第2話 蛇の道は緑


 大蛇の口から生まれた女が地を蹴った瞬間、俺は本殿に顔を向けた。


「閉めろ! 絶対開けるなよ!」


 三人の子供たちが頭を引っ込め、勢いよく本殿の扉を閉じる。

 前を見る。

 甲板を離れてゆく巨大蛇と、猛烈な速度で疾駆する異形の女。


(何なんだアレ……クソっ!)


 がじゃじゃじゃ、という玉砂利を踏み散らす音。

 マムシと呼ばれた女は両手を突き出した格好のままこちらへ突っ込んで来る。

 俺と握手するためではないだろう。

 接触はおそらく戦闘を意味する。


 ――『戦闘』。

 喧嘩ではない。

 負けた時に待っているのは、恥でも痛みでもなく、おそらく『死』。


(っ!)


 一度大きく跳ねた心臓が、バイクのエンジンさながらにどっどっどっどっと鳴り始める。

 無意識のうちに呼吸が激しさを増し、頬を流れた汗が顎髭に絡まる。


(どうする……?! 来たら蹴り飛ばせばいいのか……?!)


 ここは死者の船。

 そして相手は蛇の口から生まれた化け物。

 蹴っていいのか。蹴り飛ばせば事態は解決するのか。


 じゃじゃじゃじゃ、とマムシが速度を上げる。

 速い。だが船は広い。距離はまだ数十メートルも開いている。

 ――いや、もう数十メートル『しか』残されていない。


 どうする。

 人ならざるモノにどう抗う。

 手元に刃物はない。もちろん銃も持っていない。

 おふだも、ロザリオもない。

 財布とスマホであれを撃退できるか。


 いっそきょうを読むか。ノヅチはずいぶん嫌がって――


(!)


 閃く。

 俺は本殿を飛び降り、まだぼんやりしているノヅチに手を伸ばした。


(こいつを盾にすれば――!)


 が――――


「うおっ?!」


 俺の腕は、するんと浴衣姿をすり抜けた。

 僅かに青みがかった女形は水に映る月のごとく揺らめき、俺は勢いのあまり転びかける。


『あららァ? もしかしてアタシを盾にするおつもりでしたか?』


 嘲るような声は、ゴム膜を隔てて聞こえるかのようだった。


『残念でしたねぇ。アタシ、死生を行き来できるんですよ。こうなっちゃうともう触れませんのでね。ご容赦くださァい』


 ぷくく、とノヅチは含み笑った。

 かっとなった俺は経を読みかけたが、女形は両手の人差し指で俺の後方を示す。


『ほらほらほらほら! アタシじゃなくてあっちあっち!』


 視線を剥がし、振り返る。

 最高速に乗ったマムシは、既に10メートルの距離。

 逃げるには手遅れ。

 迎撃するしかない。


「野郎っ……!」


 俺は両拳をゆるく開き、立ったまま上半身を後ろに傾けた。

 狙うは前蹴りだ。

 マムシは武器を持っておらず、身長は目測で160。身の丈185センチの俺より手足は確実に短い。

 上半身を後ろに傾けた前蹴りなら、顔や胴といった急所に触れさせず、一方的に攻撃できる。


(蹴り飛ばして勢いを削いだら、鼻をぶん殴って――)


 疾走するマムシが5メートルまで近づいた瞬間、俺は気付く。


 この女、この期に及んで一切腕を振ろうとしない。

 両腕を前方に突き出した格好のままだ。


 突き出したままの腕。

 振った方が速く走ることができるのに、あえて突き出したまま。

 腕の先端にあるのは――――異様な『口』。


 マムシとの距離、2メートル。

 体感時間が一気に引き延ばされ、知覚するすべてがスローモーションのように感じられる。




 ――『落とされたら終わり。掴まれたら危険』。

 ノヅチの言葉と歪んだ笑みがフラッシュバックする。


(……!)


