第16話 蛇の道は縞(しま)



 本殿に到着したユメミが、俺の後方で濁った呻きを漏らした。


 甲板を埋め尽くすシマの群れ。

 数千の紋黄蝶に集られた六艘の灯籠廻船。


「こ、れは――――?!」


 声音に困惑が滲む。

 ユメミも俺と同じことを考えているのだろう。

 つまり、『なぜ初めからこの数で襲って来なかったのか』。


 シマ達の視線が全身に突き刺さるのを感じながら言葉を搾り出す。


「……遊んでやがるんだ、こいつら……!」


 マムシ、カガチ、アオダイショウ、シロマダラ。

 戦法や性格に違いこそあれど、今まで交戦したヤツマタ様は皆、初めから全力で俺たちを排除しようとした。


 シマは違う。

 こいつは今まで全力を出さなかった。


 こちらの戦力を分析するための出し惜しみではない。

 波状攻撃や挟撃といった戦術のためでもない。 


 持ち上げて、突き落とすため。

 長く痛めつけ、いたぶり、苦しむ顔を楽しむための手加減。

 自分の能力が無敵だと知っているからこその、ふてぶてしい油断。


 そこに『敵への敬意』は無い。

 ヤツマタ様としての使命感すらも。


 ちるる、ちるるる、と。

 無数の舌が出入りする。

 船のシマ達が身を揺らし、ちかちかと黄色い袖が揺れる。


(まずい……)


 びょうを打つような音と共に、鼓動が速度を上げる。


 掴んだモノを『増やす』能力。

 左腕を欠いたマムシが左腕を欠いたまま増えたので、実態は『複製』。

 何人シマを倒しても、無傷の個体が一人いるだけですべてが水の泡になる。

 控え目に言っても、無敵だ。


(何かこっちに有利な要素は……)


 オリジナルを潰せば複製されたシマ達はすべて消えるだろうか。

 ――いや、そうは思えない。

 もしオリジナルの負傷が弱点なら、初手の『のぼりの矢』をああも気安く受けはしない。乗船直後は回避か防御に徹するはずだ。

 シマにそれらしい動きは全くなかった。


 俺自身が言った通り、今ここにいるシマはすべてが『本物』なのだ。

 では付け入る隙は――




 ――




 ――




 ――――無い。




「だ、ダメだ……」


 俺は後ずさった。

 顔には引き攣った笑みが浮かぶ。

 

「こいつに弱点は無い……!」


 どうシミュレーションしても勝ち筋が見えない。

 倒しても倒しても無限増殖する相手を、一体どうやって倒せばいいのか。


 唯一の弱点は、『速攻』だったのだ。

 出現直後の数が少ないうちに攻撃していれば、シマを討ち取ることができた。

 だがもうそれはできない。

 ここまで数を増やしたシマは、誰にも止「来ます!」


「!」


 血の匂いを嗅ぎつけたピラニアの群れさながらに、甲板のシマ達が本殿へ殺到する。

 かららららららら、と。地面を叩く下駄は鳴子の音にも似ていた。


 一人が落とし穴に消える。

 二人がつまずくと、三人がその上を踏んで走る。

 四人が互いの身を押し合う。

 五人が嗤い、六人が腹を抱えて転がり回る。

 七人が穴に自分を詰め込み、罠を無効化する。


 八人、九人、十人。

 五十人、百人、二百――――数百人。

 眩暈めまいを覚えるほどの大軍。


(勝てるかよこんなの……!)


「イタチさん下がって! できるだけ狭い場所で!」


 賽銭箱の辺りまで踏み出していた俺をユメミが引き戻す。


(! そうか……!)


