第14話 蛇の道は影



 逆さまになった船からロッコの悲鳴が聞こえた。



 高層ビル並みに巨大な蛇は長い舌を出し入れし、緩慢な動きで灯籠廻船に近づく。

 蛇が口を開くと、中から裸の女が現れた。

 予期せぬ三人目の『ヤツマタ様』。


(クソ。見えねえ……!)


 水面みなもの板切れに立つ俺から蛇の口は遠すぎる。

 背景は雪降る夜空。船が転覆した今、光源は六つの赤い月しかない。

 暗く、遠い。

 新手がどんな姿をしているのかまったく分からない。


(やばいぞ。上にはユメミしかいない……!)


 鼓動が一気に速度を上げ、背中に脂汗が滲む。

 ユメミは強いが、逆さまになった不安定な船で子供たちを庇いながら戦うのは無茶だ。

 おまけに敵の能力は未知数。

 もしマムシのような即死タイプだったら、俺が駆け付ける前にすべてが終わってしまう。


 奥歯を強く噛む。

 無力感が怒りに転じ、憎しみに色を変える。


(何で三人目が来るんだよ……! あの野郎、嘘ついたのか……?!)


 ノヅチが話した内容と矛盾する。

 ヤツマタ様は毎夜二人だけしか現れないはずだ。

 なのに――


(!)


 ――――いや、違う。

 ノヅチが語ったヤツマタ様のルールは「毎夜二人が『船に乗り込める』」だ。

 船の『外』については、ヤツマタ様の内、誰が何人いようと何の問題も無い。


「そういうことかよ、畜生……!」


 黒蛇は悠然と船の周囲を巡り、その頭が俺の死角に入った。

 次の瞬間、巨大な灯籠廻船がぎりりりり、と軋む。

 どぷんたぷんと『闇』に波が立つのを認め、俺は総毛立った。


「! おいおいおいおいっっ!! 船に乗らないままこんな――っ」


 慌てて背を向け、『ゴム空気』を引く。

 引き、引き、引き、引っ張り、船から距離を取る。

 その間も鼓膜を貫通して奥歯まで響く、船の軋り音は止まらない。


 船から三十メートルほど離れた地点で振り返り、俺は自分の目を疑った。


(?!)


 転覆していた灯籠廻船が元の姿勢を取り戻していくところだった。

 それも、シロマダラが転覆させた時より速い。

 鯨が身を捻るような軽やかさで船が横回転していく。


 ものの一分足らずで船は元の姿を取り戻した。

 

 黒蛇はゆるりと頭を引き、宵闇に溶けるようにして消える。






 アオダイショウの腕で客室の窓に這い上がると、ユメミが俺を迎えた。


「平気ですか? 怪我は?」


「ない。そっちは?」


「全員無事です。……シロマダラは?」


「沈めた」


 ユメミの糸目が薄く開く。

 そこには驚愕以外の幾つかの感情が入り混じっているように見えた。


「さっきの黒い奴は何だったんだ?」


「これからノヅチさんに聞くところです」


 階段へ向かって並び歩く。

 客室の死者たちは何事もなかったかのようにうろうろしている。

 ふすまが外れ、畳が剥げ落ちた船を徘徊する彼らは、いよいよ本物の幽霊のようだった。


 甲板にはロッコ、シュウ、ノヅチがいた。

 ロッコのキンキン声は死者の鼓膜にも響くのか、ノヅチは両人差し指を耳に突っ込んでいる。

 