 何かまずい。

 この構えはまずい。

 このまま迎撃するのはまずい。


 蹴ったら、この『口つきの手』に足を掴まれるのではないか。

 そしてそれこそがマムシの狙いなのではないか。


 蹴るか。やめるか。


 やめてどうなる。蹴るんだ。

 蹴ってどうする。やめろ。


 相反する考えが左右から俺を引っ張り、引き裂こうとする。

 どっちだ。正しいのはどっちだ。

 みりみりと脳みそが裂けるような感覚を味わいながら、俺は息を吸った。


 ぱんぱんに膨れた肺から声を吐き出すと同時に、時が動き出す。




「お、おおおおっっっ!!!」


 格闘の間合いに入った刹那、俺は横っ飛びしていた。

 入れ違いで、俺の立っていた場所にマムシが飛び込む。


 ばふう、とマムシの手が俺の居た空間を『掴んで』いる。

 片手だけではない。両手だ。

 俺が立っていた空間を両手でがっぷりと掴んでいる。


(こいつ、やっぱり『掴む』のが目的……!)


 マムシの横顔を見ながら飛んでいた俺は、勢いそのまま着地する。

 がりりり、と砂利だらけの甲板に溝が生まれた。 


 おほほう、とノヅチが声を上げた。

 声音から感じるのは驚きと賞賛の色。

 

『そうそう。それでよろしいんですよ、おヒゲさん』


「あぁ?!」


『マムシ様は――』


 俺の注意が逸れた一瞬の隙をつき、マムシが再び地を蹴った。


「っ」


 彼我の距離、ほんの2メートル。

 回避は間に合わず、防御は危険。

 とっさに上着を脱ぎ、女に向かってぶおんと振り抜いた。


 がっ、と。

 女忍者の両手がジャケットを掴む。




 次の瞬間、人の上半身をかたどった布が、どろりと溶けた。


 バターやソフトクリームのようにゆっくりと、ではない。

 半田鏝はんだごてに触れた安い合金のごとく、一瞬で『液化』した。




 びしゃりとジャケット色の液体が地を打ち、俺は手を離し飛び退く。


「う、おあっ?!」


 マムシは残る上着をくしゃくしゃと丸めるように掴み――――手品のごとく両手を開いた。

 バケツ一杯分ほどの液体がばちゃあっと玉砂利を汚す。

 それは俺の着ていたジャケットの成れの果てだった。


「な、に……?!」


 しょるるる、とマムシの手から長い舌が伸びた。

 そして指を濡らす液体を器用に舐め取り、手の中央に開いた穴へ引っ込む。

 

『マムシ様は噛んだものを溶かしてしまわれるのです。この世のどんなものでもね』


 半透明のノヅチが浴衣の袖で口を隠した。


『木、布、鉄、人……マムシ様にはあらゆる盾が通じません。もちろん矛もね』


 言葉を受けるかのように、ゆらりとマムシが両手を動かす。

 拳法のようでもあり、扇持つ舞のようでもある緩慢な動き。


「~~~~~っ!」


 何かの冗談だと思いたかった。

 だが実際に、目の前でジャケットを溶かされた。


 あの手で噛まれたら――つまり『掴まれたら』――溶かされる。

 まるで鬼ごっこだ。

 タッチされたらゲームオーバー。


「く、お、あ……!」


 後ずさる。

 同じ距離だけ、マムシがすり足で近づく。

 端正な美貌には、相手を侮る色も、蔑む色もない。


「ちょ、こ、こいつ、お、俺をお、落とすんじゃないのか……!」


『落としもされますし、溶かしもされますよ。女の子は気まぐれですからねぇ』


 マムシが再び走り出した瞬間、俺は脱兎のごとく駆けだしていた。

 七割は恐怖で。三割は計算で。


(やべえ、やべえ、やべえ、やべえ……!!)


