第20話 蛇の道は縄


 傷は癒えたが、うずくような負傷感が残っていた。


 ずきんずきんと心拍に連動する鋭い痛みが目や腹を焼き、首の後ろに脂汗が噴く。

 反射的に痛む場所を押さえるがそこに傷はなく、行き場の無い苛立ちが呼気に混じって空気を汚す。


 夜天に光る赤星の数は十。

 あと二つ増えれば『第六夜』。


 考えるべきことは二つ。

 一つ、次なるヤツマタ様への備え。

 一つ、『主様』の名前。


「ヒゲ。大丈夫?」


 ロッコが俺の顔を覗き込んだ。

 ユメミとシュウは激痛に苛まれる俺とロッコに休憩を促し、客室層の状況を調べている。


「何かぼうっとしてるけど」


「いや……ぜーんぜん平気。大人だから」


 俺はマムシの左腕を風車のように回した。

 実際には眩暈と吐き気が止まらない。

 おそらく、「重傷が一瞬で癒える」という事態に肉体がパニックを起こしかけている。


(……)


 首を巡らすと闇を往く八色の大蛇が見えた。

 あそこからまた二匹が選ばれ、二人のヤツマタ様が俺たちを襲う。


「じゃあ……いい? 主様のことなんだけど……」


「待った。その前にちょっと書き留めてほしい」


「?」


 賽銭箱の上にノートを広げたロッコが首を傾げる。

 俺は玉砂利の上にあぐらをかき、「100パーセント確実とは言えないんだが」と前置いた。


「カガチはもう来ない」遠い闇を泳ぐ赤蛇を見る。「出番は昨夜で終わりだ。たぶんな」


「……。それ、何で分かるの?」


「服だ」


「服?」


 これまで見たヤツマタ様は皆、ラバースーツのような忍び装束を着用していた。

 が、途中から少しずつ装いが変わった。

 具体的には第三夜。老婆のシロマダラと巨体のアオダイショウの夜から。


 それまでに出会った三人――マムシ、カガチ、ヒバカリの三人はスーツのみだったが、シロマダラは山伏装束だった。

 そしてシロマダラは他のヤツマタ様とは気迫が違った。

 あれはおそらく、本人の性向によるものではない。


 シロマダラの次に「スーツでない姿」で現れたのはシマだ。

 同時に出現したマムシは以前と同じスーツ姿だったが、シマはミニスカートを思わせる丈の短い着物姿だった。


 シマの「仕置き」に現れたヤツマタ様の長、タカチホ。

 奴は無数のベルトを巻き、二枚のマントを羽織り、刀を佩いた軍人のような格好だった。

 あれも『スーツではない姿』。


「で、昨夜……第五夜はカガチとジムグリだ。カガチは神主、ジムグリは白無垢。どっちもスーツの上に服を着てた」


 俺はこめかみに指を当て、昨夜の二人の動きを思い起こす。


「あれ、たぶんヤツマタ様の『正装』なんだよ。で、『正装』で来た奴はやたら粘り強くて、殺意が増してる気がする」


 もちろん第一夜、第二夜のマムシとカガチが手を抜いていたとは思わない。

 だが第五夜のカガチや第三夜のシロマダラからは不退転の覚悟を感じた。

 あれは「これが最後の機会だ」と考えているがゆえの動きだったのではないか。


「ちょっと材料は少ないけど、『正装で負けた奴はその後姿を見せない』って仮説は成り立つ気がするんだよ」


 仮説の根拠はシロマダラとシマだ。

 奴らは『正装で』敗北した後、まだ姿を見せていない。

 逆に『スーツ姿で』敗北したマムシ、カガチ、ヒバカリの三人は再度姿を見せている。


「この仮説を他の奴らに当て嵌めると、残りのヤツマタ様が分かる気がするんだよな……」


 俺は鉛筆を借り、ノートに書き込んだ。



 第一夜:マムシ(スーツ)、ヒバカリ(スーツ)

 第二夜:カガチ(スーツ)、ヒバカリ(スーツ)

