灯籠廻船

icecrepe/氷桃甘雪

第1話 蛇の道は蛇


「デキ、た……?」


 スマートフォン越しに恋人が頷く気配。


『うん。……もう二か月だって』


「あ、あー……」


 動揺をごまかすようにスイッチを強く押すと、サイドウィンドウがいつも通りゆっくりと上がって行く。

 喧騒はガラスで遮られ、溺れるように濃い山の匂いが車内を満たした。


『産んで……いい?』


 ハンドルに置いた腕に顎を乗せる。

 墨を吸った筆に似たちょびひげが、手の甲でくしゃりと潰れた。


「いい……んじゃねえの?」


 いや、この言い方はまずい。

 素早く言葉を被せる。


「結婚すっか」


 生涯一度しか使わないであろうフレーズが、「替え玉ください」と変わらない気安さで飛び出した。

 さすがに軽率過ぎたか、と言った後で激しく悔いる。


『ん』


 恋人の返答は、幾つもの感情を含んだ一文字。

 俺より一回り年上の彼女は気弱ながらも懐が深い。

 俺の迂闊さや軽率を包み込んで余りある。


『……。ねえ、偉達いたち


「ん?」


婿入むこいりの話、お父さんにしたの。……偉達いたちがいいなら、ウチはそれでいいよって』


「……話したの? まだ俺、挨拶もしてねえのに」


『うん。ごめんね。……嫌だった?』


「や、全然嫌じゃねえけど」


 もし結婚するのなら、嫁を迎えるのではなく、婿入りしたい。

 そう話したのは他ならぬ俺だ。


『今、●●に帰ってるんだよね? もうご実家には寄ったの?』


「いや、まだ。昨日は地元の友達と飲み歩いててさー」


『バイト、いつまでお休み?』


「明日まで……かな。言えば明後日も休めると思うけど」


『そう。……私、明日公休なの。そっちに行くからご両親にご挨拶を――』


「いいよ。そういうのは」


 シャッターを下ろすように言葉を割り込ませる。


『……。婿入りの話、一人でするの?』


「ってか、要らないだろ。勝手にやっちまおう。大人なんだし」


『ダメだよ。そっちのお父さんの工場、継げるのは偉達いたちだけなんでしょ?』


「や、確か専務がいる。あの人が継ぐんじゃね?」


『会社だけならそれでいいかも知れないけど、土地はどうするの? 会社があるところ、おじいちゃんの代からの土地じゃなかった?』


 よく覚えているな、と感心する。

 俺は俺が話したことなんて、何一つ覚えていないのに。


『偉達のお父さんの会社って、零細企業……だよね? 借りてるお金とかないの? それを赤の他人の専務さんが継ぐの?』


「……」


 恋人が息を吸った。

 妊娠を告げる時ですら感じなかった、緊張の気配。


『家出みたいな結婚、しちゃダメだよ』


「……」


『ちゃんとご両親とお話しして。親子喧嘩するような歳じゃないでしょ?』


「……分かった。一応、するよ。また連絡する」


 通話終了。

 シートを倒し、やや重く感じる身体を預ける。

 浮かぶのは苦笑い。


(まっずいよな、これ……)


 実は、両親とは既に会った。

 話もした。――ただの世間話だが。

 その途中で口論になって――――俺は家を飛び出した。


 喧嘩したわけじゃない。

 俺をき動かしたのは、呆れといたたまれなさ。

 もうこれ以上、両親こいつらとは話したくない。そう思って、一方的に会話を打ち切った。

 家を飛び出し、車の流れに乗ってこの山奥まで来た。


(デキちゃった、か……)


 俺が『父親』になる。

 ――まるで実感が沸かない。


 だが、別に気後れも感じない。

 俺より若くして父親になった奴だって、世の中にはごまんといるのだから。

 なるのなら、なるしかない。


(ぼちぼち正社員採用、探すか……? いつまでもうどん屋のバイトってのもな……)


