが「後退」に転じた。


「――!」


 徒手を構えたカガチに、シュウが一瞬早く反応する。

 俺とユメミにチャンスを作るための、威圧的な踏み込みと攻撃。

 刹那、ひゅぱっ、とカガチの脚が動いた。




 蹴りの軌道。




 一瞬の後、シュウがよろめきながら後ずさった。

 正中線に赤い線が走り、両目がぐるんと半回転する。


「――!」


 少年が仰向けにどっと倒れた次の瞬間、カガチの爪先数十センチの位置から血が流れ落ちた。

 後方宙返りすると同時に、爪先に刃を作りだしていたらしい。


 カガチが前方宙返りを一度決める。

 片足で着地し、バレリーナのごとく片足を薙ぎ払う。

 更に勢いを乗せて回し蹴りを放ち、トーキックからの踵落とし。 


 これまでとはリーチも挙動も違うその攻撃に、俺とユメミはまるで対応できなかった。


 俺の顔が裂け、脛が裂けた。

 ユメミの右手首が切断され、鮮血がほとばしる。


「――――!」

「――」


 俺は膝をつき、ユメミは持ちこたえた。

 ごこっと手首が落ちる音を合図に、軽やかに地を蹴ったカガチの追撃。


 顔を上げると、ユメミとカガチがすれ違うところだった。


 カガチは脚ではなく腕を前に突き出していた。

 空中を渡った血の橋が、『見えない刃』を伝い、柄を握るカガチの手へ吸い込まれる。

 蹴りに見せかけた流し斬り。


 血の花を咲かせ、女子高生が崩れる。

 カガチはゆらりとその頭へ手を伸ばす。


「――――!!!」


 俺は立ち上がり、がむしゃらにマムシの腕を振った。

 カガチは素早く後退し、距離を取る。


「――! ――!」


 ユメミの傍に屈む。

 袈裟懸けに深く斬られている。

 どくどくと血が流れ、肩が震えている。


「――」


 短い言葉を残し、顔を上げる。


 さく、さく、と。

 足の刃で畳を刻みつつ、カガチが歩み寄って来る。


 俺は立ち上がり、彼女を見つめたままそろそろと後退した。

 一歩。二歩。

 向こうも一歩、二歩近づく。


 すり足で後退。

 すり足で前進。


 前を向いたまま後ろへ走り出す。

 カガチが地を蹴り、追って来る。


 脛から散る血が畳を汚す。

 湧き出すアドレナリンの量が足りず、痛みと恐怖で身が強張る。


 脚に刃を生やしたカガチは血痕を辿るようにして迫る。


 十歩。

 八歩。

 六――


「!」


 焼けた火箸を突き込まれるような感覚。

 何かが俺の脇腹を貫通し、後ろに突き出していた。


 槍だ。

 既にカガチは槍を造り、掴んでいた。


「――!」


 悲鳴に近い怒声を発し、マムシの腕で槍を掴む。

 槍を溶かしたその瞬間、赤茶の腕が伸びた。

 マムシの腕が引きちぎられ、畳の上を転がる。


 顔が合う。

 これで隻腕同士。

 能力と身体能力の差で、俺は負ける。

 なら――――


「――!」


 吠え、カガチに飛びつく。

 片手と片手を封じ、脚で脚を封じる。

 もみ合い、もつれ合う。

 カガチは俺を突き飛ばそうとし、俺は離れまいとする。


 膝蹴りが腹に刺さった槍を叩く。

 激痛に呻きながら、カガチに頭突きを見舞う。

 空気の鎧に阻まれ、めまいを覚える。

 膝蹴りが入る。溶けた手首で殴打が入る。

 俺は無様な悲鳴を上げ、カガチの身を揺さぶる。




 がっ、と。

 何かを踏んだカガチが気づく。




 俺たちは既に障子窓の傍へ来ていた。

 彼女が踏んだのはジムグリの攻撃で折れた木枠だ。


 前髪で隠れた目が俺を見る。

 俺は顎から血を溢れさせながら笑う。


「――」


 残る力のすべてを使い、カガチ諸共障子窓へ突っ込む。

 ばりりと紙が破れる音が聞こえ、遠ざかる。

 俺は闇へ落ちていく。




 浮遊感。

 地につかない足が暴れ、俺の身を叩いた冷たい風が天へ吹き上がる。


 カガチが俺を突き飛ばし、身を離した。

 さしもの彼女もこの状況から船へ戻る術は無いのだろう。殺気は霧散している。

 一人しか仕留められなかったことが不満なのか、腕を組んでいる。

 

 俺は残された片手をポケットにねじ込み、白いタランチュラを思わせる物体を取り出す。

 



 切り落とされたユメミの手首。




 風に前髪を煽られながら、カガチの時間が一瞬止まる。


 これから何が起きるのか。

 これまで何を誘われていたのか。

 なぜ斬撃を受けたユメミがすぐにでも自分を癒さなかったのか。

 彼女が気付く。




っだぞ……!!」




 血を吐きながら、俺は手首を掴んだ拳を突き上げる。

 一瞬の後、ユメミの手首が異常なまでの力を得、急上昇する。 

 

 打ち合わせ通り、ユメミがジムグリの能力で自分を治癒したのだ。

 治癒される対象に属していたものはすべて『元通り』になる。

 マムシに溶かされるなどの理由で原形を失ったものは新たに創造されるが、形あるものは治癒される対象に『引き寄せられる』。

 ジムグリの頭蓋骨に向かって闇の底から骨が集合したように。


 ぎゅん、と急上昇する手首をしっかりと握りしめ、俺は下方を見る。


 闇に落ちていくカガチはぺちんと額を叩いた。

 そして指を立てた片手を突き出す。


 三本。

 五本。

 最後は欠けた方も合わせ、両手。


 三。

 五。

 十。


 三 五 十

 み ご と


 赤茶の装いが遠い闇に沈む。






 客室層に投げ出され、俺は手足を広げる。


「――!」


「――――?!」


 快哉とも怒声ともつかない声が聞こえる。

 痛みが熱を帯び、熱が痒みを帯びている。

 熱病に浮かされるようなおぼつかない思考の中で、必死に自分に言い聞かせる。

 これは勝利などではない。これは過程なのだ、と。



 あと二夜。

 

 本当の死生が決するまで、あと二夜。

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