 第三夜:シロマダラ(正装)、アオダイショウ(スーツ)

 第四夜:シマ(正装)、マムシ(スーツ)

 第五夜:カガチ(正装)、ジムグリ(正装)

 第六夜:?() ?()

 第七夜:?() ?()


 その他:タカチホ(正装)



「『正装で負けた奴はその後姿を見せない』って仮説が正しいと、残ってるのはこいつらだ」


 俺はヤツマタ様の名前に丸をつけていく。


 緑のマムシ。

 桜のヒバカリ。

 青きアオダイショウ。

 黒いタカチホ。


「灯籠廻船は七夜であの世に着くから、あと二夜。ヤツマタ様は毎夜二人来るから、あと四人。……これで数が合う」


 これから襲って来る四人のヤツマタ様は、いまだ『正装』で俺たちに敗れていない四人。


 投げ出した鉛筆がノートの上を転がる。

 ロッコはしげしげとノートを眺めていたが、すっと顔を上げた。


「それ……主様の名前と何か関係ある?」


「……。いや、わからない」


「ええ……?」


「思いついたから書いてみただけだ。……あ、待て待て」


 もう一つ思い出したことがある。

 確かあれは第二夜だ。

 敗北したカガチを追い、船を降りようとしたヒバカリが俺に向けて指を立てた。

 指の数は確か『五』と『一』。


(カガチは『三・五・十』で、たぶん『み・ご・と』……ヒバカリのは何だ……?)


 五と一。

 『来い』。『行こう』。『以後』。

 『いちご』ということはないだろう。


(単純に指の数を足して『六』か? ……ってことは、『六夜に会いましょう』……?)


 それなら俺の推測と重なる。『残りの四人』にはヒバカリの名もある。

 だがその場合、ヒバカリは――


「ちょっと」


 髭をびいっと引っ張られる。


「あいたたた!」


「主様の名前に関係ないこと考えてどうするの。バカなの?」


「いや、関係あるかも知れないだろーが」


「ないない」


 妙に強い否定だった。


「……ロッコ。お前、何か閃いたのか?」


「閃いたって言うか、見つけたの。ほら」


 ロッコは分厚い「民俗学便覧」を突き出し、ページを開いた。



 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

 【蛇】へび へ・び 


  世界中に生息する、細長い胴体を持つ爬虫類。

  小動物や鳥類を捕食し、一部は毒を持つことで知られる。

  脱皮によって成長する生態から「死と再生」「永遠の命」を連想した古代の人々によって信仰の対象となった。

  また、男性器の象徴として扱われることもある。


  現代では嫌悪されることの多い生き物だが、これは聖書のエピソード「アダムとイブをそそのかした蛇」の話が広まったためであろう。

  本来日本では鼠などの害獣駆除に一役買ってくれる、身近な友であったとされている。

  (毒蛇被害の多い沖縄などはまた別だが)


 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



「……。何かすげえ馴れ馴れしいな、この辞書」


 それに説明が大味過ぎる。

 何とか目何とか科といった定番の分類がなされていない。


「辞書じゃなくて読み物に近い本だから。単語の意味を説明するだけなら百科事典と同じでしょ」


 奥付を見る。

 かなり古い本だ。

 ロッコの親の代に出版され、そのまま譲られたのだろう。


 ページを少しめくってみたが、フォントや図像のセンスも古い。

 それにあちこちがセロテープで補強されている。


「索引が無いのか、この本。……よくこのページ見つけたな」


 ロッコは誇らしげに鼻を鳴らした。


「読み込んでるから」


「あー、そうだったな。小説か漫画のネタ用に――」


「その話はやめて」


 ロッコが一瞬で眉を吊り上げ、発火寸前の表情に変じた。

 今あのキンキン声で騒がれると目や腹に響くので、大人しく黙る。


「で、ここ!」


 数ページめくり、びしりとロッコが指を叩きつけた。


「見て」



 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 【日本における蛇と『赤』の関係】


  先に述べた通り、我が国において蛇はしばしば信仰の対象であった。

  最も有名なのは須佐之男命すさのおのみこと八岐大蛇やまたのおろち伝承であろう。(P.354を照覧願いたい)