 本殿の入り口は木製の扉。

 一度に通ることができるのはせいぜい二人か三人だ。

 これならしばらくは持ちこたえられる。


「ふっ!」


 扉から三人のシマが飛び込む。

 ユメミが一人を槍で貫き、一人を打ち据えた。

 俺は前蹴りの一撃で残る一人を蹴り飛ばす。


 後方へ吹き飛ばされたシマが、無数の手に掴まれる。

 顔、首、肩、腰、足。

 嗤う顔。顔。顔。

 亡者の群れに連れ去られるかのように、傷ついたシマが黄色い地獄の奥へ消える。


 次の三人が飛び込む。

 仰向けに倒れたシマは引きずり出され、うつ伏せに倒れらシマは踏み越えられる。


「このっ、野郎ッ!!」


 再び、蹴り。

 蹴り。槍。

 吹っ飛び、串刺しにされ、倒れる。


 また三人。

 槍。蹴り。槍。

 積み上がる子供の死体。ひびが入るように生まれる血の筋。


 また三人。


「外っ、船がありました、ねっ!」


 ユメミが槍を振るう。

 シマの顔が打たれ、眼球が潰される。


「ああ、っ!!」


 一回転し、シマの頭を強く蹴る。

 子供の頸椎がごぎりと悲鳴を上げた。

 電池の切れかけた人形さながらに数歩歩き、少女がばったりと倒れる。


「あの船の子達は入って来ることができない!です、よね?」


「そ、そうだ。灯籠廻船に乗れるのは二人だけだから……!」


 三人。

 蹴り。槍。蹴り。

 床に血が溜まる。不穏な甘い香りが本殿を満たし、僅かだが温度が下がったように感じる。


 ちるる、ちるるる、と外のシマ達が急かすように舌を出し入れする。


「外の船からこれ以上、乗り移って来ることは、無い……!」


 三人、三人、また三人。


 蹴り。

 胸骨が砕け、折れた骨がぷりぷりの肺に突き刺さる感触。

 蹴り。

 側頭部が砕け、眼球がぶるんと飛び出す。

 蹴り。

 臓物が破裂し、胴体という肉袋が震動する感触。


「だから――」


 黄色い彼岸花の髪飾りが、白い肌が、血に汚される。

 子供たちが次々に、俺の蹴りで肉塊に変わる。

 死に瀕した紋黄蝶は、救いあるいは介錯を求めるように手を伸ばす。


「だから、ここにいる全員を傷物にしてしまえば――――!」


 三人、三人、また三人。


 ユメミの槍。

 シマの喉がえぐれる。

 血しぶき。

 槍。

 シマの腿に突き刺さる。

 血しぶき。

 槍。

 シマの眼球を突き破る。

 血。粘液。泡。


 鉄錆の匂い。汗の臭い。

 腐った菓子の置かれた仏壇を思わせる、冷たく甘い少女の匂い。


「全員が傷物になれば、複製した先も――」


 三人、三人、また三人。


 穴からガソリンが抜けていくように、気力と体力が減って行く。

 手足は重く、息は乱れる。


 また三人。

 打開策は浮かばない。


 また三人。

 思わず後ずさる。

 その瞬間、シマ達が懐へ飛び込む。


 至近距離にシマの顔。

 とっさに頭を掴み、思い切りひねって殺――


「……ッ」


 ――――できなかった。

 代わりに腹を蹴り、突き飛ばす。


 また三人。

 殴る。蹴る。

 殴


「っグ!」


 体内を突き上げるような感覚。

 よろめき、膝をつく。

 待っていたかのように胃液が逆流する。


「ぉ、ゴッ……! ボぁぇぇッッ!!」


 工業用の接着剤のような真っ黄色の液体が口から噴き、床を汚した。

 激しい胃痙攣で身体はくの字に曲がり、土下座に近い体勢となる。


「イタチさんっっ?!」


 何が起きたのかは俺自身が一番よく分かっていた。


 シマを殴った手足に残る、嫌な感触。

 頭蓋が割れ、肉がひしゃげ、血管が破れ、柔らかい臓腑にダメージが通る感触。

 この感触に、肉体が拒否反応を起こしているのだ。


 こっちも命がけだ。大人が相手なら歯を食いしばってでも戦う。

 だがシマは無力な子供だ。

 子供を殴り、蹴り、絞め殺し続けることが俺の心身に嘔吐を催すほどの負荷を生んでいる。

 おそらく人間という生き物は、子供殺しに苦痛を感じるよう造られているのだ。

 

 膝をついた俺の眼前で、かろりと下駄が鳴る。

 シマ。


「……!」


 手が持ち上げられる。

 思わずきつく目を閉じる。



 

 ぽん、と。

 小さな手の平が頭に乗った。


 そして少女は俺を優しく撫でる。




(……?!)


