第13話 蛇の道は白斑(しろまだら)


 足裏が床を離れる瞬間、反射的に身を捻る。


 バランスを崩した身体が斜面となった床に叩き付けられ、一度呻く。

 呻きながら、斜面を滑り落ちながら、苔緑の腕を床に叩き付ける。


「こ、のっ!!」


 大きく円を描き、マムシの腕の『スイッチ』を入れる。


 みしゃあ、と。

 地盤沈下よろしく、床に深さ二メートルほどの大穴が開いた。

 サイズは座敷の半分ほど。

 溢れ出す泥水に濡れながら手を引っかける。


「う、わっ!!」

「ひえっ?!」


 落下を始めていたロッコ、シュウがゴルフボールのごとく穴に消える。

 続いてユメミ。

 三人とも、俺より船尾側に立っていたのが幸いした。


 穴へ身を滑り込ませ、三人を奥へ押し込む。


「顔引っ込めろ! ふすまと畳が来る!!」


 吠えた瞬間、半壊状態の襖の数々が敷居を離れた。

 十、二十、三十、四十。

 古びた壁からぱらぱらと剥がれるタイルのごとく、襖が船首へ落ちていく。


 固定するもののない畳は襖より速い。

 台風に煽られるようにバラバラと床を叩き、顔を伏せる俺たちの真上を通過する。


「……!」


 傾斜は既に四十五度を越えている。

 気を抜けば穴から転げ落ちかねない。 


「イタチさん。シロマダラで手一杯だったのでよく見えませんでしたが――」


 ユメミが呼吸を整えながら問うた。


「アオダイショウは『退場』で間違いないですか?」


「……ああ」


「すごかったんだよ! 俺とイタチ兄ちゃんであいつをやったの!」


 興奮冷めやらぬシュウの頭を軽く叩く。


「やったんじゃない。やられたんだよ」


「?」


 あの状況で俺にとどめを刺されたら、青と白の『腕』を奪われる。

 だから俺が近づくより先に自ら深手を負い、余力のあるシロマダラに『腕』を託した。

 自分は大蛇に呑まれて退場。


「自害された。……勝ち逃げだ」


「け、怪我人が出なかったんだから勝ちでいいじゃない」


 ロッコが慰めるように言った瞬間、船が揺れる。

 ぎりりり、と船が軋む。

 傾斜がどんどんきつくなり、穴の壁面に押し付けられる。


 六十度。

 もはやちょっとした崖だ。

 こうなったら甲板の時と同じように穴を更に――――


「う……?!」


 七十。


 八十度。


 八十五度。


「え、え、えっ?!」


 三人が狭い穴を滑り、壁面にぎゅうと固まる。


 既に船首の階段はほぼ真下。

 ばたばたという音は既に聞こえない。

 襖も畳も残らず落ち切っているのだ。


「おい。おいおいおいおい……」


 今や灯籠廻船は船首を下に九十度近く傾いている。

 俺たちが逃げ込んだ縦穴が、木のうろ同然の横穴となっている。


「し、沈んじゃう! 船が!」


「だ、大丈夫だ。ノヅチが言ってただろ。『灯籠廻船は絶対に沈没しない』って」


 俺は無駄だと分かっていながらも笑顔を繕う。


「『座礁もしない』って言ってたんだから、いくら傾いても高い場所にいれば――「イタチさん」」


 間近にあるユメミの唇が震えている。




「『転覆』は……するんじゃ、ないですか……?」




 傾斜が九十度を超える。


 がぎぎぎ、と。

 鉄を使っているわけでもない灯籠廻船が激しく軋る。

 俺たちの逃げ込んだ横穴までもが傾き、濡れた砂礫が流れ落ちる。


「ひ、ヒゲ! あああ穴! 穴もっと!」

「に、兄ちゃん落ちるっ!!」


 俺は慌てて船体を掘り進めた。

 右、前、右、前、左、前。

 クランク状に掘ったところでひと安心するが、船体はその間も容赦なく傾いていく。


 百度。百十度。

 百二十度傾いたところでロッコが顔を歪めた。

 穴の中は真っ暗だ。平衡感覚が狂いかけているのかも知れない。


(あのババア、まさかこのまま――)


 悪い予感は的中した。


 百三十度。


 百六十度。


 船はなおも傾き続け、いよいよ俺の全身が汗みずくになったところでようやく止まった。



 ――――傾斜、百八十度。



 つまり、逆さまだ。

 甲板が黒い水面に浸り、普段は水面下に隠れている船底が天を向いている状態。


 ロッコとシュウは縮み上がり、ユメミが片腕で二人を抱きしめている。

 暗く狭い穴の中、俺は壁に爪を立てた。


(あのババア、無茶苦茶やりやがって……!)