 無理だ。

 合気道の達人ならともかく、一度も掴まれないままマムシを叩きのめすなんて、俺にはできない。

 戦えない。

 戦えば死ぬ。


 だったら逃げる。

 逃げるしかない。

 戦える舞台へ。

 両手を思い切り振り、クラス対抗リレーに臨む小学生並みの必死さで駆ける。


「はっ、はっ、はっ、はっ……!」


 目指す先は船べり。

 間接照明のようにぽつぽつと置かれた小さな灯籠が光を放つ場所。

 あそこなら戦える。

 ノヅチの言葉を信じるのなら、マムシを船から落とせば俺の勝ちだ。

 あそこなら落とせる。

 掴まれないまま、戦える。


「はっ……はっ……はっ……!」


 がじゃじゃじゃ、じゃ、じゃじゃじゃじゃ、と。

 玉砂利を踏む音が背後に迫る。


 人間を溶かす、口無しの化け物女。

 追いつかれたら溶かされる。溶かされて殺される。


「はっ……っ、は、は……っァっ」


 心臓は胸骨を破らんばかりに高鳴り、呼気には悲鳴に近いものが混じっていた。

 俺は半ば恐慌状態で、クロールさながらに手をばたつかせて駆ける。


 幸い、マムシの走る速度は俺とほぼ同じだった。

 距離を縮められることはない。

 だが、開くこともない。


 逃げ続ければ殺されることはない。

 だが、生き延びることもできない。

 生きるためには、戦うしかない。


「はァっ……はァっ! は……っァ!」


 船べりが見えて来る。


 あと少し。


 あと少し。


 あと――


 蹴った小石がステージライトに似た小灯籠に弾かれ、闇に消える。

 がりりり、とスキー選手のごとく強引に急停止。


(着いた……!)


 崖っぷちに至った俺が見たのは、黒い海原。

 ざざざ、ざざざ、と木々の影が流れては消える。


 迫るマムシを振り返ろうとして、思いとどまる。

 眼下の闇を覗き込む。


「――――」


 この下には何があるのか。

 落ちたらやはり死ぬのだろうか。

 落ちた先は『あの世』で、マムシはそこから来たのか。


(……。……いや、待て。違うぞ。この船の行く先が『あの世』だ……)


 そして『この世』は元来た場所。


 じゃあ、落ちたら。

 この闇に落ちたら、俺はどこへ行くのか。


「――――!!」


 考えた途端、ぞっと怖気が走った。


 幽霊。化生。都市伝説。

 俺は今までそうした存在に恐怖を感じたことがない。

 なぜなら、結局のところ人の末路は『死』以外にありえないからだ。


 呪いのビデオ。天狗や河童。学校のトイレに潜む少女。

 そうしたものに遭遇することは確かに恐ろしいだろう。


 だがその結末は、交通事故や心筋梗塞、脳卒中やガンと同じ、ただの『死』。

 得体の知れない存在の危険度は、本質的に飲酒運転の自動車と同じだ。

 ある日突然脳の血管がブチ切れることも、人ならざる存在に出くわして喰い殺されることも、結末だけ見れば同じなのだ。


 化け物に襲われて死ぬのも、病気やケガで死ぬのも、同じ。

 死ねば皆、同じ場所へ行く。

 だから怖くない。そう思っていた。 



 ――違った。


 この闇を見て、俺はそれに気づいてしまった。



 真偽はともあれ、『ああいうもの』に囚われた人間を待つのは『死』ではない。

 生でも死でもない別のものだ。


 本物の怪異に囚われたら、天国へも地獄へも行けない。

 行く先は、この船の下に広がるおぞましい『闇』。

 三途の川も、賽の河原も見えないほどのくらく深い闇の底。

 そこには神仏も閻魔も、鬼すらいない。


(――――)


 死よりも恐ろしいものがある。

 死よりも恐ろしい場所がある。

 マムシはそこから来た。

 そして、俺をそこへ連れて行こうとしている。


 負けた時に待っているのは恥でも痛みでもない。

 死でもない。

 待っているのは――――死よりもおぞましい末路。


 理解が全身に行き渡った瞬間、がくんと目線が低くなる。

 感じるのは土と砂利の匂い。


「あ……?」


 俺は尻もちをついていた。

 立ち上がろうとするが、腰から下に力が入らない。

 腕で地面を押してみるが、尻から根っこが生えたかのようにぴくりともしない。


「おい……おい、しっかりしろよ」


 俺の声は、震えていた。

 感情を司る部位が混乱したのか、顔には半笑いすら浮かんでいた。


「おい。おいって……!」


 立たなければ。

 立って戦わなければ。

 もうすぐマムシが来る。

 戦わなければ。


 だが。

 だが、もし負けたら。


 溶かされるだけならまだいい。

 もしこの闇に突き落とされたら――――


(――――)