 ちるるる、と出入りする舌が数本の髪を絡める。

 背中にもシマの小さな手。

 ぽんぽん、と嘔吐感を和らげるかのように優しく撫でられる。


 手に何かを握らされる。

 指を開く。




 小さな眼球。




「ッ」


 いたわりではない。

 これは――――


「っのっ!」


 思い切り腕を振る。

 シマ達は一瞬早く飛び退き、着地。


 顔を上げると、蔑みと憐れみを含んだ微笑とぶつかる。

 乱暴に扱い過ぎたことを詫びるような顔。


「……!」


 バカにしている。

 どこまでもこちらをバカにしている。

 こいつにとって俺たちは玩具に過ぎない。


 腹の奥に怒りの火が点く。

 真っ赤な血が全身を巡り、手足に再び力が戻ってくる。


「ッ」


 真横から伸びる指をかわす。

 背中に重量。のしかかったシマが耳に指を入れようとする。

 後方へ跳び、ぎゅぷりと押しつぶす。

 立ち上がり、蹴りを――――




 ごっ、ごごっとシマの生首が飛んでくる。

 眼窩に指を詰め込まれた無惨な顔。




「おっ、あっ?!!」


 足にシマが絡む。腰に腕を回される。

 顔を上げた二人の手の平で、ちるるる、と舌が出入りする。

 更にそのシマを踏み、別のシマが俺の上体に這い上がろうとする。

 下半身の二人はズボンに爪を立て、這い上がるシマは喉に指を立てようとする。


「寄る、なッ!!」


 力任せに振りほどくと、シマが四散する。

 が、すぐに新手を伴って這い寄る。


(やばい……)


 必殺の腕を持たず、腕力すらゼロに等しい彼女達の攻撃手段は『指』。

 目鼻や耳に指を入れる。あるいは、肉体に爪を立てる。

 数値化すれば1か2ほどのダメージに過ぎない。スプーンで山を切り崩すような無謀な試みだ。


 だがそれも、この数のシマに延々と繰り返されればいつか俺の命を奪う。

 子供の指で嬲り殺し。

 そんな死に方だけは絶対にしたくない。


 めぎん、と。

 ユメミの槍が折れた。


「くっ! ――」


 ユメミが俺を見た。

 目には批難の色が滲んでいる。

 やはりシュウの腕を溶かしてでも、自分たちを増やすべきだったのではないか。

 彼女はそう言っているのだ。


 後悔と自責の念が湧き上がる。

 が、苦い唾と胃液を飲み下し、胸でどうにかせき止める。


(違う……!)


 シマの能力で増やした『俺たち』が自ら進んで盾になるわけがない。

 力ずくで従え、命じなければ『俺たち』は動かない。

 そして使い終えたら、俺たちは『俺たち』を処分しなければならない。


 正当防衛ではなく、利用し、踏み石にするための人殺し。

 それは確かに合理的で正しい道なのかも知れないが、俺の歩むべき道では断じてない。

 そんな卑劣な道を辿る奴はこのままあの世へ行くべきだ。


 睨み返すと、ユメミは苦悶混じりの声を上げた。


「拳打では勝てませんよ……!」


 分かっている。

 何かの罠、あるいは策が必要だ。

 だが――効果がありそうなものがほとんどない。


 落とし穴系はシマが自身の肉体で埋めてしまう。

 槍衾のような罠も複製した自分で止めてしまう。

 一人ないし二人程度を想定している罠では、絶対にシマに勝つことはできない。

 必要なのは『広範囲攻撃』だ。

 カガチに使った『滑り台』があるものの、あれでは三割程度しか仕留められない。

 何より今は堀の水がない。

 ならば――――


(……あるにはある、が……)


 前提条件が厄介だ。

 このシマ達全員を誘導しなければならない。

 一人でも生きたまま甲板に残したら、そこから無限に増殖されてしまう。

 シマ全員を地下に誘導しなければ、俺たちは絶対に勝てない。


(!)




