第8話 蛇の道は鬼


 シュウとノヅチが向かい合っていたのは、浸水被害の少ない座敷の一つだった。


 乾いた畳の匂いの中で、死者たちが将棋の駒を振り合っている。

 そのただ中に、俺は踏み込んだ。


「おいノヅチ!」


 狐の半仮面とシュウが振り向く。

 子供の額に押し当てられていたノヅチの手が、すっと引かれる。


「あら、ヒゲさん。どうかなさいました?」


「ユメミさん! よろしく!」


 すっと前に出たユメミが片手で合掌のポーズを取る。


「色即是空空即是色……」


 ユメミが経を唱えた途端、客室のあちこちから「じゅわあ」と鉄板が焼けるような音が聞こえる。


「あ、あ、あ、ちょっとちょっとちょっと!」


 慌てた様子でユメミに駆け寄るノヅチとすれ違う。

 ずかずかと座敷を横切った俺はシュウに顔を近づけた。


「兄ちゃん……」


「よう。おかげさまでカガチはぶっ倒せたぞ」


 シュウは僅かに嬉しさを覗かせたが、すぐにバツの悪い顔でうつむく。


「ノヅチなんかと喋ってないで「シュウ!」


 ロッコのふわふわ髪が俺の前に割り込んだ。


「馬鹿なことやめて! 死んだらダメだよ!」


「……」


「ロッ「こいつあんまりアテにならないけど、自分から死ぬのは違うって思うの! ねえヒゲ?」」


 水を向けられた俺は頷き、口を開いた。


「もちろんだ。その「いい? 生きていたら必ず良い事が」」


 キンキン声を間近で聞かされたシュウは露骨に迷惑そうな顔をしていた。

 俺がロッコの肩に手を乗せたところで、今度はノヅチの声が飛んでくる。


「ええ~? 今さらやめられるんですか?」


 直前キャンセルを喰らった旅行代理店さながらの声音。


「アタシにも一応、心の準備があるんですよ? 猫の目じゃあるまいし、気分でころころ生き死にを決められちゃ困「ユメミさーん」」


「はーい。般若波羅蜜多……」


「ちょおっっ!! ちょっとやめてくださいって!」


 ユメミは一瞥を残し、ノヅチを連れて座敷を出て行く。


「ロッコ。お前も出てろ」


「はあ?! 私が居た方がいいに決まってるでしょ?」


「決まってねえよ。その『手』でやらなきゃならないこと、他にあるだろ」


 俺は苔緑の腕が生えたロッコの左腕を示す。


「空気を溶かして、堀に水を足しといてくれ」


「それはアンタがやればいいじゃない! ほら、この腕返すから!」


「……俺、一応、子供いるんだぞ?」


 嘘は言っていない。

 産婦人科が子供だと言っているのだから、それは子供だ。


「あ、そ、そうなの?」


 マムシの腕をむしり取ろうとしていたロッコが動きを止める。


「そうですよ。お父さんですよ」


「あーうん。ならいい。任せる」


 この子もだいぶ昔気質らしい。

 子供がいるからと言って、責任ある大人だとは限らないだろうに。


 だが都合は良い。

 このキンキンうるさいのが一緒だとシュウも話しづらいだろう。

 相手の話もろくに聞かず、いきなり自論を語り出すような輩は同席させない方がいい。


 シュウは子供だ。

 子供にだってプライドはある。

 それは尊重されるべきだ。


 俺はロッコの背中を見送り、乾いた畳に腰を落とした。

 あちこちがずきずき痛むが、慣れてしまえばどうということはない。

 痛みより不安の方が恐ろしい。


「俺たちじゃヤツマタ様に勝てそうにないから、先に死んじまえ……って感じか?」


「……」


 信頼されていないことに対して、怒りや屈辱は込み上げなかった。

 ――俺は弱い。そこをごまかすつもりはない。


 マムシとカガチはどうにか退けることができたものの、まだ二夜だ。

 航海はあと五夜も残っている。

 そのすべてを勝ち続けなければ、皆、闇の底。

 運が良ければマムシのような奴の手にかかって死ねるが――だったら初めから死んでおいた方がマシだ。

 シュウがそう考えるのも無理はない。

 