 じゃりり、と砂利を踏む音。

 振り返ると、ほんの五歩ほどの場所にマムシが立っている。

 手の口からは、しゅー、しゅー、と呼気が漏れていた。


 マムシは肩を上下させている。

 こいつにも疲労という概念があるらしい。


「……」


 マムシはじっと俺を見つめている。

 俺は制御不能に陥った肉体を何とかしようとしていたが、どうにもならなかった。

 半ば諦観の境地で彼女を見返す。


「……」


 マムシはじっと俺を見つめている。

 俺は彼女を見返す。


「……」


 マムシはじっと俺を見つめている。

 俺は彼女を見返す。


「……。……?」


 苔緑の女は、腰を抜かした俺を襲おうとしなかった。

 何だ、と思ったところでマムシの首が後方へ動く。


 視線を追うと、ノヅチがのろのろとした足取りで近づいて来るところだった。


『あららァ。下、覗き込んじゃいました?』


「……」


 ぺつん、とノヅチが面の上から自分の額を叩いた。


『わかりますわかります。おっそろしいですよねぇ。アタシもあんなところ行くぐらいなら死んだ方がマシですよ』


 ノヅチは我が身を抱き、震えるような仕草を見せた。

 おどけているようでもあるし、本気でやっているようにも見える。


『ひとつ言い忘れたんですがね? マムシ様と戦わずに済む方法もあるんですよ』


「?! な、何だよそれ! そんなのあるなら最初から――」




『今、ここで死ねばいいんですよ』




 ひやりとした言葉。


『この船は死者を運ぶ船で、ヒゲさんは生者だから良くないんですよ。ヤツマタ様はここに迷い込んだ生者を、そのくろーいところへ連れて行くのがお役目ですから』


 マムシがノヅチから俺へ視線を滑らせた。

 要するに彼女は手当たり次第に人を襲う理性なき怪物ではなく、任務に忠実な仕事人、ということらしい。


『ヒゲさんとあの三人が死んでくだされば一件落着です。死者は『灯籠廻船』のお客様ですからねぇ。マムシ様も当然、引き返されますよ』


「……し、死ぬってどうするんだよ。そいつに溶かしてもらうのか」


『いえいえ。言ってくださればアタシの方で命を取りますよ。汁粉しるこを吸うようにずずっとね』


 ノヅチは片手に持つ提灯を揺らした。


『どうします? 死なれます?』


「……」


『こっちとしては、その方が面倒がなくていいんですけどねぇ。……ねえ、マムシ様?』


 マムシは特に反応せず、『手の口』から長い二股の舌をしゅるるると出し入れした。


『アタシの見解を言わせていただくと……下を見て腰を抜かすような方は、大人しく死なれた方が良いと思いますねぇ』


「――――」


『灯籠廻船は七夜かけてあちらへ向かいます。その七夜、八人のヤツマタ様が生者を連れ去るためにいらっしゃいます』


「――――」


『マムシ様なんてお優しい方ですよ。もっと恐ろしく、もっとおぞましい方もいらっしゃる。おヒゲさんなんか三つ数える間にどぼーん、ですよ』


「――――」


『死んだら楽しいですよぉ? 下にね、膳の用意もあるんですよ。賭場なんかもあったりしてね? ――、――――』


 俺はノヅチの言葉など聞いてはいなかった。



 死ぬ。

 俺が死ぬ。



 死ぬことは怖くない。

 俺の人生には、惜しむものが何一つ無いからだ。


 親には愛想を尽かしている。親友なんてものもいない。

 恋人のことはそこそこ好きだが、熱を上げているわけじゃない。

 好きな漫画の最終話が読めないのはもったいないが、名残はそれぐらいしかない。


 夢。理想。野心。生き甲斐。打ち込めるもの。

 ――――そんなもの、無い。


 他の奴らは持っているのかも知れないが、俺には無い。


 だって、仕方ないだろう。

 大人は誰も教えてくれなかった。

 夢も。理想も。野心も。生き甲斐も、打ち込めるものも。


(――――)