 喧騒が一瞬、聞こえなくなる。

 痛みも疲労も忘れ、真っ白な部屋に一人佇むような感覚。


(――――)


 シマの能力。

 性格。

 状況。


 慎重に、指し手を読む。




 ちるるる、ちるるる、と。

 シマ達の舌なめずりの音で我に返る。


 見れば黄色い少女たちが本殿を所狭しと埋め尽くしており、俺とユメミは階段まで退けられていた。

 じりじりと、シマ達が包囲を狭める。


「イタチさん、どうします?! こうなったら『鏡の陣』で」


「いや――――」


 針の穴ほどだが、活路は見えた。

 ただ、確かめなければならないことがある。


「ノヅチッ!! ノヅチ、いるかっ!?」


 壁をすり抜け、ノヅチが姿を現す。

 シマ達の視線を受けた半仮面は、びくりと身を震わせた。


『な、なんですか。アタシは今夜――』


「死ぬ」


『はい?』




「諦めた。死ぬ」




 ひくっとノヅチが喉を鳴らした。


 居並ぶシマ達は猜疑を込めた目で俺を見た。

 外見や振る舞いこそ子供だが、判断力まで子供というわけではないらしい。

 言葉の裏にある、俺の真意を見透かそうとしている。


『え、ええ……? 今ぁ……?』


 ノヅチの声音には恨みがましさが滲んでいた。


『アタシ言いましたよね? 今夜はそっち側には戻らないって……』


「それはお前の事情だ。戻らなきゃ、盛大に迷惑をかけてやる」


『はい?』


 目配せすると、ユメミがすっと片手で祈りの仕草を見せる。


「観自在菩薩……行深般若波羅蜜多時……。……照見五蘊皆空」


『ウッ……!』


 これまでと違う、本気の読経にノヅチが呻いた。

 俺は人質を取るようにユメミを引っ張り、階段へ後退する。


「そいつらが来る前に下に来い……! でなきゃユメミのリサイタルが始まるぞ……!」 


『えええ……!?』


「右舷の奥の部屋だ。いいな……!!」


 シマ達が一斉に静まり返った。

 おどけるような仕草がやみ、俺を見る目に冷酷なものが浮かぶ。


 死なせない。

 まだ死なせない。

 楽しみ尽くすまでは死なせない。

 おぞましい決意がぎらついた瞬間、数百のシマが走り出す。


「走れ!!」


 俺とユメミは転がり落ちるように階段を駆け下りる。

 中ほどで待機していたロッコとシュウと合流したところで吠える。


「『亀と蛙の陣』!」


 ユメミ、ロッコ、シュウがそれぞれ反応する。

 俺は左腕に接いだアオダイショウの腕をぱぱん、と叩いた。


「で、ですがあれは――」


「大丈夫だ。やれる……! 二人ともいいな?」


「だ、大丈夫……!」


 ロッコがマムシの腕を撫で、シュウが強く頷く。


「やる!!」


「良し! 頼んだぞ!」


 ロッコとシュウが頷き、階段の側面に小さく開いた穴に飛び込んだ。

 穴はすぐに板切れで塞がり、階段側からは見えなくなる。


 かたたた、と。

 階段が揺れる。


 見上げれば数百に及ぶシマの大群が一斉に駆け下りて来るところだった。

 足をもつれさせて転ぶものもいるが、誰一人気にかけてはいない。

 一人でも健在ならシマは無数に増殖する。


「走れ! 走れ走れ走れ!!」


 雪崩のごとく走り、転がり落ちるシマの大群。

 それに追われる野生動物のように、俺とユメミは階段を駆け下りる。


 客室層に降り立った俺とユメミは一瞬、上を見た。

 切れ目が見えない。

 甲板にいたシマの相当数が追ってきている。


(これで全部か……? いや……)


 そうとは限らない。

 そこが重要なポイントだ。


 よく見るとシマの群れの中にはノヅチも混じっていた。

 死者になっているためシマの物理肉体と衝突することはない。

 いかにも居心地悪そうに、しかし泡を食った様子でこちらへ駆けて来る。


「ノヅチ、こっちだ! 早く来い!!」


 ユメミを連れ、通路を走り抜ける。

 右舷側の客室に飛び込み、フレームだけになった襖を通り抜ける。


 ばたたたた、と数百に至るシマの軍が追って来る。

 足は遅いが、捕まったら最後だ。


 ぼっ、と先頭の一人が落とし穴に落ちる。

 後続のシマは一切構わず己の屍を踏み越える。


 どがっ、と真横から襖の槍を結んだ振り子が襲い掛かる。

 数人のシマが串刺しとなり、衝撃が群れ全体に伝わる。


 落とし穴。

 槍衾。

 落とし穴。


 シマは確実に数を減らしている。

 ――が、焼け石に水だ。

 槍や投石を受けながら進軍する古代の軍隊のごとく、少女たちはスピードも勢いも緩めない。

 