 無理はないが、不自然さはある。

 シュウはまだランドセルを背負う年齢だ。詳しく聴いたわけではないが、八歳か九歳ぐらいだろう。

 この年頃の子どもが弱気になったからとていきなり『死』を選ぶだろうか。


 友達。家族。学校。

 元の世界でシュウを待っているものは山ほどある。

 この年なら恋だってするだろうし、夢だって持っているはず。

 恐慌に駆られたとは言え、それらをこうも簡単に捨てられるだろうか。

 

 少し違和感がある。


「俺が弱いってのは、俺自身が一番よく分かってる。不安になる気持ちも分かる」


「……」


「でも、弱いからって負けるとは限らない。勝ち負けに強さは関係ないんだよ」


 死者たちの振る駒を見る。


「将棋、知ってるか? 歩兵だってちゃんと動かせば飛車を食えるし、酔っ払いみたいな桂馬が鉄壁の守りを破ることもある。そういうもんだよ、戦いって」


 シュウは座ったまま膝を抱えた。


「……。……怖い、のもあるけど」


「あるけど?」


「……」


 シュウは唇を噛むようにして引き結ぶ。


「誰にも言いやしねえよ」


「……本当?」


「言って何になるんだよ。シュウの秘密をばらしたら、シュークリーム引換券にでもなるのか?」


 考え方は色々あるだろうが、俺は自殺に対して寛容だ。

 他人を巻き込んで自爆するような形でなければ、自分の命をどう処理しようとそいつの勝手だ。


 死にたい奴は死ねばいい。

 大人だろうと子供だろうと、それは変わらない。

 シュウが本気で死にたいのなら、死なせてやればいい。

 なぜなら死ななければ解決できない悩みというものが、この世には確かに存在するからだ。


 難病。借金苦。罪の意識。愛の喪失。

 そうした悲哀や絶望を抱えた人間に、『何が何でも生きろ』と言うのは無責任だ。

 頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、それでもダメなら死ねばいい。


 人は人が思う程タフに造られてはいない。

 どこかで誰かが勘違いしたらしいが、「生きること」は難しい。


 今は多様性の時代だ。

 どこかの国では安楽死だってできると聞く。

 人には死ぬ自由がある。

 死にたい奴は死ねばいい。



 ――だが、その原因が単なる『悲観』なら話は別だ。



「何か帰りたくない理由でもあるのか?」


「――――」


「聞くよ。死ぬのはその後でもいいだろ? っつうか、後で連絡先やるよ。ここから戻った後でも、全然電話してくれていいんだぞ」


「……」


「車持ってるからな、俺。バイト休みの日なら、マジでどこでも連れて行くぞ。海でも山でもゲーセンでも――」


 風俗でも、と言いかけてやめる。

 ――さすがにちょっと早いだろう。


 死にたい奴は死ねばいい。――人事を尽くした後でなら。

 悲観のあまり自分がどん底だと思い込んでいるだけなら、何とかしてやりたい。


「いじめられてるとかか?」


 シュウは首を振った。

 予想した通りの反応だ。

 いじめられている奴に特有の疲労感や無力感をシュウからは感じなかった。


(この年の子でいじめじゃない、となると――)


 俺は自分の子供時代を振り返る。

 この年の頃、俺は何に悩まされていただろうか。

 自殺を考えるとしたら、一体何が原因だろうか。

 

「……親か?」


「っ」


 図星らしい。


 使命感のあまり、身体の芯が熱を帯びた。

 親に悩まされている子どもは助けてやらなければならない。


「喧嘩したのか?」


 俺がずいと前のめりになると、シュウはややたじろいだ。


「ううん。喧嘩は……してない」 


(……喧嘩「は」、か)


 だが衝突はあった、ということか。


 何だろうか。この年の子が。

 シュウは多少腕白なように思えるが、悪童タイプではない。

 度を越えたいたずら、という感じではなさそうだ。


 寝小便か。あるいは宿題をしなかったとか。

 ――――そんなことで死にたくなるほど悩むだろうか。


(……もしかして、虐待とかか?)