 生まれてくれてありがとう。お父さんとお母さんは、あなたの幸せを願っています。あなたが一番大事です。

 ――――。


 お父さんとお母さんの言う通りにすれば、正しい人生を歩めます。

 ――はい。


 良い子にして、お父さんとお母さんの言うことを聞きなさい。

 ――はい。


 誠実に振る舞いなさい。優しい心を忘れないように。

 ――はい。


 悪ぶってルールを破ったりせず、先生とお父さんお母さんの言う通りになさい。

 ――はい。


 いい高校に入りなさい。

 ――はい。

 ちゃんと部活をしなさい。

 ――はい。

 女の子と近づきすぎないように。

 ――はい。

 毎日きちんと予習復習をしなさい。

 ――はい。

 いい大学に入りなさい。

 ――はい。

 偏差値をあと少し上げなさい。

 ――はい。

 教育学部? やめなさい。経済学部や商学部もダメ。文学部なんてもってのほかです。文系なら法学部になさい。

 ――はい。

 理系なら機械系か電気系になさい。

 ――はい。


 ほら言った通り。合格できましたね。

 ――はい。

 お父さんとお母さんの言う通りにすれば、正しい人生を歩めます。

 ――はい。


 さあ、自由になさい。

 ――。

 やりたいことをしなさい。

 ――。

 夢を叶えなさい。

 ――。

 生き甲斐を見つけなさい。

 ――。


 え、あるでしょう。

 ――。

 ほら、もうあなたは自由です。

 ――。

 興味のあることに打ち込みなさい。好きな企業にインターンを申し込みなさい。

 ――。


 どうしてないの。

 ――。

 あんなに賢かったのに、どうしてやりたいことがないの。

 ――。

 お父さんとお母さんは間違っていなかったのに、どうしてあなたは人生を間違えたの。

 ――。

 


 ――――。



 五体満足で生まれた。

 体にも心にもハンディキャップは無かった。


 年に一度は海外旅行に行ける中流家庭で、愛情を注がれて育った。

 規則をちゃんと守って、反抗期すら迎えなかった。

 いい高校を出て、いい大学を出て、恋人もできた。


 でも、俺の人生は虚ろだった。


 何も無い。

 やりたいことも、成し遂げたいことも。

 偉くなりたくもないし、別にちやほやされなくてもいい。

 金持ちにもなりたいとは思わない。


 俺の心には、ぎらつくような欲望がない。

 俺の心には、敗北感すらない。

 何も無い。

 やりたいことも、成し遂げたいことも。

 

 父と母の言うことを聞いていれば、正しい人生を歩めるはずだった。

 父と母が喜ぶ道を歩けば、ハッピーエンドが待っていると思っていた。


 ――違った。

 俺は、俺の人生を生きて来なかった。

 俺は人生の歩き方を知らないまま大人になってしまった。


 俺は自分がどん底にいることを何とも思わない、本当に空っぽの人間になってしまった。


(……)