 二十六。貯金十二万。大卒のフリーター。

 おそらく結婚式の費用も恋人に出してもらうことになるだろう。

 我ながら恥の多い人生だ。

 とてもじゃないが、立派な父親になれるとは思えない。


 だが、恥知らずな父親にだけはなりたくない。

 恋人に工面してもらったカネは、必ず返す。一生かけてでも、必ず。

 それまでは恥を抱えて暮らす。威厳なんて無くていい。


 スマートフォンで転職サイトを開くと、賑やかな文字と明るい笑顔が狭い画面を踊る。


(――……営業、営業、営業、か……)


 まあ、バイトよりはマシだろう。

 さっさと手に職をつけて、まずは結婚式代を返すところから始めなければ。


(結婚式、ね……)


 両親を呼ぶつもりはなかった。

 孫を抱かせてやる気はないし、顔も見せてやるつもりはない。


 恋人には言わなかったが、最終的には相続も放棄するつもりだった。

 公務員をやっている妹に父の会社、家、土地を丸ごと投げて、俺は婿入りを決め込む。


 世間一般には親不孝と言うのだろう。

 ――だが、それの何が悪い?

 今は多様性の時代だ。

 家族を大事にしない生き方だって認められるべきだ。


 そもそも血が繋がっているだけの他人を手放しに尊敬し、尊重し続けるだなんて、もはやカルトだ。

 俺は望んで生まれて来たわけじゃないし、俺があの親を選んだわけでもない。


 大した稼ぎもないくせに、傲慢で自分勝手で、世の中の大半は馬鹿ばかりだと思っている父親。

 ヒステリーと愚痴と皮肉を、二十四時間吐き続ける母親。

 俺の人生は両親あいつらを喜ばせるためにあるわけじゃない。


(……ま、婆ちゃんには話しとくか)


 アドレス帳を開いたところで、窓の向こうを親子連れが通り過ぎた。

 ドアを開けて砂利を踏むと、明るく賑やかな声が耳に入る。


 四方を見渡せば、地平線まで連なる山々。

 清涼な空気を肺一杯に吸い込むと、胸と脳の濁りが洗い流されるようだった。


 ばたばたと翻るのぼりには『新茶市』の文字。

 文字通り今年一番の新茶が振る舞われるいち――と聞いていたのだが、山女魚やまめの串焼きやたこ焼き、綿菓子といった出店も並んでいる。

 茶にこだわりのない人々にとっては、数か月早い夏祭りのようなものだろう。

 ちょっとした行楽地並みに人が入っている。


(久しぶりに晴れたからな……)


 ここ数週間、この辺りでは呪われたような豪雨が続いていた。

 場所によっては冠水と浸水でかなりの被害が出たらしい。

 実家も雨漏りがひどかったらしく、母親から長文の愚痴メールが飛んできていた。


 新茶市も開催が危ぶまれていたが、当日になると見事に晴れた。

 まだあちこちにぬかるみが残ってはいるが、ご愛嬌だろう。


(……お!)


 『生ビール』と書かれたのぼりが見えた。

 すぐ傍では、日に焼けた老人たちが美味そうに串焼きを頬張っている。


 それによく見ると、新茶を淹れているのは地元商業高校の女子高生たちだ。

 ちょっとしたお喋りもOKらしく、ほろ酔いの連中が賑やかに歓談している。


「おいおいおいおい。そういうアピールポイントは観光案内に書いとけよ……!」


 酒と女子高生と美味いつまみ。

 見逃す手はないだろう。

 せっかく里帰りしているのだから、地元経済に貢献しなければ。

 

 俺はドアをロックし、煩わしい悩みを車内に閉じ込める。


  



 






「ッ?」


 がくっと震え、目を開ける。

 薄闇の向こうには見慣れた車の天井。

 どうやら眠っていたらしい。


(がっつり寝てたな……。もう夜か)


 あれからずいぶん飲み食いし、地元の老人や女子高生と喋り倒した。

 口の中にはまだビールとたこ焼きの味が残っている。


 シートを倒したまま、伸びを一つ。あくびを二つ。

 ドアを開け、外へ。


 時刻は七時。

 春の夜空はオレンジとブルーのグラデーションで、気の早い星が瞬いている。


 りりりり、りりりり、と。

 虫たちの大合奏で自分の足音すら聞こえない。

 目を閉じると、山に溶け合うような感覚があった。


 駐車場には俺の車しか残っていない。

 今気づいたが、このままだと飲酒運転だ。

 朝まで寝るか、知り合いを呼びつけるか――――と考え始めたところで何かが視界を過ぎる。


(ん……?)