  それに常陸風土記の『ヌカヒメ伝承』、三輪山の蛇神伝説など、まこと蛇についての伝説は枚挙にいとまがない。


  ところで、日本において蛇の目は「赤」であると伝えられることが多い。


  例えばかの八岐大蛇やまたのおろちは様々な文献の中でしきりに「目や腹が赤い」と記されている。

  また、諏訪の土着神に「ミシャグチ神」と呼ばれる秘神がいる。

  こちらも『諏訪神社社例記』によれば依り代は赤色の衣を着装していたという記述から、やはり「赤」に縁が深い神であると言えよう。

  (※ミシャグチ神は依り代となる人間を経て託宣を授けることのある神である)

  その土地の人々にとってミチャグチ神は赤蛇であると考えられてきたのかも知れない。


  ここで更に一つ、『赤』に関する興味深い話がある。


  『古事記』において大蛇(なかんずく八岐大蛇)は「の目は赤加賀智あかかがちのごとし」と形容されている。

  更に、「此に赤加賀智あかかがちといへるは今の酸漿ほおずきなり」という注釈が入っている。

  意訳すると、「大蛇の目はホオズキのように赤い」となる。

 

  おそらくホオズキの実を包むさやが三角形であることから、蛇の頭を連想したのであろう。

  それによってホオズキは赤加賀智あかかがちという異名を持つに至り、大蛇の目の色の比喩に用いられたのだ。

  蛇の『頭』と同じ形のホオズキが、蛇の『目』の赤味に喩えられる。

  これもまた奇妙な円環構造ではあるまいか。

  

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 



「ね? で、ほらあれ!」


 ロッコは空を指差した。

 そこには真っ赤な星が煌々と輝いている。


「あれ、赤い目みたいに見えない? 二つずつ増えるし!」


「確かに……」


 空の赤星が増えているのは自然現象ではない。

 無数の目を持つ主様の元に近づいている、という意味があるのかもしれない。


「ヤツマタ様の中にホオズキの髪飾りをつけてるやつ、いなかった?」


「いた。確かシロマダラだ」


 ページをめくり、続く文章に目を落とす。

 ロッコの声が俺の動作の後を追う。


「日本の蛇って「赤」とすごく縁が深いみたい。『主様』も同じなんじゃないかなって思うの」



 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 


  なお、「カガチ」とは蛇の異名の一つである。


  『重修本草綱目啓蒙』においては「ウハバミは、一名、ヤマカガチ・オホヘビ・ヲカバミ、本邦の大蛇の名」と記されており、

  赤加賀智あかかがちという名が「赤蛇」を示すことは明らかである。




 【日本における大蛇】


  八岐大蛇やまたのおろちに限らず、我が国で語り継がれる伝説上の蛇はなべて大蛇である。

 