 死ぬ。

 俺が死ぬ。


 死ぬことは怖くない。

 俺の人生には、惜しむものが何一つ無いからだ。


 このまま行方不明になってしまえば、両親は嘆き悲しむだろう。

 ――いい気味だ。

 恋人は悲嘆に暮れるだろう。

 ――悪いが、俺なんか忘れて別の男と一緒になった方がいい。

 生まれて来る子供は不幸になるだろう。

 ――俺は元々、親になんてなりたくはなかった。



 親――――。



 ――俺が親になる。



 気付けば俺はへたり込んだまま、宵闇を見上げていた。

 腰に意識を向ける。

 大丈夫。血が巡っている。


「……ノヅチ」


『はいな』


「悪いが、死ぬのはやめとく」


 立ち上がり、尻についた泥を払う。


『あら、そうです? 理由を伺っても?』


「子どもが生まれるんだよ、もうすぐ」


『あら。そりゃめでたい』


「結婚もするんだよ。だから、死ぬわけにはいかない」


『ほええ。ヒゲさんは意外と子煩悩な方なんですね』


「違ぇよ」 


 俺は父親や母親とは違う。

 俺は――――俺はちゃんと『親』をやれる。


 俺はお前らとは違うんだ、と。

 俺はお前らと血が繋がっているけど、お前らと同じ轍は踏まないんだ、と。

 俺の子は、お前らの子と違って幸せな人生を送れるんだ、と。

 そう、両親に言ってやりたい。


 ――死ねばそれはできない。


「死んだら親不孝、できねえからな……」


『はい?』


「……」


 数秒置いて、ぷっとノヅチが噴き出した。


『うっふふふ。親不孝のために生きられたいのですか。初めて聞きましたねぇ、そういう後ろ向きな情熱をお持ちの方は』


「……」


『まあ、アタシのことじゃありませんからどうぞご自由に。気が変わったらいつでもどうぞ』


 まあ、とノヅチは暗く囁く。


『今夜、溶けることも落ちることもなければ、ね』


 しょるるる、とマムシが微かに苛立った様子で舌を出し入れする。

 途端、俺の全身に熱が戻って来る。

 恐怖と興奮の熱が。


 ふうう、と長く息を吐く。

 反動で大量の酸素が肺へ流れ込み、全身の細胞が目覚める。

 みちみちと筋肉が軋り、神経が張り詰める。


「溶けねえよ。落ちもしねえ」


『あら、やる気満々ですね。それじゃ、どうぞご健闘ください』


 ノヅチは暖簾をくぐるような仕草と共に、本殿の方へ歩き出した。


 その瞬間、じゃりりと小さな音が聞こえた。

 審判のOKを確認した選手のごとく、マムシが重心を調整したのだ。


 前傾姿勢。

 両手を突き出した格好。

 ヤツは再び俺を『敵』と見た。


(来る……!)


 距離は約5メートル。

 先ほどは同じ距離で飛びかかられた。

 だが今度は違う。

 俺のすぐ後ろは船べりで、その先は暗闇。


 今俺に飛びかかれば、何かのはずみで諸共に落下するかもしれない。

 それを恐れてか、マムシはじりじりと距離を詰めてくる。


 女は両手を掲げており、俺も同じく両手を掲げている。

 まるでレスリングのような睨み合い。


(このままじゃ埒が明かねえ……)


 俺は海を背に、船べりに沿って移動を始める。

 マムシは五歩の距離を保ったまま足を交差させ、酔拳を思わせる動きでついてくる。

 

 このまま睨み合いを続けるわけには行かない。どこかでこいつを叩き落とさなければ。

 だが、その隙が無い。


(!)


 マムシのはるか向こうに人影が見えた。

 ぎょっとしたが、よく見るとそれは人ではない。

 案山子かかしだ。船べりに案山子が立っている。

 位置はちょうど反対側の船べり。本殿の置かれた船首に向かって右手だ。


(何で船にカカシが立ってるんだ……?)


 と、今度は何かの臭いが鼻をついた。

 水だ。水の匂い。

 船の外からは感じなかったはずなのに。


 ふと見れば、すぐ傍に堀が広がっていた。

 面積は50メートルプールほどだろうか。

 中ほどには橋が架かっており、水底には石らしきものが――


(!)


 外してしまった視線を戻す。

 ――マムシがいない。


(あいつ、どこに――――)


 彼女が蹴ったであろう石礫が、ぱららと砂利を叩く。

 ぶわっと額に汗が噴く。

 嫌な予感。

 どこだ。どこへ行った。


 空気が揺らめく。

 顔を上げる。


 跳躍したマムシの姿を認めた次の瞬間、胸に膝蹴りが入った。

 助走なしとは言え、成人女性一人分の重さが乗った飛び蹴り。


「うぐっ!」


 肺の中身を吐き出し、地に突き倒される。


「お、ぐっ! ごっ!」


 むせる。

 涙で視界が歪む。

 痛みで思考が散らされる。

 マムシの体重が乗る。

 