 目で追うと、不自然に揺れる茂みに行き当たった。

 風で起きたようには思えない。


 一秒前に見た映像を脳内で再生する。


 まだ狸と人を間違えるほど暗くはない。

 それに、特徴的な藤紫色の制服には見覚えがあった。

 つい数時間前、俺に茶を振る舞ってくれた女子高生が着ていたものだ。

 80年以上の歴史と伝統を誇る、地元商業高校の制服。


(女の子、だったよな。今の……。何でまだ残ってるんだ……?)


 新茶市はとっくに終わっている。高校生たちはマイクロバスで引き揚げたはずだ。

 となると、終わってからわざわざ来たのだろうか。


 辺りを見回すが、見物客の車は無い。

 バス停はあるものの、ここは山奥だ。この時間にバスはもう走らない。


(自転車で来た、とかか……?)


 俺の予想が正しいとして、目的は何だろうか。

 都市部の山なら凝った趣向のラブホテルがあったりするものだが、ここは田舎だ。

 田舎の山には、山しかない。


 どうも気になる。

 追うか。


(……)


 ――いや、よそう。

 何だか気味が悪い。


 踵を返しかけたところで、耳が音を拾う。

 ぴょろろ、という軽快な笛の音。

 それに、ぽぽぽん、という賑やかな鼓。


(!)


 再び山に目を凝らすと、遊歩道の奥から光が漏れている。

 制服の子が消えた茂みもその近くだった。


(……何だ……?)

 

 スマホの灯りを頼りに足を向けると、音はどんどん大きくなっていく。

 遊歩道の階段を登るにつれて光は強くなり、途中からは照明すら不要だった。


 最上段に至ったところで、俺は赤い光に照らされる。

 思わず、声が出た。


「おー! 後夜祭か!」


 そこは神社の境内だった。

 そこかしこに赤い提灯が吊るされ、出店が並び、面をつけた浴衣姿の人々が行き交っている。

 気づけば日は暮れ、空は黒一色に染め上げられていたが、祭りの会場は赤い光に包まれていた。


 俺は鳥居をくぐり、玉砂利の敷き詰められた境内を歩く。


(こういうイベントもちゃんと告知しようぜ……。公務員は分かってねえなぁ……)


 何気なく出店を覗き込もうとした俺は、ふと視線を感じ、顔を上げる。


(……?)


 行き交う人々の隙間から、三人の子どもが俺を見つめていた。


 一人は商業高校の制服を着た背の高い女の子。

 長い黒髪を垂らしており、穏やかな顔に困惑の表情を浮かべている。


 一人は紺色のセーラー服を着た中学生ぐらいの女の子。

 茶色の髪はふわふわだが、見るからに気が強そうだ。


 最後の一人はランドセルを背負った男の子だった。

 泣きじゃくっており、片手は『ふわふわ髪』の服を掴んでいる。


「ぁ――――」


 声を掛けようとして、気づく。

 周囲を行き交う人々の姿が妙に不安定なことに。

 目を凝らした時のようにくっきり見える瞬間もあれば、涙目で見た時のように曖昧な形をしている瞬間もある。


 奇妙なことに、客は誰もが『面』を着けていた。

 女児アニメのプリンセス。特撮のヒーロー。古いアニメの忍者。

 桃太郎。ひょっとこ。七福神。

 猿。狐。それにいぬ


(……? 何でみんな仮面を――)


 何気なく目線を下ろす。




 行き交う人々には、足がなかった。




 歩行しているかのように身を揺らしているのだが、浴衣の裾からは何も生えていない。

 境内には砂利が敷き詰められているのに、歩行音もまったく聞こえない。


 その瞬間、ぞっと総毛立つ。

 背が粟立ち、血が冷え、かちちち、と歯が鳴った。

 肉体に続いて思考がフリーズし、五感だけが不気味に研ぎ澄まされる。


 そこら中で子供の笑い声も聞こえるし、大人の囁き声も聞こえる。

 だがその声は仮面の奥から発せられてはいない。

 誰も何も話していないのに、声だけがBGMのように聞こえている。


 金魚すくいのプールには半分骨になった魚が泳いでいる。

 子どもが持つ水風船は破れているし、屋台の文字は「き焼こた」のように逆さまだ。


(……。これ、もしかしてヤバいやつじゃ……?)