  また、大蛇にも様々な呼称がある。

  先に挙げた「かがち」も大蛇を意味するが、現代で最も有名な呼称は「おろち」あるいは「うわばみ」であろう。


  『和名抄』において「ウハバミ」すなわち「うわばみ」は、『蟒蛇』の字を当てられている。

  更に蟒蛇うわばみは『最も大きな蛇』と注されており、特別な名で呼ばれている。

  その名は――――


 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 




「『夜万加加智やまかかち』……」




 口にした瞬間、辺りの空気が冷えるようだった。

 ロッコはごくりと唾を飲み、俺の反応を窺う。


「これ、主様の名前なんじゃない?」


「……」


よろずの夜のかかち。……外、ずっと夜でしょ?」


 俺はページから手を離し、顎に手を置いた。

 たっぷり一分ほど考え、口を開く。


「……。カガチと名前被ってねえか?」


 脳裏に赤茶のヤツマタ様が浮かぶ。

 前髪で目を隠した恐るべき戦士。


「だから、あいつが『主様』なんじゃない?」


「それは違わないか? 空のアレが『主様』の目なら、あいつは――」


「カガチ、目を隠してた」


「あー……」


「本当の目は空のあれなの。だったらつじつまが合うんじゃない?」


 確かにそれなら筋が通る。

 だが―――― 


「んー……」


「なに。その煮え切らない感じ」


「いや、まずこの話自体、信憑性薄くねーか……?」


「はあ? 本に書いてあることを疑うの?!」


「疑うよ、そりゃ。……この本、版元はどこだ?」


 もう一度奥付を見る。

 ――聞いたことのない出版社だ。


 著者名は大項目ごとにばらばらで、肩書が一切添えられていない。

 巻末を確認したが、参考文献も書かれていない。

 最後のページまでみっちりと民俗学にまつわるあれそれが書き連ねてある。


「これ、論文でも辞典でもなくて『読み物』なんだろ? 要所要所に書いてる奴の主観とかが入ってないか? 面白おかしくなるように大げさな書き方とか、されてないか?」


「う……」


 ロッコの推理の根拠はこの一冊の本だけだ。

 が、本とは知恵と真実を凝縮した神樹の一滴ではない。

 切り刻まれ、味付けされ、具を足され、混ぜて練られた情報のサラダ。

 鵜呑みにするわけにはいかない。


「あと、ヤツマタ様の中に主様がいるってのがちょっとな……」


「何で? そうじゃないとは言われてないでしょ」


 確かにノヅチは「主様はヤツマタ様の中にはいない」とは言わなかった。

 だが本当にカガチが主様だった場合、「迷い込んだ生者を襲うヤツマタ様」の中に、「迷い込んだ生者に慈悲をかける主様」が混じっていることになる。

 どうも座りの悪い話だ。


 それともう一つ。

 単純知識で『主様』の名を言い当てている点が気になる。


 昨夜も考えたことだ。

 灯籠廻船のルールが迷い込んだ生者への救済措置ならば、主様の名前が単純知識を問うものであるのは不自然なのだ。

 おそらく主様の名は『謎』を解きほぐせば誰にでも必ず辿り着けるものであるはず。


 こうした話をすると、ロッコはむっとしているようだった。


「……それだってヒゲの勘じゃない」


「まあ、そうだな」


「もー! なんでそんな適当なの!」


「怒るなって。とりあえず書き留めとこう。シュウとかユメミさんにも後で話すからさ」


 俺はノートに「夜万加加智やまかかち」の名を記すロッコを見つつ、何気なくページをめくった。


「あと、答える機会が一回きりなのかどうか、ノヅチに聞」



 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 


 先に挙げた「うわばみ」「おろち」は大蛇の呼称だが、「蛇」の異名は他にもある。

 くちなわ。

 へっび。

 へみ。

 ながむし。

 『  』。


 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 



(――――)


 思わず、手が止まる。

 賽銭箱の蓋へ目をやり、例の奇妙な文章を読む。

 そこで気づく。


(やまたの『おろち』、やま『かがち』……か)