 と、左舷側の部屋の一つが包丁を入れられた豆腐ように船外へ滑り落ちた。

 カガチに仕掛けたものと同じ罠。

 数十のシマが為すすべなく闇へ消える。


 生き残ったシマ達が俺たちの向かう右舷へ寄る。

 俺たちが更に右舷の窓側へ寄ると、少女たちはより密度を増してこちらへ寄る。

 既に客室層の右半分はシマの大群で埋め尽くされていた。


 既にノヅチはシマの群れで見えなくなっている。

 彼がどう頑張ってもシマより先に俺たちと合流することはない。


(間に合うか……!)


 間に合ったとして、効くか。

 効いたとして、意味はあるか。


 ポイントに到着し、振り返る。

 ピラニアかスカラベの大群を思わせるシマの軍勢。

 迎撃できる数ではない。

 二、三人を蹴り飛ばしたところで数に飲み込まれ、その後は生き地獄が待っている。


(間に合え……間に合え……!) 


 畳の上で脚を踏ん張り、合図を待つ。

 シマが来る。


 10メートル。

 9メートル。


 数百もの嘲りの表情が近づく。

 数百もの息遣いが聞こえる。


 8。

 7。


 ユメミがきゅっと手を握る。

 俺の背に粘ついた汗が噴き出


「兄ちゃんっっっ!!!!!」


 遥か遠い階段から。

 シュウが叫ぶ。


「もういないよっ!!!」


「!! ロォォォォッッコッッッッッッ!!!!!」


 俺は頭上に向けて吠えた。

 この声が甲板まで届くことはないが、そもそも届く必要がない。

 聞こえなければならない相手は、天井裏のロッコなのだから。


「ふっ!」


 ユメミが畳の縁に指を入れ、外す。

 一メートル半ほどの浅い穴。

 二人で素早くそこへ飛び込む。



 

 次の瞬間――――右舷の天井が落ちた。


 プレス機のように。

 



「……!!」

「~~~~!!」


 奥歯が震えるほどの轟音に続き、闇が訪れる。

 俺とユメミは狭い穴の中で身を丸め、静寂を待つ。


 十秒。

 二十秒。

 三十秒。


 ずぶん、と。

 穴の天井が開け、光が差し込む。


「二人とも大丈夫?!」

 

 ロッコの顔。

 俺たちは素早く穴を這い上がる。


 辺りはすっかり様変わりしていた。

 右舷の客室は左舷より階段二つ分ほど高くなっている。


「兄ちゃん!」


 シュウが駆け寄って来る。

 途中でノヅチを通り越したが、彼は頭を庇うポーズのまま硬直していた。


「無事か?」


「うん!」


 胸を撫で下ろし、周囲を見やる。


 階段の側面に開けた穴は甲板と客室層の天井裏に繋がっていた。

 シュウは潜水艦の物見のように首を出して甲板の様子を確認し、ロッコは天井裏に準備しておいた罠――『吊り天井』の作動位置に待機した。

 頃合いを見て俺が叫び、ロッコがマムシの腕で天井を支える部位を溶かしたのだ。


「……ぅぅ」


 ロッコは露骨に足元を気にしているようだった。

 無理もない。

 数にして数百ものシマが落下した天井の下敷きになっているのだ。

 少し鼻を動かせば血の匂いを感じる。


 だが、これで終わりだ。

 俺は顔を上げ、ユメミの凍り付いた顔を認める。


 彼女の視線を追い、左舷側の客室の一つを見る。




 一人のシマが立っている。





「……!!」


 彼女は両手で我が身を抱いた。


 一人が、二人に。

 