 どうする。

 ――いや、どうするも何もない。このまま耐えても状況は好転しない。

 シロマダラは延々船を回転させ続けるだろう。

 そして奴は今、『浮遊』の白腕だけでなく、『軟化』の青腕も備えている。

 安全地帯から好き放題船をひっくり返し、俺たちが疲弊したところで戦法を『奇襲』に切り替えるはずだ。

 

 達人の体捌きに二種類の能力。

 こちらの罠や障害物は無力化済み。

 この状況でシロマダラに奇襲されたらひとたまりもない。


 出るしかない。

 ここから出て、奴が攻勢に打って出る前に叩くしかない。

 その為には――――


「ロッコ。腕を替えてくれ」


「え?」


「シロマダラをぶっ潰す」


 奴は落とせない。

 なら、深手を負わせるしかない。


「え、だ、だったらマムシの手の方が良いんじゃないの?」


 一瞬、ロッコの声が横を向いた。

 おそらくユメミの顔色を窺っているのだろう。


「マムシの手じゃ攻撃しかできないだろ」


 船は今、転覆している。

 そしてシロマダラもどこにいるのか分からない。

 必要なのは無限の攻撃力を持つマムシの腕ではなく、汎用性のあるアオダイショウの腕だ。


「そいつなら壁を掴んだり、空気を命綱にできる」


「う、ん……」


 俺はマムシの腕を外し、太く青い腕を肘に接いだ。

 神経らしきものが繋がり、筋肉らしきものがなじみ、誰のものでもない腕が俺の脳に従属するまで数秒。

 手を開閉しながら、『軟化』能力の感覚を掴む。


 マムシの腕を手にしたロッコは穴を掘り進め始めていた。

 だぶ、だぶぶ、と船内が溶ける。

 向きは間違っていない。

 このまま掘り進めば『さっきまで船底だった甲板』に辿り着ける。

 うまくすればそこでシロマダラと接敵できるかも知れないし、そうでなくとも外の状況が分かる。


「イタチさん」


 ユメミがすぐ傍に立っていた。

 糸目が薄く開く。




「今のままだと、イタチさんは負けます」

 



(……)