 痛い。蹴られた。熱い。

 どかせ。突き飛ばせ。逃げろ。

 乗られた。腹に。マウント。


 思考がかき乱される。

 だが、最も重要な情報が散逸することはなかった。


 ――『掴まれたら溶かされる』。


「っこのっ!!」


 二匹の蛇よろしく伸びる手をがしっと掴む。

 指が俺の鼻に触れるほどの、ぎりぎりのタイミング。


 マウントを取ったマムシは驚くでもなく、力ずくで俺の腕を引き剥がそうとした。

 一方の俺は手首を掴む手に力を込め、マムシを押さえつける。


「くっ……!」


 みりみりと近づくマムシの手。

 手に開いた口。

 口から覗く舌。

 舌から匂う唾液。


 モンスター映画の主人公よろしく、俺は呼気を吹き付けられながらも歯を剥いた。

 

「ナ、メんなっ……!」


 掴んだマムシの両手をぎりぎりと左右に広げる。

 この女、腕力は思ったほどではない。俺の方がずっと上だ。

 力比べなら勝てる。


(このまま……開いて……ねじって……!)

 

 と、マムシの手首がぐりりと動いた。

 手の平が俺の腕に触れようとする。


「うぜえっ!!」


 その瞬間、俺は女の腕を思い切り外側に捻った。

 こふっと「手の口」から苦悶と呼気が漏れ、馬乗りになったマムシの重心が崩れる。


 すかさず、掴んだマムシの手を彼女自身に近づける。

 肘を無理矢理曲げ、狙うは凹凸の凸。

 つまり奴の胸。

 

「!」


 マムシの口から緊張の呼気が漏れた。

 俺の睨んだ通り、『あらゆるもの』には奴自身の肉体も含まれるらしい。


 今度は俺がマムシに向けて腕を押し込む番だった。

 そしてマムシは全力でそれを阻止しようと力む。


 ぎりぎりと、二人分の筋肉が軋む。

 俺の鼻とマムシの鼻腔から、蒸気に似た息が漏れ出す。


(当たれ、当たれ、当たれ、当たれ……!)


 腕力は俺の方が上だ。このままなら押し切れる。

 仮にマムシがマウントを解いて逃げようとしても、俺はヤツの腕を掴んでいる。

 逃がさない。

 こいつは確実にここで殺す。


 マムシの手からいよいよ息が漏れ始めた。

 腕からも力が抜け始めている。


(あと、少し……!)


 マムシの手が乳房に近づく。

 あと数センチ。

 触れてさえしまえばマムシの手が、マムシ自身を溶かす。


(行け……! 行け……!!)


 指先がマムシの布を掠める。


 勝った。

 そう思った瞬間だった。




 がつん、と。矢庭にマムシの手が宙を噛んだ。



 空振り。

 そう思った次の瞬間、缶ビール一杯ぶんほどの液体がびしゃりと俺の顔を打つ。


「ぐっ?!」


 俺は仰向けで、しかもマウントを取られた状態だ。

 液体は目と鼻両方に入り込み、その刺激で握力が緩んだ。

 すかさずマムシが両腕の拘束を脱し、そのまま俺を掴もうとする。


「ぐっ、ぎっ!」


 一時的に目鼻を潰された俺は素早く玉砂利を掴み、マムシ目がけて投げつけた。

 ばちち、と顔面に直撃する音。

 次の瞬間、マムシの体重が俺の上から消え、じゃ、じゃじゃ、じゃ、と砂利踏み音が遠ざかる。


(今のっ……!)


 目を拭いながら立ち上がり、理解する。

 今のマムシの一撃は空振りなどではない。

 そしてヤツは何も無い空間を噛んだわけでもない。


 マムシは確かに掴んだのだ。

 ――――『空気』を。


(あらゆるモノって『気体』もアリなのか……!)