 分かった気がする。

 部分的にだが。

 問題はそれ以外の部分。

 おそらくこの「気付き方」は正規ルートではない。


「……ヒゲ?」


 ロッコに言うべきだろうか。

 いや、まだ早い。

 俺の推測にロッコが引っ張られてしまうことは避けたい。

 もし俺が間違っていた時、取り返しがつかない。


「いや。何でもない」


「そう? ……っ!」


 物音に気付いたロッコが慌ててノートを隠す。

 彼女が聞いたのは少し離れた場所でノヅチが砂利を踏む音だった。


「そんなこそこそしなくてもいいだろ」


 俺はいささかの呆れを感じていた。


「小説家か漫画家志望なだけだろ? 今どき珍しくもなんともないだろ」


「……」


 ロッコは口をつぐみ、ややあって小さく肩を落とした。


「お母さんに見られたら怒られる」


「馬鹿やってないで勉強しろーってか?」


「ううん。そんなことやってもお金にならないからやめなさいって。大学も文学部に行きたかったんだけどね……」


 どうやらロッコは高校生だったようだ。

 中学生に見えたのは顔の幼さのせいか。


 俺が気になったのは言い方だった。

 『文学部に行きたかった』。

 この年で過去形。


「……大学ってのは自分が興味持ってる分野を勉強するところだろ。カネになるならないは二の次じゃないのか」


「自分で学費を払えるならね。払えないんだからお母さんの言う通りにしないと」


 はあ、とロッコは溜息をついた。


「高校卒業するまでに賞とか取れたら良いんだけど」


「取れなくたっていいだろ、それがお前のやりたいことなら」


「実績がないんだからやりたいことの話なんてできないでしょ」


「……うっわ。真面目だな」


 ロッコはムッとしたようだったが、ふと何かに気づいたように俺を見つめる。


「ヒゲは仕事、何やってるの?」


「うどん屋」


「え、職人なの?!」


「いや、ただの店員」


「お、奥さんいるのに?」


「そのうち正社員になるよ。選ばなきゃ仕事なんていくらでもあるし」


 働き甲斐が生き甲斐と同義だった時代も今は昔だ。

 仕事なんて程々にやって、金だけ貰えればそれでいい。


 向いていない仕事でもいいし、ストレスの溜まる仕事でも別に構わない。

 正社員になってさえしまえばそう簡単にはクビにはならないのだから。

 過労死するレベルならさっさと辞めるだけだ。


「選ばなきゃって……将来の夢とか無かったの、ヒゲは」


「無いな、別に」


 世の中には自分という人間の居場所やその存在価値を仕事や社会、他人との関わり合いに見出す人間もいる。

 その手の人間にとって、「望む形で社会に貢献できないこと」や「所属するコミュニティで価値を認められないこと」は死ぬほどの苦痛らしい。


 俺にはピンと来ない考え方だ。

 社会や他人に認められなかったからとて、命を取られるわけじゃない。

 もしも「お前は無価値だ」と蔑まれたら、誰からも何も期待されない自由を謳歌し、楽しめばいい。


「……強いて挙げるなら、一人暮らしかな」


「それ、夢でも何でもない」


「夢だよ。でかい夢だ」


 何せ、両親と別れて暮らせる。

 家賃や食費は自腹だが、一緒に暮らすストレスを考えれば安いものだ。


 もっとも、その夢を抱いたのは実際に一人暮らしを始めてからだ。

 この時間が長く続くようにと願ってばかりいた。

 あの感覚は確かに、思春期の子どもが夢を抱く様に似ていたのかも知れない。


 それより前は両親の希望に沿うことだけが生き甲斐であり、夢だった。

 何になろうとしていたのだったか。


「じゃあ私の気持ちなんて分かりませんよネー」


「そうだな」


 ロッコは不貞腐れた様子で賽銭箱に顎を乗せた。


「いいなぁ……」


「そうでもねえよ」


 俺は玉砂利を掴み、投げた。

 水面に落ちるような音を立て、砂利が散らばる。


「俺の親は夢を持て夢を持て、ってうるさかった」