 言われなくても分かっている。

 シロマダラは強「強い弱いの話じゃありません」


「?」


「自覚されていないと思いますけど、イタチさんは少しでも優勢になると極端に動きが鈍くなります」


「……」


「自衛でないと戦えない人なんです、あなたは。殺意も決意もまったく長続きしない。……本気で誰かと喧嘩したこと、ないんじゃないですか?」


「――――」


 ない。

 確かに、ない。

 だが、それは当たり前だろう。


 今のこのご時勢、誰かと本気で喧嘩したことのある奴がどれほどいるんだ。

 ユメミの言う『喧嘩』は対立や軋轢をきっかけとする口論や感情のぶつけ合いではない。

 殴り合い、掴み合い、取っ組み合いの喧嘩。


「……俺はこう見えても優等生だったんだよ。喧嘩なんてするわけないだろ」


 キレることはたまにあった。

 でもそれは、人が見ていない場所でだけだ。

 八つ当たり、ヒステリー、逆ギレ。どれもこれもみっともない振る舞いだ。

 まして暴力なんて。


 ユメミは静かに目を閉じ、そして開いた。




「人を殺したことはありますか?」




 心臓に冷たい釘を突きつけられるような感覚。

 ロッコの手が止まり、シュウが息を呑んだ。


「……あ、あるわけないだろ」


「コツを教えてあげます」


 顔を近づけたユメミが、目を薄く開く。

 能面に似たおぞましい女の顔。


「相手を『材料』だと思うんです」


「……!」


 脳裏に浮かぶのは、ガラスケースに収められた少年少女の姿。

 花とシリコンオイルで漬けられた人間。


「じたばたともがく鶏を絞め殺す時は、出来上がった煮つけの味を考える。悲しい声を上げる牛を殺す時は、その肉を食べて喜ぶ家族のことを考える。これが屠殺の心得です」


 ユメミは歌うように続けた。


「人間も同じです。殺すために殺そうとするから負担を感じたり、躊躇したり、感情に振り回されるんです。相手がただの『材料』なら、殺した後に『お楽しみ』が待っている。『お楽しみ』があれば、人殺しはただの『作業』になる」


「作業……」


「作業に怒りは要りません。自分を発奮させる必要もない。『殺し』を過程に置き去れば、誰でも鬼になれる」


 怖気は感じなかった。

 ただ、胃の腑で疑惑が確信に変わる。


 ユメミの正体は――「イタチさんは」


 俺の思考を寸断するかのように言葉が刺さる。


「ヤツマタ様が憎いわけではないし、ヤツマタ様を排除するためにここに来たわけでもない」


「……ああ」


「なら、その先を考えてください。彼女たちを死なせることも、勝つことも、ただの『過程』です」


「……」


「闘志も決意も経験も要りません。無事に戻りたければ、一振りの刀のように振る舞ってください」


 ユメミは会話を打ち切り、ロッコに向き直った。


「穴が外に繋がったら私とイタチさんで迎え撃つから、二人は奥に隠れていなさい」


 大丈夫、と慈愛に満ちた声が続く。


「必ず私が二人を護るから」






 静かに、船底に穴が開く。

 指一本分。

 拳一つ分。

 頭一つ分。


 ――人間一人分。


 泥水を浴びながら、俺とユメミは船底へ飛び出す。

 木造船の船底は、俺が思っているほど急なV字型ではなかった。

 百三十度ほどの緩やかなV字で、問題なく立つことができる。


 宵闇には白い雪が降り注いでいる。

 羽毛のように軽いそれは温度を持たず、俺の肩に触れては消える。


 山伏姿のシロマダラはこちらに背を向け、片膝をついていた。

 今にもその手が船を傾けようとしている。


「ババア!」


 ゆっくりと振り返った老婆の左腕は白く、右腕は青い。

 日焼けし、半分が爛れた顔。

 猛禽の鋭さを持つ瞳が俺とユメミを見据える。


「来たぞ。あとはお前だけだ……!」


 老婆は白い手を掲げた。

 しるる、と。

 唾液に乏しい、長く乾いた舌が手の中から覗く。


「イタチさん。作戦通りに」


「……。ああ」


 短時間だが、策は練った。

 二色の腕を持つシロマダラをいかに討つか。

 奴は確かに強いが、二人がかりなら――――


 老婆が青い腕を掲げた。

 

「! 来るぞ!」


 俺とユメミが身構えた瞬間、シロマダラは――――




 ――シロマダラは、船底に触れた。



 

(?!)


 想定していたどの攻撃パターンとも違う。

 シロマダラが初手で船底を掴むのは予想外だ。


 みにいいい、と。

 餅のごとく船底が伸びる。

 老婆は軟らかくなった木材を掴み、走り出す。


「気を付けて! 何か飛ばして来るつもりです!」


 非力なロッコや傷ついたアオダイショウと同じ戦法。

 ゴム状にした物体に矢を番える気だ。

 俺は盾を作るべくユメミの前に出た。

 こちらも空気を掴み、ゴム状に変える。


(撃ってみろ……! 跳ね返してやる……!)