「兄ちゃん!」


 俺は青腕を掲げた。


「おう。やっつけたぞ」


「すげえ!」


 ぱちん、と小さな手を叩く。

 ロッコは露骨なジェスチャーで胸を撫で下ろしていた。


「ヒゲさぁん……」


 実体化したノヅチが恨みがましい声を発した。


「鏡ィ……何投げてんですかあんた……」


「『鏡を投げるな』なんてルールは無かっただろ」


「や、そりゃそうですけどね? 常識で考えて、こう……いかにも大事そうに安置されてるモノをあんな豪快に投げますかねぇ」


「大事なものに見えたから投げたんだよ。……」


 俺はさりげなく元来た本殿を見やった。

 賽銭箱は根が生えたように残されているが、鏡が見当たらない。


「鏡なら舳先へさきですよ」


「舳先? ……見えないぞ」


「たぶん、船べりから手の届かない位置に固定されたんだと思います」


「?」


「ヒゲ。昔の西洋の船、分かる?」


 ロッコが割り込んだ。

 彼女は俺の疑問顔を見ると、どこか得意げに胸を張った。


「昔の船って船首に色々な装飾をしてるの。女神とか、騎士とか。鏡もあんな感じで固定されてる」


「あー……分かった。イメージできた」


 つまり、俺たちが悪用できない位置に移設されたということか。

 向こうにとっても予想外の行動だったのだろう。


「タカチホ様がお怒りでしたよ。アタシは知りませんからね」


「タカチホ……?」


 はたと気づく。


「それ、さっき黒い蛇から出て来た奴か?!」


「ええ、ええ。あれは『タカチホ様』。ヤツマタ様のおさですよ」


 タカチホ。

 確か賽銭箱の蓋にも名前があった記憶がある。


「彼女、手を触れずに船をひっくり返しました」


 ユメミの声が僅かに低くなる。


「……ノヅチさん、あれは何の能力なんですか?」


「さあ?」


 ノヅチの唇は笑みの形に歪んでいた。


「タカチホ様はおさですからね。それはもう、色々なことがお出来になるのですよ」


 きょうの一つも唱えてやりたかったが、こいつを脅しても時間の無駄だ。

 俺たちは例の『闇』が船内に残っていないことを確認し、策を練ることにした。

 