 マムシが俺に浴びせたのは『溶かした空気』だ。

 液体窒素だとか、その手の物質ではない。

 今この瞬間の空気を、温度や密度を一切変えずに『液化』したらしい。


(それにこいつ……)


 俺は立ちはだかるマムシを見やり、目を細めた。


 もう一つ分かったことがある。

 ヤツの能力は、『掴んだものを即溶かす』というものではない。

 おそらく掴んだもののうち、マムシ自身が『溶かしたい』と思ったものだけが溶けるのだ。

 でなければ、いきなり空気が溶けたことに説明がつかない。


 言い換えれば、ヤツの『溶かす』能力の発動は『強制』ではなく『任意』。

 ということは、彼女の手が自分自身に触れても肉体が溶けるとは限らない。


(クソ……)


 自滅は誘えない。

 なら、力ずくでねじ伏せるしかない。

 もしくは船の外に落とすか。


 だが、手だ。

 とにかく、手にさえ気を付けていればいい。

 手さえなければ、マムシはちょっと運動神経のいい女に過ぎない。

 力比べなら俺に分がある。


(落とせる……! 落とせるぞ、こいつ……)

 

 俺はファイティングポーズを取った。

 次は船べりに誘導する。

 できるだけ引きつけて、闘牛士のようにこいつを叩き落とす。

 向こうもそれを予期しているだろうから――――


「さあ、来い……!」


 マムシは。

 おもむろに、両手をだらりと垂らした。


「……?」


 俺は警戒を解かず、彼女の一挙手一投足に目を凝らす。


 5メートル。

 どうする。次はどう動く。

 そう考えた時だった。




 マムシが踵を返し、いきなり走り出した。




「は……?!」


 じゃ、じゃじゃじゃじゃ、と砂利を踏んでマムシが走る。

 手を前方へ伸ばしたあの姿勢で。

 こうして見ると本当に下半身の力だけで走っているのが分かる。


 その向かう先は――


「!!」


 本殿。

 マムシは本殿へ向けて走り出している。


 何を考えているのか、分かった。

 俺より先にあの三人を先に溶かす気だ。


「クソッ……!」


 俺は彼女を追って走り出す。

 だが、初動が遅れた。

 そして俺とマムシの速度はほぼ同じ。


(追い……つけない……!!)


 既に10メートル以上遠ざかっているマムシが先に本殿へ到着してしまう。


 本殿は鍵も閂も掛かっていない造りらしい。

 奴は扉に手を掛け、がらら、と力一杯開いた。

 途端、三人の子供たちの悲鳴が聞こえる。


「ああ、もう……!!」


 どこか隠れる場所ぐらいなかったのか。

 武器になるものを持っていたりはしなかったのか。

 埒もない考えを振り払い、本殿の階段をすっ飛ばし、飛び込む。


 床を踏んだ瞬間、俺は当惑した。




 マムシが膝を曲げ、背を曲げている。

 まるでみぞおちに強烈なパンチを喰らったかのように身を折り曲げ、びくびくと小刻みに痙攣している。





(な、何だ……?)


 ぴっちりしたスーツに身を包んでいるため、背骨や腰の形が浮き彫りとなっている。

 俺の視線はマムシを通り過ぎる。


 子供たちはその向こうにいた。

 テーブルほどもある大きな鏡の裏に回っている。


「お、おい何があった?!」


「し、知らないに決まってるでしょ!」 


 『ふわふわ髪』が叫ぶ。


「そいつ、入ってきたらいきなりそうやって――」


「か、鏡だよ! 鏡を見たらいきなり苦しみ出した!」


「鏡?」


「そうだよ兄ちゃん! きっとそれがそいつの弱点――」


 その瞬間。

 背の高い女子高生が、困り顔を豹変させた。

 糸目が、ナイフで切り開かれるようにかっと開く。

 その表情を目の当たりにした俺は、何が起きたのかを理解した。


(そういうことか……)


 視線を下ろす。

 マムシと目が合った。

 こちらに背を向けていたはずの女が、振り返っている。


 弱点なんかじゃない。

 苦しんでもいない。

 今のは、ただの偽攻フェイント


「クソが……!」


 マムシに噛まれた左ひじから先の体重が、消える。

 俺の一部だった液体が、びしゃりと床を叩いた。

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