 その場に棒立ちとなったまま、目だけで周囲の様子を探る。

 人々は視線を動かさず、ふわふわとした足取りで行き来するばかり。


「!」


 見れば先ほどの三人組が早足で近づいて来るところだった。

 砂利を踏む音。それに正気と思しき表情。

 どうやら彼らも俺と同じ、『迷い込んだ』組らしい。


 合流した俺たちはひと言も交わさず、元来た方向へ歩き始めた。

 つまり、鳥居の方へ。


(――……)


 気付いてはならないことに気付いてしまった。

 その恐怖が、俺たちから声と熱を奪っていた。


 今にも誰かに声を掛けられるのではないか。

 浴衣姿の人々が一斉に振り向き、口なき口を裂いて笑うのではないか。

 気づいたな、気づいたな、と白く冷たい指を伸ばすのではないか。

 殺到した客たちに肩や腕を掴まれ、そのまま闇の向こうへ連れ去られるのではないか。


 ジャケットを着ているのに体温がぐんぐん下がって行く。

 指先が冷え、鼻水が垂れそうになる。


 ざざざ、ざざざ、と強い風が山を震わせる。

 赤い光に包まれた境内の外は、星も見えない暗闇。


 このまま歩き続けて戻れるのか。

 ふと横を見れば、男の子は顔面蒼白だった。

 今にも泣き叫び、半狂乱で走り出してしまいそうに見える。

 そんなことになったら――――




「!”#$%&’()」




 訳の分からない声。いや、音が背に投げかけられる。

 ぞわっと背筋が粟立ち、『ふわふわ髪』がひくっと喉を鳴らす。

 俺はその口に、ぱむ、と手を当てた。


(声を出すな……! 何かまずいぞ……!)


 ちらと横を見る。




 鼻先が触れるほどの距離に、特撮ヒーローの顔があった。




「&$$%%(?」


 俺の顔を覗き込んだそいつは、意味不明の音を囁いた。

 霧に似た空気が俺の鼻を撫でる。


「*+”#$%&」


「――――」


 俺は目の焦点を外したまま、ぎりぎりと首を動かし、元の方向を見る。

 三人組は呼吸すらできないらしく、俺が歩き出すと軍隊さながらの規則的な足取りで追随した。


 歩き続ける。

 足音は聞こえないが、冷えた無数の気配がついてくるのが分かる。


 誰も振り返らない。

 振り返ったら『終わり』だと本能的に察しているからだ。


「!」 


 鳥居の根本と、境内の端が見えた。

 駐車場へ続く階段も見える。


 顔を見合わせる。

 四人一斉に、半ば競うように走り出す。


 当然ながら、俺が一番早かった。


「はっ……はっ……はっ……!」


 階段まであと5メートル。

 心拍が速度を上げる。


 3メートル。

 誰も来るな。誰も追いつくな。


 2メートル。

 来ないでくれ。怖い。怖い。来るな。


 1――――


 着いた。石造りの鳥居の下。

 あとは階段を駆け下りるだけ。

 走って車に飛び込んで、キーを回してぶっ飛ばせば、帰れる。


 ――飲酒運転?

 知るか。もう酔いなんて飛んでる。


 俺は一歩踏み出


「っ!!」


 慌てて立ち止まる。

 爪先に弾かれた砂利の一つが、音もなく闇へ消えたからだった。


 階段へ転がり落ちたようには見えなかった。

 まるで闇に吸い込まれたかのような――――


(ッ! 何だこれ……?!)