 船は廃墟同然だった。


 境内からは砂利と堀が失われ、客間にはふすまと畳が散らかっている。

 数こそ少ないが境内や客間には大穴が開いており、クランク状の穴の先は反対側へ繋がっている。


 ヤツマタ様の腕は二本。

 一つはあらゆるものを溶かす『マムシの腕』。

 もう一つはあらゆるものを軟らかくする『アオダイショウの腕』。

 ただし後者は掴んでいる間しか効果を発揮しないため、罠設置に向いていない。


 使えるものは限られており、選択肢も少ない。

 俺たちは幾つかの案を出し合い、片っ端から実行に移すことにした。


 次のヤツマタ様がどんな能力を持っているのか、俺たちには分からない。

 もしかするとシロマダラの時のように、あらゆる準備が一瞬で水の泡になるかも知れない。

 それでもやるしかない。


 次に俺たちが迎えるのは四度目の夜。

 七夜の折り返し地点。

 ここを無事に越えることができれば、『七戦四勝』。


 もちろんこれはポイント制の競技ではない。

 何度勝っても、一度負ければそこで終わりだ。


 だが人ならざる怪女たちに勝ち越せたという事実は、俺たち四人の胸に火を灯すだろう。

 熱く、確かな火。

 勇気と呼ばれるもの。


 俺たちにはそれが必要だ。 






「イタチさん」


 ユメミが矢庭に切り出したのは、ロッコやシュウと別行動を始めたタイミングだった。


「次のヤツマタ様も、できれば左手をもいでください」


 あぐらをかいて作業していた俺は手を止め、目線を上げる。

 慈愛を含んだ糸目。


「ノヅチさんに聞いたんですが、ヤツマタ様の腕は肘から先の部分しか継ぎ接ぎできないそうです」


「……ユメミさんの右はもう無理ってことか」


「はい」


 淡々とした肯定。


 マムシに溶かされた彼女の右肩から先は、もはやヤツマタ様の腕を接ぐことすらできない。

 だが、残った左ならヤツマタ様の腕を接ぐことができる。

 あのシロマダラと互角に打ち合える彼女がマムシやアオダイショウの腕を手にすれば、確かに強大な戦力となるだろう。


 だが――――


「そんなことしたら、戻った時に両手が無くなるだろ」


 ヤツマタ様の腕は元の世界へ持ち帰ることができない。

 つまり、俺やロッコは左手を失った状態で帰還することになる。

 ユメミは既に右肩から先が無いのだ。この上、左手まで失っ「生きて帰ることが」


 糸目が僅かに開く。


「何より重要です」


「そりゃ……そうだけどさ」


 畏怖すら覚える。

 両腕を失ってでも、ユメミは生きて戻りたいと思っているのだ。

 戦いが終われば一気に湿り気に襲われる俺とは違う。

 何者にも鎮められない、マグマのような生への執着。


「もしこの先どこかの夜で、カガチとシロマダラが同時に現れたら私たちは確実に負けます。そうなっても対処できるように、私にもヤツマタ様の腕が必要です」


「……なら、今アオダイショウの腕を接ぐか?」


 幸い、こちらにはマムシの腕がある。

 あれでユメミの左手を溶かせば、すぐにでも緑か青の腕を接ぐことができる。


「いえ。それは危ないです。もし戦っている途中に腕を奪われたら、両腕を失うことになります」


「! 確かに……」


 考えていなかった。

 ヤツマタ様の腕は強い力を込めればちぎれる。

 それは俺たち人間に接いだ後も同じだ。

 仮にユメミにヤツマタ様の腕を接ぐとしても、それは『三つ目の腕』を手に入れた後だ。


「もっとも、腕欲しさに返り討ちにされては本末転倒です。可能なら奪う、ぐらいの心持ちでお願いします」


 つい同意しそうになった俺は、危ういところで踏みとどまる。


 ユメミがヤツマタ様の腕を手に入れれば、まさに鬼に金棒だ。


 鬼に金棒。

 彼女は『鬼』。


(――――)


 胸に黒い染みが広がる。


 ユメミが強大な能力を得ることは、俺にとって決して喜ばしいことばかりではない。

 彼女が本当に連続殺人鬼なら、こちらの身も危険に晒されるのだ。


 もちろん、ヤツマタ様との戦いの最中に襲われることはない。

 口では作業と言いつつも、彼女とてギリギリのところで生き延びているに過ぎないからだ。


 だが、すべての夜が終わったら?


 七夜を越えたら、もはや彼女を阻む者はいない。

 ヤツマタ様。ノヅチ。主様。

 ロッコ。シュウ。

 誰一人としてユメミの歩む道を妨げることはない。


 ――――俺一人を除いて。

 

「イタチさん?」


「……あ、いや、何でもない」


「そうですか」


 納得感に乏しい「そうですか」だった。

 俺の考えを見透かすかのように、一ミリほど開かれた糸目から濡れた瞳が覗いている。

 

「戦い方はお任せしますが、腕のこと、頭の片隅に入れておいてください」


「ああ」


「もちろん、二人には内緒で。……シュウくんが「自分の腕を捨てる」なんて言い出したら説き伏せる羽目になりますから」


「……」


 ユメミが踵を返した。

 連戦で制服はボロボロだが、その歩みは確かだった。





 

