第17話 蛇の道は蛙




 雷の走る夜が終わると、濁流のほとばしる夜が始まった。


 山を洗い、丘陵を洗い、田畑を洗い尽くす洪水の夜。

 地に根を張らぬ弱いものはすべて地の果てへ連れ去られる夜。


 終わりのない奔流を背景に、灯籠廻船は闇の上を走る。




 十個に増えた赤い星の下、並び立つ俺たち四人は腕を組んでいた。

 

 準備はまったく不十分だった。

 攻撃の用意も、迎撃の用意も、防御の用意も。

 休息すら満足に取れていない。

 

 だが、宵闇を泳ぐ七色の大蛇が船に近づいて来ている。

 これ以上客室で準備に追われれば、ヤツマタ様に不意を突かれるおそれがあった。


 群れからはぐれた硫黄色の大蛇は、しきりに甲板に顔をこすりつけている。

 おそらく落とし穴に詰まったシマの死体を回収しようとしているのだろう。

 バグを起こしたモンスターを思わせる滑稽な挙動だが、笑い事ではない。

 この巨体が這い回っているせいで甲板に新しい罠を仕込むことができなかった。


(……)


 甲板に残されているのは、いくつかに分裂し、折り重なった石鳥居。

 浅く水の溜まった堀。地面に張り付いた賽銭箱。

 シマの死体が詰まった落とし穴の残骸。

 僅かばかりの地下通路。

 まともに使えるものは少ない。


 客室層も惨憺たる有り様だ。

 右舷の罠や道具は吊り天井で潰され、ほぼすべて使用できなくなった。

 左舷の罠のいくつかもシマに潰され、ふすまを使った槍もかなり減ってしまった。


 だがユメミは冷静に、新たに確保した『資源』の利用を提言した。

 彼女は吊り天井に押しつぶされたシマの死体を引きずり出し、骨を次々に抜いた。

 負傷したヤツマタ様を回収する大蛇も、天井の下で潰れたトマト状の半身まで持ち帰ることはできなかったのだ。


 折れた大腿骨はきりに。

 背骨は槍に。

 指骨はつぶてに。


 腸は縄。

 血と脂は転倒を誘う罠。

 爪は薄刃。


 ロッコとシュウが蛇の接近を報せに来なければ、ユメミは残されたシマの死体すべてを道具に変えていただろう。

 『手段』に過ぎない行為であるため、稚児の解体にも嫌悪感や罪悪感を覚えないらしい。


「ヒゲ。何ぼうっとしてるの」


 マムシの腕を装着したロッコが不満げに俺を見る。

 疲労の色は隠し切れていない。


「しっかりしてよ。あんたが柱なんだから」


「分かってる。任せろ。……」


 蛇はまだ動かない。

 闇を走る船の左右をゆったりと併走している。

 距離にして数百メートル程度は離れているようだ。


「……謎について考えてた」


「謎?」


「『主様あるじさま』の名前だ」


 シマとの戦いを終えてから、俺はそのことばかりに気を取られていた。


 七夜のうち既に四夜は越えた。

 残るは三夜。

 ――その意味が、手放しに喜べるものではなくなっている。


 いくら勝利を重ねても、『主様』の名を唱えなければこの船からは降りられない。

 『あと三夜』は、主様の名前を知らない俺たちにとって破滅へのカウントダウンに等しい。


 名前。

 この灯籠廻船を、ノヅチを、ヤツマタ様を統べる主の名。


(分からねえ……)


 ヤマタノオロチ。

 ミズチ。

 オオクニヌシ。


 アナンタ。

 アペプ。

 ヒュドラ。

 ミドガルズオルム。


 古今東西に蛇の姿を持つ存在、あるいは蛇を司る神や怪物は多々見られる。

 だがそのどれも、この船の『主』と結びつかない。

 結びつける『線』が無いのだ。


 ロッコは知識で勝負だと言ったが、俺にはそうは思えない。

 ヤツマタ様のルールが迷い込んだ生者への救済措置ならば、主様の名前が単純知識を問うものであるのは不自然だ。

 おそらく主様の名前は、『謎』を解きほぐせば誰にでも必ず辿り着けるものであるはず。


 謎。

 それは賽銭箱の蓋。

 そこに刻まれた意味深な文言。


 俺はシマを相手に籠城する間、何度か口ずさんだ言葉を再び口にする。




 なみなり なみなり

 われら なみなり


 彼岸ひがん此岸しがんの 狭間はざまの なみなり




(その後はヤツマタ様の紹介文……。……その後は……)