 シロマダラは。

 十分に伸ばし切った船底の板切れを、ぱっと手放した。




「え……」


 ばがん、と。

 本来弾力を持たない船底の木材が、大きく割れた。

 船底には大穴が開き、大小まばらな木材、木片が船側を滑り落ちて行く。


 シロマダラはその中で最も大きな板切れを掴んだ。

 ファミリーレストランの卓ほどもある一枚。


(まさかあれを武器に――)




 跳躍。




 板切れを抱えた白い矮躯は、俺たちに背を向け、船の外へ跳んだ。




「はあ?!」

「っ」


 ふっ、ふっ、ふわっ、と。

 風に煽られる綿毛のごとくシロマダラが跳ぶ。

 おそらくもう片方の手で空気を『浮かせて』いるのだろう。


 老婆はそのまま、雪の降る闇に消えた。


「……逃げた、のか?」


「そんなはずは――――っ?!」


 船が揺れる。

 否、傾く。

 俺とユメミは膝をつき、元来た穴の縁を掴んだ。


「あいつ、まさか――――」


 俺は傾きつつある船底の端まで走り、そして見た。

 

 遠く見える白い山伏。

 シロマダラが灯籠廻船の下に広がる黒い『闇』に浮いている。

 足場は先ほど持ち出した船の切れ端だ。

 そして白い片手をこちらに向けている。


 安全地帯からの一方的な攻撃。


「あンの野郎……!」船が傾き、俺は穴の方へ滑り落ちる。「クッソ汚い手使いやがって!!」


 切れ端が次々に船底を滑り、闇に落ちていく。

 傾斜がきつくなり、穴からはロッコとシュウの悲鳴が聞こえる。


 まずい。

 このままだと本当に一方的にやられる。


 問題はシロマダラが好き放題船を傾けていることではない。

 逃げの一手を打ったことだ。


 こうなると追い回しても延々逃げられる。

 追うのをやめれば、疲弊するまで船をひっくり返される。

 ゲームでいう『ハメ技』。

 格式ある言葉を使うなら、『詰み』。


「イタチさん! いったん穴に入ってください! 策を練り直しましょう!」


 ユメミは既に穴に滑り込んでいる。

 俺は踵を返そうとし――――その場に踏みとどまった。


 嫌な予感がナメクジのように背筋を這う。


「……ダメだ。あいつは今ぶっ飛ばさないとまずい」


「……?」


 俺はじっと船の外を見た。

 灯籠廻船の往く道に広がる、コールタール状の闇を。


「下……あの黒い『闇』。『浮かせる』能力が効くんじゃないのか」


「……!!」


 シロマダラの能力は空気にも作用した。

 自分自身にも作用した。

 なら、眼下に広がる『闇』にも効くのかも知れない。

 生でも死でもない場所へ続く『闇』にも。


「あいつがアレを浮かばせたらどうなる……? この高さまで浮かび上がってきたら……」


 転覆した船が沈んでいく様子はない。

 この状況で船内に流入していないということは、『闇』は俺たちの知る『水』とは性質が異なるのかもしれない。


 俺はシロマダラを注視した。


「……あいつ、自分の能力を船を浮かす方に使ってる。足場は能力で浮いてるわけじゃない。……ってことは、灯籠廻船の素材は『闇』に浮く性質があるってことだろ、たぶん」


 よく見ると大量の木片も水面に浮いている。

 ノヅチの『決して沈没しない』という話とも繋がる。


「あいつにはまだ心の余裕がある」


 何せ足場が沈まないのだから。

 落ち着いて船だけをひっくり返し続けることができる。

 ――遠からず、『闇』を浮かび上がらせての攻撃もできると気づく。


 そうなった時、何が起きるのかは分からない。

 ただ、回転する船への対応でいっぱいいっぱいの俺たちにとって、更なる攻撃は命取りだ。


 奴はまだ、必殺の牙を隠している。

 今ここで仕留めなければ、全滅する。


(――――)