 設置できる罠が減ったせいか、激戦でアドレナリンが過剰に分泌されたせいか、ひどく長く感じる夜だった。

 罠を設置し終えてもなお、時間が余った。


 一つしかない布団にはシュウを寝かせ、ユメミは畳の上で横になっている。

 あぐらをかいてうつらうつらしていた俺は、誰かに脇腹を小突かれて目を覚ました。

 顔を上げる。

 ロッコだ。


「……どうした? トイレか?」


 ユメミとシュウに目をやり、ロッコは俺を手招きした。

 誘導されたのは甲板だ。


 雪は止んでいたが、夜天の赤い月はまだ六つ。

 ノヅチは船べりでぼんやりと遠くを見やっている。


 ロッコは本殿の一角にどさりとバッグを置いた。

 今さらだが、音が重い。中には一体何が詰まっているのか。


「謎解きのことなんだけど」


「謎解き?」


 ロッコの目がきりきりと吊り上がる。


「何その言い方。まさか忘れたわけじゃないでしょうね……!」


「あ、うん。もちろん。覚えてる。覚えてるんだけど……」


「主様の! 名前!!」


 キーン、と。

 頭蓋骨を貫通するきりに似た声。


「言わないと降りれないでしょ? ちゃんと考えてよ!」


「あー……うん。まあ」


 正直、それどころではないというのが本音だ。

 マムシにカガチにシロマダラ、アオダイショウ。

 蛇女を倒すことだけで俺のメモリはいっぱいいっぱいだった。


「……シュウと二人で考えたりもしたんだけど、思いつかなくて」


「シュウと?」


「私たち、全然役に立ってないでしょ」


 ロッコの声が弱くなる。

 ヤマアラシのように逆立っていた感情の棘が、すっと縮む。


「だからせめて謎解きだけは、って思ったんだけど……」


(……)


 子供ながらに色々と考えていてくれたらしい。

 申し訳なさと同時に、後ろめたさを覚える。


「そんな深刻に悩むなって。俺が何とかするよ」


「えぇ……?」


「何だよその顔」


「だってヒゲ、あんまりアテにならなさそうだし」


「なりますよ。これでも一応パパだし、いい大学出てるんだから。……何やってんの?」


 もそもそとバッグを漁ったロッコは分厚い本を取り出した。

 ケースに収められていない、使いこまれた国語辞書だ。 


「こういう時は知恵じゃなくて知識で勝負でしょ」


 国語辞書に続いて、今度は漢和辞典が出て来る。

 英和辞典。和英辞典。

 世界のことわざ全集、故事成語辞典。

 民俗学便覧。世界神話体系。


「いや、いやいやいやいや多すぎるだろ何冊持ってるんだよ……!」


 道理でカバンがぱんぱんに膨らんでいるわけだ。


「授業で必要だから」


「いや……要らないだろ半分ぐらいは。要るなら要るで学校に置いとけよ」


「教科書を置いて帰るのは校則違反」


「ええ……?」


「そんなことより、ほら。主様の名前!」


 ロッコは俺に民俗学便覧を押し付け、自らも世界神話体系のページをめくった。


「ヨモツ何とかか、何とかのミコトとか、そんな感じだと思うの」


「……」


「でもヘビって言ったらやっぱり「ロッコ」」


「……何?」


「調べてもたぶん、出て来ないと思うぞ」


「はあ? 何で?」


「『灯籠廻船』って聞いたことあるか? 古事記、日本書紀、その他もろもろで」


「無いけど」


「だったら『主様』の名前もどこにも書いてないんじゃないのか?」


「――――」


 薄々分かっていたのか、ロッコはしばし打ちのめされたような顔をした。

 が、すぐに顔を振る。


「あ、『主様』は有名な神様だけど、『灯籠廻船』はどこにも記録がないだけかも知れないでしょ?!」


「……。確かに」


 そのパターンはあり得る。

 俺は重石をどかすようにして脳内の先入観を放り捨てた。

 思い込みは危険だ。


(八人の蛇の親玉……)


 真っ先に思い浮かぶのは――


「『ヤマタノオロチ』」


 ロッコは上目遣いで俺を見た。

 俺がその言葉に辿り着くのを待っていたらしい。


「それが一番可能性が高いと思うの」


「いや……あれって神話の中で死んでるだろ? スサノオだっけ。そんな感じの神様に酒飲まされて、首切られて」


「ここって、『この世』と『あの世』の間でしょ?」


「!」


「実は死んでなくて、その間をさまよってるとか」


 言われてみればそうだが、違和感もある。

 『八人』で構成されるヤツマタ様を統べる主が『ヤマタノオロチ』。

 イメージの問題だが、そうなると主様の本体はでかい『胴体』になりはしないか。


 俺は少し唸り、古びた民俗学便覧をめくる。

 