 なみなり なみなり

 われら なみなり


 なみにあらねど われら なみなり


 名呼べ 名を呼べ

 迷い子 名を呼べ


 わが名呼ばねば 七夜しちやは明けず

 わが名呼ばねば 船は巡らじ




(なみにあらねど、われらなみなり……)


 漢字にすると、『波に非ねど、我ら波なり』か。

 波ではないが、波である。


(……なみ……並み……ナミ……)


 さっぱり意味が分からない。


 必要なのはおそらく、発想の転換だ。

 俺の最も苦手とする領域。

 知識ではなく知恵が、教養ではなく機転が求められている。


 ルンペル何某なにがし、だったか。 

 どこぞの国の民話でも似た話があった気がする。

 相手が人外の存在であれ、『名を知ることは相手を理解し、支配すること』。

 逆に言えば、『名を知らぬ存在は支配することも、理解することも決してできない』。


「……ロッコ。さっきのノート、今持ってるか」


「持ってるわけないでしょ。失くしたら大変じゃない」


「それもそうか」


「と言うか、今この状況で見るつもり?」


 甲板では硫黄色の蛇が暴れ、宵闇には硫黄色以外の七色の蛇が泳いでいる。


「閃きはいつ来るか分からないだろ」


「……ノート?」


 片腕を腰に置いたユメミが眉を上げる。

 はぐらかすのは躊躇われた。


「あーと。何か小説のネタ帳「あー!! ああーー!!!」」


 顔を真っ赤にしたロッコが吠えた。

 

「お、あの、ユメミさん。私め、姪っ子がっ、産まれ、産まれるからっ」


「姪っ子……?」


「そ、そう! だから名前、名前をね? つけるから色々調べて」


「……お前、自分の姪っ子にコンチェルトだの大黒天だの名付けるのか」


「つ・け・る・か・も・知・れ・な・い・で、しょ!」


 がづがづと金槌を振り下ろすような踏みつけ。


「いだだだだだ!」


「如月とか! 皐月とか! 書いてあったでしょーが!」


 書いてあった。確かに。

 だがその手の名前は事前に準備してつけるものではない気がする。

 俺の祖母は三月生まれの『弥生』だが、曾祖母が事前に準備して名付けたとは思えない。


 そのことを口にするとロッコは顔を更に赤くし――――ひくっと喉を鳴らした。


「っ……」


「? どうした」


「いや、何でも……っ」


 ロッコが奇妙に顔を歪ませ、よろめいた。

 俺は慌てて腕を掴んだが、その向こうではシュウも膝をついている。

 胸に手を当て、苦しそうに呼吸を繰り返している。


「お、おい?」


「……な、んだか、息が……っ」


(! まさか、もう攻撃が……?!)


 大蛇を見る。

 ――――違う。まだ来ていない。

 硫黄色の蛇が何かした様子もない。

 万が一、船内に生き残りのシマがいたとしても、ガスのようなものを散布する能力はない。

 その素材となりそうなものすら、この船には無い。


「立ちくらみです」


 ユメミがロッコの手を引き、立ち上がらせた。


「皆、きちんと休めていないから」


「……ユメミさんも汗、すごいな」


 誰と対峙しても穏やかな表情を崩さなかったユメミが、額に滝の汗を流している。

 よく見ると顔色も悪く、呼吸も乱れていた。


「さすがに疲れました。白いご飯を食べたいです」


「――――」


 彼女の言う通り、三人とも心身の疲労が限界に来ているのかも知れない。


 死闘の連続で気にする余裕もなかったが、三人は未成年で、うち二人は女だ。成人男性の俺とは馬力が違いすぎる。

 きちんと気を配ってやるべきだった、と今更ながら悔いる。


「気にしないでください。動けないほどじゃありません。……ねえ、シュウくん?」


 シュウは返事をしなかった。

 呼吸は落ち着いているものの、目は虚ろだ。


「シュウ?」


「え? あ、うん……」


 光を取り戻したシュウはよろよろと立ち上がり、自分の両手を見た。

 そしてぱんぱんと泥を落とし、俺を見る。


「大丈夫らよ、にーちゃん」


(全然大丈夫に見えねえ……)


 まだぼんやりしている。

 これはまずいか。

 頬でも張るか、スクラムでも組んで声を




『……んふ』




 ノヅチの漏らした小さな呼気に、俺は振り返った。

 狐面は俺たちの様子をじっと見つめている。


『ヒゲさぁん』


 ねっとりした声には何色かのネガティブな感情が込められているようだった。


「何だよ」


にぶい人だって言われません?』


「……。……まあ、たまに」


『ですよねぇ』


「おいおい。バカにしてるのか」


 カチンと来る。

 また経を唱えてやろうかと息を吸ったところで、ノヅチがふらりと歩む。

 

 彼は十個に増えた赤い星をぼんやりと見やり、おもむろに唇を開いた。




   山道やまみちは 


   さむさみしし 


   ひとつに 


   夜毎よごとしろく 


   百夜ももよ しも

 



 奇妙な響きのある一句。

 硫黄色の大蛇が一時動きを止め、またもぞもぞと落とし穴に舌を突っ込む。


(……?)