 俺はシロマダラと同じように船底を掴み、長く伸ばした。

 十メートルも、二十メートルも伸ばす。


「ユメミさん」


 手を離す。

 ががづん、と破壊が起きる。

 スノーボード大の破片が散る中、俺はとりわけ大きな畳一枚分の木材を捕まえる。


「俺も降りる」


「?!」


 船は停止しているようだ。

 それにアオダイショウの腕もある。

 万が一木材が浮かなくても、戻って来ることはできる。


「私は――――。……分かりました。残ります」


 片腕のないユメミが船の下へ降りることはできない。

 それに二人で降りればシロマダラはまた逃げる。

 最悪の場合、子供たちを狙う。


 俺一人なら、逃げるより仕留めた方が効率が良いと判断するだろう。

 戦闘の機会が生まれる。


「援護できれば、そうします」


「ああ。頼む」


 折良く、船が傾いていく。

 進行方向が沈んでいく。


 大きな木片を抱え、船べりに片脚を乗せる。

 震えが来る。

 臆病風が吹く。


 息を吸い、己を焚きつけ「イタチさん」


 ユメミが目を薄く開く。


「『作業』です。『戦い』じゃありません。それを忘れないでください」


「……」


 俺は一度目を閉じ、開く。


「違う」


「?」


「これは『戦い』だ。『作業』じゃない」


 マムシ。カガチ。アオダイショウ。

 一切言葉の通じなかった女たちの顔が脳裏を過ぎる。

 俺自身の傲慢さゆえに味わった辛酸が舌と心に蘇る。


 『ヤツマタ様を倒した後のことを考えろ』。

 ユメミの言い分は正しい。

 俺はこの傲慢さを抱えたまま外の世界へ戻るわけにはいかない。


 己の未熟に目をつぶり、一振りの刀と化して彼女達を屠る。

 それはおそらく『勝利』ではない。


「俺は殺人鬼じゃない。人殺しの心得なんていらない」


「……」


「俺は敬意を払う」


 二言三言を交わす。

 船が傾き、ユメミの息遣いが聞こえなくなる。


 




 傾斜が四十五度になったところで、斜面を滑走する。



  

 横に倒れて行く船。

 



 時折空気を掴み、速度を調整する。




 闇が近づく。




 黒い水面を木片が叩く。




 シロマダラが顔を上げる。







 ぱちゃん、と。

 思いがけず軽い音と共に木片が水面を打った。


 木材は、まるでぴたりと貼りつくように水面に浮いている。

 近くで見ると闇は意外なほど透明度があり、その下の世界が透けているようにも思えた。

 船を蹴り、俺も飛び乗る。


 テーブル大の足場に乗るシロマダラが俺を見つめている。

 奴は滑走の途中からこちらに気付いており、俺の着水点から程良く距離を取っている。

 距離は20メートルほど。


「よお。また逃げるのか?」


 一瞬船を見た老婆は、ゆっくりと左右の手を開閉させた。

 驕りは感じられない。

 ユメミの援護がないことを確認したシロマダラは、ここで俺を仕留めることに決めたらしい。

 老婆の覚悟で空気が張り詰める。


(――――)


 丹田に力を込め、酸素を取り入れる。

 湿りかける心に火を点ける。




 ――――『三手です』。


 別れる時に放られたユメミの言葉が蘇る。


 ――――『三手交えて勝てなければ、イタチさんは殺されます』。


 三手。

 武の心得を持たず、武器を持たず、闘志に乏しい俺がシロマダラと打ち合えるのは、たったそれだけ。

 そこから先はほぼ一方的に袋叩きにされる、とユメミは告げた。

 これまでのヤツマタ様との戦いを鑑みるに、過不足ない評価だ。


 なら、三手以内で討つだけだ。





 老婆が身を伏せた。

 白い腕が水面に置かれる。


「!」


 ぼこん、ぼこん、と。

 輪郭の不安定な、黒く丸い球体が浮かび上がる。

 シャボン玉のように軽やかに浮かぶそれは、浮遊する『闇』。


 はらら、と。

 薄く軽い音と共に老婆の腰の扇子が開かれる。


 紙片の蝶をはばたかせるがごとく、シロマダラが黒い球体に風を送る。

 揺れる黒い球体は無作為に散った。

 いくつかは灯籠廻船にぶつかり、墨汁のような飛沫を散らして割れる。


 白い腕は水面に置かれたままだ。

 黒いシャボン玉は次々に生まれ、俺の方へ飛んでくる。


「……!」


 説明されるまでもなく、直感で理解できる。 

 触れると何かまずいことが起きる。

 これは『機雷』だ。


「この期に及んで――」


 アオダイショウの腕で空気を掴み、引く。

 ロッコよりも広く大きい、きし麺に似たスリングショット。


「せこい真似してんじゃねえよ……!」


 ばつん、と。ゴム状の空気を離す。

 巻き起こった風で黒いシャボン玉の幾つかがあらぬ方向へ飛んでいく。


 シロマダラが目を細める。


「来ないならこっちから行くぞ!」


 ゴムの空気を掴み、引く。

 掴み、引く。

 命綱を手繰り寄せるような動きで、俺はシロマダラの乗る木片へ近づく。




 ぼっ、と。


 すぐ傍で薄墨色の球体が爆ぜた。




「!!」


 空気の命綱がちぎれ、バランスを崩しかける。


(今のは……!)