 ありえないだろう、と思いながらもさりげなくシュウを観察する。

 顔。あざはない。

 唇。ここも大丈夫。

 

 袖をまくりあげる。――――打撲痕。


「! お前っ! これ、親にやられたのか?!」


「そんなわけないじゃん。さっき赤い奴に蹴られた時だよ」


「あ、そっか」


 シュウは膝を抱えたまま、深い溜息を吐いた。


「タバコ」


「……タバコ?」


「タバコ、買いに行けって言われた。それで、イヤだって言ったら」


「……。殴られた?」


 ふるふるとシュウが首を振る。


「『じゃあもう一生、お前の頼みも聞いてやらない』ってお父さんに言われた」


「ほー……」


 そもそもシュウ一人では買えないだろうに。

 成人識別カードを持たせても、コンビニならレジで弾かれる。

 ――いや、ここは田舎だ。まだタバコを取り扱っている個人の店があるのかも知れない。

 などと、埒もないことを考える。


「それで?」


「……」


「……。……あー……それで、帰りたくない、のか」


 死にたくなるほどの悩みに軽重はない。

 とは言え、これは――――


「一回だけじゃない! いっつもそんなのばっかり……!」


 シュウの目に湿った怒りが見えた。


「叔父さんにあいさつできないからお年玉あげないとか、お帰りなさいがお母さんより遅いから晩ご飯抜きとか、掃除してないからお風呂入るなとか……オレ、そんなの言われても知らねーし! 教えてもらってねーもん! しかも笑いながら言うんだよ?! いっつもいっつもいっつもいっつもさあ!」


 まくし立てるように言い連ねたシュウは、唾を吐くように続けた。


「お父さん、嫌い! 死ねばいいんだよ」


「……。お母さんは?」


「お母さんはもっと嫌い!!」


 声のトーンが上がったことで俺はやや驚いた。


「お父さんの前では何も言わないくせに、後でオレにだけ色々言うの!」


「!」


「お父さんにぐちゃぐちゃ言われた後で、お母さんもぐちゃぐちゃ言うんだよ?! ばかじゃねーの?! オレが悪いときはいいけどさ、お父さんが悪い時もあるんだよ?! だったらちゃんと言えって思うじゃん! お母さん、本当はすげー怖いのにお父さんは甘やかすんだよ!」


(あー……)


「なんかお父さんが俺に意地悪するのはきょーいくだとか、試してるとか言うんだけどさ、そんなのウソだってわかってるし! お父さん、仕事が忙しい時ばっかり怒るんだよ! ただムカムカしてるだけじゃん! 八つ当たりだって分かってるのにお母さんはお父さんの味方するんだよ!」


「……」


「八つ当たりしたり仲間外れにするんなら、オレなんか生まなきゃ良かったじゃん! ちゃんと育てられないなら、お父さんもお母さんも家族なんかならないで一人で生きてればいいんだよ!」