「九頭竜とかの方がそれっぽくないか?」


「クズリュウ?」


「九つの頭がある竜で九頭竜。……っと」


 俺は便覧を開き、それらしいページをロッコに見せた。

 四つん這いになった少女は本をじっと見る。


「ヤマタノオロチの首が九つ版みたいなヤツ。日本のあちこちで似た話があるんだと」


「ヤツマタ様は竜じゃなくて蛇でしょ」


「似たようなもんだろ」


「えー……?」


「それを言うならヤマタノオロチは割と悪役系だろ? 迷い込んだ生者が気の毒だからってルール作る感じか?」


「ん、まあ……」


「あとは……」


「あ、待って待って。そういうのはここにまとめて」


 ロッコはやや古いノートを差し出した。

 中には世界各地の蛇にまつわる怪物の名前が記されている。


 メデューサ、ヒュドラ、アナンタ。

 みずち。清姫。

 ティアマト。ウロボロス。ケツァルコアトル。


(……洋風は違うんじゃないのか、さすがに)


 断言はできないが。

 それに、仏教系も違うような気がする。

 灯籠廻船の造りには神道の意匠が見て取れるからだ。

 シロマダラの装束も修験者ベースだった。


(いや――――)


 それを言い出したらヒバカリはピアスをしていた。カガチはヒールブーツだ。

 ああいった装飾品は西洋の歴史・宗教に由来する品ではないのか。

 となると、そもそも「土地」「宗教」「文化」といった感覚に囚われること自体間違っているのかも知れない。


(……ちょっと曖昧過ぎるな。何かヒントでもあれば――――)


 そうだ。ヒント。

 あの賽銭箱の蓋。あの意味深な文字列は『主様』の名を特定するヒントではないのか。


「ロッコ。あの賽銭箱の文字、覚えてるか?」


「あ……そう言えば」


「箱は残ってたけど、蓋も落ちてなかったよな?」


「うん。あれも大事だってノヅチが拾ってて……」


 何気なく、ノートのページをめくる。 

 



 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 月の異名:睦月、如月、弥生、卯月、皐月、……


 八大竜王:難陀、跋難陀、娑伽羅、徳叉迦、阿那婆達多、……


 十二神将:珊底羅大将、摩虎羅大将、招杜羅大将、毘羯羅大将、……


 音楽:協奏曲、遁走曲、狂詩曲、鎮魂曲、……


 万より上の数字:億、兆、京、垓、……


 厘より下の数字:毛、糸、忽、微、……


 八卦:乾、兌、離、震、……


 九星:一白、二黒、三碧、四緑、……


 七福神:大黒天、恵比須、毘沙門天、弁才天、……


 八音:金、石、糸、竹、……


 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~




「……?」


 ロッコが俺の手元に視線を落とし、ぼっと火が点いたように赤くなった。


「ちょ、ちょっと!!!」


 凄まじい勢いでノートをひったくったロッコは射殺さんばかりに俺を睨んだ。


「勝手に他のページ見ないで!!」


「悪い。……」


「……」


「あのさ、お前もしかして――――」


「な、何? これは教養を深めるために書き留めて――」


「小説家か漫画家目指してる?」


「ぅっ?!」


 図星だったらしい。

 俺はその方面にはまるで興味無いが、あの手の人種が好きそうなものは何となく分かる。


「別に隠さなくてもいいだろ。恥ずかしい趣味じゃあるまいし」


 多様性の時代だ。

 夢も野望も人の数だけあるし、あっていい。


「お、終わり! この話は終わり!」


 びしゃしゃしゃ、とロッコが本を閉じ、手際よく片付ける。


「えー? まだ何も掴めてな「お・わ・り!」」


 ロッコは逃げるようにして客室へ駆け降りてしまった。

 今さらながら、デリカシーの無い発言だったかと反省する。


(……年下とは相性悪いからな、俺……)


 それから少し考えてみたが、結局、分かることなど何もなかった。






 そして、次の夜が来た。

 