 二人が、四人に。


 八。

 十六。

 三十二。


 六十四。

 百二十八。


 二百五十六。



 ――五百十二。



「~~~~~~~!!!」


 あっという間に元通りになったシマ達が、先ほどまでと同じように嗤う。

 ちるるる、ちるるるる、と。

 出入りする舌が揺れる。


「勝てない……」


 ユメミが静かに呟き、首を振った。

 俺はシュウとロッコの手を握り、後方を見る。

 客室層の船尾付近には二つの部屋しか残っていない。

 風呂と、トイレ。


「来い! 急げ!!」


 俺は一度だけシマの方を振り返り、三人を連れてトイレへ駆け込む。

 便器のない、ぽっかりと穴が開いただけの狭い部屋。

 死者の一人がぼうっと宙を見上げている。


 ごりりり、とユメミと二人がかりで石の引き戸を閉じ、手を添える。

 次の瞬間、シマ達がトイレに到着する。

 ちるるる、ちるるる、と獲物を追い詰めたことを喜ぶ舌の音色。

 死者がするりと石扉をすり抜け、出て行く。


「……シマ」


 俺は石壁の向こうに声を投げた。




「お前の負けだ」




 少女が動きを止める。

 一人だけではなく、全員が。


 シマに弱点は無い。

 最強とまでは言い切れないが、無敵の能力であることは間違いない。

 俺たちに勝ち目はない。


 だから、勝つことを諦める。

 狙うのは――――


「さっきシュウが言っただろ。「もういない」って。あれ、お前のことじゃないんだよ」


 俺はシュウを見る。


「居ないことを確かめたかったのはマムシの方だ」


 なぜなら、マムシはあらゆるものを溶かす能力の持ち主。

 シマが『マムシの予備』を隠していたら、俺たちは本当に詰んでいた。


「!」


 シマの群れが石扉に飛びつく。

 が、分厚い石の扉はぐにょりとそれを受け止め、シマを弾き返した。

 俺は扉に触れる青い腕を見る。


「『アオダイショウの腕』。この扉はゴムみたいにぐにゃぐにゃになった」


 体当たりで破ろうにも弾力ではじき返されてしまう。

 弾性こそ得ているが、分厚い石の扉だ。ふすまの槍でも破壊はできない。

 まして子供の指など立つわけもない。

 引き戸は重く、溝は深い。

 シマがいくらのしかかっても『脱線』は期待できない。


「お前、マムシがいない状況でどうやってこの扉を開けるんだ?」


 ぢるるる、ぢるるる、とシマ達が乱暴に舌を出し入れする。

 挑発しているようにも感じられた。


「……いや、俺たちはお前に勝たなくてもいいんだよ」


 ヤツマタ様に関する重要なルールは二つ。

 一つ、『一夜につき二人、船に乗り込むことができる』。

 二つ、『船から突き落とされた場合、その夜に再び現れることはない』。


 つまり灯籠廻船の『夜』は、ヤツマタ様を倒さなくても明ける。


「勝たなきゃ次の夜が来ないなんてルールは無い。……ノヅチ、違うか?」


 にゅるん、と壁をすり抜けて現れたノヅチが俺を見る。


『それは……まあ、そう……ですねぇ』


 次の夜が来たら、次のヤツマタ様が来る。

 一夜につき二人しか乗船できないため、シマはそこで下船しなければならない。

 『時間切れ』でも俺たちは夜を越えられる。


 そこで初めて、シマの呼気に動揺が混じった。


『あのお、ヒゲさん』


 ノヅチだ。


『死にます?』


「死なねえよ。さっきのは嘘だ」


 俺は扉を睨んだ。


「このままゆっくり、夜の終わりを待たせてもらう」






 シマの猛攻は、文字通り一夜続いた。

 

 数えるのも馬鹿らしくなるほどの体当たりが繰り返され、時折槍が突き込まれた。

 扉を掴む俺自体を排除するためか、見当違いの場所を探っている様子もあった。


 だが分厚く柔らかい石扉は、シマのすべてを平然と受け止めた。

 ちるるる、ちるるるる、と舌を出し入れする音には怒りが混じった。






 子供たちは身を丸めて眠り、ユメミまでもが疲労でうつらうつらしている。

 俺はじっと扉に手を置いたまま、虚空を見つめる。


(これで四夜が終わり……)


 込み上げるのは安堵感ではない。

 焦りだ。


(主様の名前……)


 見つけ出せるか。

 どこかにヒントがあるのか。


 あと三夜しかない。

 戦闘中にそこまで気を回すことは不可能だ。

 短いインターバルのどこかで、何かを閃くことができるか。


(……)