 境内の端に、階段は無かった。

 あったのはぽっかりと開いた大穴。

 いや、違う。

 足元から顔を上げても、穴はずっと遠くまで続いている。

 

 数メートル先まで。

 数十メートル先まで。


 ――――地平線まで。




 眼前には、黒い海が広がっていた。

 俺が立っているのは断崖だった。




 左右に目をやると、限りなく影に近い木々が、山々が、前方へ流れ消えていく。

 ざざざ、ざざざ、という風が木々を揺らす音は、いつの間にか波の音にすり替わっていた。


「……!」


 三人の少年少女は俺の隣に立ち、呆然と闇を見やっている。

 どれだけ目を凝らしても、陸は見えない。

 足元を見ればマンション五階分ほどの高さから、コールタールのごとき黒い水面が見える。

 

 誰も何も言わないまま、一分ほどが過ぎた。

 ひとり振り返った俺は息を呑む。


 そこに広がっているのは玉砂利の敷き詰められた広い空間だった。

 屋台も、提灯も、人々も、何も無い。

 広さは高校のグラウンドほどで、外周を巡るように設置されたサッカーボール大の石灯籠が弱々しい光を放っている。

 例えるなら、ひどく殺風景な日本庭園。


(何だ、これ……)


 混乱のあまり気が遠くなりそうだった。

 子供三人がいなければ卒倒していたかも知れない。


 ざざざざ、とまた強い風が吹く。

 遥か下方から、どぷん、とぷん、という音が届く。


「船……?」


 背の高い女の子が呟く。


 その通りだった。

 俺たちは鳥居の真下に立っているが、ここは神社の境内じゃない。


 船だ。

 ――船が、山を走っている。











 波には人心を落ち着かせる効果があると言う。

 そのせいだろうか。

 俺たちはずいぶん長い時間、その場に立ち尽くしていた。


 我に返った俺はひとまず三人に声を




「あららァ?」




 弾かれたように振り向くと、そこには浴衣姿の人物。

 顔の上半分は狐の面に隠されており、手には提灯ちょうちんらしきものを握っている。

 唇にはべにを引いており、首には白粉おしろいが塗られている。


「まだこんなところにいらしたんですか? これはずいぶんと……。……あら?」


 狐面の人物は頬を少しだけ引き攣らせた。


「あら、あら、あら……」


 狐面の高い声には奇妙な違和感があった。

 ピアノの白鍵ではなく、黒鍵を叩いて出る音に似た違和感。


「もしかして……生きている方?!」


 狐面はやや芝居がかった調子で口に手を添えた。

 俺は子供たちを庇うようにして立ち、そいつを睨みつける。


「あんた……何なんだ」


 俺の声は震えていた。

 肝も、骨も震えている。


「あ、ごめんなさいねぇ。名乗っておりませんでしたねぇ」


 ちらりと喉にふくらみが見えた。

 こいつ、やはり男だ。

 女の顔と声を装う男。

 女形おんながたというやつか。


「アタシはノヅチと申します。野原の『野』に、釘を打つ『つち』でノヅチ」


 飲み屋でたまたま席が隣り合わせたニューハーフのごとき名乗りだった。

 馴れ馴れしく、棘がない。


「この『灯籠廻船とうろうかいせん』のぉ……えっと、何て言うんでしょうね。番頭? 番台? みたいな……うひっ?!」


 つかつかと近づいた俺はそいつの胸倉を掴み上げていた。


「名前なんて聞いてない。何なんだここは。あの世か?」


「やや、違いますよぉ」


「じゃこの世か」


「でもないんですよねえ、これが」


「……」


「うふふ。びっくりしまし――」


 俺はノヅチを解放し、胸の前で両手を重ねた。


「南無妙法蓮華経……南無阿弥陀仏……」


「あ、あ、あ、お経はやめて! お経はやめてください! 中のお客様たちに悪影響ですから!」


 提灯を取り落としたノヅチが縋るように俺の腕を掴んだ。

 幸い、その手には体温があった。それに唇の動きから本気で困惑していることが分かる。

 どうやら害のある存在ではなさそうだ。


「あ、あなた方、生きていらっしゃいますよね? だったらアタシに関わってる場合じゃありませんよ」


「どういう意味だ……?」


「ええと……まず、この『灯籠廻船』は死者を運ぶ船です。あなた方は異物なんですよ」


 覚悟はしていたが、俺はその答えに衝撃を受けていた。

 さっき境内で見た連中は『死者』。

 そしてここは『死者を運ぶ船』。


 ここは俺の知る正常な世界ではない。


「運ぶって……どこにだ」