「……」


「あの家もうやだ! 帰りたくねー! みんな死ね!! じゃなきゃ俺が死んでやる!!」


 それは子供の吐く炎に過ぎなかった。

 だが炎には違いない。

 不用意に刺激すればこっちが火傷をしてしまう。


 俺はシュウが落ち着くのを待った。

 何か気の利いた言葉を掛けようかと思ったが、出て来たのは咳に似た笑いだった。


「? 兄ちゃん……?」


「あーいや。笑ったんじゃねえよ。……分かる」


「?」


「ウチもそんな感じなんだよなぁ」




 父は俺が小学校に入る頃に会社から独立し、起業した。

 とっくに使われなくなったが、当時の言葉だと『脱サラ』だ。


 ただ、特にやりたいことがあったわけではないらしく、勤めていた会社とほぼ同じ業種の仕事を始めた。

 小さな工場で細々と皮革製品を作る製造業。


 独立してすぐに父は苦境に立たされた。

 ――当たり前だ。

 弁当屋に勤めていた奴がある日突然独立して、近場に弁当屋を開いたらどうなるか。

 客が来なくて潰れるに決まっている。


 後になって知った話だが、父は勤め先の上司と喧嘩別れしたらしい。

 要はプライドが高すぎてサラリーマンも務まらない奴がノリと勢いで起業して、あっさり事業が暗礁に乗り上げたというだけの話。


 あえなく会社は倒産し、父はアルバイトを始めた――――なんてことにはならなかった。


 家庭内における父の方針はシンプルだった。

 『俺はすべてを投げ打って家族を愛するから、家族もすべてを投げ打って俺を愛せよ』。


 父は定年を迎えた祖父母に仕事を手伝わせた。――――無料で。

 母も仕事が終わるとそれを手伝った。――――無料で。

 当然、祖父母や母の個人的な貯金も根こそぎ父の事業に注ぎ込まれた。


 俺もだ。

 中学と高校の長期休暇はすべて父の事業の手伝いに費やされた。

 朝九時から夜六時までばっちり労働して、終わったら宿題。


 訳の分からない金属のリングをシャフトにくっつけ、ハサミで糸を切る。

 祖父母がおぼつかない手で半田鏝はんだごてを操り、父がせっせと梱包して出荷する。


 不幸では、たぶんない。

 親父は酒乱やアル中ではなかったし、俺や家族の誰かを殴ったり、声を荒げることもなかった。

 たまには一家で海外旅行に行くこともあったし、きちんと手伝いをしていればまとまった小遣いも支払われた。


 世間一般で言うなら、「普通」に分類される暮らし。

 ただ、「普通」なりの苦しみはあった。


 父は誰も傷つけなかったが、誰かに礼を言うこともなかった。

 手伝ってくれてありがとうとも、疲れているのにごめんなさいとも言わない。

 家族が家族を助けるのは当然だ、というのが父の方針だったからだ。


 長期休暇の間中仕事を手伝った俺は、一万円札が数枚入った封筒を渡されただけ。

 礼はなく、謝罪もない。

 もしかしたらそれが当たり前なのかも知れないが、俺の心は濁った。

 俺は教え聞かされた「正しい道」と父の言動の間にギャップを感じ始めた。


 その暮らしは、俺が高校を卒業して一人暮らしを始めるまで続いた。

 俺が家を去った後は妹が同じことをやったらしい。


 やがて父の事業は軌道に乗った。

 古巣の会社が潰れ、取引先がごっそり父の会社に流れたからだ。


 父はパートを雇って、工場を新築した。

 賢い節税を学んだらしく、領収書について細かいことを言い出した。

 手取りはせいぜい三十代のサラリーマン程度だったが、所得水準の低い田舎では小金持ちだ。

  

 そして前にも増して増長した。


 社長、社長と呼ばれることが心地良かったのだろう。

 祖父が死に、祖母は老い、父は家でも会社でも王様だった。

 家族のものは俺のもの。

 俺のものは家族のもの。

 その方針は決して間違ったものではない。

 だが将来について悩み始めていた俺は、大学の長期休暇まで潰されそうになり、気分を害した。


 俺の時間はお前のものじゃない。

 俺はお前を喜ばせるために生きてるわけじゃない。

 家族の時間を消費しておきながら詫びも感謝もしないヤツのことは、もう手伝わない。


 暗にそう伝えると、父がキレた。

 それからしばらく音信不通の日々が続き――――俺は大学を卒業して、フリーターになった。

 イエスマンとして育てられた意趣返しのような就職失敗。

 