『あのォ、シマ様?』


 やれやれとノヅチが頭を掻く仕草を見せ、首だけを石扉の向こうへ向ける。


『そろそろ夜が明けますが……降りていただけませんかね?』


 ぢるるるるっっ、と。

 無数のシマが怒り狂う音。

 うひっと声を上げ、ノヅチが引っ込んだ。


「……夜、終わりか」


『ええ、ええ。次のヤツマタ様がいらっしゃるまでは少~しだけ時間がありますけどもね』


 んー、とノヅチが困ったように唸る。


「このままシマが居座るなんてことはないよな」


『無い……と思いたいんですけど、シマ様なのでねぇ』


 ぴくん、とノヅチが顔を上げた。

 主の到着を知った犬のように。


「どうした」


『タカチホ様……ですかね、これは』


「? ……っ」


 っどおん、と。

 間近でダイナマイトが爆発するような音が聞こえる。

 子供たちが飛び起きた。


「な、何だ今の……」


『外の船をタカチホ様が沈められているのでしょうね』


 ばたたたたた、と。

 シマ達が一斉に走り出す音。


 ノヅチが石扉の向こうへ首を伸ばす。

 

『出られましたよ。たぶん、甲板でしょうね』






 甲板に出ると、既に複製された灯籠廻船は消えていた。

 代わりに、マンション並みに巨大な大蛇が宵闇に浮かび上がっている。


 苔緑、赤茶、青、白。

 桜色、硫黄色、くすんだ紫色。


 そして先頭の蛇の色は、黒。



 

 烏の濡れ羽色の長髪を流した女が、黒い大蛇の頭に立っている。




 忍装束は蛇と同じ黒。

 全身のところどころに、平たく潰れた黒蛇を模した帯が巻かれている。


 肩と腰には短いマント。

 スカートにも見える腰布は色こそ黒だが、絶えず虹色の光沢を放っていた。


 腰には刀。履き物は足袋ではなく仰々しいブーツ。

 ベースこそ忍び装束だが、どことなく古い日本の軍服を思わせる。


(あいつがタカチホ……)


 こちらを見下ろす怜悧な美貌。

 高慢さは感じないが、柔弱さも感じない。

 抜き身に似た佇まいの女。

 ――――どこかで見覚えがあるような気がした。


『あまり前に出ると巻き込まれますよ』


 ノヅチの言葉で俺たちは本殿まで退く。


 甲板を埋め尽くしたシマ達は一斉に手を掲げ、舌を出し入れした。

 発せられたのは、ちるるる、というあの音ではない。

 くぎょるぷぎゃあ、きるきるぴぎい、としか文字にできない、異様な音。

 威嚇音なのかも知れない。

 交替も下船もしない、次の夜も自分に戦わせろ、とでも言っているのか。


 かっと雷が閃いた。

 その瞬間、黒い女が真横に手を振る。




 甲板に立つほぼすべてのシマが宙に浮いた。

 



「っ?!」


 浮いている。

 数百ものシマが浮いている。


 蜘蛛に囚われた蝶のごとく手足をばたつかせる少女達を前に、タカチホは無造作に腕を振った。

 ぶお、と真横に数十メートル吹き飛ばされたシマ達が為す術もなく闇に消える。

 ぴぎい、ぴぎぎい、という奇怪な音が聞こえた。


(何だこいつ……何をやってる……?!)


 次の雷が閃く。

 タカチホが再び宙を掴むと、逃げ惑うシマ達が浮かび上がる。

 砂粒のように、紋黄蝶が船外へ放り出される。


『すみませんねぇ、タカチホ様』


 ノヅチがへこへこと頭を下げるも、タカチホは無反応だった。


 黒いヤツマタ様は一度だけ俺を見下ろすと、高く跳躍した。

 そして真上に向けて口を開いた黒蛇の中へ消える。 


 八色の大蛇たちは去ろうとしない。

 船に並び、闇を泳ぎ始める。

 振り返ると、八つの赤星の傍に小さな赤い粒が生まれつつある。

 遠い空の雷も止んでいた。


「イタチさん。備えを……!」


 五度目の夜が来る。


 俺たちは勝ち越した。

 光明はまだ差さない。

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