「いわゆる『あの世』ですねぇ」


 俺の背後で少年がひいっと怯え、ふわふわ髪の女の子が抱きすくめる。


「も、元の世界に戻る方法は?」


「? そりゃありますよ」


「! あるのか?! 教えろ」


「えぇ~……。おヒゲさん、さっきアタシに乱暴しましたよねぇ?」


 俺は咳払いした。

 そして、なむ、なむ、とマイクテストさながらに発声練習する。


「ああああ言います言います! こ、この船は『廻船』ですから、『あの世』に着いたらまた『この世』に戻るんですよ」


「……! 本当か?!」


「ええ、ええ。この船は七夜かけてあの世に向かうんですよぉ。で、死者だけ下ろしてこの世に引き返すんですねぇ」


「俺たちはどうなる?」


「どうもなりません。だって生きてるんでしょ? 生きてるのにあの世に入れるわきゃありません。七夜過ぎても無事だったら自然と――――あ」


「何だ」


「いえねぇ? ぼやぼやしてると『ヤツマタ様』が来ちゃいますねぇ、と思いまして」


「ヤツ……何?」


「あ、ほら」


 ノヅチが俺の後方を指差す。

 が、俺は不敵な笑いを返した。


「ばーか。その手に乗るかよ」


「ちょ、ちょっとヒゲ……」


 ふわふわ髪の子が俺にしがみついた。

 そしてゆっくりと天を指差す。


「あ、あれ……」




 闇の空に、蛇がいた。

 いや、蛇なんてものじゃない。

 長さは数百メートル、太さはビルほどもある巨大な蛇が、悠然と夜空を泳いでいる。


 それはもはや『怪獣』だった。




 その存在を目の当たりにした瞬間、俺は言葉を失った。

 他の三人も同じだった。


「お、あ……」


 赤く長い舌が出入りし、首がぐりんとこちらを見た。

 その瞬間、ぱちんと弾けるように時間が動き出す。


「は、は、走れええええっっっ!!!!」


 叫ぶと同時に、俺は駆け出していた。

 向かう先なんてどこか分からない。

 とにかく離れなければ。できるだけあれから遠くに逃げなければ。

 その一心で、俺は船の端まで駆け抜けた。


 辿り着いたのは船首だった。

 そこには古びた賽銭箱が置かれ、小さな蔵らしき建物が立っている。

 神社の『本殿』と呼ばれるものに似ていた。


(やばいな。マジででけえぞ……!)


 神話の怪物ほどもある巨大な蛇は、今も闇を泳いでいる。

 空――と呼んでいいのか分からないが、頭上に広がる闇には、赤い月らしきものが二つ覗いていた。


 女子高生は俺と並んで空を見上げていたが、ランドセルの少年とふわふわ髪の少女は肩で息をしている。


「二人とも、大丈夫?」


「う、うん。だい、じょうぶ……」


「わ、私も大丈夫です……。ちょっとヒゲ! あんた、もうちょっと私たちのことを「後だ!」」


 俺は大蛇を見上げたまま本殿の扉を開き、その中を指差す。


「いいから中に入ってろ! 何かやばいぞ、マジで!」


 ふわふわ髪とランドセルの少年はびくりと身を震わせ、本殿に飛び込んだ。

 背の高い女子高生はすぐには中に入らず、俺を見た。


「あの」


「何だ?」


「お名前を伺ってもいいですか?」


偉達いたちだ。鎌ヶ瀬かまがせ偉達いたち


「……! イタチさん、ですか……? 動物の?」


「違えよ。偉人の『イ』に達人の――」


 ふと、妙なものが目に入る。

 それは賽銭箱に蓋をするようにして置かれた、木の板だった。




 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 なみなり なみなり

 われら なみなり


 彼岸ひがん此岸しがんの 狭間はざまの なみなり



 七芽しちがみ 九山くざんを泳ぎ 那落ならく送るがマムシにて

 十稲ととう踏み 十炎とえん降らすはカガチなり


 七夢しちむ裂き 六雨ろくうらすアオダイショウ

 九雪くせつ誘うがシロマダラ


 ひゃくいかずちシマ鳴らし

 八病はちびょうしてジムグリうた


 九情くじょうみ 千桜せんおう散らし 刹界さっかい伏したるヒバカリ酔えば

 そうとむらいてタカチホ去りぬ



 なみなり なみなり

 われら なみなり


 なみにあらねど われら なみなり


 名呼べ 名を呼べ

 迷い子 名を呼べ


 わが名呼ばねば 七夜しちやは明けず

 わが名呼ばねば 船は巡らじ


 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~




(……?)