 傲慢で自己中心的な父は、中学以降の俺を腐した。

 一方の母は、俺の幼少時の人格形成に強い影響を与えた。


 母は常々俺に「夢を持つこと」を強いた。

 自分が思うように生きられなかったので、俺には不自由してほしくないと考えているようだった。

 息子を通じての自己実現とでも言うのか。


 とは言え俺に夢はなかった。

 親の言うことに従うばかりの「良い子」に将来の自分を空想するようなパワーは無い。

 そこで母はこう言った。「どんな夢をかなえるにせよ、いい学校へ行くことが重要だ」と。

 その考えはおそらく間違っていない。

 ただ、母は癇癪持ちだった。


 徐々にだが、母は具体的な将来をイメージできない俺に小言を投げつけるようになった。

 俺の言動が気に障れば容赦なく罵倒し、怒鳴り散らした。

 俺の反論は丁寧に潰された。

 それはそうだ。こっちは未成年なのだから、論戦で親に勝てるわけがない。


 夢を持て。夢を持て。

 夢のために。将来のために。

 習い事を強いられ、勉強を強いられ、遊びを封じられた。

 俺の成績はぐんぐん伸びた。母は大いに喜んだ。


 だが、俺は一向に夢を持てなかった。

 母は更にネガティブな感情をぶつけるようになった。


 自己中心的な父への愚痴、皮肉、嫌味が母の口からとめどなく溢れ出し、毒汁となって俺の耳に注がれた。

 お前は父と似ているから云々。社会がこうだから云々。

 俺は「良い子」だったのでただ黙ってそれを聞いていた。

 母はすっきりした気分で親子の会話を終え、当の俺は徐々に母を疎んじるようになった。


 俺にとって「夢」は母と母の罵詈雑言を連想させる呪いの言葉となっていた。


 自己防衛のため、俺は適当な年齢になると「将来の夢は公務員」という魔法のフレーズを使うようになった。

 母はやや不満げだったが、後日新たに覚えた「国家公務員」という言葉を使うと満面の笑みで喜んだ。

 そこに俺という個人に対する理解は感じられなかった。

 「私は『息子の夢を叶えさせた母』になれた」という強い自己肯定感だけがあるように感じられた。

 その頃にはもう、俺は両親に冷え切った感情しか抱いていなかった。


 俺は親元を離れ、大学へ進学し、裏切るようにしてフリーターになった。




 話を聞き終えたロッコは困惑した表情で言葉を探していた。


「だからさ、今も割とこじれてるんだよ。お互い被害者面してるから」


 母は「自分はちゃんと教育したし、夢を叶えさせるためにあらゆる形で尽くしたのに息子に裏切られた」と思っている。

 俺は「ろくにこちらの話も聞かず、良い子になることを強いた母に頑張って付き合ってやった」と思っている。

 対立を避け、対話を拒んだ末のこの関係。


 以前シュウと話したおかげで、恨む気持ちは多少和らいでいる。


 今なら分かる気がする。母も必死だったのだ。


 自分の興した会社を子供のように可愛がり、かかりきりの父。

 昔気質で母のやることに口を挟まない寡黙な祖母。

 誰の助けも得られない状況で、母は追い詰められていた。


 自分と同じ失敗をさせないように。

 一度きりの人生で決して間違った道へ進まないように。

 自分が正しいことをしているのか確かめようにも、息子は「はい」しか言わない。

 母が度々俺につらく当たったのは、悩み、前のめりになり、必死になり、様々なストレスに蝕まれた結果であると同時に、俺の反応を窺うためでもあったのかもしれない。


 そこに悪意は無かった。

 母は俺を想ってくれていた。

 だが臆病な俺は母を想ってやれなかった。


 当時も。大学に入ってからも。卒業してからも。

 つい先日も。


「小説とか漫画は仕事しながらでも書けるだろ」


 俺は首の後ろを掻いた。


「親御さんの顔を立てるんなら、そんな感じの落としどころで良いんじゃねえの? お前が完全に諦めちゃったら、親御さんも罪悪感を感じるだろ。働きながら趣味でやるって言い方なら――」