 フリーターになってから、一度帰郷したことがある。

 親の悲しむ顔を見るためだ。

 ――悲しむ羽目になったのはこっちだった。


 煙草の臭いの染みついた家と工場。

 世の中には「俺が理解できるもの」と「理解するに値しないもの」しかないと固く信じている父親。


 セクハラなんて言葉、俺の時代にはなかった。

 パワハラだの何だのという言葉が流行っているのは、若い奴らに根性がないからだ。


 テレビは真実を語る水晶玉で、ネットは暇人の呪言が垂れ流される野蛮な幻。

 動画や写真を全世界に発信する行為は究極の自己満足。まったく無価値な、愚か者の振る舞い。

 あんなことをするぐらいなら、街に出て酒を飲み、人脈を築くべきだ。


 マイホーム。

 キャバクラ。カラオケ。パチンコ。ゴルフ。

 車。時計。革靴。

 幸せな人生を語る時には、こうした言葉が欠かせない。


 二十年前から何の進化もできなかったオッサン。

 SNSでしばしば嘲りの的になる、『老害』。または『昭和の負の遺産』。

 ――それが俺の父親だった。




「今日……ってか、昨日か? 帰ったら、親父がますます古くなっててさ」


 俺は息子の万引きが露見した父の気持ちで呟く。


「頼んでもねえ人生訓垂れるわ、聞いてもねえ近況語り出すわ、何歳までにあれやってないとダメとか言い出すわ……」


 俺に「正しい道」を教えてくれた父は、凡夫だった。

 いや、それ以下だ。


 いっそ酒乱のアル中なら、反骨心で俺はたくましく育っただろう。

 だが、違った。

 俺は割とまともな家庭で、割とまともな幸せを享受してきた。

 父はまともな人間だと思い違えたまま、「正しい道」を求め歩いた。

 その結果、虚ろな人間になった。

 そして父は腐った醤油みたいな人間になり果てた。


 なぜこんなヤツが親なのか。

 なぜこんなヤツの言うことを真に受けていたのか。

 俺はこんなヤツへの意趣返しのために就職の機会をふいにしたのか。

 俺はこんなヤツのせいでこんな苦しい目に遭っているのか。


 俺は自分で自分を恨めしく思った。

 そして恥ずかしく思った。

 肉の下を走る血管に父と同じ血が流れていることを呪った。


 そして、家を飛び出した。

 ――で、気づけばこの船の上。


「……あ、悪いな。俺ばっか喋って」


 シュウは黙って話を聞いていた。

 一方的に話を聞かされるのは苦痛だろう。


「まー……何だろうな。『父親』ってダメだよな」


 俺たちは様々な物語を聞かされて育つ。

 勇敢な戦士。誠実な王子様。賢い少年。

 そうした者になれと、そうした生き方が良いのだと教え込まれて育つ。


 だがそのどれも、語り手である親の姿とは重ならない。


 俺たちは市民Aや市民Bの子どもだ。

 残念ながら市民Aや市民Bは勇ましくもないし、賢くもない。

 時に卑怯で、不誠実で、二枚舌を使う。


「偉そうなこと言うくせにちょこちょこ卑怯でさ」


「! そうそう!」


 俺の言葉にシュウは身を乗り出した。


「自分だけはいつでもどこでも怒鳴り散らせると思ってるし――」


「そーだよ!」


「しかも世の中を舐めてる。大した稼ぎもないくせに」


「そーそー!」


 シュウはぐっと拳を握った。


「そういうの知ってる。ゴーマンって言うんだろ?」


 ふはっと思わず吹き出す。


「そうだよ。よく知ってるな。俺の親父もお前の親父も――」



 傲慢。


 ――――傲慢。



 ついさっきまで、俺を苦しめていたもの。

 俺が父に抱く嫌悪感の正体も同じ。


 嫌な衝撃が胸に響く。


(あー……)