 黒い泡だ。

 引き延ばした『空気』があれに触れたのだ。

 その瞬間、爆発のようなものが生じ、軟化させていた空気が『消えた』。

 

 あの黒い球体に触れると、破壊が生じるらしい。

 より正確に言えば――――


(触れた部分が『連れて行かれた』……)

 

 そう表現するしかなかった。

 この世でもあの世でもない『闇』に触れたものは、『連れて行かれる』のだ。

 それを免れ得るのはおそらく、灯籠廻船とヤツマタ様のみ。


 辺りには今や雪よりも多くの黒いシャボン玉が浮遊している。


「邪魔くせえ……!!」


 俺は身をできるだけ縮め、『ゴム化空気』で文字通りの露払いを繰り返す。

 ぼっ、ぼぼっと空中に灰色の破裂音。


 シロマダラが青い腕を宙へ伸ばし、俺とほぼ同じ動きで空気を引く。

 見えないロープが手繰り寄せられ、距離がぐんぐん縮む。

 卓一枚の木材と畳一枚の木材が、一対の闘鶏さながらに近づく。


 黒いシャボン玉が更に散る。

 俺は機雷を潰す方に力を注がなければならず、シロマダラに先制攻撃を仕掛けることができない。


(クソッ……!)


 10メートルを切ったところで俺は露払いをやめた。

 青腕を構え、老婆を見据える。

 白い雪と黒いシャボン玉。


(三手……)


 7メートル。

 6メートル。

 5メートル。


(三手……!)


 老婆の乗るテーブル大の木片と、俺の乗る畳大の木片がごつんとぶつかった。

 それを合図に、矮躯が宙を踊る。


 白い残像を残しながら一度。

 己の能力で緩やかにもう一度。

 緩急を交えた二段ジャンプ。


 俺の動体視力が追い付く頃には既に、脚が振り上げられていた。


「っ」


 放たれた蹴りは鋭く重く、正確に俺の側頭部を直撃する。

 何の備えもなければ意識がブラックアウトしていたかも知れない。

 

 備えなら終わっている。

 俺の手は既に俺の胸を噛んでいる。

 掴んだものを軟らかくするアオダイショウの手。


「……!」


 中身の詰まった頭部が、ゴム紐つきのサッカーボールよろしく蹴り飛ばされる。

 首が、骨が、筋が、数メートルも伸びる。

 俺自身の胴体が遠ざかっていく。

 熱と痛みは薄い。感じるのは強い衝撃だけだ。


「一手!!」


 伸びきった俺の口から声が飛び出す。

 右足をふりかぶり、文字通り鞭のごとくしなる蹴り。


 威力は大したことがない。

 何せ首が伸び、バランスが崩れている。

 踏み込みも浅い。ダメージは期待できない。


 それでいい。


 ゴム化した俺の脚は、ぐににん、と縄のごとく老婆の脚に絡んだ。

 蹴りを放った直後の硬直を突かれ、シロマダラは空中に縫い止められる。


「浮かせねえッッ!!」


 シロマダラの『浮遊』は応用力が高すぎる。

 攻撃、回避のいずれにも利用でき、闇への落下すら無効にできる。

 これを潰さない限り、俺に勝機は無い。


 老婆は一度白い手を下に向けた。

 が、今浮けば俺までついて来てしまう。

 一瞬、シロマダラが思考で身を硬くする。


 伸びきった首が、ばちんと戻る。

 俺自身を噛むアオダイショウの手はまだ離せない。

 今離せば巻き付いた脚が元に戻り、破壊されると同時にシロマダラが拘束を脱してしまう。

 使えるのは人間の右手だけ。


 二手目は決まっている。

 ズボンの背中側に挿していた棒切れを掴む。

 アオダイショウが残した幟の破片。

 俺の肉体に『付随した物体』であるため、軟体化の影響は受けていない。


「喰ら――」




 シロマダラが青い手で己を掴んだ。




「!」


 ぐにゃりと軟体動物のごとく歪んだ老婆が、俺の脚による拘束を脱する。


 更に白い腕が矮躯を噛むのが見えた。

 浮いて逃げるつもりだ。

 