 天には八つの赤い月。

 時折、遠い空を青や紫の雷が走り、光が甲板を照らす。

 落雷に伴う轟音は聞こえない。

 静かで、幻想的な夜。


 やがて、蛇が来た。


「イタチさん、あれ……!」


「!」


 黒雲から顔を覗かせたのは、見覚えのある苔緑の蛇だった。

 龍に見紛うその姿。

 中から出て来るのはおそらく――――




「イタチさん」




 ユメミの方を見た俺は、彼女の訝しむような顔とぶつかる。

 分かっている。今のはユメミが発した声ではない。

 逆方向を見る。

 狐の半仮面。


「……。何だよ、ノヅチ」


 ヒゲさん、ヒゲさん、と気安く俺を呼んでいた女形が妙に神妙な顔をしている。

 声音も普段よりずっと低く、あの剽軽ひょうきんさが感じられない。


「あんた方はよく頑張られました。でも、今夜で終わりです」


「……そんなの分からないだろ」


 ノヅチの手が黒雲を示した。

 苔緑の蛇の傍に、別の蛇がいる。

 ――――やや黒ずんだ、硫黄色いおういろの蛇。


「シマ様が……おでです」


 死病を告げる医師にも似た、不吉さを孕んだ声音。

 気のせいでなければノヅチから僅かな怯えを感じる。


「マムシ様も、シロマダラ様も……誰もあの方には勝てやしません。カガチ様ですら手も足も出ない相手です」


「――――」


「アタシは今夜、『形』を戻しません。夜が終わるまでは、絶対にね。……シマ様には近づきたくない」


 だから、とノヅチが皆を見回す。


「死ぬなら今が最後です」


「……」


「シマ様とやり合ったら、いっそ死んだ方がマシだと思うようになる。だから「私たちは」」


 ユメミが鋭く告げる。


「死ぬつもりはありません。必ず生きて戻ります」


「……。そうですか」


 ノヅチはなぜか悲し気に首を振った。

 そして泉のように揺らめく姿に変じる。




 そうこうしている間に、二匹の大蛇が鳥居の上へ頭を寄せた。




 粘液を纏って現れた一人の女は、やはりマムシだった


 左腕を失った裸体を苔緑のスーツが包んでいく。

 顔には以前と同じ怜悧な美貌。

 鼻には装束と同じ色の包帯らしきものが巻かれていた。

 その視線は俺に注がれている。


「イタチさん。シマが来ます」


 硫黄色の蛇が、もたりと鳥居に頭を置いた。

 その中から粘液まみれで姿を現したのは――――




 ――子供だった。




 小学校低学年としか思えない、小さな身体。

 平坦な肉体を包んでいくのは、大蛇よりもぎらついた硫黄色の装束。


 上は七五三で使われるような着物だが、丈はおそろしく短い。ほとんどミニスカートだ。

 細い腿から足首を包む黄色い皮には、黒い縦縞が何本も走っている。

 両袖も膝に届くほど長く、シルエットは紋黄蝶モンキチョウに似ている。


 黒い帯に描かれるのは黄色い彼岸花。

 首筋に届く黒髪を彩るのも、やはり黄色い彼岸花。

 履き物は手の平に乗るほど小さな下駄。


(――――)


 子供と言えど、容赦はしない。

 もちろん、油断もしない。

 俺は敬意を払う。


 今、俺の左肘から先には青い腕を接いでいる。

 掴んだものをゴムに変えるアオダイショウの腕。


 準備は既に終わっている。

 ノヅチが話し出す直前に掴み、引いていたゴムは今もぷるぷると震え続けている。


「食らえ」


 放つ。

 幟の破片が一直線に、彗星のごとくシマへ向けて飛ぶ。


 腹部を貫かれ、黄色い少女がくの字に身を曲げた。

 そしてぐらりと身を傾がせ、石鳥居から落下する。


(まだだ……)


 アオダイショウやシロマダラの例がある。

 安心はできない。

 そう思いながら、俺は落下していくシマを見届――


「ッ!?」


 鳥居の上にシマがいる。

 落ちていくシマとは別に、もう一人いる。


(何だ、あれ……?!)

 

 少女が落ちていく自分自身を見やり、それから顔を上げた。




 シマが、嗤った。




 まだ何も始まっていないと言うのに。

 ころころと稚児がそうするように肩を揺らしている。


「――――!」


 己を焚きつけようと息を吸った俺は、シマと目が合った。

 暗く淀んだ、光を持たない目。


 その瞬間、急に。

 ――――急に、母親に会いたくなった。

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