 気づき、天を仰ぐ。

 板張りの地味な天井。


 何ということはない。

 俺は確かにあの父親の子どもだ。

 まったく同じだ。『傲慢なところ』が。


 俺は俺自身の呪わしい欠点を、親父の言動に見出していただけ――なのかも知れない。


「どしたの?」


「んー……。血は争えないってこういうことかもな……」


 傲慢な父が気に入らないから、仕返しをしてやる。

 孫は抱かせないし、親父が遺したいものはすべて放棄する。

 そのために、必ず生きて帰る。


 ――傲慢だ。

 父よりも、俺の方がずっと。


 俺は父の姿と自分を重ねまいとするあまり、かえって父に近づいていた。

 このまま年を取ったら、俺は父と同じ姿になるだけなのではないか。


「まあ……そうだよな……」


 自嘲に似た笑みが浮かぶ。


「俺に足りてないのは『敬意』みたいだからな」


「?」


 少しだけ居住まいを正す。


「シュウ」


「なに?」


「それ、戻ったらちゃんと言ってやれよ。親父さんに」


「……」


「ダメなところ教えてやって、ちゃんと喧嘩しとけ。でないと、親父さんもお前もダメになる」


「でも……」


「お前、兄ちゃんとか姉ちゃんいるか?」


「いない」


「じゃ、お前が初めての子育てなんだよ。親父さんにとって」


「……」


 うまく行かないのだろう。何もかも。

 子供は思った通りに育たないし、思った通りに動かない。

 カネを注いで、時間を注いで、愛情を注いでいるのに、思ったような手ごたえがない。

 生意気なところばかりが目に付いて――――おまけに、自分の時間はごっそり持って行かれる。


「蝶みたいに、蛹になってから大人になれたらいいんだけどなぁ」


「?」


「そうはならないんだよ。何かずるずる皮がむけて、気づいたら大人をやらなきゃいけなくなってる」


 シュウのランドセルを手に取る。

 少し古いが、しっかりした造りだ。


「いいんだよ、喧嘩して。どっちもまだガキなんだから」


「大人なのにガキなのかよ」


「そうだよ。大人だってな、色々しくじって成長しなきゃいけないんだよ」


 ランドセルをシュウの胸に押し付ける。

 

「怒った勢いで言うなよ。ちゃんとこう――しっかりした雰囲気作って言ってやれ。正座して、真面目にな」


「えー……」


「「えー」じゃねえよ。今やっとけ。年食ってから親と本気で喧嘩したら、色々と取り返しがつかなくなる」


 俺がもし、今さら親父と喧嘩をしたら。

 今までの鬱憤をすべて吐き出し、これまでの振る舞いを本気で糾弾したら。

 ――たぶん、親父はすぐに謝るだろう。

 謝らなければ俺は二度と家に戻らないかも知れないからだ。


 俺の父は家族を愛している。

 息子に本気で嫌われていると知ったら、たぶん立ち直れないだろう。

 甘ったれた父親だ。

 だが、おそらく甘ったれな部分は俺も受け継いでいる。


「シュウだって、自分が親になった時に困るんだよ。たぶんな」


「たぶんかよ」


「たぶんだよ。しゃーないだろ。俺だって子供いないんだから」


 少なくとも、今は。


「……兄ちゃんも」


「あ?」


「兄ちゃんも自分のお父さんと喧嘩する? それなら俺もやってもいいよ」


「……。分かった。やるよ」


 絶交してしまわないよう、手加減はしないといけないが。

 結婚のことも、教えてやらないといけないだろう。


「ん」


 小指を出される。

 俺は子供の頃を思い出しながら、小指を結ぶ。

 

 子どもが生まれたら、俺はかつての親父と同じ気持ちを味わい、同じ苦労を味わうのだろう。

 その時、俺は親父よりマシな親になれるのか。


 ――いや、なるしかないのだ。

 それが『克服』ということなのだろう。

 意趣返しのためではなく、自分の未熟さを越えるために。俺は父よりも立派な親にならなければならない。


「もう死ぬのはナシでいいな?」


「……。うん」


「良し」


 軽く肩を叩き、立ち上がる。

 シュウもランドセルを背負いながら立ち上がった。


(ランドセル、か)