『いい加減、気づいても良さそうなモンですけどねぇ。色々と』


 くるりと振り返ったノヅチの口には薄笑み。

 どこか寂し気でもあり、嘲りを含んでいるようでもある。


『分かりませんかね? ここは「死者を運ぶ船」ですよ?』


「……」


 ノヅチは小さく肩を揺らした。

 呆れと憐れみの溜息。


『ヒゲさん。アンタはね?』


 聞いてはいけないような気がした。

 聞けば何かが終わるような気がした。


 赤い唇が蠢く。


『アンタは、もう――「イタチさん! 来ます!」』


 ユメミの声で顔を上げる。

 大蛇のうち二体が動き始めていた。




 色は――――赤茶。そして藤紫。




(――――!)


 硫黄色の蛇は名残惜しそうに甲板を離れ、二体と入れ違いで群れへ合流していく。


 ビルほどもある赤茶の蛇が口を開けると、見覚えのある女が現れた。

 俺の胸中に立ち込めた暗雲を吹き飛ばす、清涼さすら感じる『強さ』の化身。


 口を持たないのっぺらぼうの顔。鼻まで届く焦げ茶色の前髪。

 粘液に濡れるのは、彫刻家がのみを投げるほど均整の取れた、筋肉質な裸体。

 

「来るか……! カガチ……!!」


 女は顔を上げ、両腕で我が身を抱いた。

 染みが広がるようにして赤茶色の忍び装束が生まれる。


 赤茶の蛇は宙をくねり、甲板の上でとぐろを巻いた。

 太い胴体を盾に、カガチを咥えたあごが鳥居の上へ。


「ヒゲ! い、行かないと!」


「ダメだ。蛇が盾になってる」


「さっきの骨、飛ばせないの?」


 シュウが冷淡な声で問うた。


「能力で防がれる。たぶんな」


 鳥居の上にカガチが着地する。


 たたずまいで分かる。

 垂らされた腕に込められる、僅かな力の違いで分かる。

 いつぞやのシロマダラと似た緊張感。

 ただならぬ決意と覚悟。


「!」


 忍び装束姿のカガチを大蛇が再び咥え、解放した。

 

 頭には黒い烏帽子えぼし

 装飾の少ない、赤茶色の狩衣かりぎぬ

 ヒールブーツが露出するよう裾を結んだ狩袴かりばかま

 鼠、蛙、雀のエンブレム。

 

 神主の正装を思わせる姿。


「……それがお前の正装か」


 ゆらりと伸ばされたカガチの手が複雑な軌道を描く。


 掴んだものを『固める』能力。

 その手の軌道を目で追った俺は、彼女が生み出したものの正体を知る。

 樹形図を思わせる奇妙な形の剣。

 日本史の教科書で見た覚えがある。


七支刀しちしとう……)


 更に片手が円を描いた。

 空気が固められ、不可視かつ不破の盾が生まれる。

 以前はマンホールのようだと評した円形盾。

 今は違うものに見えた。


「鏡……」


 ユメミが呟く。

 透明の剣と盾を携えたカガチは神性すら感じる静かな構えで俺たちを見下ろす。


「兄ちゃん」


 シュウがいつになく静かな声で告げた。


「紫のヤツが来るよ……!」


 紫の大蛇は赤茶の大蛇に絡まり、その頭は倒れた石鳥居の一つに乗った。

 開かれる口を見ながらも、俺は違和感を覚えていた。


(何でシマじゃないんだ……?)


 昨夜猛威を振るったシマ。

 あいつがマムシやシロマダラを連れて再び襲って来たら、俺たちは確実に全滅する。


 だが、違った。

 今夜来たのはカガチと別の一人。


(毎回最強の布陣で来るわけじゃない……?)