「ダメって言われるかも」


「あ?」


「趣味でもダメって」


「その時は怒って喧嘩しろよ。私はお人形じゃないって」


 ふー、と息を吐く。

 煙草の煙を吐くように。


「まだ間に合うだろ、ロッコは」


「……。あんたも手遅れなわけじゃないでしょ」


「んー。どうだろうな」


「帰ったら親御さんと仲直りしなさいよ」


「覚えてたらな」


 ばしんとロッコに叩かれる。

 傷の痛みはいつの間にか引いていた。




『ヒゲさん』




 のそりとノヅチが現れる。

 足音がしなかったのは死者に変じていたからのようだ。


『アタシのこと、呼びました?』


「ああ。呼んだ。ちょっと前にな」


「……ちょっとノヅチ。もしかしてあんた、盗み聞きしてた?」


『別に聞きたくて聞いたわけじゃありませんよ。お二人が勝手に盛り上がるから……ひえっ!』


 ロッコの平手をノヅチが慌てて避けた。


「やめとけ、ロッコ」


『そうですよ、もう……。アタシに浮世のこと聞かれたからって何を怒ることがあるんですか』


 狐面の船頭は今まで通りのへらへらした態度を崩さない。


 ――『いい加減、気づいても良さそうなモンですけどねぇ。色々と』

 ――『分かりませんかね? ここは「死者を運ぶ船」ですよ?』

 ――『ヒゲさん。アンタはね?』

 ――『アンタは、もう――』


(……)


 俺は昨夜のやり取りを思い出しつつも、素知らぬ振りで尋ねる。


「主様の名前について聞きたい」


『はいはい』


「答える機会は一度きりか?」


『んー……どうなんでしょうね』


「は?」


『いえね? そこまでたどり着いた人がいらっしゃらないんですよ』


「……」


『二、三回間違えても許されるかも知れませんし、一度間違えたらおしまいかも知れませんし……』


「肝心なところで役に立たないな、お前」


『ひどい言い草ですねえ』


 よよ、と狐面は袖で目元を拭う仕草を見せた。


『まあその時が来たら分かるんじゃありませんかね。それまでお知恵を絞られてくださいな』




「イタチさん」




 ユメミとシュウ。

 二人の表情に笑みは無い。


「具合、良くなりましたか?」


「ああ。ごめんな、ひ弱で」


「いえ。それより、これからの戦いについて少しお話が」


「何だ?」


「闇雲に罠を造るの、やめた方がいいよねって話をしてたんだ」


 シュウは別人のように顔立ちが凛々しい。

 ランドセルは下ろし、額にバンダナのような布を巻いている。


「今までの罠ってさ、割と目的もないのに作ってたじゃん?」


 槍衾。落とし穴。吊り天井。

 確かに脈絡が無い。


「『決まり手』を絞ろうよ」


「決まり手……?」


「大きく分けて二つです。一つは昨夜カガチを仕留めた、『道連れ』」


 何かの「パーツ」を持った状態でヤツマタ様もろとも闇に落ち、船に残る者がジムグリの能力を発動。

 パーツを持つ者は船へ引き寄せられ、ヤツマタ様だけが退場するという戦法。


「もう一つはシマの時と同じ、『籠城』」


 便所の石扉を利用したタイムアップを待つ戦法。

 俺たちの手元にアオダイショウの腕はないが、代わりにジムグリの腕がある。

 石扉を破壊されても即座に癒すことができるため、相手の能力次第では勝利が確定する。


「勝ち筋をこの二つに絞って、それに役立つ罠を作りたいです」


「……分かった。そうしよう」


「ロッコちゃん。申し訳ないけど、右腕、ジムグリの腕に差し替えていい? 癒せるのが私一人だと『道連れ』が――「兄ちゃん」」


 にゅっとシュウが視界に割り込む。


「スマホ、どこ? お風呂?」


「ん? ああ」


「借りていい?」


「いいけど……何に使うんだ?」


「時間とか測ったり、ライトにできるじゃん」


「電池切らすなよ」


「分かってる。たぶん切れないよ。ここ、時間流れてないみたいだし」











 そして、赤星が十二に増えた。

 第六夜。


 夜天にはまばゆいほどの桜吹雪が舞う。

 霊魂さながらに淡く発光する桜の粒は船をかすめ、俺たちをかすめ、後方へ流れて消える。


 大蛇が動く。

 桜と、青。

 船尾に降り立った一対の大蛇は先制攻撃を封じるように絡み合い、とぐろを巻いた。


 クリーム色の柔らかい髪と、黒いパーマ髪。

 艶めかしい女と、肥満体型の女。


 十二単じゅうにひとえを纏ったヒバカリと、僧兵姿のアオダイショウが現れる。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る