 こうして見ると、かなり丈夫だ。

 それに装備している間、畳と違って両手が自由に使える。

 盾としては意外に性能が良いのかもしれない。


 いや、こう中身が軽いと盾として機能するかは怪しい。


「……お前のランドセル、軽くないか?」 


 考えてみればこのランドセル、筆箱ぐらいしか入っていないのだ。

 あとは藁半紙が少々。

 藁半紙。田舎ではまだ流通しているのか。


「シュウ。お前、勉強嫌いだろ」


「違うよ! ちゃんと教科書とか入ってたし!」


「いや、入ってないじゃん」


「それは――」


 シュウはむっとした顔で俺を見た。




「ユメミ姉ちゃんが捨てちゃったからだよ!」




 言葉の意味を理解するのに、少し時間が必要だった。


 シュウのランドセルには中身があった。

 そしてそれを捨てたのは――――ユメミ。


「……ユメミって、ユメミさんか?」


「他に誰がいるんだよ。しっかりしろよ、兄ちゃん」


 それはそうだ。

 だが、信じられなかった。


「ユメミさんが……お前の教科書を捨てたのか?」


「うん。こんなのあっても重いだけだからって、船の外に捨てちゃった。……教科書だけじゃないよ。カナヅチも」


「カナヅチ?」


「そうだよ。俺んのカナヅチ。釘打つのに使ったの」


「それも……ユメミさんが捨てたのか?」


「んーん、カナヅチは分からない。でも、「預かっておく」って……」


「……。それ、いつの話だ」


 気づけば俺の鼓動は不気味に高鳴り始めていた。

 カガチが去った静かな座敷に、妙な冷気を感じる。


「兄ちゃんが緑のやつと戦ってる時」


 マムシの襲来直後。

 まだ両手のあったユメミがロッコやシュウと共に本殿に隠れていた時だろう。


 だったらなおのことおかしい。


 シュウの教科書はロッコの辞書と違い、服の下に仕込める。

 いざという時は防具として使える教科書を、ユメミが何も考えずに捨てるだろうか。


 カナヅチはそれ以上に不自然だ。 

 自衛に使っていればユメミは腕を溶かされずに済んだかも知れないだろうに、なぜ持ち去ったのか。

 そしてそれは今、どこにあるのか。


(……ユメミさん……?)


 そこで俺の胸に嫌なものが芽生えた。

 不審。そして不安。


「なあ、シュウ」


「んー?」


「ロッコ、腕の事なんか言ってたか? ほら、俺とユメミさんがカガチと戦ってる間に、シュウたちが堀の水をここに流してる時」


「溶かされていたーいって。なんで私がーって言ってた」


「……だよな」


 生き残るためとは言え、腕を溶かされたのだ。

 今後は俺やユメミと同じ障碍者としての人生が待っている。

 そう考えると不安や怒りで感情が乱れに乱れるはず。

 ロッコが俺やユメミの見えないところで愚痴を吐くのは当然だろう。


 だが――――


(……)


 ユメミ。

 彼女は利き腕の肩から先を失ってもなお、平然としていた。

 今のところ、弱音一つ吐いていない。


 彼女はよく「大丈夫」と口にする。


 腕を失くしても大丈夫。

 マムシの腕が繋がらなくても大丈夫。

 手裏剣を喰らっても大丈夫。

 船の外の闇を見て、腰を抜かした様子もない。


 マムシ。カガチ。ヤツマタ様。

 怪異を前にしても彼女は俺よりもずっと立派に、勇ましく振る舞っている。


 ――――おかしい。

 いくら何でも、おかしい。


 ユメミの胆力は明らかに俺より上だ。

 下手をするとプロの格闘家並みではないだろうか。


 普通ではない。

 ユメミは、普通ではない。


 腕のバトンタッチを含む「背水の陣」。

 あれを提案したのも俺ではない。ユメミだ。

 仲間の腕を溶かしてマムシの腕を接ぐなんて発想、普通の女子高生にできるだろうか。


 気力。胆力。決断力。行動力。

 そのすべてが、どこか悪魔じみてはいないか。


「? 兄ちゃん……?」


「……あ、いや、何でもない」


「そう?」


 シュウはじっと俺を見上げた。

 何かもの言いたげな視線。


「どうした?」


「んー……んーん。何でもない」


 何か隠している。

 それは直感で分かった。

 そしておそらく、口止めをされている。


 誰に?

 ――――決まっている。ユメミだ。


「何だよ。何かあるなら言えよ」


「……兄ちゃんは……」


「俺は?」


「兄ちゃんは、たぶん……」


「……?」


「……ううん。何でもない」


 シュウは、とたたた、と襖へ向かった。


「俺、ロッコ姉ちゃんのところ行くから」


「……」


「次のヤッツマタも、やっつけような!」


「あ、ああ」


 勇ましい言葉を吐いたシュウが襖を閉じ、去った。

 後ろめたさのようなものは感じなかった。

 最後に言いかけた「何か」は、彼にとってそこまで重大な秘密ではないのだろうか。


 残された俺は静謐さの中に置き去りにされる。


(ユメミ……か)


 彼女が敵だとは思わない。

 マムシに腕を溶かされ、カガチに殺されかけたのは事実だ。

 あれは断じて演技などではない。


 だが、何だろう。

 この拭えない不安感は。

 この――得体の知れない気持ち悪さは。


 座ったまま後方へ手を伸ばすと、硬いものに触れた。


「……。……お?」


 シュウに預けていたスマホだ。

 どうやらノヅチに命を吸われる前に、ここに残すつもりだったらしい。


 何気なく手に取る。

 もちろん、通信圏外だ。

 電話もWEBも使えない。


 だが――――


(ニュース……)


