第55話 空白にはコーヒーを置いて
「篠生、コーヒー淹れるけど飲む?」
夕食後に有以さんが言った。
僕は驚きのあまり有以さんの顔を数秒のあいだ見詰めてしまった。
「そんなに驚くことないでしょう?」
有以さんは笑った。
「いや、だって夕食の後にコーヒーだなんて、普段は絶対に飲まないからさ。どうしたの急に?」
そうなのだ。有以さんはコーヒーを飲むともれなく眠れなくなる体質なので夕方六時以降はカフェインの入った飲み物を一切飲まないことにしているはずだった。
「良いじゃない、たまには夜更かししたって」
有以さんは平然と答えた。
「明日仕事でしょ? 平気?」
僕の問いに耳を傾けながら、有以さんは早くも火にかけたポットを注視していた。
「平気よ。前はけっこう飲んでたのよ」
「そうなの?」
「そ。お父さんがいた頃はね」
さらなる驚きが僕の目を丸くした。有以さんはいま確かにその言葉を口にしたのだ。
お父さん、と。
ポットがコトコトと音を立て始めた。完全に沸騰する直前、九十三度から四度くらいのお湯がコーヒーを淹れるのに最適だと有以さんは言っていた。僕が何かを口に出すより先に有以さんは温度を見極め、ガスレンジの火を消すと、鮮やかな手つきであらかじめセットされた三角形のドリッパーに湯気の立つお湯を糸のように細く落とし始めた。僕は喉元まで浮かんだ言葉を飲み込んだ。
まもなく蒸れたコーヒー豆の香りがキッチンを満たした。お湯を注ぐ有以さんの目付きは真剣で、僕がこういうのもなんだけれど、とても美しかった。そんな有以さんの姿とペーパーを伝ってサーバーに落ちる黒い滴を僕はものも言わずに眺めていた。
やがて甘い香りに余分な水分が混じる、その直前に有以さんはドリッパーをはずし、流しの中へと置いた。サーバーには香り高い液体だけが残された。こうして有以さんの手で丁寧に抽出されたコーヒーは僕たち家族全員の楽しみであり、宝物だった。もちろんその家族の中には今はここにいない父親も含まれていた。
別にお湯で暖めておいたカップを用意しながら有以さんは、お菓子でもあれば、と独り言のようにこぼした。
実はコーヒーと聞いた瞬間から僕はこの時を待っていた。いや、本当はただの偶然なのだが、僕は胸ポケットに入れておいたビニールの包みを取り出した。
「これ、ドーナツなんだけど良かったらどう?」
今度は有以さんの目が丸くなる番だった。
「あら! それ駅前の新しいドーナツ屋さんのでしょ? 篠生買ってきたの?」
「ううん。ちょっと学校でもらったんだ」
「へえ。お友達?」
僕はちょっと迷ったけれど正直に答えることにした。
「ていうか叶映」
有以さんは声を出して笑った。
「叶映ちゃん、相変わらず篠生には優しいのね。大事にしなよ」
有以さんがどういうつもりで大事にという言葉を使ったのか僕の知るところではないけれど、僕は曖昧に、まあね、と答えた。
ちょっと小楢にもコーヒー飲むか訊いてくれる? と有以さんが言うので僕はしぶしぶスマホを手に取った。
「篠生、最近ちょっと変わったんじゃない?」
「え? 何が?」
僕はスマホを操作しながら有以さんの目を見た。有以さんも僕の目を見ていた。
「放課後、たまにお友達と遊んでくるでしょ? 前は一直線に帰ってきてたのに」
「うん、まあね」
有以さんの言い方に嫌みはこれっぽっちも含まれていなかったので、僕も無闇に否定はしなかった。
「友達が多いことばかりが正解じゃないけど、でも、出来ちゃった友達はやっぱり大事にしなきゃね」
出来ちゃった友達か……。
「うん、分かった。あ、明日もちょっと遅くなると思う。夕飯までには間に合わせるけど」
はい、と有以さんは笑顔を作った。
二階にいる小楢にコーヒーのことと、しょうがないなあ、と思いつつドーナツの存在も文末に添えてやると、送信ボタンをタップしたのとほぼ同時に階段をすさまじい足音が駆け降りてきた。
「なに! お兄ちゃんドーナツどうしたの!?」
もらったんだよ、と言うと小楢まで目を丸くした。
「友達からね」
僕はにんまりと笑ってみせた。
三人が席に着いて、コーヒーが各々の前に香りを立てた。いくら人気店の物とはいえこの人数にドーナツ一個ではちょっと侘しい感じではあった。しかも半分潰れてるし。
ビニール開封の儀は小楢が執り行い、有以さんが丁重に切り分けるためのナイフを手にした。ドーナツは真ん中に穴の開いたオーソドックスなタイプの物だった。
「潰れてるとこは僕がもらうよ」
つまり半分は僕の取り分となるわけだけれど小楢は文句を言わなかった。
有以さんはまず潰れているところと無事なところを半分に分け、更に無事な部分を二等分にした。
「せっかくだから四つに分けようか」
僕の提案に有以さんは何も言わないまま、潰れている部分を更に二つに切り分けた。小楢も厳かな表情でそれを見守っていた。
「じゃあ、叶映ちゃんに感謝していただきましょうか」
三人で手を合わせて小さなドーナツの切れ端を口に入れた。なるほど、これは美味しい。人気は名ばかりではないと僕は納得した。
目を瞑って味わっていた小楢はあろうことかその場に立ち上がって体をくねらせ始めた。
「美味しい~、美味しい~、穴まで美味しいドーナツ~」
「なんだその歌は?」
「何って、ドーナツの歌だよ」
小楢はこうしてたまに自作の歌を勝手に歌ってみせるのだ。僕は呆れ、有以さんは微笑んで小楢の踊りを眺めた。
穴まで美味しい、か。
ネリは前に〈絶望〉はドーナツの穴のようなものだと語った。何かが無いのではない。そこには穴が有るのだと。
もしそうだとして、その穴まで美味しいと思えたら……。
テーブルの上には潰れたドーナツが四分の一だけ残されていた。きっとこれは今ごろ僕の部屋で寝息を立てている僕の〈絶望〉の口へと、僕以外の誰にも気付かれないうちにこっそりと運ばれるのだろう。
有以さんのコーヒーはしっかり苦くて、舌の上の甘さと溶け合いながら喉の奥へと流れていった。
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