 ならばランダムだろうか。

 そう言えばヒバカリも―――――




 紫色の蛇から現れたのは、豊満な肉体を持つ三十代半ばの女だった。

 


 

 世間的にはどうか知らないが、俺の感覚で言えば女が最も美しく見える年齢。

 濡れた白桃のごとき裸体を晒し、女が俺を見る。


 目尻に黒子ほくろ

 島田髷しまだまげを作りながらもやや乱れた黒髪。

 垂れ目に憂い。

 失った伴侶を求めるかのように、淑やかに揺れる手。


 藤紫の忍び装束が全身を包んでいく。

 巨峰の実を思わせる尻や胸が包まれ、肌が隠される。


 カガチの時と同じく、藤紫の蛇が女を再び咥えた。

 緞帳が持ち上がるようにして、蛇の口に隠された女の姿が露わになる。


 少しだけ裾の長い和服。確か名前は『打掛うちかけ』。

 頭には大きな綿帽子。


 ――白無垢しろむくだ。

 和風の結婚式でしかお目にかかれない、珍しい服。

 ただし、色は黒。

 黒無垢と呼べばいいのか。


 ノヅチと逆の、口だけ隠す半仮面。

 デザインは蛇でも狐でもなく、濃紫の夜叉やしゃ

 

 背中側から三味線を取り出した女は、ばちで軽く弦を鳴らした。

 びっ、ぼっぶっ、という奇怪な音。

 弦が切れているのかも知れない。


「……!」


 ヒバカリやシマと同じ、『一見すると無害そうな女』。

 前者は未だ底知れないが、後者は危険な能力の持ち主だった。

 彼女もおそらく―――――


「ノヅチ。あいつは?」


『ジムグリ様ですよ』


 ノヅチは短く告げ、さっと身を翻した。

 シマの時のように避難したのではなく、邪魔をしないため退いたように見える。


 一対の大蛇が去ると、ジムグリと呼ばれた女が歩き出した。

 向かう先は、硫黄色の蛇が小突いていた地点。


 シマが仲間を詰めた落とし穴付近は大蛇の舌で削られ、小さなクレーター状に変化していた。

 ジムグリはその中にへたり込むと、目元を手で拭った。

 ――――泣いている。


「あの人、泣いてる……」


「ああ」


「もしかして優しひと……?」


 ロッコの問いにロッコ以外の全員が首を振った。


「そんなわけないだろ」


 ジムグリは穴に身を入れ、すぐに這い出した。

 手が赤く濡れている。


(何だ……? こいつ今何を)




 穴の中から黄色いものが這い出す。


 


 それは完全に傷の癒えたシマだった。

 




「?!」


 ちるるる、と手の中から舌。

 目に嘲り。

 袖の羽が揺れる。


 生きている。間違いなく。


「掴んだものを――」


「『癒す』能力……!!」


 毎夜、灯籠廻船に乗ることができるヤツマタ様は二人だけ。

 あのシマは前夜から穴に詰まっていた個体だ。

 つまり、ルール的には何の問題もない。


(三対一……!)


 ユメミと俺が身構えた次の瞬間、ジムグリの手がシマの肩に乗った。

 シマの顔が、さっと青ざめる。


「なん――」




 めぶん、と。

 シマの頭に亀裂が入った。




 歪なシャボン玉のように、シマの頭部の左右が別々に膨れ上がった。

 出目金のように眼球が膨れ上がり、両手が奇怪なダンスを踊る。


 肥大化した目玉がぼろりとこぼれおちると、巨大な蜘蛛脚を思わせる何かが伸びた。

 それはシマ自身の指だった。

 数十倍に巨大化した指が、蜘蛛が這い出すように眼窩から飛び出す。


 一本、二本、三、四、五。

 最後に手の平が飛び出すと、そこには巨大な口が開く。

 ぷくくく、とイクラのように連なった眼球が指と指の間に挟まり、粘液が滴った。


 下半身から下半身が生え、何本もの脚が生える。

 カマキリさながらの姿となったシマ――いや、『シマだったもの』が四つの複眼で俺たちを見た。


「ひっ?!」


 ロッコが腰を抜かし、ユメミが前に出た。


「化け物を作る能力……?」


「違う……あれは……」


 穴の底で、ジムグリがシマを癒したことは間違いない。

 となるとあれは――


(『過剰回復』……!)


 ジムグリの能力は『掴んだものを癒す』で間違いない。

 その原理は『対象の欠損を補う』といったものではなく、ゲームのように『癒しのエネルギーを注ぎ込む』性質のものらしい。

 ただし注がれ続けた場合、横溢した『癒しのエネルギー』は対象に悪影響を及ぼす。

 必要のない手足が生え、必要のない器官が創り出され、化け物に成り果てるのだ。


「絶対に掴まれるなよ!」


 巨大な手の平の中央で、化け物の口が開いた。

 じるるる、という濁った音と共に異形が走り出す。


 カガチが飛び降りる。

 ジムグリが涙を流す。

 

 戦いが始まる。

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