 俺のスマホは最新のニュースを適時通知するよう設定されている。

 最後の更新タイミングは――ちょうど、俺がユメミに気付いて車を降りた頃だ。


 『速報』と題されたアイコンをタップする。

 ネットワークは遮断されているので、表示されるのは更新前の古いページだ。


 アイドルの熱愛と、報道番組の司会を務める芸人の見解。

 アナウンサーの復帰と、今後の活動についての抱負。

 新番組の出演者と、視聴率や舞台裏についてのあれこれ。


 県境で起きた震度3の地震。

 市役所でセクハラ。

 議員が居眠り。


 ジャーナリズムに満ちたニュースの中に、一つだけ奇妙な文字が混じっている。




 『ハーバルテラー事件、倉庫所有の21歳女性の行方分からず』




(ハーバル、テラー……?)


 タップする。



 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 ×日、▲▲市のレンタル倉庫内で小学生の児童3名と中学生の男子1名の遺体が見つかった事件で、

 ○○警察は倉庫の契約者である21歳の女性が事件に関与しているものとして、顔写真を公開すると共に目撃情報の収集を開始した。

 女性は現在行方が分からず、連絡もつかない状況となっている。


【事件のポイント】

 ・今月上旬より、8歳の男子児童2名と9歳の女子児童1名、14歳の男子中学生の計4名が行方不明となっていた。

 ・警察は事件と事故の両面で捜査していたが、〇日、レンタル倉庫内でガラスケースに収められた4人を発見。

 ・4人はその場で死亡が確認された。

 ・倉庫の契約者である女性(21)は連絡が取れず、自宅にも戻っていない。


【チェック!】

 4人は別々のガラスケースに詰め込まれ、中はオイルと大量の花で満たされていた。

 これはドライフラワーやプリザーブドフラワーを瓶に詰め、専用のオイルで満たす『ハーバリウム』と酷似しており、

 ネット上では犯人を『香草聖人ハーバルテラー』と呼称している。


 ハーバリウムは近年、若い女性の間で「イ~タチさん♪」




「ッ!!」




 俺の手を離れたスマホが、たたんと畳を叩く。

 

 顔を上げると、ユメミがいた。

 藤紫の制服姿。

 背は高く、右腕の肩から先がない。


 常に静穏と困惑を滲ませているせいで、糸目に見える顔。


「話は終わりましたか?」


「あ、ああ」


「だったら呼んでください。やることはたくさんあるでしょう?」


「……」


 俺は普段、テレビを見ない。

 ニュースはネットでチェックする。


 だが、テレビのニュース番組とネットニュースの間に大きな違いはない。

 どちらも「より多くの客に見てもらうこと」が至上命題であり、扱われる情報には優先順位がある。


 残念ながら『ハーバルテラー』は、アイドルの熱愛や夜9時のドラマの視聴率より優先度が低いらしい。


 こんな人間がいること、俺は今初めて知った。

 恋人が警告しなかったことから察するに、本当に田舎の事件扱いなのだろう。

 両親が俺に警告しなかったのは、被害者が子供ばかりだからか。

 この状況で新茶市を開催した市の担当者は平和ボケが過ぎるのではないか。


(子供をガラスに詰めて、オイルを注いで殺す……)


 ああいう奴を何と呼ぶのだったか。


 ――サイコパス。

 いや、あれは確か「頭のおかしいやつ」の別称だ。

 何の罪も犯していない奴も含まれる。


 ハーバルテラーは違う。既に4人の人間を殺めている。

 それも、子供ばかりを。

 異様なシチュエーションで。


 ああ、そうだ。

 確かこう呼ぶのだった。


 ――――連続殺人鬼シリアルキラー


「どうしたんですか? 顔、真っ白ですよ」


 ずいと顔を近づけたユメミの目が開き、黒い瞳が覗いた。

 ナイフを引いた肉が開き、赤く濡れた中身が覗くように。


「まるで――――」


 俺のスマートフォンに、『香草聖人ハーバルテラー』と目される女の顔は映っていない。

 だが名前は記されていた。




 そいつの名前は、『雪代恵ゆきしろめぐみ』。




 ユきしろ

 メぐ

 ミ

 。




「まるで鬼にでも――――遭ったみたい」



 赤く濡れた舌が、女の口で蠢く。

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