「浮かさないってっっ!!」


 俺は幟を『弦』に番えた。

 肘を曲げて俺自身の肉体を噛む左腕が『弦』だ。


 肘が逆方向に軟らかく曲がる。

 弦は胸の高さから腰へ伸び、斜め上方を睨む弓矢と化す。


「言ってるだろッッ!!」


 即席の弓矢から、先端の鋭い幟が飛ぶ。

 空中へ逃れる老婆を追う木片の一撃。

 これが『二手目』。


 シロマダラはこれを体捌き一つでかわして見せた。

 白い魚が揺らめくような回避。

 俺には決して真似できず、想像すらできない達人の動き。


 幟が矮躯を掠めて飛び、シャボン玉に触れて消滅する。


「……!」


 ばちんと脚が戻る。

 もう弾力化している部位はない。

 これで両手を自由に使える。


 だがシロマダラは空中へ逃げている。

 なら――――


「三――」




 はららら、と。

 扇が開く。




(!)


 大きく振り抜かれる腕。

 黒いシャボン玉が一斉に俺目がけて降り注ぐ。


「うっ、おっ?!」


 俺はゴキブリさながらに身を伏せ、逃げ場を探す。

 無い。

 逃げ場など、どこにも。


「クッ、ソッ!!」


 這ったままシロマダラが乗って来た木片へ移り、天へアオダイショウの腕を翳す。

 ばちん、と。ゴム化空気による露払い。

 シャボン玉が四方八方に散らばる。


「!」


 シロマダラが白い腕で自分の身を噛む。

 浮遊。

 灯籠廻船の中ほどか、それ以上の高さまで。


「……っ!」


 仕損じた。

 浮遊を許してしまった。

 ここからシロマダラは逆襲に転じる。


 高らかに浮遊した老婆は真下を見た。

 視線の先には俺が乗って来た畳一枚ほどの板切れがある。


 シロマダラはふっと浮遊をやめた。

 そして白い残像を残しながらそこへ着地―――――




「三手目」




 俺は青い手を思い切り伸ばし、畳一枚の板切れに触れた。




 要因は、いくつかある。


 俺が「浮かせない」「浮かせない」と口にしたことで、シロマダラが不必要に高く浮いてしまったこと。

 俺の長躯が彼女の乗って来た木片を独占していること。

 身を伏せた俺に落下攻撃すれば『落闇』の危険性があること。

 お互いにアオダイショウの腕を持っている状況では、飛び道具が無効になること。

 ほとんどの武術において『必殺の一撃』には強い踏み込みが必要であること。


 そして――――




「『気持ち良く』――能力を使ったな」


 畳一枚の板切れがゴムへと変わる。

 高所から高速で落下するシロマダラはもう止まれない。


 空中綱渡りから落ちた雑技団が、セーフティネットに落下するように。

 あるいは、ゼラチンに弾丸がめり込むように。

 ぐにいいい、と。

 弾力化した一畳の木片に、着地した老婆が沈んだ。


 シロマダラは木材のゴム膜に包まれたまま、闇の中へ。


「あんたの負けだ」


 アオダイショウの手を離す。

 伸びきった木片のゴム化が解除され、老婆を飲み込んだ木材が闇の中で破砕される。


 どぷん、と黒い水面が小さく盛り上がった。


 やがてそれも消え、後には静寂が残された。

 










「ふー……」


 小さな木材の上で戦いの余熱を冷まし、転覆した船を見やる。

 

(どうするんだ、これ)


 アオダイショウの腕を使えば甲板に戻ることはできる。

 だが船を元に戻すことは――


(っ!)


 何かが俺の上に影を落とす。

 ――――純黒の大蛇。


 三人目のヤツマタ様。

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