 まじないとも祝福ともつかぬ文字の羅列。

 なみなり、なみなり、と奇妙な言葉を口ずさんでいると、本殿から顔を出した少年が夜空を指差す。


「兄ちゃん! あれ!」」


「!」


 巨大蛇がゆったりと動き、甲板の中ほどに頭を下ろすところだった。

 家並みの頭が玉砂利を擦ると、ずずず、と船全体が揺れる。


「っ! 中に入れ! 何かに掴まってろ!」


 俺は地面に四つん這いとなり、転ばないよう耐えた。

 既に五臓六腑は三分の一ほどに縮んでいる。


(あ、あんなのに襲われたら……)


 俺はただの人間だ。

 あんな怪物に襲われたら、ひとたまりもない。

 仮に人型ロボットを操縦できたとしても勝てる気がしない。


 ぐぱあ、と蛇の口が開く。


「ッッ?!」


 火を噴くのか、毒霧が出るのか。

 そんな恐れを抱きつつ身構えると、予想だにしないものが転がり落ちた。


 粘液まみれの白い何か。

 玉砂利の上をごろごろと転がる、やや重たげで艶のある塊。




 それは、一人の女だった。




 白く見えるのは裸体だからだ。

 粘つく液体をまとって砂利に放り出された女は手足を伸ばし、ゆらりと立ち上がる。


 白い足首。

 美しい脛。

 膝。腿。

 俺の視線をなぞるようにして、体表が薄い皮に包まれていく。

 色は苔緑モスグリーンで、質感はゴムと布の中間のようだった。


 ステージライトに似た船べりの灯籠に照らされると、『皮』は艶やかに光った。

 鱗を思わせる六角形の紋様が無数に連なっているのが分かる。


 女の膝や肘は皮の上から亀甲に似た黒い防具に覆われた。

 足を包むのは装束と同じ苔緑の足袋。

 どことなく、アニメ調の忍者を思わせる。


 程良く肉のついた安産型の尻。

 まろやかな腰のライン。

 オレンジほどもある乳房。

 足元から上へ視線を滑らせた俺の目にはそうした部位が映っていたが、劣情はまるで感じなかった。



 なぜなら、女には『口』が無かったからだ。



 二十代前半の凛とした美貌。

 烏の濡れ羽色の長髪。鋭い瞳。整った鼻梁。

 その下に、あるべき器官が見当たらない。

 鼻から下だけ、『のっぺらぼう』。

 おぞましい容姿を前に感じるのは、ただただ純粋な恐怖だけだ。


 口なき口が苔緑の皮に覆われると、『変身』は終わったようだった。


 鼻から下を苔緑の皮に包まれた女は、ゆっくりと左右の握り拳を突き出した。

 五本の指がゆるやかに開く。



 口は、そこにあった。



 手の平にぽっかりと穴が開き、桃色の粘膜と肉壁が覗いている。

 歯は無く、唇も無い。

 牙のごとき五指に囲まれて、ぽっかりと肉穴が開いている。


 しゅるるる、と。

 女の手に開いた『口』から、長く赤い舌が伸びる。


「とても大切なことを、二つだけお教えしましょうかね」


 いつの間にか本殿に近づいていたノヅチがのんびりとした声を放る。


「『落とされたら終わり』。そして、『掴まれると危険』です」


「……何……?!」


「何、じゃありませんよ。分かってるんでしょう? あんた方は来ちゃいけない場所に来た。だから、『ヤツマタ様』が連れて行くんですよ」


「……」


「連れて行かれたくなけりゃ、『落とす』ことですね。まあ、それができるなら、って話ですが」


 ふしゅるるる、という音に振り返る。


「ねえ? ――――『マムシ様』」


 苔緑の女と目が合った。

 冷えた敵意が、不可視の槍と化して俺を貫く。

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